棺の記憶

著 : 中村 一朗

ミラー:Vol.2


 ミラー・クリスは朝食を楽しみにしていた。

 昨夜は十時ごろに遅い夕食をとったが、以来眠る間もなくほとんど飲まず食わずのまま朝を迎えた。ひとり期待と不安と黙思に沈んで時を数え、〃棺〃が本部に着くとすぐに陣頭にたって分析準備の指揮をとった。その間ずっと石郷も行動を共にしていたが、回収ミッションの経過報告以外には〃棺〃について余計なことを語ろうとはしなかった。またミラーにしても、石郷を頼っているように誤解させる類の言動は極力控えておいた。

 夜明け頃に石郷はフリーピース本部を去った。〃棺〃の内部へダイブ・インする準備が研究室で整うまで、自宅のある日本で待機していることになっていた。石郷が本部の研究所に戻るのは十日後と予定されている。

 ようやく張りつめていた気を抜けたのは午前八時を少し過ぎたころだった。 オフィスに戻って椅子に腰を下ろすと、珍しく軽い眩暈を感じた。今が新月期のために寝不足や疲労を感じるのは一般人並みだが、原因はそこにはない。未知のものへの期待から来る興奮と緊張からの、一時的な解放によるものだ。こういう時は、食えば食い勝つとミラーは信じている。

 朝食に2ポンドのステーキをオーダーすると、秘書は笑って了承した。

 スネイクの隊長が面会を求めてきたのはその直後のことである。

 時刻は午前八時四十五分。

 ミラーはしぶしぶ、朝食は吉岡が帰ってから運んでくるようにオーダーを変えた。吉岡に不満をぶつけるつもりはない。寧ろ仕事熱心は美徳でさえある。

 今、吉岡がエレベーターを降りたことを知った。軍人らしい足取りで、静かな一定の歩調でオフィスに近づいてくる。しかしその背後から漂うようについてくる何かの存在を感じて、ミラーの眉間に皺が寄った。

 実体を持たぬ、影のように虚ろな気配…

「どうぞ、ミスター吉岡。お待ちしていた」

 吉岡が扉をたたく前に、ミラーから先に声をかけた。

 わずかに間を置いて吉岡は部屋に入ってきた。冷静さを装う無表情な視線がミラーの青い双眸を捕らえている。一方のミラーは吉岡の視線に応えつつも、精神の目で彼の背後に纏わりついている青白い何かを捉えていた。それは、人の目には見えないものの朧げな姿。

 吉岡に憑依している、微かな精神の残骸…。

(憑依霊か)

 以前吉岡と面会した時には、こんなものはいなかった筈である。

 近づいてくる吉岡に、ミラーは笑みを浮かべた。亡霊のことなど無視して。

「昨日はご苦労だった。まだ疲れがとれない様子だね」

 こんな亡霊などに取り憑かれていては、熟睡などできない筈である。

「逆にあんたはずっと徹夜だった様子だが、不思議に元気そうだな」

 見た目ほどでもないのだと思いながら、空腹を意識する。

「今の私はこの何年かの間で、もっともエキサイティングな時間を過ごしている。寝る間も惜しいという表現は決して比喩ではないね」

「手品のタネは隠しカメラかな。今、ノックする直前に俺に声をかけたのは。足音は立てなかったはずなんだがね」

「そんなところだ。遮光処理された壁面パネルの内側に隠してある。天井に監視カメラなど配置するのは来客に失礼だからね」

 ミラーは、自分や財団に疑惑を抱いている吉岡の質問に率直に答えた。嘘を言うつもりはなかったが、不用な詮索を避けるために都合の良い形で話を納めようとした。隠しカメラは本当にあるが、電源は切ってある。吉岡が納得するとは思えなかったものの、体裁を繕う程度のことはできた。

 当たり障りのない会話を続けながら、ミラーは亡霊の観察を続けた。

 それは吉岡を守ろうと包み込むようにしながら、ミラーに対して警戒感を募らせている。悪霊ではなさそうだ。海岸あたりで憑依したのか、昨夜のミッションの最中に誰かの思念が造りだしたものか判別がつかなかった。いずれにせよ〃棺〃の力によるものであることは間違いない。

 吉岡はこの存在を認識しているのだろうか、と疑問を持った。ミラーにもある程度の読心はできる。しかし亡霊が小賢しくそれを阻んでいる。

 石郷を引き止めておけば良かったと思った時、彼女がこの霊体の存在を知っていた筈であることに気づいた。なぜ、報告しなかったのか。

 ミラーはいきなり立ち上がり、表情を変えずに、霊体に対して威嚇するように心の奥底で牙を剥いて見せた。吉岡には気づかれぬように。そいつは怯えるように震えて凝集しながらも、吉岡からは決して離れようとはしない。

「ありがとう。君たちのおかげで、障害がひとつ減った」

 握手を求めて、ミラーは吉岡に微笑みかけた。吉岡は無表情で握り返した。

「俺たちは依頼主の期待に応えられた訳か。運び屋とその船を処分して、積み荷まで傷つけてしまったと思ったんだがね」

「不可抗力だ。何が起きたのかはオブザーバーのミス石郷から聞いている。積み荷の傷もパッケージ部分だけだった。中身は無傷だ」  ミラーが手を離して椅子に腰を下ろす頃には、亡霊は再び元の状態に戻りつつあった。ミラーへの敵意は一層強くなった。煩く吠えつくチビ犬のようにうとましく感じられる。消してやろうか、と本気で考えた。

「海岸から見ていただけのあんな女に何がわかる。どうせいい加減な報告さ」 吉岡が石郷について不快感を示した時、霊体が小さく反応を示したことをミラーは見逃さなかった。精神共鳴や激情などによる残留思念の擬似霊体などではない。動物霊程度、あるいはそれ以上の意志を持っている。

「彼女の報告は満足のいくものだった。きみたちの仕事と同様にね」

「ところで、部下たちの状態は?」

 前置きを終えて、吉岡はようやく本題に入った。

 ミラーは吉岡の懸念を払拭するように率直に現状を語った。実際に、吉岡の部下たちは危機的状態ではない。十日程静養すれば、〃棺〃に食いちぎられた精神の一部は完全に蘇生するものと医療チームの主任は言っていた。記憶と精神を完全に食い尽くされてしまった運び屋たちの状況とはまるで異なる。

 もっともミラーにも、〃棺〃と犠牲者との関係を詳細に説明するつもりはなかった。ミラー自身、〃棺〃の力についてまだ理解できていない側面も多分にあるからだった。部下たちは無事であることを伝え、吉岡が納得すればことは済む。無論、報酬の割り増しも含めて。ひと通りの説明の後に

「…異存は?」と返答を促すと、吉岡は意外そうな表情で了承した。

「特にない。あんたの話が本当なら。それにしてもずいぶん気前がいいな。あんたの教団とは初仕事だったのに。寧ろ叱責を覚悟していたんだがね」

 吉岡の言葉の端についている小さな刺を意識しながら、ミラーは笑った。空腹による苛立ちで、不愉快な亡霊を消去したいとする衝動を抑えつつ。

「できれば私は友人と組んで仕事を続けていきたいと思っている。ミスター吉岡、今後ともよろしく。今回の契約金の残りは、午後には君のチームの口座に振り込まれる筈だ。町についたら確認してくれ。それと、これが君の部下たちの入院先だ。一週間後には見舞いにも行けるはずだ」

 ミラーは病院の所在地を記した紙片を吉岡に渡した。部屋を出ていこうとする吉岡の肩のあたりに浮いていた亡霊が振り返った。その時初めて、その亡霊がかつては女であったことにミラーは気づいた。ミラーへの怯えるような敵意に軽い怒りを覚え、余計な言葉が口を突いて出た。

「それから、最後にもうひとつ。ミスター吉岡。誤解のないように言っておくが、フリーピースは科学知識や最先端技術を社会福祉に役立てる目的で設立された財団なのだ。一部の歪んだ識者が言うような私的教団などではない」

 だから、黴臭い亡霊など二度とこの部屋に入れはしない。

 吉岡が去ると、秘書が特大のステーキを運んできた。それを瞬く間にたいらげて、ミラーはすぐに石郷に電話を入れた。コールは一度ですんだ。

「やあ、ミス石郷。聞いておきたいことができた。まだ飛行機の出発時刻には余裕があると思ってね。迷惑だったかな」

「いえ。そろそろかかってくる頃と思ってましたから」

 ほうっ、とミラーは喉の奥で呟いた。

「今、ミスター吉岡が帰ったところだ。おまけが付いてきた」

 瞬く間ほどの沈黙。石郷が笑みを浮かべる気配をミラーは電話口に感じた。吉岡に憑いている亡霊の事で質問してくると予想していたらしい。

「あの女。多分、昔の恋人ね。悪霊じゃなかったでしょう」

「知っていたのなら教えておいてくれてもよかったんじゃないかね」

「憑依霊なんか珍しくもない」

「確かにそうだ。だが、〃棺〃の力が介在しているなら話は別だよ」

「あれは、死の直後から吉岡に取り憑いていたのね。そのうちに彼の意識にゆっくり同化していった。それが、〃棺〃の力で活性化したってことかしら」

 ある種のエネルギーフィールドに過ぎない霊体は、単独では長期間存続することはできない。どうしても依代が必要になる。人に憑けは憑依霊となり、地に取りつけば地縛霊となる。しかしそれらとて、歳月の洗礼を受けてやがては依代と融合してゆく。彼女の場合も、そうしたプロセスを経て吉岡の心の中で静かに眠りについていたのだろう。それを。

「〃棺〃が目覚めさせたのか。あるいは、〃棺〃の悪意から吉岡を守るために自発的に目を覚ましたのか。どうだろう」

「その両方よ、きっと。あの時、私は船の中の様子を見ていただけだから。吉岡の心の奥には踏み込まなかったわ。そう報告したと思いますけど」

「吉岡は自力で〃棺〃の影響力から脱した、と聞いていたのだがね」

「同じことです。あの時の彼女は吉岡の一部だった」

 詭弁のような言い回しがミラーの勘にさわった。

「少なくとも今は違う。吉岡の意識から完全に独立している」

「それで、生意気な亡霊はミラーさんに噛み付いたって訳?」

 石郷の揶うような声音にうんざりして、ミラーは適当に言葉を濁して電話を切った。彼女への不快感もすぐに断ち切ることができた。

 データバンクにあるスネイクのファイルにアクセスし、吉岡の経歴をチェックする。十八年前に死んだメイランという名の女の事はすぐに調べがついた。亡霊の正体はこれであることは間違いない。女の復讐のために、吉岡は半年をかけて十二人のゲリラ兵を殺戮している。彼の強烈な憎悪が死者の霊魂を身の内に呼び寄せたのだ。そして知らぬ間に、メイランの精神を取り込んでしまった。またメイランの霊体もそれを望んでいたのかも知れないが。

 長い歳月をかけて、メイランは吉岡の心と同化していったのだろう。

 そして十八年後。吉岡の中に潜んでいた亡霊は〃棺〃の力で目を覚ました。別の見方をすれば、〃棺〃は吉岡の心の一部となっていたものを外に引きずり出し、結果的には霊体として再び独立させた。

 亡霊は〃棺〃の力が造り出した副産物に過ぎない。関係ないこととして亡霊を無視した石郷の判断はわからないでもなかったが、一応の報告ぐらいしてもいいのではないか、とミラーは不満の矛先を石郷に向けた。

 まあ、それはともかく。

 発掘された遺跡の中で、また密輸船の中で、発狂して死んでいった者たちにも、おそらく同様の事が起きた筈である。

 〃棺〃は犠牲者の心を引き裂いた。誰もが心に秘めている、忘却の果てに封じていた暗黒の記憶。その鋭利な刀を巧みに使って、裏側に膿を滴らせている心の瘡蓋をズタズタに切り刻んだのだ。砕け散った精神のパーツは、自分というひとつの器の中で殺し合う。自身への憎悪と殺意は他者へと伝染し、悽惨な血の儀式が閉じた空間の中で執り行われたのだろう。

 結局、遺跡泥棒たちも密輸屋たちも同じ屍を晒すことになった。

 枯れるまで互いの血を流し続け、互いの肉を食らい合い、挙げ句の果てに生き残った最後の一人も己の肉体を食い千切ろうとする狂気の宴。それを主催した〃棺〃に潜む主の目的は、解体された精神の力と記憶を取り込むこと…。

 ミラーは二つの現場の血みどろの光景を思い描いた。遺跡の現場写真は脳裏に焼きつけてある。だから密輸船の中も、容易に想像できた。散乱する肉片、床一面を覆いつくすような無数の血溜り、切り取られた手足と生首で飾られる〃棺〃の祭壇。そして最後の一人は人形の表情で、死ぬまで自らの両手を食い千切ってゆく。自分が手にかけた者たちの体のパーツにかこまれて。

 二つの現場で、同様の儀式が行われた。しかも整然と。その一方、第二研究グループはひと月近く遺跡に居住して〃棺〃の力に晒されていたにもかかわらず、だんだん狂気に陥って理性を失っていった。そして最後にタガが外れた。恐慌状態に陥って野獣以下に成り果てた彼らはでたらめに暴れだし、誰彼構わず襲いかかった。彼らの行為が殺人に至らなかった理由は、基本的には研究者だった彼らの中に人を殺した経験のあるものがいなかった事と、万一に備えて増強されていた警備員たちがすぐに鎮圧に介入したためだった。

 警備員の中にはミラー直属の精神感応能力者たちも加わっていた。一般人に比べて、なぜか彼らは〃棺〃の影響を受けにくかった。

 九人の研究グループは現在も重度の精神障害から回復せぬままでいる。しかも全員が記憶の大半を失っている状態で、殆ど口を聞くことさえ出来ない。

 ここで比較されるべきなのは犠牲者の怪我と死亡の違いではない、とミラーは思う。単純な狂乱的無秩序と複雑な狂信的秩序の二つだ。これらは同じ時間軸の上に配置して理解することができるかも知れない。狂乱的無秩序を現出させた後に狂信的秩序の悪夢が来るのではないか、と考えている。

 〃棺〃が造りだした血みどろの現場は二種類。

 ひとつは理性を奪われた者たちの凶行によって破壊され、もうひとつは人間性を奪われた者たちによって創造された。狂気による破壊と創造。記憶の奥から引きずり出された恐怖がもたらす無秩序な破壊衝動の結果と、おぞましくも秩序だてられた食人儀式の結果だ。

 現場の状況を思い描き、犠牲者の一人に自分を投影してみた。無論、脆弱な人間として。…おぞましさと、恐怖。すぐにそれにも慣れてゆく。怯える者から怯えさせる者への進化。被害者と加害者の違いは紙一重だ。理性と人間性が剥落し、破壊衝動に身を委ねる時の快楽。やがて生存本能さええぐり取られた時、被害者=加害者は根源的な恐怖からも解放される…

 殺人の後に獲物となった者を食い、最後には自分自身さえ食い殺そうとする究極の食人嗜好の強制。それが意味するものは、ひとつの人格の完全な消滅に他ならない。理性と人間性を奪われ、記憶を奪われ、ついには生存本能さえ奪われる。最後に残った肉体も、自ら食いちぎってしまった。

 とはいえ、〃棺〃にとり肉体は廃棄物に過ぎない。〃棺〃が必要としたものは複数の人間の精神であり、記憶だった。目的は分からない。だが、研究グループの推論とミラーの直感は一致している。

 〃棺〃は彼らの精神を操って、中心の〃核〃を守っている。〃棺〃からホワイトノイズの状態で常時放射されている非規則性マイクロ電磁ウエーブの解析結果によれば、複合人格による脳波〃連続場〃とおぼしきものの存在が確認されている。これが内部〃核〃への干渉を妨げているのだ。

 目下のところ研究室のスタッフたちは、この未知のバリアを破る手がかりを求めて全力を挙げている。

 しかし今は、ミラーの関心は廃棄物の方にある。そこには、心を解体する手段の痕跡があるからだ。更に理想を思い描けば、記憶だけを切り取り、永遠に保存する方法が。それが分かれば、ミラーは記憶を失わずに済む。

 魂を失った肉体。それは、間もなく自分に訪れる運命にも似ている。記憶を失って夢さえ見ない眠りにつくのは、人間なら魂の喪失と同じことだ。

 ミラーはもう一度、両腕を食いちぎって出血多量で死んだ墓泥棒の写真を思い出し、自分の姿を重ね合わせてみた。うっすらと笑みを浮かべながら。



top
解説