棺の記憶

著 : 中村 一朗

ミラー:Vol.5


 ミラーは執務室の前に石郷涼子の気配を感じてはいた。

 彼女の能力ならこの部屋の中にミラーと吉岡、更にその憑依霊がいることも関知していると考えていた。優秀なテレパスを謀るのは至難の業だ。ある程度まで手の内を見せなければならないことは承知している。

 それでもこの部屋の惨状を石郷に見られたくはなかった。特に、たかが人間に満月期の自分が深手を負わされたことは隠しておきたかった。だから彼らを片付けてから腕とスーツを元通りにして、彼女を招くつもりでいた。

 死にゆく吉岡への憐憫はもはや感じない。

 金庫並みの強度を誇る扉に目をやり、施錠を確認する。扉には、外からでは解鍵不可能な電磁ロックが施されている。

 ところが、その鍵が突然解除された。

 扉が開いて石郷が部屋に入って来た時、ミラーはちょうど床に落ちていた己の左腕を右手で拾い上げたところだった。

 唖然とした表情がミラーの顔に浮かぶまで数秒を要した。彼女が外からロックを外せたことに驚愕したのだ。つまり石郷は、物理現象も引き起こせる能力持っていたことをミラーに隠してきたことになる。

 ミラーを見つめたまま、石郷が後ろ手に扉をロックした。

 部屋の左側の壁際で意識のない吉岡が倒れている姿を、石郷がちらりと盗み見た。そして、死の淵で揺らぐ吉岡の肉体をかばうように、女の亡霊が纏わりついている様も。亡霊はすでに凝集力を失い、恐らくその意志さえ自覚できない状態でいることも看破しているとミラーは漠然と思った。

 不快な認識を押し殺して、石郷を見つめたままミラーは左腕を切断部に押しつけた。微かに唇をゆがめて、意識を集中する。腕は瞬時に癒着した。その左手の指を、蜘蛛のようにざわざわと動かしてみた。

「おかえり、ミス・イシザト。驚かせてすまないね」

 石郷は無表情のまま沈黙で答える。

「満月時の私の肉体は不死身なのだ。正確には満月を挟んだ三日間だが。それに、こんな程度の手品だってできるんだ。お気に入りのスーツでね」

 力を誇示するため、ミラーは更に続けた。左腕を突き出して石郷に見せる。腕の周囲で、千切れていた衣服の繊維が虫の群れのように蠢きながら結びついていった。同時にそれらを赤く染めていた血の跡が消えていく。やがて数秒後には、着衣は完全に再生した。周囲に散っていた血痕も跡形もなく消滅した。ただし、吉岡から流れ続ける血溜りを除いて。

「位相転換…」と、石郷が無感動な声で小さくつぶやいた。

 ミラーが暗い笑みを浮かべる。少しだけ気が晴れた。

「そうとも言うが、私は素直に〃魔法〃と呼びたいな」吉岡と亡霊を一瞥しながら

「もう少し待ってくれ。今、こいつ等も片付けるから」

 ミラーの視線が亡霊を捉える。廃棄物を見る目で。

 次の瞬間、亡霊の不定形外殻が消滅した。その中の〃核〃が示した絶望的な思いが一層ミラーを不快にした。その〃核〃を握り潰そうとした刹那、閃光がそれを遮った。ミラーが目を伏せた隙に、白光に包まれた〃核〃は意識のない吉岡の記憶の奥に転送されたことに気づいた。

 ミラーは石郷を睨みつけた。手足をもごうとしていた虫を母親に取り上げられた子どもの表情で。

「今のは、きみか?私の邪魔をしたのは」

「そうらしいわ」

「なぜた。死者への労りかね。ミスター吉岡は私のプロジェクトに対して悪意ある干渉をしてきた。君は知らないだろうが先程、私の命さえ脅かしたのだ。それに君だってこの男の詮索対象になったかも知れない」

「はじめに雇ったのはミラーさんでしょう」

 ミラーが口を開きかけると、電話機の呼び出し音が鳴った。会釈をするように石郷に笑いかけながら受話器を取った。遅ればせて、石郷が〃棺〃の隣室から姿を消したという実験室からの報告だった。ミラーからの叱責を恐れる研究者たちは、石郷とのコンタクトによって収集されたデータからは予想以上の成果が期待できると報告してきた。ミラーの仮説が正しかった、と結論しつつ。彼は更に自らの推論を加えて話し続けようとした。

「ああ。もういい。彼女は今ここに来たところだ。暫くの間、一切の連絡を取り次ぐな。経過報告も要らない。必要ならこちらから連絡する」受話器を置きながら左手を上げて。

「では、あらためて。おかえり」

 ミラーは石郷の意識に触れてみようとした。しかし、霧のように曖昧な何かに阻まれて掴み所がない。ミラーの知らない精神障壁だった。苛立ちながらも石郷を過小評価していたことを改めて再認識する。

「やってくれたわね、ミラーさん」

 淡々とした調子の石郷の言葉からは怒りや憎悪は感じ取れなかった。それなら、何らかの駆け引きを仕掛けてくるつもりなのかも知れないと踏んだ。

「なに?何のことかわからない。とにかく、無事に心の旅から戻って来てくれて嬉しいよ。で、どうだったのかな。精神〃核〃には出会えたんだろう」

 まずは最初の切り札を一枚、相手に要求する。

「お望み通り。多分、それ以上」

「さすがだ、ミス・イシザト。ところでそのバッグは、帰り支度かね」

「ええ。貰って帰りたいものがあるから。つまらない物」

 ミラーが椅子に腰を下ろした。正面の椅子を勧めながら。石郷はその傍らに立ったが、鞄をその上に置いただけで座ろうとはしなかった。

「機嫌が悪いのかな。言いたいことがあるのは私の方なのだが」

 石郷に再度着席を促すつもりでミラーは見上げた。この種のゲームは同じテーブルについて、フェアに行うべきであるとミラーは考える。

 しかし石郷は立ったまま。やはり座ろうとする気配はない。

 まあいい、とミラーは思った。それならこのままゲームを続けよう。

「よく言う。ミラーさん、本当は知っていたんでしょう。あれが〃ノアの棺〃だって事。呪場兵器ってアイデアはとても良かったけど」

 今度は石郷が切り札をミラーに要求する。ミラーはポーカーフェイスの笑みを浮かべた。同時に、石郷の疑惑にも答えるつもりで。

「結果的に〃ノアの棺〃は呪場兵器として利用されてきたのさ。近代兵器にとりIC回路が必需品であるなら、コンピューターは戦争の道具だとする定義が成り立つ。これは、」モニターを指差しながら。

「古代の人工頭脳だ。コンピューターがデータを記録処理するように、こいつは感情を記憶する」

「記録と記憶の違い…。そんな戯言があの報告書にも記されていたわね」

 石郷の嘲るような口調は気に食わなかったが、ミラーは情熱的に頷いた。棺の謎を解こうとする熱意は、決して演技ではなかった。

「まさに。兵器として利用できる部分は、いわば副作用に過ぎない。人格という主観性を通して解釈される情報の秩序化。個有時間に対して積分化を繰り返すことで単純な情報集合は次第に、より高次な認識解に進化してゆく。古代の天才魔導師ノアはその研究の集大成をこの棺に封印したのさ。電気信号の代わりに霊体素子を使うことで異世界の時間上に魂を複写できる技術を開発した」

 ミラーは石郷の関心を期待した。ここまで打ち明ければ、ある程度の駆け引きになら応じる意志があることを事を知らせたつもりで。

「で、ミラーさんはこれを何のために使うつもり?」

 バカ女め!とミラーは心の中で毒突いた。無論、読心をガードしつつ。

 それでも失望の表情がその顔に浮かんでくる。

「当然、わたしたちの〃心〃を記憶させるためだよ。人間とは異なる不滅の肉体を持ってはいても、脳の記憶容量には限界がある。だから百年ごとに、我々は記憶の大半を認識もろとも消去しなければならない。しかしそれが保存出来たら、素晴らしいとは思わないか」

 いくらバカでも、そのうちおまえにもわかる時が来る。記憶を消去し、肉体をリフレッシュしなければならない年齢が近づいてくれば。

「思い出の図書館が創れるわね。あなたやわたしのプライベートな。時々係員が間違えて、違う人の思い出を貸し出したりして」

 石郷は嘲笑するような口調だった。この女、いったい何を考えている?

「管理はまた別の問題だよ。大切なのは、この技術だ」

「そのために四人を殺した。危なく、わたしまで封印されるとこだった」

 ミラーの顔から笑みが消えた。瞳が青色から紫色に変わってゆくのを意識する。ふつふつと沸き起こる怒りが頬からは血の気を引かせてゆく。

「…なぜ、そう考えたんだね」

 ミラーの怒りは石郷の誤解によるものだった。ミラーには密輸船の四人を殺したつもりはない。〃棺〃に殺される危険があったことは認めるが、少なくとも自分は彼らの死を望まなかった。勝手な解釈をされたことが心外だった。

「擬想空間でわたしに接触してきた時、ほんの少しだけミラーさんの心に残像が見えた。〃黄金の玉座〃への強い期待。これも〃ノアの棺〃の報告書にあった項目だから覚えていた。打ち合わせでは、あれほど強く否定していたのに。最初は疑っただけだったけど、丘の上で同じものを見た時に確信したわ。ミラーさんが何かを目論んでいるって事」

 なるほど、そうバカではない。初めから疑惑を抱いていたのである。鷹が爪を隠しておく程度の小賢しい知恵は回るようだ。

「酷いな。覗き屋は君の方じゃないか。疑惑だけでわたしを〃棺〃の擬想空間に置き去りにした訳か」

「ミラーさんには、わたしを非難する資格はない」

「今はね。しかし、あの時はまだあったと思うよ」

 棺の世界にひとり残されたと知った時、焦らなかったと言えば嘘になる。

 必死で出口を探さがさなければならないと思って不安を覚えた時の屈辱感が脳裏に蘇った。無論、このことを石郷に読まれないように心をガードしつつ。

「永遠に出られなくなる訳じゃないでしょう。精神〃核〃が眠りにつけば、どうせ弾き出されたわ。それに、どうやら自力で脱出してきたようだし」

「運がよかったのさ。その点についてはミスター吉岡に感謝している。だが、危なく迷ってしまうところだった。きみが急に立ち止まって、消えたから」

 うまく欺かれたものだ、とミラーは思った。しかし、どうやって?

「意識の一部を切り離して、もぎ取った『右足』に貼りつけて本体の気配を絶ったのよ。随分簡単に引っかかったわね。お陰で彼とゆっくり話ができた」

 やはり!とミラーは目を開いた。石郷は棺の主と接見していたのだ。

「なるほど。そんな技があるって事も覚えておこう。ところでミス・イシザトは、わたしが何を目論んでいたと思うんだ」

 いよいよゲームは核心に近づいた。切り札をいつ出すのか。

「白々しい。『玉座は主を逃がさない』って、報告書にはそう記されていた。だから、身代わりが必要だったのよ。同時に、強力な意識体が馮依出来る肉体も。…わたしを玉座に座らせて、彼をここに異界牽引するつもりだったんでしょう。つまり、わたしを身代わりに精神〃核〃をこの世界に連れてくる事。それが、わたしを雇った本当の目的だったというわけ」

 図星だった。ミラーは初めて石郷涼子という異能力者に好意を感じた。

 しかし石郷はじっとミラーの様子を伺っている。

「ほんの一時だけのことだ。必要なことを聞き出したら、またミス・イシザトと交代して貰うつもりだった。彼の世界は向こうなのだから」

「へえ。何年後に。それとも何十年後の話かしらね。〃ノアの棺〃を活性化させるだけのために四人を殺したくせに」

 ミラーは呆れたような仕草で両手を大きく開いて見せた。時間の経過など、永遠の歳月を生きることのできる我々には大した意味などないではないか。それとも石郷は永遠に棺に閉じ込められる可能性でも考えたのだろうか。

「再起動なら心配いらない。開封呪文はもう記録済みだから、起動素子は不要だ。最外殻障壁は、幸いミス・イシザトが消去してくれたしね」

「それを聞いて、安心した」

 安心、だと?ミラーはその意味がわからず、小首を傾げて見せた。開いた手を顔の前で組み合わせながら肘をつく。

「報酬は二割増しにしよう。答えてほしいな。あの中で、ミス・イシザトはノアに会ったのか。あるいは、ノアだったものに」

「いいえ。居たのは別のもの…」

「誰だったんだね」

「名前はないらしい。無意識や本能を持たない純粋な人格…」

「それはどういう意味だ」

「知りたければ、自分で聞きに行けばいい」

 一瞬の沈黙。好意が反転し、ミラーの瞳は紫から更に赤く染まっていった。光彩の形もスッと細くなり、夜光獣のようにギラギラと輝き出した。

「脅すつもりはないが、情報網に正体を流されて困るのは君も同じだろう。本当の石郷涼子は八年前の爆破テロで死亡。石郷涼子の名を騙る人物は、実は別人である、などというミステリーはわたしの胸にしまっておきたいんだが」

「…そうね。胸にしまって貰おうかしら」

「賢い相手は話が早くていい。おっと、気を悪くしないでくれ」

「今夜は満月だったわね。じゃあ、きっと大丈夫」

 石郷はうっすらと微笑んだ。視線がミラーの顔から胸元へと下りて行く。

「…お土産はそれがいい。少しだけ死んで貰うわ」

 ふいに石郷を包む気配が変わった。いきなり室内に闇が生じたように。

「ミス・イシザト。いったい、何を…!」

 すべては一瞬のことだった。

 圧倒的な殺気が部屋いっぱいに膨れ上がる。その中心にいるのは石郷涼子。そして殺意は一点に収縮し、光の影が自分の胸に向かってくるのを意識した。

 何が起きたのかわからぬまま、一瞬の凄じい衝撃の直後に床に沈む自分の肉体を意識する。ミラーが最後に視界の一部に捉えることができたものは、自分の胸から掴み出された肉の塊だった。

 …バカな。満月期の私が、殺されるのか…

「胸に風穴が開いた気分はどう?ミラーさん。それとも、胸が痛む?」

 石郷のその言葉を床に沈んでから聞いたのか、倒れる前に聞いたのかは定かではなかった。ミラーの意識は手足が死の痙攣を起こす前に途切れた。


 どれほどの時が過ぎたのかは分からなかった。まずは苦痛で目が覚めた。

 ミラーは血だまりから顔を上げ、力の入らない両腕で上体を起こす。呼吸が苦しかったが、咳は堪えた。朦朧とした視界に焦点が合い、石郷の姿を認めて自分が倒されたことを思い出した。

 椅子にもたれながら立ち上がり、激しく痛む胸の傷に触れる。失われた心臓は再生しつつあったが、まだ本来の機能を回復するには至っていない。

 ミラーは悪鬼の形相で石郷に肉食獣の牙を剥いた。

 石郷は視線をそらさず、平然とその憎悪を受け止めている。

「良かった」と、呟く。

「あんまり遅いから、蘇生しないかと思った」

 ミラーは呻き声を押し殺しながら、椅子に身を預けた。

「酷い…。本当になんてことを、するんだ…」

 胸に左手を当てたまま。傷口はもう塞がっていた。恐らくその下では、再生したばかりの新しい心臓が厳かに拍動を繰り返している。

「〃盗んだ心臓を返してくれ〃、なんて言わないでね」

 冷たい表情で石郷が笑う。ミラーの目から血の色が少しずつ引いていった。紫色の瞳と、血走ったような白目に落ち着き始めている。

「アルマーニのスーツがズタズタだ。特注だったのに…」

 ミラーが呻くように呟いた。体力と気力の大半を肉体の蘇生に使ってしまったから、先程と同じ手品に回す余力はない。

 見回すと大量の血が体から流れ出てしまっていることを知った。しかしそれ以上にミラーの視線を釘付けにしたものは、テーブルの上に置かれているカラスケースに納められている代物。こぶし大の赤いに肉の塊。その表面には無数の毛細血管が蠢いており、少しずつ大きくなってゆく。

 それが己の心臓だったものであるとミラーが気づくまで数秒を要した。

 ミラーが石郷に不安そうな目を向ける。失血のためだけではない理由から、少なからぬ眩暈を感じながら。

「その私の心臓をどうするつもりかね」

 聞くとはなしに言葉が口に出た。

「育てるのよ」

 喉が渇いている。失ったものを補おうと、ミラーの本能が飢えを訴えているのだ。石郷の言葉とは無関係に、頬が痛くなるほどじわじわと染み出てきた生唾をゴクッと飲んだ。目の前の自分の心臓がとても美味そうに見えた。これ以上はない極上の生ステーキのように。喰いたい、と切望した。

「私の心臓を…育てる、だと」

 ケースの中では、再生した毛細血管が蚯蚓玉のように蠢いている。反面、心臓自体は半分の大きさに縮小していた。脳を持たない細胞群が存続への強烈な本能で新しい肉体を築き上げようともがいている。その中心にあるのは、満月の夜に引きちぎられた生きた心臓。他の筋繊維の誕生も時間の問題だった。

「うまく調整すれば、一年ぐらいで子どもの体を創れるわ。そうしたら、これに彼を憑依させるの。きっと良い器になる。彼が教えてくれれば、ミラーさんの望みも来年の秋には叶えられるかも知れない」

 初め、ミラーは言葉の意味をなかなか理解できなかった。やがて狂人を見る目で、ケースの中身を見据える石郷の横顔を眺めた。

「なんてことを。もし途中で悪霊にでも取り憑かれたら、どうするつもりだ。満月のわたしの心臓を使っているんだぞ。万一の場合は、考え得る最悪の魔獣が誕生してしまう」

「それはまた別の問題。これ、ミラーさんの台詞だったわね。大丈夫よ。わたしが最外殻障壁を築くんだから。それに、失敗したら焼き殺せばいい」

 ミラーは込み上げてくる怒りを圧殺した。その源には屈辱感。だが本能に身を委ねて石郷に飛びかかっても敗北は確実だった。満月で活性化しているのはミラーだけではない。仮に肉体が全盛であっても、石郷の〃力〃は自分を上回るように思えた。強いものに従う。それが彼らの原則だった。

「わかった。好きにしてくれ。一年後を楽しみにしている」

 石郷はケースをバッグに収めた。床一面に飛び散っている乾きかけた血糊を見た。スッと目を細めると、それらは一瞬で消失した。

(擬想操作…)

 ミラーが怯えたような瞳を石郷に向ける。石郷は会釈を残して退出した。

 いつの間にか、吉岡の姿も部屋から消えていた。あの亡霊の残骸とともに。

 しばらくミラーは動けなかった。扉越しに石郷の気配が消えてから五分後。ミラーはようやくのろのろと椅子から立ち上がった。

 秘書に連絡を入れ、石郷が本部施設から姿を消したことを確認する。速やかに夕食を運ぶようにオーダーを済ませて受話器を置いた。

 多少の混乱は残っていたものの、不思議に屈辱感は消えていた。

 約十五分後。まだ朦朧とした意識のままミラーが部屋を片付けて着替えをすませた頃、秘書が夕食を載せたトレイを運んで来た。

 皿に盛られているのは、一ポンド半の生ステーキ。

「如何なさいました、師父ミラー。まるで悪魔にでも会ったようなお顔です」

 只ならぬ顔色に秘書が心配そうにミラーに訪ねた。

「ああ。わたしも知らなかったんだ」と、ミラーは秘書の目を見つめて優しく微笑んだ。

「久しぶりに、魔王のひとりに出会ったらしい」

 一瞬ポカンと口を開いた秘書は、いつもの軽い冗談と受け取って微笑み返した。一礼して部屋を出て行った秘書の閉めた扉を見つめながら、ミラーは黙々とステーキを平らげていった。ステーキはすぐに血肉になった。



<ミラーの章・終>



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