吸血鬼

著 : 秋山 恵

帰還



 沙季が帰宅して一番初めに見たものは、ソファにもたれて上を向いている壮介の姿だった。

 部屋の中は汗と泥の臭いが充満している。

 玄関先に脱ぎ捨てられた靴には泥がこびりついており、その玄関先から奥に見えるソファまで、泥の足跡が続いている。途中投げ出された荷物が壁にもたれ掛かるようにしていた。

 靴に湿り気があるので、まだ帰ったばかりなのだろう。

 沙季はキッチンへ行って無言で水を汲み、氷をいくつか入れてマドラーでかき混ぜながら壮介の元へ持って行き、そっと隣に座った。

「大丈夫?」

 寝ているわけではなかったが、反応が無かった。壮介の目は開いている。

 肉体は疲弊しているようでも、生命力には満ちている。呼吸は落ち着いているが、心拍は落ち着きが無いようだ。

 既に明るくなっていた外の光が、締め切っていないカーテンの隙間から差し込んでいる。ソファの足元を照らしていた。沙季はソファの前にあるガラステーブルへコップを置き、自然な動作でカーテンを閉めに立った。

 壮介は聞こえるか聞こえないか分からないような小さな声で話し始める。

「仲間はみんな死んだ・・・」

 壮介の落ち込んだような声に、作戦の失敗に対する落胆よりも仲間の死に対する負の感情が感じられた。

 ムクリと体を起こし、壮介は血走った目でコップの水を凝視する。

 表情から感じ取られるのは殺気に似た鋭い気配や、屈辱に歪んだ復讐心である。眉間に入る縦皺とその深さが、部屋の空気すら重くするようだ。

 コップの水を一気に飲み干し、氷を噛み砕いた。

 何かに当たりたい気持ちを抑えているのだろうか、それとも鉄分不足の異色症だろうか、沙季はそんな風に冷静に見ていた。

「現れたのは既に手負いだったよ。俺達とは別の連中が罠でも仕掛けてたのかと思った。教会の連中は今回の件には関わらないと声明を出しているから、他に居るはずもないはずなんだが」

 口調からは、やはり気力があるようだった。

 沙季は黙って話を聞くことにした。何も問いかけず、頷くだけに徹し、最後まで聞いてあげるべきだと考えた。

「相手はやはり人狼だったと思う。人狼は変身する者とそうでない者が居るんだが、感染の過程で、人の意思を保つ者とそうでない者に分かれていて、今回遭遇したのは前者だと思う。日本人ではなかったな」

 沙季の頭の中には、なぜかその知識に近いものがあった。

 人狼は壮介の言うとおり変身型と無変身型が居る。

 無変身型は、全く変身をしないのではない。意思によってそれを抑え込んでいるいるだけだ。そして、そういった連中の殆どが飼い慣らされた者で、更にその大半が教会の関連する組織に非公開に属している犬共である。

 エレナの記憶だ。

 が、エレナ自身が出会ったという記憶は無いように思われる。単純な机上の知識レベルであった。存在は不確かで、御伽話のような感覚しか持てない。

 もし知識通りの相手であれば、教会にある程度以上繋がりがあるだろう。不確かながらも、沙季はエレナの生存を直感した。

 教会の精鋭を返り討ちにし、その後も姿を消さなくてはならなかった理由が、もしかすると人狼に直結するのではないだろうかと考えた。

 壮介の存在を感じ取れない程離れたところにいたとしても、つい最近まで山梨のどこかに潜伏していたのだろう。

 つまり、人狼を殺し、安全を確保した後には必ず帰ってくる。

 出来る手段を使って調べてみるのも良いかもしれない、沙季はそう思った。

 壮介の話はまだ続いていた。

「・・・俺達が敵と判断すると、アイツはすぐに攻撃に移った。武器も何も無く、素手だ。ハンマーで殴るような打撃、凄まじい握力による握り潰し、引き裂き、4人居たメンバーは数分もしない内に地面に転がされていたよ。生臭い臭いで満たされた森の中にバラされた仲間が倒れる。その光景があっという間に。みんなまだ若かったのに・・・」

 大きく息を吸い込み、吐き出すように続けた。

「あれで手負いだったんだよ」

 と言い、ソファの背もたれに拳を叩き付ける。ボスンと音が鳴り、まだ閉められていないカーテンの隙間から入り込む光に、舞い上がるホコリが映る。沙季はカーテンを閉めた。

 壮介の怒りの中には少し恐怖も混ざっている。眼の光にそれを感じられた。

 敗走したチームは暫く役に付けない。そんなルールに縛られているらしく、この後壮介が彼の仲間の為に行動を起こす事は禁じられている。

 無論、仕事とは別の理由で、秘密裏に個人で独自行動を起こす事は可能である。だが、クソ真面目なこの男の頭にはそんな発想は浮かばない。

 いつまでも、最後に通達された退却命令だけが脳内で繰り返されている。

 壮介はまだ戦えることを幾度も伝え、任務の遂行と成功を約束したが、上の判断は一筋の迷いも無く退却だった。

「この怒り、どこに向けろってんだ・・・」

 別の連中がアサインされるとし、件の人狼を退治出来ればまだ良い、だが今のやり方ではもう一度犠牲者が出るだろう。

 沙季は冷静な男の珍しい怒りを、ただただ眺めた。心の中にこのような強い感情はなくなっているから、変わったものを見るように。

 沙季は無理に笑顔を作り、心にもないことを口から発した。

「こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、あなたが帰ってきただけでも良かったと思う。そんな危ない橋を渡ったのに、生きてたんだもの」

 笑顔の作り方は覚えていた。

 壮介の表情が怒りから無表情に変わったのを見てから、沙季は自分の部屋に入っていった。着ている物を脱ぎ捨ててベッドに入り込んで天井を見ていると、暫くしてからシャワーの音が聞こえ、それを聞きながらまどろみ始める。

(作った笑顔でも、何らかの効果はあったのかな・・・?)

 などと考えながら。



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