現実世界の冷たい空気に、セシリーこと"芹川 希"は、マフラーを口元まで持ち上げた。
目の前には鉄骨の柱が立っており、鉄製の階段が二階まで伸びている。
階段を登りきったところを左に折れ、向かって左手が道場。
右手が持ち主の自宅になっている。その扉を強く叩き、叫んだ。
「館長居る?道場の鍵開けて!」
持っていた防具袋を下に置き、竹刀袋を立て掛けた。
数年ぶりに引っ張り出してきたので、どちらも埃にまみれている。
「ジジイ!寝てんの!?道場の扉、蹴破るわよ!」
一度やられたことがあるのか、奥から慌てて走ってくる人影を、引き戸の磨りガラス越しに確認する。
ガラッと勢いよく引き戸が開き、バシーンと派手に鳴った。
通りがかりのおばさんが下で目を丸くし、その光景を恐る恐る見ている。
「うるせえな!何時だと思ってんだよ!そして近所迷惑だ!」
鞭で叩くような声と、ほとばしるツバが朝の光にキラキラと耀く。
「もう7時よ。小学生だって起きてるんじゃないの?だいたい館長、老人なんだから、朝は早く起きなさいよ。…って言うか、ツバ飛ばさないで。きたない」
玄関の鏡を見て、館長はペシリと顔を触る。
「老けたな。本当にジジイだよ。で、何のようだ?防具引っ張り出してきたってことは、またやる気になったってことか?それとも道場破られか?」
「破ってあげましょうか?」
館長は、ニヤリと口角を上げる。
「小娘、良い度胸だ。準備して待ってろ」
そう言って、道場の鍵を開けた。
まだストーブも入れてない。吐息は外と同じ様に白く、道場の床板は氷のように冷たい。靴下越しでも凍傷になるのではないかと感じた。
奥のシャワールームで稽古着に着替えて出てくると、館長の娘がストーブに火を入れていた。
一つ年上で、数少ない女性の中では唯一互角に稽古の相手をしてくれた人だ。
苦い思い出もある。それでも姉のように慕っていた。
「和枝さん、お久しぶり」
髪を後ろで縛りながら小走りに近寄って、足の裏を交互に暖めた。
「もう、来ないと思っていたのよ。急にどうしたの?」
喋り口調はゆっくりで、とても落ち着いている。
「・・・ん、ちょっとね」
「おじいちゃん亡くなって以来よね。また会えて良かったわ」
そう言うと、ストーブに手を向けて暖をとる。顔も向けようとしないが、歓迎してくれているようだ。寒い道場にしゃがんだまま、鼻歌を歌いだす。
昔売れた曲だったろうか。よくミシェルが歌っていた。
心がズキンと痛む。
「卓也君、元気?」
イザヴェルで聞くとイザヴェルでの顔を思い出すが、現実世界で聞くと現実世界の顔が思い出される。
「知らない。あんなやつ・・・」
目を閉じ、ケインとの戦いを思い返した。
竹刀でうまくやれるか分からない。だが、もう一度挑戦してみたい。
「そう言えば、先輩とはうまくいってます?」
顔を向けると、
「先月別れちゃった」
笑っていた。
「見付けたら殴っときます」
「相変わらずね。・・・良いのよ。長かったしね。あの人、最近はもう輝いてなかったし」
「道場、継ぐんだと思ってたのに」
「本当ね。父さんも、・・・直接は何も言わなかったけど、喜んでたんだけどね」
暫くの間待っていたが、館長は現れない。
竹刀を手に取り、素振りを始める。
左手に入る力は、切っ先をピタリと止めた。
風を切る音は、道場の端からでも聞こえるだろう。
素振りをしながら待っていると、来てから三十分くらいした辺りで、道場と自宅を結ぶ引き戸がガラリと開いた。
館長は既に汗だくで、防具も付けている。
面を抱えて、息も荒い。
身体を温めたのだろうが、その様相は既に闘い終えた後のようにも見える。
「小娘、準備はできてるか?」
「いつでも良いよ」
こちらも負けずに息が荒くなっている。
防具を付けて呼吸を調えた。
「私よりよっぽど娘らしいわね」
クスクス笑いながら、和枝が奥の部屋に入っていく。
残された二人は、頭に手拭いを巻いて面を取り付ける。
面紐を結び、パンと引っ張って縛ってキツく締めた。
懐かしい汗の乾いたニオイが、闘争心を激しく揺さぶる。
面金の向こうは戦場である。
トクトクと感じられる血流は、仮想世界では感じることがない。
和枝が赤と白の旗を持って出てきた。
「のぞみちゃん赤ね。父さん白。一本勝負?」
「良いわ」
二人は道場の中心に向かうと、提げ刀のまま向かい合って礼をし、帯刀して中心へ向かう。
蹲踞した。
「はじめっ!」
先程までの小声でのんびりとした口調とは違い、鋭くはっきりとした、まさに剣撃のような言葉で開始された。
スッと立ち上がり、希は中段に構える。最後に闘った時のような、挑戦的な上段の構えを取らなかったことに、館長の表情が真剣になる。
お互い動かずに、ピタリと止まったまま対峙し続けた。
希の剣は攻めの剣である。過去の、気性の荒い剣を見てきた館長からすると、さも不気味に感じられただろう。
自然体に近く、無駄な力が入っていない。
隙が感じられなかった。
いつまでも暖まらない道場の冷たい空気に、二人の吐息が濃く白く、どちらも落ち着いたまま一定の間隔で繰り返される。
沈黙しているにも関わらず、和枝には二人の闘気が伝わっていた。無言の気迫と、殺気に似たピリピリとした気配が道場内に満たされている。
道場前の道路を車が走る音が聞こえてきたが、和枝の耳にしか入らない。
時の流れすら分からないような、集中力の頂点に達していた。
時計の針を見るが、針は五分と進んでいない。だが、一時間も二時間もその場にいるようであった。
道場の戸を開く音がした。建物内の空気が揺れた。
そのタイミングで、希の呼吸が僅かに乱れる。
館長はその隙を逃さなかった。
雷でも落ちたような掛け声だった。
希の持つ竹刀の切っ先が浮き、それに同調するように館長の竹刀が振り上げられようとする。
そこに希の竹刀が巻き付いた。
根元を上に向けて弾く。館長の右手から竹刀が離れるが、左手はしっかりと握られたままだ。
館長の竹刀は片手のまま振り上げられ、左手一本のまま振り下ろされる。
パーンと心地よく破裂するような音が響き、白の旗が持ち上げられた。
「一本!勝負あり!!」
真剣であれば、希は真っ二つになっていただろう。
自分の弱さ。それを改めて感じた一撃だった。
「次っ!」
道場に響いた声は、まだ強く、立ち向かう力に溢れていた。
シャワーを浴びながら、希はあちこちの痛みを堪能した。
イザヴェルでは決して味わえない本物の痛みだ。
どんなにリアリティがあっても、制限のある世界では感じることができない。
お湯を熱くする。
むしゃくしゃしてここに来たことは、自分自身分かっていた。
ただ、誰かを引っ叩きたかった。それだけだった。
その自分の気持ちが、脳天の痛みで恥ずかしいと気が付くと、たまらなく悔しく感じた。
少し涙を流していると、後ろから声が聞こえてくる。
「相変わらず良い尻してるな。うわ、腰細っそ。早くしろよ、待ってんだから」
図太いの声に、ハッとして振り向く。シャワールームの扉の隙間から、館長が覗いていた。
うっかり鍵を閉めるのを忘れていたことに気付いて、悲鳴を上げそうになる。が、
「父さん、何してるの?」
和枝の声がして、館長がどこかに引っ張っていかれた。ややあってから、思いっきり叩く音がして叫び声が聞こえる。
「浴びるなら家の方で浴びなさい!」
続いて二度三度ピシャリと音がし、バタバタと足音がした後、沈黙した。
二分ほど固まってると、扉がカチャリと開いて和枝が顔を覗かせる。
「タオル置いておくね。道場の方は鍵かけちゃったから、出る時は家の方に来てくれる?後、さっきはごめんなさいね。おばあちゃんが道場の方来たから、集中力乱しちゃったよね。灯りが見えたから覗いたんだって」
「ありがとう。着替えたら行くね」
その後、体を拭いて下着を身に着けると、鏡に向かってみた。
少し鼻が赤い。
落ち着いた後、着替えて荷物を纏めると、奥の扉から家の方に入っていった。
「のぞみちゃん、ご飯食べた?良かったら食べて行って」
キッチンから顔を覗かせる和枝に、
「ありがとう。いただいてくね」
昨日の昼から何も食べていなかったことを思い出し、嬉しそうな顔を返す。
ぐぅーとお腹が鳴った。思ったよりも派手に鳴ったので、つい周囲を見回してしまう。
写真が飾ってあることに気が付いた。
当時はもう隠居してた先代の館長。今の館長。希と和枝。それと、先輩の姿が映っている。その先輩が持っている優勝カップは、この道場最後のカップになった。
たくさんの、山ほどあるカップの中で一番大きく、一番目立つ道場の玄関先に飾ってあった。以前までは・・・
今朝入った時にはなく、和枝が片付けたのだろうと思った。
ダイニングに入ると、館長が顔面を腫らせて座っていた。
「父さん、謝りなさい」
「申し訳ありませんでした」
食卓に両手を置き、額を付けるように頭を下げて詫びを入れた。
「はい。食べて良いですよ」
どんぶりのような茶碗に米を乱暴によそって、テーブルにドンと置く。
後姿とは言え、全裸を見られた手前座りづらかった。
暫く無言で箸を動かしていると、館長の口から叱るような口調で"巻き上げ"に対して言葉がでてきた。
「おい、あれは正輝の真似か?」
口の中に物が詰まっていて、モゴモゴとしてるような声だ。
館長の方を見ると、かなり不機嫌そうだった。
「・・・そうよ。先輩の真似」
「出来もしねぇ小手先の技に頼ってんじゃねぇ、小娘」
「顔腫らして説教してんじゃないわよ、スケベジジイ。食べてるの飲み込んでから話しなさいよ」
と言う希も、口に色々と詰まっている。
「貧乳が偉そうにすんな。普通、あそこまで振り向いたらもっとこう・・・」
胸の辺りに手を持っていく。
和枝の持つ木製のお盆が、館長の頭に縦に命中した。
「ごめんなさいね。父さんあんなで。嬉しかったんだと思うんだ」
「ううん、覗かれたのはともかく、昔みたいで楽しかったよ。また来るね」
「今、若い子の先生してくれる人が居ないの。良かったら稽古の時も来てね」
「考えとく」
希は、道場を後にした。
防具が肩に重い。
少し歩いて振り向くと、和枝はまだ立っていた。小さく手を振って、目を細めてる。
寒風吹き荒ぶ道端で立たせるのも良くないと思い、手を振り返して、次の曲がり角で曲がることにした。
このまま行くと例の先輩、"藤堂 正輝"が住んでるアパートがある。
少し悩んだ。
イザヴェルに行く少し前に大失恋をした相手だ。
癒された心の傷を疼かせるようである。
気持ちを告げた時は、もう和枝と付き合っていた。知らないのは希だけだったのが、自分だけがはしゃいでいたのが、恥ずかしく情けなかった。
近くに来たついでに殴ってやろうと思っていたが、歩みを続けるうちに深く悩み始めた。
タクヤとミシェルの姿が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
起きていながらにして、まるで悪夢だ。
和枝と別れたのだ。
今はもう落ち着いている自信があるものの、顔を見て感情が爆発するかもしれない。
あまり宜しくない方に向けて。
十五分程歩くと、見るからに家賃の安いボロアパートの前に着いた。
壁面にヒビが入っており、枯れた蔦が疎らに張り付いている。
数台の単車が並んでいて、その中に懐かしい車体を見付けた。よく後ろに乗せてもらったものだ。今でも乗っているのか、ピカピカに磨かれている。
きっと居る。そう思って高鳴る鼓動を感じた。
音を立てて階段を登り、奥から二番目の部屋に向かう。
部屋の正面は掃除がされておらず、枯葉や砂埃が散見される。ピザや水道工事のチラシが、郵便受けからはみ出ていた。窓の格子に大きな鈴がぶら下がっていて、そこから靴紐が垂れている。
チャイムを鳴らしたが反応がない。単車があったから、出掛けてないか、もしくは遠出はしていないだろう。
希は、窓の格子にぶら下がった鈴を手に取り、鳴らした。
普段はチャイムを鳴らせば出てくるが、画面にかじりついている時は、これを鳴らさないと出てこないことが多かった。
少し待ったが、物音が聞こえない。
帰ろうと防具袋を担いだ時だった。唐突に扉が開いた。
驚いても一瞬目が白黒する。そこに、短髪の眼の鋭い男が欠伸をしながら立っていた。
眼をこすりならが、うすらぼんやりと希の方を眺めると、血の気の引いたような白い顔へと変化していく。
部屋の中が見えた。
裸の女が同じように眼をこすって体を起こし、こちらを見る。ハッと気付くと、布団をたぐり寄せた。
「まさき、何その女!?」
「さぁ、知らね・・・」
正輝の顔が少し引きつっている。
希の表情は絶望していた。
イメージ崩れるのは予想していたが、さすがにこんな光景だとは思わなかった。これは見たくなかった。
昔から女にはモテる方だった。それは分かっていた。だが、和江を捨ててこんなことをしているなんて、さすがに考えてもいなかった。
正輝は、何もなかったように扉を閉めようとする。
「先輩、待って!」
希は足を突っ込んで、力付くで扉を掴んだ。
「なんだよ。カズのことか?それならお前は関係ねーだろ。何しにきたんだ?」
(関係ないわけないじゃん。私の気持ち知ってたクセに・・・)
どう言葉を繋げるか悩んだ後、少し沈黙し、
「一ヶ月後。来月の第二日曜日。私と勝負してくれる?それを言いにきた」
一度防具袋を見た正輝は、希の顔の方に視線を移す。唇を噛み、眉はつり上がっていた。だが確実に、正輝へ気を使っている。もしくは、奥に居た女性に気を使っているのかもしれない。
「俺はもう、剣道はやめたんだよ・・・」
「道場で待ってるから」
扉から手を離し、一歩下がった。
ゆっくりと扉が閉まり、中から正輝の声がする。
「剣道やってたときの後輩だった。稽古つけろって」
「そう。また修羅場かと思った。まさき、女作りすぎだから。・・・稽古つけてあげたら?」
「剣道はもう、やめたんだよ」
希は悔しくなっていた。
ぶつけどころがなく、黙って立っていると、中から女性の甘い声が聞こえてくる。
経緯はともかく、和枝が別れた理由が想像ついた。
「まさき、まだそこに居るかもー」
甘い声が少しずつ荒れてきた。
扉のこちら側にまだ居るのが分かってやっているのだろうか。
希は、その場を逃げるようにして離れ、元来た道を引き返した。
視界がぼやけている。
道場の前につくと、少し悩んでから階段を乱暴に登って、派手に扉を叩いた。
バタバタ走る音が聞こえ、バシーンと戸が開く。
希は目に涙を溜めていたが、朝一で来たときとは違って澄んでいるように見える。
それを見て、館長はホゥと息をもらした。
「戻ってくんの、早かったな」
そして、腫れた顔を緩ませた。
まるで、父親が娘の帰りに喜んでいるようだった。
「館長!1ヶ月で私を全国クラスに鍛え上げて!!」
「何があったか知らねぇが・・・、和枝!道場開けろ!!お前も着替えて来い!!」