平行世界のOntologia

著 : 柊 純

act15:先輩


 現実世界の冷たい空気に、セシリーこと"芹川 希"は、マフラーを口元まで持ち上げた。

 目の前には鉄骨の柱が立っており、鉄製の階段が二階まで伸びている。

 階段を登りきったところを左に折れ、向かって左手が道場。

右手が持ち主の自宅になっている。その扉を強く叩き、叫んだ。

「館長居る?道場の鍵開けて!」

 持っていた防具袋を下に置き、竹刀袋を立て掛けた。

 数年ぶりに引っ張り出してきたので、どちらも埃にまみれている。

「ジジイ!寝てんの!?道場の扉、蹴破るわよ!」

 一度やられたことがあるのか、奥から慌てて走ってくる人影を、引き戸の磨りガラス越しに確認する。

 ガラッと勢いよく引き戸が開き、バシーンと派手に鳴った。

 通りがかりのおばさんが下で目を丸くし、その光景を恐る恐る見ている。

「うるせえな!何時だと思ってんだよ!そして近所迷惑だ!」

 鞭で叩くような声と、ほとばしるツバが朝の光にキラキラと耀く。

「もう7時よ。小学生だって起きてるんじゃないの?だいたい館長、老人なんだから、朝は早く起きなさいよ。…って言うか、ツバ飛ばさないで。きたない」

 玄関の鏡を見て、館長はペシリと顔を触る。

「老けたな。本当にジジイだよ。で、何のようだ?防具引っ張り出してきたってことは、またやる気になったってことか?それとも道場破られか?」

「破ってあげましょうか?」

 館長は、ニヤリと口角を上げる。

「小娘、良い度胸だ。準備して待ってろ」

 そう言って、道場の鍵を開けた。

 まだストーブも入れてない。吐息は外と同じ様に白く、道場の床板は氷のように冷たい。靴下越しでも凍傷になるのではないかと感じた。

 奥のシャワールームで稽古着に着替えて出てくると、館長の娘がストーブに火を入れていた。

 一つ年上で、数少ない女性の中では唯一互角に稽古の相手をしてくれた人だ。

 苦い思い出もある。それでも姉のように慕っていた。

「和枝さん、お久しぶり」

 髪を後ろで縛りながら小走りに近寄って、足の裏を交互に暖めた。

「もう、来ないと思っていたのよ。急にどうしたの?」

 喋り口調はゆっくりで、とても落ち着いている。

「・・・ん、ちょっとね」

「おじいちゃん亡くなって以来よね。また会えて良かったわ」

 そう言うと、ストーブに手を向けて暖をとる。顔も向けようとしないが、歓迎してくれているようだ。寒い道場にしゃがんだまま、鼻歌を歌いだす。

 昔売れた曲だったろうか。よくミシェルが歌っていた。

 心がズキンと痛む。

「卓也君、元気?」

 イザヴェルで聞くとイザヴェルでの顔を思い出すが、現実世界で聞くと現実世界の顔が思い出される。

「知らない。あんなやつ・・・」

 目を閉じ、ケインとの戦いを思い返した。

 竹刀でうまくやれるか分からない。だが、もう一度挑戦してみたい。

「そう言えば、先輩とはうまくいってます?」

 顔を向けると、

「先月別れちゃった」

 笑っていた。

「見付けたら殴っときます」

「相変わらずね。・・・良いのよ。長かったしね。あの人、最近はもう輝いてなかったし」

「道場、継ぐんだと思ってたのに」

「本当ね。父さんも、・・・直接は何も言わなかったけど、喜んでたんだけどね」

 暫くの間待っていたが、館長は現れない。

 竹刀を手に取り、素振りを始める。

 左手に入る力は、切っ先をピタリと止めた。

 風を切る音は、道場の端からでも聞こえるだろう。

 素振りをしながら待っていると、来てから三十分くらいした辺りで、道場と自宅を結ぶ引き戸がガラリと開いた。

 館長は既に汗だくで、防具も付けている。

 面を抱えて、息も荒い。

 身体を温めたのだろうが、その様相は既に闘い終えた後のようにも見える。

「小娘、準備はできてるか?」

「いつでも良いよ」

 こちらも負けずに息が荒くなっている。

 防具を付けて呼吸を調えた。

「私よりよっぽど娘らしいわね」

 クスクス笑いながら、和枝が奥の部屋に入っていく。

 残された二人は、頭に手拭いを巻いて面を取り付ける。

 面紐を結び、パンと引っ張って縛ってキツく締めた。

 懐かしい汗の乾いたニオイが、闘争心を激しく揺さぶる。

 面金の向こうは戦場である。

 トクトクと感じられる血流は、仮想世界では感じることがない。

 和枝が赤と白の旗を持って出てきた。

「のぞみちゃん赤ね。父さん白。一本勝負?」

「良いわ」

 二人は道場の中心に向かうと、提げ刀のまま向かい合って礼をし、帯刀して中心へ向かう。

 蹲踞した。

「はじめっ!」

 先程までの小声でのんびりとした口調とは違い、鋭くはっきりとした、まさに剣撃のような言葉で開始された。

 スッと立ち上がり、希は中段に構える。最後に闘った時のような、挑戦的な上段の構えを取らなかったことに、館長の表情が真剣になる。

 お互い動かずに、ピタリと止まったまま対峙し続けた。

 希の剣は攻めの剣である。過去の、気性の荒い剣を見てきた館長からすると、さも不気味に感じられただろう。

 自然体に近く、無駄な力が入っていない。

 隙が感じられなかった。

 いつまでも暖まらない道場の冷たい空気に、二人の吐息が濃く白く、どちらも落ち着いたまま一定の間隔で繰り返される。

 沈黙しているにも関わらず、和枝には二人の闘気が伝わっていた。無言の気迫と、殺気に似たピリピリとした気配が道場内に満たされている。

 道場前の道路を車が走る音が聞こえてきたが、和枝の耳にしか入らない。

 時の流れすら分からないような、集中力の頂点に達していた。

 時計の針を見るが、針は五分と進んでいない。だが、一時間も二時間もその場にいるようであった。

 道場の戸を開く音がした。建物内の空気が揺れた。

 そのタイミングで、希の呼吸が僅かに乱れる。

 館長はその隙を逃さなかった。

 雷でも落ちたような掛け声だった。

 希の持つ竹刀の切っ先が浮き、それに同調するように館長の竹刀が振り上げられようとする。

 そこに希の竹刀が巻き付いた。

 根元を上に向けて弾く。館長の右手から竹刀が離れるが、左手はしっかりと握られたままだ。

 館長の竹刀は片手のまま振り上げられ、左手一本のまま振り下ろされる。

 パーンと心地よく破裂するような音が響き、白の旗が持ち上げられた。

「一本!勝負あり!!」

 真剣であれば、希は真っ二つになっていただろう。

 自分の弱さ。それを改めて感じた一撃だった。

「次っ!」

 道場に響いた声は、まだ強く、立ち向かう力に溢れていた。


 シャワーを浴びながら、希はあちこちの痛みを堪能した。

 イザヴェルでは決して味わえない本物の痛みだ。

 どんなにリアリティがあっても、制限のある世界では感じることができない。

 お湯を熱くする。

 むしゃくしゃしてここに来たことは、自分自身分かっていた。

 ただ、誰かを引っ叩きたかった。それだけだった。

 その自分の気持ちが、脳天の痛みで恥ずかしいと気が付くと、たまらなく悔しく感じた。

 少し涙を流していると、後ろから声が聞こえてくる。

「相変わらず良い尻してるな。うわ、腰細っそ。早くしろよ、待ってんだから」

 図太いの声に、ハッとして振り向く。シャワールームの扉の隙間から、館長が覗いていた。

 うっかり鍵を閉めるのを忘れていたことに気付いて、悲鳴を上げそうになる。が、

「父さん、何してるの?」

 和枝の声がして、館長がどこかに引っ張っていかれた。ややあってから、思いっきり叩く音がして叫び声が聞こえる。

「浴びるなら家の方で浴びなさい!」

 続いて二度三度ピシャリと音がし、バタバタと足音がした後、沈黙した。

 二分ほど固まってると、扉がカチャリと開いて和枝が顔を覗かせる。

「タオル置いておくね。道場の方は鍵かけちゃったから、出る時は家の方に来てくれる?後、さっきはごめんなさいね。おばあちゃんが道場の方来たから、集中力乱しちゃったよね。灯りが見えたから覗いたんだって」

「ありがとう。着替えたら行くね」

 その後、体を拭いて下着を身に着けると、鏡に向かってみた。

 少し鼻が赤い。

 落ち着いた後、着替えて荷物を纏めると、奥の扉から家の方に入っていった。

「のぞみちゃん、ご飯食べた?良かったら食べて行って」

 キッチンから顔を覗かせる和枝に、

「ありがとう。いただいてくね」

 昨日の昼から何も食べていなかったことを思い出し、嬉しそうな顔を返す。

 ぐぅーとお腹が鳴った。思ったよりも派手に鳴ったので、つい周囲を見回してしまう。

 写真が飾ってあることに気が付いた。

 当時はもう隠居してた先代の館長。今の館長。希と和枝。それと、先輩の姿が映っている。その先輩が持っている優勝カップは、この道場最後のカップになった。

 たくさんの、山ほどあるカップの中で一番大きく、一番目立つ道場の玄関先に飾ってあった。以前までは・・・

 今朝入った時にはなく、和枝が片付けたのだろうと思った。

 ダイニングに入ると、館長が顔面を腫らせて座っていた。

「父さん、謝りなさい」

「申し訳ありませんでした」

 食卓に両手を置き、額を付けるように頭を下げて詫びを入れた。

「はい。食べて良いですよ」

 どんぶりのような茶碗に米を乱暴によそって、テーブルにドンと置く。

 後姿とは言え、全裸を見られた手前座りづらかった。

 暫く無言で箸を動かしていると、館長の口から叱るような口調で"巻き上げ"に対して言葉がでてきた。

「おい、あれは正輝の真似か?」

 口の中に物が詰まっていて、モゴモゴとしてるような声だ。

 館長の方を見ると、かなり不機嫌そうだった。

「・・・そうよ。先輩の真似」

「出来もしねぇ小手先の技に頼ってんじゃねぇ、小娘」

「顔腫らして説教してんじゃないわよ、スケベジジイ。食べてるの飲み込んでから話しなさいよ」

 と言う希も、口に色々と詰まっている。

「貧乳が偉そうにすんな。普通、あそこまで振り向いたらもっとこう・・・」

 胸の辺りに手を持っていく。

 和枝の持つ木製のお盆が、館長の頭に縦に命中した。


「ごめんなさいね。父さんあんなで。嬉しかったんだと思うんだ」

「ううん、覗かれたのはともかく、昔みたいで楽しかったよ。また来るね」

「今、若い子の先生してくれる人が居ないの。良かったら稽古の時も来てね」

「考えとく」

 希は、道場を後にした。

 防具が肩に重い。

 少し歩いて振り向くと、和枝はまだ立っていた。小さく手を振って、目を細めてる。

 寒風吹き荒ぶ道端で立たせるのも良くないと思い、手を振り返して、次の曲がり角で曲がることにした。

 このまま行くと例の先輩、"藤堂 正輝"が住んでるアパートがある。

 少し悩んだ。

 イザヴェルに行く少し前に大失恋をした相手だ。

 癒された心の傷を疼かせるようである。

 気持ちを告げた時は、もう和枝と付き合っていた。知らないのは希だけだったのが、自分だけがはしゃいでいたのが、恥ずかしく情けなかった。

 近くに来たついでに殴ってやろうと思っていたが、歩みを続けるうちに深く悩み始めた。

 タクヤとミシェルの姿が、鮮明に脳裏に浮かぶ。

 起きていながらにして、まるで悪夢だ。

 和枝と別れたのだ。

 今はもう落ち着いている自信があるものの、顔を見て感情が爆発するかもしれない。

 あまり宜しくない方に向けて。

 十五分程歩くと、見るからに家賃の安いボロアパートの前に着いた。

 壁面にヒビが入っており、枯れた蔦が疎らに張り付いている。

 数台の単車が並んでいて、その中に懐かしい車体を見付けた。よく後ろに乗せてもらったものだ。今でも乗っているのか、ピカピカに磨かれている。

 きっと居る。そう思って高鳴る鼓動を感じた。

 音を立てて階段を登り、奥から二番目の部屋に向かう。

 部屋の正面は掃除がされておらず、枯葉や砂埃が散見される。ピザや水道工事のチラシが、郵便受けからはみ出ていた。窓の格子に大きな鈴がぶら下がっていて、そこから靴紐が垂れている。

 チャイムを鳴らしたが反応がない。単車があったから、出掛けてないか、もしくは遠出はしていないだろう。

 希は、窓の格子にぶら下がった鈴を手に取り、鳴らした。

 普段はチャイムを鳴らせば出てくるが、画面にかじりついている時は、これを鳴らさないと出てこないことが多かった。

 少し待ったが、物音が聞こえない。

 帰ろうと防具袋を担いだ時だった。唐突に扉が開いた。

 驚いても一瞬目が白黒する。そこに、短髪の眼の鋭い男が欠伸をしながら立っていた。

 眼をこすりならが、うすらぼんやりと希の方を眺めると、血の気の引いたような白い顔へと変化していく。

 部屋の中が見えた。

 裸の女が同じように眼をこすって体を起こし、こちらを見る。ハッと気付くと、布団をたぐり寄せた。

「まさき、何その女!?」

「さぁ、知らね・・・」

 正輝の顔が少し引きつっている。

 希の表情は絶望していた。

 イメージ崩れるのは予想していたが、さすがにこんな光景だとは思わなかった。これは見たくなかった。

 昔から女にはモテる方だった。それは分かっていた。だが、和江を捨ててこんなことをしているなんて、さすがに考えてもいなかった。

 正輝は、何もなかったように扉を閉めようとする。

「先輩、待って!」

 希は足を突っ込んで、力付くで扉を掴んだ。

「なんだよ。カズのことか?それならお前は関係ねーだろ。何しにきたんだ?」

(関係ないわけないじゃん。私の気持ち知ってたクセに・・・)

 どう言葉を繋げるか悩んだ後、少し沈黙し、

「一ヶ月後。来月の第二日曜日。私と勝負してくれる?それを言いにきた」

 一度防具袋を見た正輝は、希の顔の方に視線を移す。唇を噛み、眉はつり上がっていた。だが確実に、正輝へ気を使っている。もしくは、奥に居た女性に気を使っているのかもしれない。

「俺はもう、剣道はやめたんだよ・・・」

「道場で待ってるから」

 扉から手を離し、一歩下がった。

 ゆっくりと扉が閉まり、中から正輝の声がする。

「剣道やってたときの後輩だった。稽古つけろって」

「そう。また修羅場かと思った。まさき、女作りすぎだから。・・・稽古つけてあげたら?」

「剣道はもう、やめたんだよ」

 希は悔しくなっていた。

 ぶつけどころがなく、黙って立っていると、中から女性の甘い声が聞こえてくる。

 経緯はともかく、和枝が別れた理由が想像ついた。

「まさき、まだそこに居るかもー」

 甘い声が少しずつ荒れてきた。

 扉のこちら側にまだ居るのが分かってやっているのだろうか。

 希は、その場を逃げるようにして離れ、元来た道を引き返した。

 視界がぼやけている。

 道場の前につくと、少し悩んでから階段を乱暴に登って、派手に扉を叩いた。

 バタバタ走る音が聞こえ、バシーンと戸が開く。

 希は目に涙を溜めていたが、朝一で来たときとは違って澄んでいるように見える。

 それを見て、館長はホゥと息をもらした。

「戻ってくんの、早かったな」

 そして、腫れた顔を緩ませた。

 まるで、父親が娘の帰りに喜んでいるようだった。

「館長!1ヶ月で私を全国クラスに鍛え上げて!!」

「何があったか知らねぇが・・・、和枝!道場開けろ!!お前も着替えて来い!!」



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