短編集

著 : 秋山 恵

雪女



 4月だと言うのに、雪が降っていた。

 その時、年は17歳。弟との年の差は3つ。

 父と母はよく喧嘩をしていて、その日もそう、酷い喧嘩をしていた。喧嘩の理由は分からない。ただ、些細な事だったような気がする。

 弟と逃げるように雪の降る中、外へ出たのをよく覚えていた。どこに行こうと決めた訳でもなく、二人並んで歩いた事が、今思うと懐かしさで溢れているようでもあった。

 趣味の話等しながらだったから、害した気分もすぐに消し飛んだ。トレーディングカードか何かの話だったと思う。いつまででも話が出来た。

 桜並木が綺麗だった。

 桜の花びらが散っているのか、雪が降っているのか、不思議な光景だったのが記憶によく残っている。

 空に舞う桜の花びらと雪の結晶。一生に一度見れるかどうか分からないような光景だ。

 暫く歩くと近所の公園に着き、弟が、年甲斐も無くはしゃいで飛び込んで行くのを見詰めながら、公園の中央にある丘の上に登った。

 よくその丘で、正月の凧を飛ばして遊んだもんだ。

 そこで、彼女と出会った。

 彼女はワンピース姿で、どう考えてもその日の気候には合わない格好で、ポツンと立っていた。まるで忘れ去られた公園のど真ん中に作られた雪だるまのように。

 一体どうしたんだろうと不審に思いつつも、何だか放っておけない気持ちになっていたと思う。

 心臓が破裂しそうな気持ちになりながらも話しかける事にした。

「あの、寒く・・・、ないですか?」

 近くまで来ていた事に気がついていなかったらしく、話しかけられた事に驚いて顔を上げ、それから、彼女は首を横に振った。

 彼女は、泣いてた。

 なぜ泣いているのか、そこまでは聞く勇気がなく、困ったまま傍に立ち尽くして、かなり長い間沈黙が続いた。

 話しかけた事を、とても後悔した。

 どれくらいの時が流れたのかすら分からない。

 ただ覚えているのは、とても長く感じられた事だけ。弟が沈黙を破ってくれなければ、永遠にその場に居たんじゃないかと思うくらい。

「兄さん、友達?」

 いつの間にか弟が傍に立っていた。14歳には見えない程にマセた顔をした弟の目が、いつも以上に笑っているのが感じられる。

「あ、いや・・・」

 言葉に詰まって返事が出来ない事に弟は失笑した。

「なんだ、ナンパかぁ・・・」

 弟の言葉にバツが悪くなってしまった。沈黙を破ってくれた感謝はすぐに苛立ちに変わってしまいそうだったが、彼女の言葉で気持ちが反れた。

「慰めてもらっていたんですよ」

 彼女は涙を拭き、少し照れたような顔をした。

 そんなに話もしてなかったが、逆に気を使われてしまい、嬉しいような失敗したような、少し複雑な気持ちになっていた。

 彼女は、よく見ると美人だった。

 整えている様子はなかったが眉毛の形は非常に綺麗だったし、髪は黒く長いストレートだった。

 首が少し長めで、どちらかと言うと細めだったが、とてもバランスが取れた身体つきをしていた。

 スッと反った背中から腰へのラインが芸術品のようだった。

 白くきめ細かやな肌が、まるで彫像のようにも見えた。

 鼻が少しツンと上向きで、高くも低くも無く上品だった。

 唇は少しぽっちゃりとしているかもしれないが、それがまた色気を発しているようだった。

 人それぞれ好みはあるだろうが、きっと誰もが美しいと感じるはずだ。そう感じた。

 彼女の涙を拭く仕草に、心が揺れた。

「何か悪い事でもあったの?」

 弟は父に似てノリが軽い。

 弟の気安い話しかけ方に心を許したのか、

「ちょっと・・・」とだけ小さく呟くように答えた。

 とても

「ちょっと」ではないように見える。

 弱冠空気が重たいのを感じ取った弟は、おもむろに周囲の雪を集め始めた。それを尻目に、彼女の方を見つめてしまっている自分。深く落ち込んでいる彼女。

 時はそのまま暫くの間流れていった。

 静かだった。だが、それはそれで、落ち着いていて悪くは無かった。

 気が付くと、弟が小さな、不細工な雪像を完成させていた。不器用だから、それが何だかが分からない。分からないが、何かのキャラクターの形なんだろうと予想はついた。

 彼女はそれを見て少し和んだようだった。その、不細工な雪像は、仲良くなるきっかけにはなってくれたようだ。

 それから、少しずつ話をするようになっていった。

 どこに住んでいるのかとか、年齢とかは聞けなかった。しかし、色々と話をした。

 何を話したかまでは覚えてないが、とにかく話をした。夜が更けて、弟が空腹を訴えるまで話し続けた。

 また話がしたい、そう思って尋ねると、彼女は快諾してくれた。

 彼女とは、度々公園で会った。

 色々と話をしている内に次第に仲良くなり、会う頻度も増えていった。


 彼女とは、公園以外のところでは会わなかった。服装を気にしているんだろう、そう思ったが、真相は分からなかった。

 公園以外では会わない、不思議と、疑問は感じなかった。

 いや、夢中になっていたんだろうと思う。だから気にしなかったのだろう。

 高校3年で、そろそろ受験なんかも気にしないといけない時期だった。しかし、考えることは毎日彼女の事ばかりで、学校帰りには必ずその公園に寄った。

 女はいつも同じベンチに座って待っていてくれた。笑顔で手を振ってくれた。

 彼女とは完全に打ち解けていた。たまに弟が顔を出してからかって行くがそれ以外は幸せな時間だった。

 桜の枝が全て葉に入れ替わった頃、ふと思い出した。初めて会った時、なぜ彼女は泣いていたのだろう。

 ある日、思い切って聞いてみた。

 聞いてはいけない。その時はそんな事までは思い付かなかった。

「私のせいで、人が死んでしまったの」

 聞いた後、とても後悔した。

 彼女は、とても悲しそうな顔をした。

 それはどうして?とは聞き辛く、何とか話を逸らせないか。そう考えたが、うまく思い付かなかった。

 彼女は続けた。

「一族の掟だったの。私が何もしなくても、そうなってしまっていたと思う」

 ・死んでしまった。

 ・一族の掟。

 ・私が何もしなくても。

 ああ、そうなんだ。とだけ思った。

 彼女が何をしたかは、聞かなくても分かったような気がする。

 だが、やはり、疑問には感じなかった。

 彼女に対するおかしな事、全てに対して疑問を持たなかった。なんらかの魔法にでもかかってしまっているように。

 催眠術でもかけられてしまっているかのように。

「死んでしまった人は、凄く大切な人だったの。凄く凄く大切な人だったの」

 彼女は遠くを見るようにして、話した。見えない程遠いところに居る、大切な人でも見ているのだろうと思った。

 色々と話を聞き、最後には申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。自然と口から出てきた言葉は・・・

「辛かったんだね・・・」

 その一言だけだった。

 それから、彼女を優しく抱きしめたのは、今でも鮮明に記憶が残っている。

 もう春も終わりを告げようとしている頃だったのに、彼女の身体はとても冷たかった。


 暫く同じような日々が続いて、季節が次第に夏へと移り変わろうとしていた。

 その日も彼女はいつもの所で待っていた。

「かなり暖かくなってきたね」

 彼女は頷いた。

 いつも通り笑顔のはずなのに、悲しそうな顔をしているように見えた。

 嫌な予感で頭の中が埋め尽くされていく。

 そうではないと思いたかったけど、いつも嫌な予感だけは当たった。

「何か、あったの?」

 彼女の顔をまじまじと見つめながら、うっかり聞いた。聞かなければ、もしかしたらいつまでも関係は続いたのかもしれないとも思っていたはずだったのに。

 その問いに、返事はすぐ返ってきた。

「そろそろ私、行かないといけないんだ」

「どういう事?」

「夏がきてしまうから」

 暑いところが苦手なのだろうか。だが、行くとはどういう事だろうか。海外にでも行くというのだろうか。

 今日はもう帰る・・・、という意味には、何をどうしても聞こえない。

 行くの意味が分からなかった。

「だから、そろそろ“さようなら”なの・・・」

 嫌な予感が、彼女の口から言葉として発せられる。

 言葉が出てこなかった。

 ただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 彼女以外の景色はもう映っていなかった。

 目の前がブラックアウトしていくような気がした。

 彼女は続けた。

「最後にこれだけ。私のような変な女の話、面白がって人にしないで欲しい」

 彼女は優しく笑っていた。そこには悲しさを見せまいとする健気さがたくさん含まれている。

 変だなんて思ってない。けど、出てきたのは、伝えるべき言葉では無く・・・

「さ、最後って、また・・・」

 苦笑いで誤魔化そうとする、心の弱い自分だった。

 あの時、彼女の腕をしっかりと掴んでおくべきだった。そうすれば、もっとちゃんと話をする事が出来たかもしれない。

 彼女が消えたのは突然だった。

 本当に一瞬だったと思う。

「あ、あれ、何かしら?」

 彼女は後ろの建物の方を指差した。

 それに釣られて、簡単に後ろを振り向いてしまっていた。特に変わったものは何も無い。数秒、何かを探して、そして振り向くと、もうそこに彼女の姿は無かった。

 ただ、吹雪いた後のような、雪のような物だけがそこに残されていた。

 周りに隠れるようなところはあまりないし、とても不思議だった。

 それから暫くの間、彼女を探し続けたが、どこにも見当たらなかった。

 ただ、そこに雪だけを残して、彼女は消えた。



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