棺の記憶

著 : 中村 一朗

石郷:Vol.3


 覚醒と同時に全身の神経が真冬の湖水のように澄みわたる。

 石郷は目を開くより早く、瞼の向こう側から射す淡い光に気づいた。

「ご気分は」と、左の看護婦が問う。

「そう悪くない」と、さらりと石郷が答えながら身を起こした。

 花ひとつない殺風景な個人病室。ベッドの右には計測器具とオペレーターが二人控えている。オペレーターたちは目を覚ました石郷に顔を向けようともしない。計器を操作して各種データの解析に専念している。

 彼らには石郷の顔もモニターのひとつとしてしか映っていない。石郷にとっても同様の認識しかない。石郷は彼らの方を向いて口を開いた。ステレオのスイッチを押すように。

「時間は」

「約四時間0三分。接触開始から二時間十六分後に、最初の〃綻び〃が確認されました。以後、対象への連鎖浸食は増幅中。石棺内核の最外郭霊体障壁は間もなく完全に崩壊します。予定では十七分以内に」

 つかの間の空しい記憶。霊体素子で構築された擬想空間のあの部屋が、夢の虚ろさにも似てぼんやりと脳裏に浮かぶ。

 肉の体に戻った今では明確な映像として思い描くことは出来ない。それでも机に喰われて苦痛と快楽に濡れる哀れな矢沢の目は強く印象に残っている。

 矢沢が二度目の死を迎える十七分後にあの部屋に留まっているものは、接触から二時間十六分後に消えたはずの河瀬の怨念だけ。

「残留幽象の〃摘み取り〃は徹底して」

 暗流思念波のかけらさえ残らないように、と念を押そうとしてやめた。河瀬への同情心が僅かに疼いたことをスタッフに知られたくなかった。

「…了解」

 うっとうしげにオペレーターが答える。自前の洗浄ソフトは完璧であると誇示するように。石郷は暗い一瞥を投げてベッドからおりた。

「ミラーは」石郷が女の看護士に問う。

「師父ミラーは、執務室にいらっしゃいます」

 財団の主宰を呼び捨てにされた不快感で顔を曇らせながら看護士が答えた。それでも見せかけの敬意を払おうとしている彼女の生真面目さは容易に理解できた。丁重に応対するようにミラー・クリスに言われた通りに。

 石郷は目で追う三人の視線を断ち切るように扉を閉めて部屋を出た。


「さすがだ、ミス・リョウコ」ミラーがブルーの目を輝かせて賞賛した。

「君の言葉を信じなかった訳ではないが、まさかこれほど早く最外郭障壁を突破するとは思わなかったよ」

 差し出されたブランデーグラスを石郷が右掌を上げて断ると、ミラーは小首をかしげるように微笑んでそれを一息に飲みほした。

「あれは所詮、依代に取り込まれた意識を素体にして築かれた結界の一種に過ぎないわ。内在する攻撃性を自身に向けさせれば、自己崩壊は容易い」

 二人はミラーの執務室のサイドウォールにはめ込まれた大型モニターに目を向けた。地下三階にある収納管理室が写し出されている。その中央の台上に、紡錘状の形をした黒い光沢を放つ物体があった。

 〃石棺〃または〃棺〃と呼ばれていた。

 材質は不明。曲面だけで構成されている表面には毛筋ほどの傷もない。全長百八十五センチ、最大幅百二十一センチ、最大高さ九十三センチ。重さについては約一、二トン。重量は十キロ単位で常に増減を続けている。

「謙遜だね。この半月の間、あの石棺は如何なる探査も受けつけなかった。どんなエネルギーも回避してしまったのだからね。超音波スキャナーはおろか、レーザーメスや粒子ビームさえもだ。それでいて、特殊な磁場を不定期的に出現させている。俗っぽく言えば、超常現象を引き起こし続けていた。自慢の洗浄ソフトを何度起動させてもすぐに残留幽象が再生してしまっていた」

 モニターの警告信号が石棺表面電位の異常偏移を知らせてきた。同時に様々な計測値が左片隅のマルチスクリーンに表示される。画面が一瞬で圧縮され、下部には各データに相当する無数の変動型三次元グラフ。

 モニター中央では、細かい放電が石棺の表面を包むように現れた。

 そして揺らめくような青白い残像。白黒映像に写る人の顔を引き伸ばしたような歪んだ影。石郷にはそれが、机に現れた河瀬の怨霊の顔に見えた。ただし霊魂はそこにはない。ただの精神暗部の汚物、残留幽象…。

 やがて雑念波は、外部干渉波の最終中和処置によって消えていった。

「ようやく自慢の洗浄ソフトが役に立ったようね」

「デジタル仕掛けの悪魔払いさ。精神〃核〃のある本物は払えない」

 回収後、初めて石郷は笑みを浮かべた。

 それに呼応するように、石棺が沈黙する。十数秒後、データ化された各種グラフはマルチスクリーンから消えていった。ホログラムモニターに映っているのは〃石棺〃のみ。計測ゲージの霊体機動反応は、ゼロ表示。

「こうしていると、毒竜の卵に見える」

「面白い表現だね、ミス・リョウコ。当時に毒竜が実在していたらこんな卵を残したかもしれない。僅か四か月の間に、この死の卵は四人を船の中で殺し合わせ、遺跡発掘に立ち会った九人を全員廃人にしたのだから」

「表向きの資料では。実際には他にも大勢死んでいるんでしょう。でも遺跡を発見した調査隊はともかく、貨物船の四人の死にはあなたにも責任がある。その可能性を考えなかったとは言わないと思うけど。どう?」

「まあね。だから、危険だと予め知らせておいた。輸送手当ても全額前金で払ったくらいさ。それも破格の金額を。残された家族は路頭には迷わないよ」

「それが良心の値段だったという訳?」

「そう。そういう事」石郷の皮肉に、ミラーは手を叩いて喜んだ。

「君に払う大金の一部もだよ」

「じゃあ、少しばかり追加料金も請求しようかしら」

 石郷の記憶に吉岡の顔が浮かんだ。かつての恋人の亡霊をじっと見つめていた暗い目。吉岡は、自分に憑いている彼女の声に気づいてはいなかった。

「『スネイク』の連中と行動を共にしてくれた件のことかな。あれは約束の仕事のうちだと思うが」

 石郷が冷たく笑う。

「あなたは私の力を試すつもりだった。私が棺の力に対処できなかったら、彼らは殺されたかも知れないのに。結果的に、私は何もしなかったけど」

「わたしはミス・リョウコの能力を信じていたのだ。そして君はわたしの期待に応えてくれた。まあいい。適当な追加料金を請求してくれ」

「あのリーダー、吉岡って言ったわね。きっと、あなたや私のことを探ろうとする。フリーピース財団のこと。棺の件も」

 ミラーの視線は石郷から離れて石棺に注がれた。

「仲間との共存共栄がわたしの望みだ。私はね、ミス・リョウコ。ミスター吉岡は私たちの良い友人になると思っているんだ」

 石郷がミラーの目をのぞき込む。

「新興宗教の教祖様から仲間みたいに思われたくないわ」

 ミラーは声を出して笑った。

「私は神の道なんか示していないぞ。ただ、人は人らしく生きるべきと説いているだけだ。宗教家扱いは些か心外だね。君同様、持って生まれた特別な力を社会の中で有効に利用しているだけなのだから」

「へえ。そう」

 今度はミラーは喉の奥で笑った。

「ところで、ビジネスの話に戻ろう。君の精神跳躍中に新しい報告が来た」

 サイドモニターが二分割され、左側に報告書が示された。石郷はミラーが差し出したコントローラーを受け取って操作を始めた。

「十二世紀後半から十三世紀初期の地層…」と、石郷。

「残念ながら、やはりメソポタミア・シュメール文明の流れをくむ遺跡ではなかったのだ。聖書にあるノアの大洪水とも無関係だった」

「こいつが〃ノアの棺〃じゃなかったのなら、もうわたしの仕事は終わりなのかしら」

 話ながらも石郷は次々に報告書の項目を送ってゆく。

 時折じっくりと考え込むように、それでいて冷めた目で追いながら。

「いいや。仕事は是非継続してほしいのだ。たとえ〃ノアの棺〃ではないにせよ、これが超常現象を引き起こしていることにかわりはない。この報告書にある通り、〃棺〃を包む結界法陣はラテン語で記されていた。幽象干渉領域を封じるためのものだ。ちなみに、ラテン語文学の絶頂期は紀元前後七百年頃に遡る。ラテン語は古代イタリア・ラティウム地方の方言に起源を発していてローマ帝国では標準語だった。一部の学会を除いて民間でこそ死語だが、ローマ・カトリック教派の公用語として現在でも使われている」

「言語学に興味はないけど…。十三世紀初頭の中東の地層から、なぜか古代ヨーロッパの魔法陣を描いた遺跡が見つかったというわけか」

「そう。時間も空間も合致しない」

 モニターを見つめる石郷の切れ長の目が更に細くなる。

「カルーン川上流に遺跡を築いたのは、ユダヤ人やエジプト人ではなくラテン語の呪文を知る十三世紀のヨーロッパ人だったって言うこと。…十字軍」

 ミラーが満足げにうなずいた。

「カトリック教会が回教討伐と聖地回復の目的で派遣した十字軍の遠征は十一世紀から十三世紀終わりまで続いた。その頃からヨーロッパ全土では魔女狩りが始まる。中東やアフリカ文化の逆流で、聖書には記されていない黒ミサや黒魔術などの造語が誕生したのも同時期だった。キリストの暗黒時代と呼ぶに相応しい。表の歴史ではあまり語られていないことだが、錬金術の絶頂期もこの頃だ。魔導士たちと契約を交わす下等なものも数多く現れた。虫や鼠どもを操って疫病を流行らせる程度の力しかないくせに、大魔王気取りの小物供が」

「嫌な時代ね」と、石郷が吐き捨てる。

「そんな頃の廃棄物を掘り出して、つっ突き回して何が楽しいの」

「わたしが掘り出したのではないぞ」

「フフッ。どうだか」と、石郷が小首を傾げる。

「少しは信じてほしいな。わたしは〃ノアの棺〃の可能性にときめいていたぐらいだ。ブローカーが内密に話を持ち込んできた時のわたしときたら、柄にもなく小躍りした程だよ。長年の夢がかなったと信じてね。残念ながらブローカーの推測は間違いだったが、今のわたしは別の満足を得たいと思っている」

「じゃあ、掘り出したのはそのブローカー?」

「さあ。あるいは、〃棺〃自体が調査隊を招いたのかも知れない。積年の風化で結界の封印が解けたとしたらどうだ。簡単な餌で人間は食いついてくる」

 苦い表情を作ったミラーを見て、石郷が嘲るように笑った。

「耐用年数が切れたって訳ね。冷蔵庫や洗濯機みたいに」

「そう。それに、廃棄物とはよく言ってくれた。確かにあれは〃核〃兵器かも知れないのだよ」

 不思議そうに振り向いた石郷に微笑み返してミラーが続けた。

「核分裂の代わりに、憎悪の連鎖反応で周囲の精神を汚染する。見た目よりも遥かに強力な呪場兵器だ。仮称だが、わたしは『グノーシス』と呼んでいる」

「…悪趣味なネーミング。たしか、キリスト教の異端思想のことね。霊的な神話を伴うグノーシス主義のことでしょう」

「そう。正確には、異教の影響を受けた一派だよ。錬金術の源には三世紀頃のグノーシス思想がある。厳密に言えば古代エジプトや中華思想にも関連してくるが、この際それは置いておこう。グノーシス思想にはギリシャ語が中心だった東方教会派の影響が強い。ラテン語の西方教会派が実権を握るようになるのはその後だ。ニケイア公会議によってキリスト教は一応の統一を獲得したが、権力と一体になるのはローマ帝国の国教に位置づけられてからだ。そしてその侵略的権力下でグノーシスの呪法は受け継がれた。ラテン語に翻訳されてね」

「それを応用して作られたものが、これだと?」

「調査隊の九人は黄熱病のような症状の後に全員植物状態になってしまった。〃棺〃は彼等の精神から起動素子を吸収したらしい。私はこれを簡易結界でくるんでここに運ばせたが、結果の悲劇は君も知っている通りさ。あれが〃棺〃の力だ。受領に向かった『スネイク』さえ、短時間だったにもかかわらずある程度の後遺症が今でも認められる。複数の者が作戦中に亡霊を見たそうだ。勿論それぞれがそれぞれ自身の因縁にまつわる別々のものを。おっと、このあたりはわたしよりミス・リョウコの方が実感できると思うが。〃棺〃の中で会った亡霊たちとはパーティを楽しめたろう」

 石郷は擬想の部屋で会見した矢沢の顔を再び思い出した。河瀬の怨霊に喰われながらも、溶けてゆく己の両手を美味そうに嘗めていた恍惚の表情を。

「船長の精神は〃棺〃に喰い荒らされてとっくに崩壊していた」

「そうだろうね。身柄を拘束したところで、どうせ半日以内に死んだろう。射殺した吉岡の判断は正しい」

「ボディーガードにでも雇ったらどう。何もかも打ち明けて」

「考えてもいいね。そうすれば、万一の場合でも彼を始末しないで済む」

 〃棺〃を見ながら石郷は微笑んだ。

「優しい教主ミラー・クリス。その話を聞かせてやれば、人殺しの戦闘員だってきっと涙を流して入信するわ。あなたの足の裏だって喜んで嘗めてくれる」

 薄笑いを浮かべる石郷を見ぬまま、ミラーの顔が不快そうに歪む。その青い瞳が暗い紫に変色してゆく様を石郷は楽しんだ。その間もミラーの険しい視線はモニターの〃石棺〃の上に注がれている。

「これを放置しておけば、社会にとって重大な脅威になりかねない」

「ペルシャ湾が壊滅するとでも言いたい?」

「そこまで言うつもりはない。しかし、用い方によっては数百人単位で互いに殺し合わせる事も出来ただろう。集団自殺と間違えられるような形で」

「あなたは、こいつの目的が異教徒の集団発狂だったと考えてるんでしょ」

「まさに。使用後に廃棄処分されたと考えているんだよ。これを作り出した技術があればこそ八百年にもわたって封印が可能だった、とね。しかも、他にも同じものがあるのかも知れない。同様に、耐用年数が切れかけて」

「なんで、壊さずに封印する必要があったのか…」

「さあ。それを調べたくて精神感応能力に優れた君に依頼した。本質的な疑問はただひとつ。この中身が何であるかということさ」

「残酷な中世の殺戮技術が欲しい訳じゃないんでしょうね」

「わたしの勉強会が、世界征服を望む悪の組織とでも思うのかね。好奇心さ。今では失われてしまった古き技術への。わたしの情熱の源だよ」

「とても人間的な台詞。断っておくけどこれ、褒め言葉じゃないのよ」

「ミス・リョウコに褒めてほしいとは思わない。先程からビジネスだと言っているだろう。多額の支払いに対して正当な結果を求めているだけだ。石棺の中枢と予想される精神〃核〃の正体を探ってほしい事に変わりはない」

 石郷は視線をモニターからそらした。楽しげに目を細めつつ。

「こいつは、人間に共食いをさせるための道具じゃない。貨物船の四人の精神は、覚醒した〃核〃の飢えにたまたま汚染されてしまっただけね」

「そう。冬眠明けで腹ペコの熊に遭遇したみたいにだ。で、ミス・リョウコは熊の正体は何だと思う。ただの残留思念ではないんだろう」

「明らかに意志を持つ何かよ。古い意識の残り粕なんかじゃない。危険手当てに見合うような、何か。きっと無駄な支払いにはならないわ。四時間後に次の精神跳躍を始めるつもり。スタッフにはそう伝えといて」

 ミラーは手を叩いて喜んだ。瞳のブルーが戻ってくる。

「それは嬉しい。わたしは少しでも早くあれの正体を知りたいんだ」

 石郷は小さく頬を歪めて執務室を後にした。それが笑みではないとミラーが気づいた時には、扉はもう閉まっていた。



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