棺の記憶

著 : 中村 一朗

吉岡:Vol.5


 頭上で雷鳴が轟いている。

 それが人の声と気づくまで暫くかかった。

 吉岡が目を開いた時、最初に目に入ってきたものは眩しい光と青白い顔色の悪鬼ような形相だった。光線地獄に落ちたのかとぼんやりと考えながら、視線は前の人物の輪郭を探っていく。心配顔で上から覗き込んでいるのは…。

「…吉岡さん。あんたいったい…。何がいったい、どうしたんだ!」

 悪鬼の正体はチャンだった。その顔が懐かしく感じられた。

「やあ、…久しぶり。…おまえも一緒に地獄落ちか」

 チャンの表情が戸惑うように歪んでゆく。

 チャンだけではない。

 周囲の光もぼんやりと霞みがかかったように揺らめいていた。

「吉岡さん!おい、ヨシオカ!しっかりしろ!」

 チャンのどなり声がゆっくりと遠ざかっていく。

 じたばたと走りながら叫んでいるように。

 その光景を思い描き、滑稽感に笑みを浮かべた。

「どこに行く、チャン。…戻って来いよ。メイランも、さっきここに戻って来たんだ…」

 そう呟きながら心の一方で、頭が正常に動いていないことを何となく自覚した。

 深酒の時の酷い酩酊感に良く似ている。

 昨日の、気を失ったあの最後の瞬間もこれと一緒だった。

 二つに分かれた心が更に細かく千切れてゆく。

 ふいに、眼前の光景が暗転した。

 周囲の音が消え、吉岡は意識を失った。


 次に目を開いた時、吉岡はある程度の思考力が戻っている事に安堵した。

 床の上だった先程とは異なり、体はベッドの上に収まっていた。

 袖を捲り上げられた左腕には点滴を受けていたらしき跡がある。チューブはすでに外されており、器具一式は部屋の隅に片付けられていた。

 腕時計にショルダーベルトと大型ナイフはサイドテーブルの上にあった。

 上体を起こそうとして、左脇腹に電気の走るような軽い痛みを覚えて顔を顰める。

 少なくともあばら骨の二三本にひびが入っていることを理解した。

 肘や膝にもすり傷があった。

 胸元には、コンバットシャツの上半分を赤黒く染め上げる程の大量に吐血した跡まである。自分の血であることは明白だったが、すでに十分に乾いていた。

 首を巡らすと、チャンのビルの前でいつも見張りをしている男が無表情な目を吉岡に向けていた。吉岡にはどうしても彼の名が思い出せなかった。

「今、何時だ」

 吉岡に問いに、枯れ枝のように痩せた男は自分の腕時計に目をやった。

「午後四時四十三分」

「すまねえな。手元にチップがないんだ」

 広東語て言うと、男はニタッと笑って部屋を出ていった。

 その部屋が、チャンの事務所の仮眠室であることはすぐに気づいた。

 どういう経緯でここに連れてこられたのか全く記憶にない。

 見張り男と交代するようにすぐに、似合わない心配顔のチャンが部屋に入ってきた。

 目が合った。死んだ猫を見るような視線だった。

「よう」と、吉岡はおずおずと笑みを浮かべた。

「今度こそ、ようやくまともに意識が戻ったみたいだね。さっきまでリー先生がいたんだよ。あんたの体を診察してもらってた」

「あっちこっち、痛いとこだらけだ」

「今はもう大して問題はないらしい。軽い全身打撲。というよりも、ただの打ち身だね。大口は、あばら骨にひびが入ってるくらいだって。それと、急性貧血を起こしていたようだから四百CC程輸血してもらった」

「ところで、何でおれがおまえの事務所にいるんだ?」

「それを聞きたいのはぼくの方だ。今朝まだ家にいる時に、フリーピースの事務局から電話があったんだ。接客室にいる筈の吉岡さんがいなくなったって。そして吉岡さんのジャケットと部屋の鍵は中庭で発見されたって。何らかのアクシデントに巻き込まれた可能性があるからって事で。ぼくは財団本部に向かうつもりで、支度をしにここに寄った。そしたら、事務室の部屋の真ん中に吉岡さんがいた。死んでいるのかと思ったよ。息もしてないように見えたから」

「今朝…。じゃあ、おれがフリーピース本部に行ったのは、半日以上前か…」

「いったい何があったんだ。ここのアラームまで警戒して入るなんて。第一、どうやってシステム解除の記録を消したんだ?」

 チャンの声は真剣だった。

 アジア随一の情報屋を自負するチャンのビルは、見た目とは裏腹にセキュリティについては軍事施設並みのレベルを誇る。最先端の高価な機材が配備されていたり危ない橋を渡る仕事も多い関係上というより、ハイテク好きの趣味によるところが大きい。

 出入り口や通路に設置された高感度センサーによる指紋、声紋、網膜などの照合は言うに及ばず、試作品のAIによる三次元行動認識プログラムまで組み込まれている。最先端電子デバイスのデパートのような設備であり、先日から某日系企業の研究施設に対してこのセキュリティシステムを丸ごと売り込もうとしているところでもある。

 過剰品質のこのシステムの解除が出来るのはチャンと吉岡のほかにも数人いるが、解除時の記録は必ず残る。

 しかし今朝は、誰かがシステムを解除した記録は残っていなかった。

 そして電子システム以上に信頼の置ける番人たちがビルの周囲に常にいる。昨夜から今朝にかけてビルに近づいた者は誰もいないと彼らは言っていた。だから、無人のはずの事務室の床の上に転がっていた吉岡を見つけた時のチャンは二重に驚いた。

「知らねえよ。自分がどこにいるのかさえ分からなかったんだ」

 吉岡は昨日の午後に財団本部に赴いたことからミラーのオフィスに侵入するまでの話を、自分自身で確認するようにゆっくりと克明に述べた。

 言葉を濁しだしたのは、奥の部屋でミラー・クリスの姿をした怪物に遭遇したことに触れるあたりからだった。吉岡自身、今ではあれが現実とは思えなかった。チャンは吉岡の目を覗き込みながら、最後まで無言で話を聞いていた。

「ふーん。まるで御伽噺だね。現実主義の吉岡さんらしくないよ」

 チャンの感想は率直だった。侮蔑の響きはない。

「おれもそう思う。何かの拍子で頭でも打って、バカになってたんだろうよ」

「あるいは、ある種の洗脳。これなら一応、納得できる。現実と悪夢を織り混ぜて記憶を捏造する。催眠治療の応用だね。あんたはミラーたちに捕獲され、頭の中をかき混ぜられた。勿論、財団の秘密事項だから端末の警備セクションや事務局の連中には知らされていない。だから親切な彼らは吉岡さんの身を案じてぼくに連絡してきた。何せ、吉岡さんはマスター・ミラーの親友だ」

「おまえの話だと、おれは朝にはここに居たんだろう。倍速コピーみたいに夢物語を詰め込んで洗脳して、魔法みたいな手際でここに運び込んだ訳だ」

「そう。その洗脳には、案外吉岡さんたちが運び込んだ例の“棺”が関わっているかも知れないよ。今の最先端技術でも、洗脳は時間がかかるんだ」

「“棺”は悪夢を見せる古代の機械だって言ってたな。高木やリャンたちもあれでおかしくなった。じゃあこれで、おれも善人になる訳だ」

 チャンは目を見開いてじっと吉岡の瞳を覗き込み、やがて表情を崩して歪んだ笑みを浮かべた。つられて吉岡が破顔する。

「…不可能だよ。カップ麺を作るのとは訳が違う。吉岡さんが朝見た時のままだったらそんな洗脳もあり得るけど、今ではすっかり元通りだ。正直に言うけど、安心したよ。もうずっと、あのままかと思った。もう、リャンたちとは違う。自分で言い出して否定するのも抵抗あるけど、やっばり洗脳なんかじゃないね。ミラーが怪物に変身したかどうかはともかく、化け物のような形相のミラーとあんたが戦ったことまでは真実だったんじゃないかな。リー先生、こっち側の社会じゃあ名医で通ってる。ぼくもそう思ってる。その先生が、吉岡さんのあばら骨に三か所の骨折の跡があるって言ってた。触診である程度わかるそうだよ。ただし少なくとも、一週間以上前のものだって」

「とんだヤブ先生じゃねえのか。昨日のおれは骨折なんかしてなかった。おまえも知っているはずだ」

「少なくとも、午前中はね。だから骨折をしたのなら、昨日の夜から明け方にかけてのことだ。つまり僅か半日たらずで、吉岡さんは重傷から回復した。その胸元の血も、折れたあばら骨が肺に突き刺さった時の吐血だよ。手当てが遅れれば死に至る。間違いなく昨夜、吉岡さんは重傷を負った」

「じゃあ、おれが怪物だってことか。腕を切り落としても生えてくるかも知れないぜ」

 吉岡は昨日の夜に最後に見た光景を脳裏に浮かべた。

 霞みゆく視界に最後に飛び込んできたものは、切断されたミラーの前腕。

「便利でいいじゃない。でも、残念ながら違う。一般人とは比べ物にならないくらいタフだけど、それでも吉岡さんは人間だ。狼人間じゃない」

 チャンは口を閉ざし、吉岡の反応を待った。

 吉岡は無表情のまま、チャンの顎のあたりに視線を置いている。

 ふた呼吸分の間を置いて口を開いた。

「昨日は満月だった。闇の中で素手のミラーにぶちのめされたおれは、無意識のうちに狼男伝説に重ね合わせて奴を捉え、変身していたような幻覚を見た、という説はどうだ。素人なりに深層心理の解釈をするとそんなことだな」

「それも違うだろ、吉岡さん。ミラーは満月によって変身する怪物人間。ストレートにそう考えてもいいんじゃない?」

「バカを言え。それなら石郷涼子あたりは魔女ってことになる。おれを帚に乗せてここまで運んで来てくれたって訳だ。壁なんか通り抜けて」

「ついでにあばら骨の手当てもしてくれた。海岸で“棺”の力から吉岡さんを守ったのも彼女かも知れない。狼男と魔女が仲良しだとは限らないよ」

 苛立ちを隠せず、吉岡は頭の中の蠅を追い払うように首を振った。

「オカルトもファンタジーも嫌いだって言ったろう」

「好き嫌いの問題じゃない。理屈に頼って強引に常識だけで説明しようとするのは現実的じゃない。吉岡さんは明け方前に重傷を負い、一切の痕跡を残さない何者かの手でここに運ばれた。しかも傷はある程度治癒した状態で。ぼくの解釈では、狼男の実在よりもこっちの方がよっぽど非常識な出来事だ。でもぼくには、この非常識なことを事実として受け入れるつもりでいる。奇跡的な事実をだよ。なぜなら、ここに生き証人の吉岡さんがいるからだ。変な言い方だけど、セキュリティーシステムに痕跡がないのも証拠だ」

 吉岡は少し考えてベッドから降り立った。

 脇腹の痛みに顔を顰めながら。軽くよろめいたところを、チャンが手を貸した。

「すまねえな。ついでに、ここの電話を借りたいんだがね」

 チャンはすぐに吉岡の意図を察した。

「面白いな。狼男に電話するんだね」

 吉岡がフリーピース事務局のコールナンバーを押しているうちに、チャンは盗聴用受話器とレコーダーをセットした。

 吉岡はミラーの秘書室を呼び出してミラーへの取り次ぎを求めた。

 予想に反して、ミラーはすぐに電話口に出た。

 さすがに吉岡も最初は言葉を失った。チャンさえ顔から血の気が引いている。

「ミスター吉岡。電話をかけてきた君から用件を言うべきと思うがね」

 ミラーの声は僅かな怒気を含んでいる。それで逆に吉岡は落ち着いた。

「昨日はずいぶん世話になったようだ。そっちの事務局からもチャンが連絡を貰ったそうだ。今、おれはチャンの事務所にいる」

 落ち着いた声で話すつもりが、多少上擦っている。

 第一ラウンドのジャブの打ち合いは、十対九でミラーの勝ちだと素直に認めた。

「無事だったなら、それでいい。接客係のスタッフたちが君のことを心配していた。中庭にジャケットなんかを残しておくからだ。事務局で預かっているから、暇がある時に取りに来たまえ。都合がよけれは、世間話でもしよう」

「そちらの具合は?」

「久々に十分な食事と睡眠をとれて非常に良い。もっとも気分はいまひとつ、不愉快な側面も残っている。右手にある報告書を見ながら左手に受話器を持って、忙しく執務に励んでいる。半端な怪我人の君とは違うよ」

 ミラーは自らの左手の健在を示し、吉岡の負傷を確認している。

 昨夜の出来事について惚けるつもりはないらしい。

「率直に聞くが、昨日の夜の出来事は本当にあったことなのか?」

 吉岡の問いにミラーは率直に笑った。

「ミスター吉岡。昨夜、君が何を見て何を感じたのかなどわたしには興味のない話だ。自分の記憶が信じられないなら、それもいいだろう。君がどう考えているか知らないが、私は君と争った覚えはない。だから君を助けたりはしなかった。逆に聞くが、君はわたしの執務室で何をするつもりだったのだ?」

 ミラーの言葉に吉岡は混乱を押し殺して答えようとした。

「あんたに会いたかっただけだ。今度の件について話を聞きたかった」

「何についてだね」

 吉岡は胸のうちに灰色の不安が立ち上ってくるのを意識した。

「“ノアの棺”とやらについての話だ。あのために頭がおかしくなった部下たちや高木宗一の自殺について、ひと通りのことだ」

 不安が吉岡の語気を強める。それが吉岡自身を一層不快にした。

「それなら、日を改めて時間のある昼間にでも来れば良かった。強引に忍び込む必要などなかったのではないかな」

「待ち切れなかったのさ。それだけだ」

「本当かな。君は、本当に君自身の考えであんな非常識な行動をとったと主張するつもりなのかな。急ぐ必要は他にあったのではないかな」

 灰色の不安は、徐々に陰りを色濃くしてゆく。

 額にうっすらと汗が滲んだ。

 ようやく吉岡はミラーの言葉の裏にあるものの存在を理解した。

 同時にそれは自身の中に沸き起こっている不快な戸惑いの正体でもあった。

「別の誰かに指示されて執務室に忍び込んだわけじゃない。おれの考えだ」

 吉岡はチャンの顔を盗み見た。

 チャンは無表情のまま吉岡の方を見ていた。その無表情は緊張と沈考の証しだった。

「昨夜の君の行動原理は、論理的でもなければ単なる感情的なものでもない。そしてそのことが自らの動機の謎を探るヒントになる」

「おれが誰かに踊らされて動いていたって言うのか。冗談じゃないぜ」

「ではミスター吉岡は今でも“ノアの棺”に関心があるのかね。昨日までのように、命を賭けてまで知りたいと思っているのかね」

 吉岡は反論できない自分に気づいて愕然としていた。

 チャンさえ昨日の話し合いの中ですでにこれに気づいて指摘していたではないか。

 その追求を、理屈ではないと言って吉岡は拒否した。

 どうしてもミラーに会わなければならないとひたすら信じていたのだ。

 実際、会った時に何を言うかは考えていなかった。それでいいと思っていた。

 ところが、あれほど強くミラーに会わねばならないと感じていたことが、ただの強迫観念に等しい衝動に過ぎなかった。

 では、その源にあったものは…

「“棺”に遭遇した時、部下たちと同様にミスター吉岡も失ったものがあったのだ。自分では気がつかなかっただけだ。それを取り戻そうとした。いや、正確にはそれが元のところに戻ろうとしていた。スン・メイランの亡霊だ」

 冷水を浴びせられたような衝撃が吉岡の全身を支配した。

「なにを言ってやがるんだ…」

 辛うじて絞り出した呟きも空しく耳の中に響いている。

 今朝ここで気がついた時、『メイランがここに戻って来た』とチャンに告げた朧げな記憶を思い出していた。曖昧な疑惑の正体。ミラーの指摘は正しいのかも知れない。

「十八年前。ゲリラグループを追撃したミスター吉岡は殺戮の化身だった。その憎悪がスン・メイランの心を取り込んだのだ。やがて復讐は完遂し、君は最強の兵士になった。そして亡霊は君の心の奥で眠りについた。二つの心は、ひとつに。“棺”に出会うまでずっと」

 ミラーの言葉に冷笑が滲む。

「おれは、メイランのことなど何年も忘れていたんだ」

「そのようだな。だから、“棺”の力で切り離された亡霊は君の中に帰れなかったのだ。復讐という執着があったからこそ、ミスター吉岡の精神は亡霊の依代になり得た。だから亡霊が再び眠りにつくためには、“棺”か又は同様の力に頼らざるを得ない。それで、君の心を“棺”に向かわせたのだ」

「それなら、メイランは直接おれに訴えれば良かったんだ。あんたのところに行く必要なんかない。実際におれは海岸で一度、メイランの姿を見た」

 吉岡の脳裏に、燃え崩れていったメイランの悽惨な姿が蘇った。

「そうだ。“棺”の力の影響でね。あれからずっと、メイランはミスター吉岡に纏わり付いていた。君が気づかなかっただけだ。私には見えていた」

 記憶のスクリーン繰り返し再生されるメイランの死。最後の表情。

 かつて山賊どもを追いつめて八つ裂きにした彼の憎悪の中核となっていたもの。

「あんたの言葉を鵜呑にすれば、メイランがおれの行動を操っていたということなのか」

「亡霊に人を操る知恵などない。ただ執着があるだけだ。それが周囲に影響を及ぼす。どういう影響かは受ける側の問題だがね」

「おれは昨日、“ノアの棺”とやらに接触していない。見たいとも思わなかった。あんたに会いに行こうしただけなんだぜ」

「“棺”は君のみならず亡霊にとっても危険なものだ。心の闇を映し出す鏡となって、あらゆる精神を切り裂く。だから近づかせたくはなかったのだろう。言うつもりはなかったことだが、密輸船の中で“棺”の力から君を守ったのはミス・イシザトではない。君の亡霊、メイランだ。イシザトはわたしにそう報告している。“棺”を回収した翌日の朝、君が私の執務室に来た時、私は君の亡霊の姿を見た。不愉快に思い、追い払おうかとも考えたくらいだ。私は亡霊が嫌いでね。それで亡霊も私の力を知った。知恵を回したわけではあるまい。“棺”よりも、私かイシザトの方が与し易いと感じたのだろう」

「じゃあ、メイランに手を貸して俺の中に戻したのは石郷涼子だったのか」

「私はその問に答えるつもりはない。イシザトがメイランを操って君をここにいざなった可能性もあるのだ」

「どういうことだ。石郷涼子はあんたの部下だったんじゃないのか」

「今は消息不明だ。私の“心臓”を盗んで逃げたのだよ」

 自嘲気味にミラーは言った。ミラーの不快感は昨夜の吉岡の行動よりも、石郷の裏切りによるものだったことを吉岡は察した。

「ハート?どういう意味だ。“ノアの棺”も奪われたのか」

「いいや。“棺”は私の手元にある。ミスター吉岡、最後にもうひとつだけ言っておこう。死を振りまく亡霊の力は両刃の剣だった。果たして君の部下は本当に自殺だったのかな。彼がもし死ななかったら、君は昨夜あのようなやり方で私のところに来ることはなかったのではないか」

 吉岡は息を飲んだ。すぐには次の言葉が浮かばなかった。

 吉岡が事実関係を検証する間、ミラーは楽しげに沈黙を守っていた。

「メイランが高木を殺したとでも言うのか」

「私はそんなことは言っていない。君にそう考える可能性を示唆しておきたいだけだよ。彼女には時間がなかった。亡霊は依代に戻れなければやがて消滅してしまうからね。だから急いでいた。考えることはできなくても本能で蠢いている軟体動物のように。さあ、どう思うのかな。高木宗一の死と亡霊の間に繋がりはあるのか。この疑念を克服したら、ジャケットを取りに来がてら遊びに寄り給え。次の仕事の打ち合わせをしたいと思う。重要な仕事だ」

 ミラーが一方的に電話を切った後も、吉岡は受話器を握り締めたまま動けなかった。

 暫くして蒼白の表情で受話器を置いた。

 振り返ると、鏡のように似た顔色のチャンが似たような姿で凍りついていた。吉岡と目が合うと、盗聴用受話器を置いた。ひどくゆっくりと。

「狼男だなんて言ったけど、訂正するよ。ミラー・クリスは悪魔だ。言葉ひとつで心を鋭く抉る。あいつの言うこと、真に受けることはないよ」

「だが多分、ミラーは嘘はついていないと思うぜ。駆け引きはしてるがな」

「吉岡さんに怪我をさせたのはミラーだとぼくは思う。そして、吉岡さんもあいつに怪我を負わせたはずだ。今は互いに傷の痕跡は薄いようだけど」

「ミラーは、争った覚えはない、と言っていた。争わなかったとは言っていない。あの時、奴も何かの事情で正気をなくしていたのかも知れねえな」

「兎に角、最後に決めるのは吉岡さんだ。どうしたい?」

 吉岡に対してというよりは自分に言い聞かせる口調でチャンは呟いた。

「…さあね。でも近々、向こうに置いてきた上着を取りに行くつもりだ。大口のクライアントのところにな」

 険しい顔でうつむいている吉岡にチャンは睨むような視線を向けた。

「それならもう、オカルトは嫌いだとか言ってられなくなる」

 吉岡は小さく頷いた。

「ああ。おれも腹をくくることにしよう。オカルト万歳だ」



<吉岡の章・終>



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