棺の記憶

著 : 中村 一朗

吉岡:Vol.1


 激しくゆれるトラックの助手席で、吉岡は前方の闇を切り裂くライトの光芒をぼんやりと見ていた。突発的な事態に対処するための習慣で、両腕は胸の前に組んだまま。

 フットステップを両足で強く踏んで座席に体を固定している。

 

 先ほどのフリーピース本部からの連絡では、既に輸送船は入り江で待機しているという。予定より少し早いが、船からは何の連絡もないらしい。

 林道の入り口から目的地の海岸まで、約四.三キロ。林道に入った時点で、吉岡は可能な範囲で先行するようにドライバーに指示していた。

 後続の車両よりも五分ほど早く目的地に到着させるつもりで。



 午前二時三十分。

 夜の海。小さな入り江の波間に、闇色に塗られた小型の貨物船が揺れる。

 船には灯りひとつない。

 死んだ鯨のように、静かにさざ波に合わせてたゆたう。

 林道を抜けて岸辺に到着した吉岡は偏光双眼鏡を手に、四輪駆動トラックから降りた。

 入り江の左前方に目を凝らす。

 何も見えない。特殊迷彩された船体を目視することはやはり困難だ。

 吉岡は双眼鏡に両眼を当て、指向探波ゲージを船のオートナビに同調させた。

 開封コードの確認チェック後、貨物船の N ・ C が双眼鏡に位置を知らせてる。

 デジタルレンズがモニタースクリーンのように明滅し、集合色調処理された船影が夜の海に仄白く姿を現した。

 しかし、乗組員からの合図はない。

 吉岡の視線がレンズの描き出す白い影を凝視する。

 後続のワゴン車から若い女が降りて吉岡の横に立った。

 クライアントがオブザーバーとして派遣した人物である。

 吉岡は刺すような視線で一瞥した。好意も嫌悪も感じない。ただ目障りに思えただけだ。

 その間にも四人の部下たちは浜に散り、周囲の様子を伺った。

 間もなく彼らから異常なしの合図を受け、吉岡は待機中の後続車に連絡を入れた。

 ただし、船からはまだ一切の応答はないまま。

 同種のトラック二台が到着したのは二分後。

 浜で方向転換をして後部を海に向けると、降りてきた男たちが積荷を取り出した。

 圧縮ボンベを解放すると、積荷は大型ゴムボートになった。

 彼らが、ガスタービンエンジンとウイングを手際よく装着する。特注で作られたこのボートは、ほとんど無音のまま海上を時速四十マイルで疾走出来る。

 男たちが組立作業をしているうちに、吉岡は双眼鏡の船影画像を本部に照会した。直ぐに、携帯パソコンに同一船種のデータが転送されてきた。

 クルーザーを貨物船に改造した作戦標的。

 組立作業の終了後、予め全員の頭に刻みつけた船の設計図を再確認する。

 小さな操縦室の後ろにキャビンがあり、部屋右隅の螺旋階段を下りると二つの寝室がある。トイレとシャワー室がひとつずつ。収納スペース。その後方に、壁を隔てて船倉がひとつ。船倉への出入り口は甲板上部の大型ハッチだけである。更に後方に機関部。

 作戦メンバーの数は吉岡を入れて十二人。

 全員が傭兵としての豊富な実戦経験を積んでいる。

 特に吉岡は二十年以上、世界各地を転戦してきた。

 各国情報機関をクライアントに持つの非合法工作組織〃スネイク〃。それが、吉岡が育てあげた傭兵チームのコードネームである。

 僅かな逡巡の後に、吉岡は予定の行動に移った。

 自動小銃を構える四人がバックアップとして浜に残り、吉岡を含む軽武装の八人がウェットスーツを纏って三隻のボートに分乗した。

 組み立てたボートは四隻。一隻は非常事態に備えてここで待機する。吉岡の乗るボートは二人。他は三人ずつ。三角の陣形で七キロ前方に浮遊する貨物船に向かう。

 一度振り返り、浜に残る五人の人影を確認する。

 四人の部下とひとりの女。

 女は確か、石郷涼子と名乗った。

 見た目の若さに似合わぬ落ち着いた、奇妙なほど冷たい表情が印象に残った。

 野獣のように屈強な工作員たちに囲まれていても動じる様子は全くない。

「妙な女だね」

 トラックを運転していた高木が吉岡の心情を察したように吐き捨てた。

「さあな」

 前方を見つめたまま吉岡が答える。

 あえて女への無関心を装った。

 接近するにつれ、水面に黒い塊がぼんやりと見えてきた。

 やがて全長20メートルほどの船の形に輪郭を変えていった。

「…ずいぶん低いな」吉岡の傍らで高木が呟いた。

「まるで潜水艦だ」

 貨物船は沈没寸前のように、本来の喫水線が水面から一メートル以上も沈んでしまっている。ボートの縁から甲板までは五十センチほどの高さしかない。

 無表情なまま吉岡は答えるように頷いた。

「最近の密輸船は、船底にバラストタンクを組みつけている。注水すればそれなりに沈む。待機中、出来るだけ船体を低く沈めることで警備船に発見されにくくするためだ。レーダーにも映りにくくなる。それでも、あくまで肉眼対策だ。特に夜は有効だろう。確かに、潜水艦もどきとは言えるけどな」

「…なるほど」と、高木が感心したように低い声で。

 だが言葉とは裏腹に、吉岡の目の奥にはこの海のように冷たい疑念が揺らめいている。

 これだけ近づいているのに、四人いるはずの乗組員が姿を見せていない。

 高木も吉岡の表情から貨物船の異常に気づいたらしい。

 単にひと気がないというだけではなく、墓地の静けさを思わせる不吉な雰囲気。

 まだ三十になったばかりの高木は軍務経験こそ浅いものの危険の匂いは敏感に嗅ぎ取る。吉岡は左右後方の二艘のボートと浜の仲間たちに連絡をとり、周囲への警戒を強化するように促した。ベレッタの遊底を引き、実 包 を薬室に装填しつつ。

 更に接近。

 依然、船には人の気配は感じられない。

「リャン」と、左後方のボートの男に無線連絡。

「左舷キャビンの窓を撃て」

 三秒後。サイレンサーで殺された小銃の乾いた発射音。

 四発の弾丸が正確に防弾ガラスにひびを穿ち、五発目の弾丸がその中心を撃ち抜いた。

 一秒、二秒、と時が流れる。

 貨物船からの反応はない。

 再び、深海のような静寂と虚無。

 風はなくなり、ただ湿った大気が周囲を包んでいるだけ。

 その時、何かが視界の片隅を過った。そんな気がした。

 一瞬、吉岡はギクリとして数メートル眼前の黒い巨塊の中央に目を向けた。

 同時に覚えた。銃握部の冷たい感触が呼び起こす骨の中に疼く不快な震え。

 あるいは、予兆。

 以前、似たようなことを感じたことがある。

 あれは確か、アンゴラの内戦での出来事だった。年端もない痩せた子どもが林檎でいっぱいのバスケットを、笑みを浮かべて差し出したあの時…。

「様子がおかしい。どうする」と、高木。声の不安は隠せない。

「どうもこうもない。荷を回収する。代金は支払済だと聞いている」

 破格の報酬で吉岡たちが受けた仕事は船倉の荷を受け取ること。

 あるいは不測の事態が生じた場合は、手段を選ばす回収することである。

 一切の痕跡を消去して。

 荷が何であるかは聞かされていない。回収後、直ちに保護幕でくるむように指示されているだけだ。そうすれば危険はない、と。

 放射性物質かも知れない、と初め吉岡は疑った。

 核廃棄物や小型核兵器の入手を求める国際テログループは無数におり、管理国からそれらのものが流出したという噂はあとを絶たない。国際警察機構が麻薬撲滅のキャンペーン以上に神経を尖らせている犯罪分野である。核の密輸に携わるのは御免だと口にすると、クライアントの代理人は皮肉な目で笑った。答はノー。

 吉岡は一艘を貨物船の反対側に、もう一艘を船尾に回させた。

 全員がガスマスクを装着。各ボートに自動小銃を構える一人ずつが残り、五人が船に乗り込んだ。ボートに残ったのは実戦経験の豊富な者たちだった。吉岡もその一人。

「警告は」と、高木が無線で吉岡に問う。

「不要だ」と、吉岡が非情の声で答えた。

 国際条約など無縁の彼等は、目的達成のためにはもっとも効率のいい手段を選ぶ。

 特に己の身の危険を避けるためには、他者の犠牲は厭わない。

 甲板に立った五人は所定の位置を確保していた。

 機関部と船倉への入口は外から鍵がかけられていることを確認する。

 どこから誰が飛び出してきても、二人以上が銃火を向けられる地点に。

 吉岡からの指示で高木はひとりキャビン左舷に近づいた。

 リャンの割った窓からコーヒー缶ほどの大きさをした[毒虫]を、発火シリンダーを回して放り込んだ。

 小さな炸裂音。直後、無臭の神経ガスが船内に充満する。

 三分待ってから、高木たちは小銃で鍵と蝶番を壊してキャビンの扉を蹴破った。

 すかさず三人が中へ。

 僅かな時間差で残りの二人も突入した。

 ボートの三人が銃を構え直す。

 五人が装着している無線の受信セレクトをフルオープンから高木の周波数に切り替えた。高木の緊張した静かな息づかいが吉岡の鼓膜には不快だった。

 実戦経験は二年と短いものの、高木は外人部隊で斥候の経験を積んでいる。

 的確な状況伝達には、チームでは彼が最も役に立つ。

 やがて突入から十秒後、キャビンの中に携行ライトの光が灯った。

 その途端、吉岡の脳裏に再びアンゴラの幼子の顔が浮かんだ。

 差し出されたバスケットに伸びる左手は自分のものだ。

 そして、あの予感。

 吉岡が手を止めた時、同僚の黒人が子どもの後ろから明るい声をかけた。

 子ども好きのジョーンは笑みを浮かべて。

「おじさんにも、ひとつくれないか」と。

 子どもが振り返った。嬉しそうに微笑みながら。

 そして、決して忘れる事の出来ない永遠の一瞬。

 ふいに視界が白金の閃光に染まる。

 誰かが仕掛けたバスケットの中の爆弾が破裂したのだ。音は聞こえない。真っ白な闇が広がる直前、吉岡は笑みを浮かべた子供の首があり得ない角度で曲がるのを見た。

 子どもの顔が驚愕に歪み、その表情を張りつかせたまま首がちぎれ飛ぶ瞬間を。

 胴体が吹き飛ばされ、臓腑の一部が吉岡の口にとび込み、右手の小さな親指が散弾のように飛んで来て吉岡の左の眼球を潰した。

 生臭い肉片を反射的に飲み込んで、吉岡の意識はぶっつりと途切れた。

 それから三日後、包帯だらけの吉岡は灼熱の戦時病棟の簡易ベッドで目を覚ました。

 最初に思い出した事は、子どもの肉の味だった。

「吉岡さん」と、高木から無線。

「操縦室とキャビンには誰もいない。争った跡も確認出来ない。ヒューズボックスを見つけた。三系統の回路のうち室内系だけが切られている。今からスイッチを入れる」

「了解」と、吉岡は掠れるような声で。

 過去の幻影に動揺しつつ。

 キャビンに灯りがついた。

 そこに浮かんだ五人のシルエットに、心底安堵する。五人はもくもくと慎重に捜索を続けている。やがて高木が半透明の窓越しに吉岡の方を向いた。

 防毒マスクと特殊ガラスのため表情はわからない。

「李、山口、ジョンの三人は下層ブロックを調査中。おれとコニーはここにいる。やはりどの部屋にも誰もいない。どうやらオートナビの自動操縦でここまでたどり着いたようだぜ。船のN.Cは現在も作動中。現ポジションの送信先は吉岡さんの双眼鏡だけだ。ちょっと待ってくれ。…このポジションに船が到着したのは二十二分前。我々の来る五分前だ。航路プログラムにハッキングやモニターリングの形跡は見当たらない。と、N.Cが答えてる。最後に乗組員が航海記録を書き込んだのは三日前だ。検索しようか」

「後でいい。データは転送してくれ。ディスクの回収も忘れるな。それ以外のデータは完全に処分しろ。それより、船内の間取りは」

 キーボードとマウスを操作する高木のシルエットが薄黒い窓に浮かぶ。

 影絵のようだ、と吉岡は思った。吉岡の側面から襲いかかろうとする自らの影。

「ほぼ図面通りだ。キャビン中央に場違いなクロスを敷いたテーブルがある。椅子は四つ。テーブルには肉を盛った大皿がある」

 誰かがが中国語で何かを毒づき、高木の一旦言葉が途切れた。

 やがて嫌悪感をむき出した声がマイクから流れてきた。しゃべっているのは高木の影。

「チッ!どうも悪趣味だな。生肉だ。もう乾きかけている。小皿が三枚。どれにも食いかけの肉がのったままだ。歯形までついてやがる。それぞれの皿の横に赤ワインの入ったグラスが三つ。こちらも乾きかけている。テーブルの中央に三つ又の燭台と溶けた蝋の跡。今から残留ガスの濃度を確認する。…OK。安全濃度だ。マスクを外す。…おっと、なんだ。すごい匂いだな」

 高木の声音には嫌悪感がある。そして息をのんだのが解った。

 どうした、と問おうとした時、高木を呼ぶ緊張した李の声がマイク越しに聞こえてきた。

「コニーをここに残して、おれも下の寝室に向かう。李が冷蔵庫で何かを見つけたらしい」

 床を走る音にあわせて消える窓の人影。

 階段を下りて寝室に向かう高木の姿が脳裏に浮かんだ。

 しかしその十秒足らずの間で、吉岡は現状の緊迫さえ忘れるような幻を見た。

 さざ波の音がゆっくりと消えて行く。ターン、ターンと耳の中に響く靴音が間延びし始め、やがてピシャーン、ピシャーンという水面を歩くような音に変わっていった。

 続いて背後で、泡がはじけるようにゴボリと。

 振り返った吉岡はそこに、ゆっくりと浮上してきた懐かしい亡霊の姿を見た。

「…メイラン」と、喉の奥で呟いた。

 それは、全身焼けただれた若い妊婦の亡霊だった。

 六年ぶりに吉岡の前に現れた。顔と体の過半は炭になるまで焼かれ、残った部分も赤黒く火膨れになっている。海の上にもかかわらず、両腕は今も燃えていた。

 人体がジリジリと焼ける匂いが吉岡の鼻をつく。

 溶けた脂肪が燃えながらしたたり落ちる。それでも炎は消えず、油を蒔いたように海さえ焦がす勢いで吉岡のボートを包んで燃え広がっていった。

 吉岡の見ている眼前で、女の左前腕の肉がぞろりとはがれてポトンと水面に落ちた。あとに残ったのは血に彩られた白い骨。次は右腕。同様に焼け落ちる肉。両足にも火がつき、炎は容赦なく上に這い上ってゆく。

 わずかに残った衣類がまとわりついている膨らんだ腹を炙って。

 吉岡の喉の奥を掻き毟る無数の針。

 十八年前の絶望の絶叫が記憶に蘇る。

 女を殺したのは、〃解放軍〃と称する山賊たちだった。

 吉岡たちの留守を見計らい、国境沿いにあった村を襲撃したのだ。山賊たちは散々彼女を弄んだ挙げ句、面白半分に焼き殺した。彼女の腹には吉岡の子がいた。

 半年の不休の追撃の果てに、吉岡は山賊たちを一人残らず焼き殺して復讐を果たした。

 それから後、彼女の亡霊は時折こうして吉岡の前に現れるようになった。

 彼女のためではなく己のために復讐を遂げた吉岡をなじるように。

 亡霊の瞳が吉岡の視線をとらえている。

 恐怖を感じたことはない。が、以前はいたたまれずに自ら先に視線をそらしてきた。

 しかし、今日は違った。ギラギラ光るその瞳をじっと見つめ返した。

 そしてのぞき込んだその奥に、深い悲哀を読み取って吉岡は凝然とした。

 思えば、まともに彼女の目の奥をのぞき込んだことはなかった。もしかしたら、彼女の生前にさえも。

 十八年の歳月で初めてそう理解した時、焼けただれたメイランの顔が小さく微笑んだ。

 一瞬の後、炎が全身を覆い隠してその顔さえも包み込む。

 吉岡が口を開きかけた時、メイランの姿は炎もろとも突然消えた。

 十八年にも及んだような十秒の幻影…

「…どうしたんだ、吉岡さん」

 高木の鋭い呼びかけに我に返った。

「すまん。何でもない。状況は」

 かすかに掠れた声だった。吉岡の精神は瞬時に現実に回帰していた。

 もう現れることはないであろう女の亡霊に、腹の中で最後の別れを告げて。

 頬の汗と僅かに滲んでいた涙を手の甲で拭いつつ。

「寝室についた。図面通りだ。前後各部屋にベッドが二つずつと、椅子と机が一組ずつある。後部の部屋に大型冷蔵庫だ。電源が落ちていたらしい。中のものはみんな腐ってる。肉とソーセージとレバー。黒塗りのペッドボトル。このひどい匂いはこいつからだ」

「李は、何を見つけたと言っている」と、吉岡。

「冷蔵庫の辺りで音がしたと言ってる」一度、高木の声が途切れた。

 息を整えるように落ち着いた口調でゆっくりと続けた。

「…吉岡さん。先程の報告を訂正する。上のテーブルのグラスに入っているのはワインじゃない。どうやら、〃血〃だ。この中にも三リットルほどペッドボトルに残っている。ところで、こいつ等。何の肉だと思う。丁度、ひとり分の量だよ」

 高木が考えていることは手に取るようにわかった。

 四人いるはずの乗組員。四人用のテーブルに、三人用の食器。

 ひと一人を解体して出来る肉の量。

「いろんな趣味の人間がいるって事だ。そんなことはどうでもいい。誰も隠れていないと確認出来たら船倉へ回れ。荷を回収して船を沈める」

 彼等は皆、人を殺して糧にしてきた。

 殺したものの肉を食わない猛獣にも等しく、考えようによっては変態の食人嗜好よりも質が悪い。彼等は生きている人間を死体に変えるが、食人家は死体を肉に変えるだけだ。

「了解。…ちょっと待ってくれ。今、確かに音がした。壁に何かがぶつかった音だ。冷蔵庫の裏あたりからだ。どうも、船倉かららしい」

 吉岡は時限発火装置と保護幕を手に貨物船の甲板に上がった。

 各ボートの二人は小銃を構えて待機したまま。

 ほぼ同時に高木たちがキャビンから飛び出してきた。

 発火装置を受け取った山口は燃料タンクのある方角に小走りで向かった。

 吉岡を含む五人は船倉へ。唯一のハッチは大型シリンダー鍵がかかっていた。吉岡は小銃の一連射でその鍵を打ち飛ばした。

「人食い野郎をどうするつもりだ」と、ジョンが薄笑いを浮かべた。

 吉岡は無表情。沈黙がそのまま答になる。

 ハンドライトを持つ高木とコニーが大型ハッチの左右にたち、吉岡とジョンが銃を構えた。ハッチのロックは外からだけ。中には誰かが閉じ込められているか、隠れている。

 どういう事情によるものかはわからないが、それを詮索するだけの時間はなく、またそんなことに好奇心を持つ彼等ではなかった。

 彼等の関心はただひとつ。船倉の積み荷を回収すること。

 李が把手を両手で握った。四人に目配せて開放の合図を送る。

 李の両腕に筋肉の瘤が膨れ上がる。

 爆発的な瞬発力で、一気に鉄の大蓋を引き上げた。

 同時にハンドライトの二つの光が内部の闇を貫いた。が、おそらく上扉と連動していたのであろう蛍光照明が瞬き、鉄の扉がたてた残響が完全に消えるころには内部をキャビンのように明るくした。銃口はすでに対象を求めている。

 船倉はガランとしていた。ゆったりとした空間の中央に、二メートル立方の木枠の箱に固定されているのが目的の積み荷である。

 誰もが最初に目にしたのは勿論積み荷である。

 次に目にしたのは、力なく寝室との間仕切り壁に寄りかかる男の姿。

 しゃがんだまま、俯いた顔を両手で覆っている。

 コリ、コリ、コリ、と鼠が木を噛っているような小さな音が船倉に響く。

 ぺちゃぺちゃっと猫が皿のミルクをなめるような音と共に。

 三番目に見たものは、箱の上に規則的に並べられた人間の部品。

 三つの首と六つの手首、更に六つの足首。ひとつの首を囲むように、恐らく当人のものであろう二個ずつの手首と足首が切断面を下にして立てられている。

 それが三セット。箱から逃げ出そうとして囚人たちが必死に首と手足を出しているように上に向かって突き出されていた。首の表情は見えないが、不自然に拗くれた手足の指先が精一杯の苦痛を表現しているように吉岡には見えた。

 突然、コニーがかん高い笑い声を上げた。

 じろりと見上げた吉岡の視線が、大きく見開かれたコニーの瞳に狂気を読み取った。

 歪んだ頬は悲鳴を上げる者のそれである。やがてコニーの笑い声は唐突に止まった。

 ふいに、船倉の男がゆっくりと顔を上げた。

 どろん、と濁る虚ろな瞳。半開き口のまわりは真っ赤な鮮血に染められていた。

 男の口がモゴモゴと動く。

 両手に握り締められた血みどろの肉片。初めはそう見えた。

 だか、違った。

「…なんだ、こいつ」

 震えるような声で高木が呻く。その意味は皆がすぐに気づいた。

 顔を上げた男の顎の下。

 右の手首は消失していた。左の指も四本まで無くなっていた。

 五本目の指、親指は男の口の中にあった。

 カリッ、カリッっと骨をかみ砕く音が響く。

 ぺちゃぺちゃと傷口をなめる。

 ペッと骨を吐き捨てると、男は次に自分の右腕の柔らかい肉を食い始めた。

 ふいに、李が銃を構え直す。同時に安全装置のレバーを外す金属音。

 うつろな視線が狂気の行為を捉えている。

「よせ、李!」

 吉岡の制止命令は小銃の連射音でかき消された。

 血と肉片をまき散らして、ぼろ切れのように弾き飛ばされた男の体躯が床に転がる。

 暗い静寂が再び支配する。ニタリとした笑みを浮かべた男の死に顔

(デスマスク)が、ゴロリと顔を仰向けて積み荷を見ていた。

 硝煙の匂いが血臭を覆い隠した。

 李のうつろな視線が宙をさまよう。

 その奥に不吉な殺意の影がちらちらと揺らめいていることに吉岡は気づいた。

 素早く皆の顔を盗み見る。

 李だけではなかった。

 皆の顔の裏にそれがある。

 ふいに、忘れたはずの無数の死者の顔が脳裏に浮かんだ。

 その大半は傭兵時代の彼が手に掛けた者たちだ。

 ある者は恨めしげに、ある者は楽しげに血みどろの顔で微笑みかけた。

 彼らの口がゆっくりと蠢く。声を出せぬ亡者たちは何かをささやきかけていた。

 悽惨な光景に重なって行く彼らの影。

 部屋に充満してゆく、流血の中からたちのぼる死の予感。

 自分だけではない、と吉岡は直感した。

 それぞれの心に封じられていた地獄の幻想を、この部屋の誰もが見ているのだ。

 コニーは無表情のまま、上体を左右に揺すっていた。ジョンと李は大きく目を見開いて箱の隅を凝視する。高木はうつろな表情で小さな声でぶつぶつと何かをつぶやいている。

 目の奥がキリキリと痛んだ。

 はらわたをしぼり上げられるような不快感に、吉岡は強烈な吐き気を覚えていた。

 金属音を思わせる耳鳴りがした。

「メイラン…」

 なぜその名を呟いたのか、吉岡にはわからなかった。

 それでもその一言が吐き気と耳鳴りをわずかに抑えた。懐かしい亡霊の姿をかいま見た。

 無意識に、吉岡の手が李の持つ銃の安全装置をロックした。

 その手に伝わる冷たい感触で吉岡は状況の異様さに気づいた。

 本能的に自分の小銃を構え、トリガーを引く。

 軽快な発射音よりも、肩に伝わる反動が心地よい。一連射を終えて銃口を降ろして初めて、自分が木箱を打ち抜いていたことに気づいた。

 夢から覚めた表情で皆が吉岡を見ていた。

「吉岡さん…。あんた、一体何を…」

 乾いた声でつぶやいた高木の頬を吉岡が張り飛ばす。

 高木は首を戻しながらにらみ返した。

 高木の目にうっすらと怒りが宿ったが、吉岡の不動の眼光を受けて不安と動揺に変わっていった。おどおどと視線を足下に戻した。

「荷を運び出せ」

 そう指令を出しながら、吉岡自身はまだ幻夢の中にいるような錯覚を感じていた。

 自分の声の筈が、他人のもののように思えた。

 吉岡とは異なるもうひとりの誰かが自分の中におり、この不吉な状況を淡々と観察しているような不快感が意識の中枢に根を下ろしていた。

 暗がりでもわかるほど憔悴した表情で、彼らはのろのろと作業をこなした。

 予定より十五分遅れて、彼らは船を離れた。海岸に戻ったのは更に四分後。

 吉岡たちを仲間が不安げに迎える中、唯一、石郷涼子だけが無表情で吉岡を見ていた。

 石郷涼子と視線が合った時、吉岡は彼女の視線を通して海から戻ってくる自分自身の姿を見たような気がした。不快な衝動が腹の中でうねった。

 その時、石郷涼子の頬が小さく揺れた。

 反射的に吉岡の胸中に、殺意にも似た激しい怒りが込み上げてくる。

 石郷は表情を変えぬまま、くるりと踵を返して車に戻った。石郷の顔に浮かんだ表情が冷笑であったと吉岡が気づいたのは、撤収準備の終了後だった。

 彼らが海岸を離れて約五分後、一瞬の閃光がその入り江を白く染め上げた。

 三つの指向性爆発が船底と甲板を同時に破壊した。

 いくつかの悪夢を残して、死の船は人知れず海底に消えた。



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