紗季が目を覚ましたのは深夜2時過ぎだった。街灯の光に照らされた巨木に群がる蝉達が休む事を忘れ、狂ったように合唱しているような騒がしい夜だ。
汗ばむような熱帯夜だったが、紗季の身体は汗がにじむこともなく、サラッとしていた。まるで人形のようだ。自分の肌を見ながらそう感じる。
一月ぶりの、乾きにうなされての目覚めだ。溜息と共に髪をかき上げてキッチンへ向かい、冷蔵庫の中のパックを取り出すと、一気に飲み干した。
そろそろだろうと壮介が用意してきたもので、いつもきっちりと準備してあるから、この乾きについて心配した事は一度もない。
ほぼ毎月、定期的に乾きがやってくる。血と月の関係は生理との繋がりを感じさせていた。
最後の一滴を絞り取るように吸いとると、喉に血液が絡まる感じに少しだけ満足感を得る。
血液のパックはもう一つあるが、そちらには手を出さなかった。少しずつでも、我慢出来るように訓練するべきだと判断したからだ。
昔、父親が禁煙をしようとしていた時の事を思い出す。きっと今みたいな気持ちで、次の一本を諦めた事だろう。
ここ最近、紗季は同じ夢を見た。
瓦礫の山が煙を巻き上げて視界を悪くしており、爆発の衝撃で耳が聞こえず、目の前に居る数人の男が下敷きになった光景だ。
まだ一人だけ息があった。
相手が自分を狩りに来た相手である事を承知しつつも、その光景を見ている主は瓦礫をどかし続けている。人間には動かす事など出来ないような巨大な瓦礫を、力ずくで引っ張っている。
数箇所の被弾した傷が痛み、乾きと戦い、幾つどかしたかも分からない。板状の瓦礫を持ち上げた先に知った顔、壮介の姿があった。
引きずり出された壮介は拳銃を持っており、それが見えるところまで引っ張られたところで主のわき腹に突きつけられた。
鋭い眼光と殺気。まだ相手は戦闘体勢を崩していない。火薬の破裂する音と共に決まったように目が覚める。
ああ、そうか、これはエレナの夢だ。それに気が付いたのは半年前の話だった。
血が見せているのだろうか。それともただの想像なのだろうか。夢と言うよりは記憶に近いその光景を、何度も思い返す。
最初の頃、何故壮介がここまで良くしてくれるのか、それが分からず不審に感じていた紗季に、エレナの血が見せたのかもしれない。
寝室の枕元でLEDが点滅したのを視界の端に捉える。
携帯にメールが届いていた。内容はエレナの行方について。中身を確認してみたが、いつもの定期連絡。
『まだ分かりません』である。
無感動に元の場所に戻すと、ベッドの上に座って腕を組んだ。
エレナが再度姿を消してから8ヶ月程経っていた。
差し向けられた刺客に一人挑んだ事までは知っている。だが、その後どうなったかが全く分かっていなかった。
生きているのか死んでいるのか、教会が情報を出さないから、教会からの刺客がどうなったかも知られていない。その筋の人間へすら知らされていない事から、余程の失態を犯したに違いないと思われている。
壮介曰く、「古い吸血鬼を討ち取れば、教会は必ずその筋には公表するから」、つまり生きているという事らしい。
憶測はともかく、まだ何処か繋がっている感覚がある事から、エレナが死んだとは思っていない。
戻らない理由は”孤独が好きな女だから”というのが壮介の意見だったが、紗季には違うような気がしていた。”吸血鬼”の血が完全に定着する前は分からなかったが、落ち着き切った今ならそれとなく分かるような気がする。
紗季はエレナを探していたが、理由は今ひとつ分かっていなかった。
知りうる限り、唯一の同族だからだろうか。
ひたすら、血が彼女を求めた。本能なんだろう、紗季はそう考えるようにした。
時計の針を見る。
もう少しで2時半になるところだ。
今日は何をしようか、そう考えていると、隣の部屋からPCの起動音とFANの回転を始める音が聞こえた。覗いてみると、壮介のPCがひとりでに動き出していた。
遠隔操作をしているのだろう。画面上で多数のウィンドウが開いたり閉まったりしており、何らかの処理が次々に済んでいく。
壮介は2日程前に、急な仕事で出かけていた。
大物が出ており、後輩で新人の女性が餌食になったらしい。数人のチームを派遣する事が決定し、そのチームの統括を任されたようだった。
山梨の山奥だと聞いていたが、そんな所からインターネットに繋ぐ事が出来るのだろうか。
処理が終わったのだろう。画面上のウィンドウが一つずつ閉じていく。
殆どが閉じた後、メーラーが起動して多量のメールが受信されていった。不思議な事にスパムのようなものは一つもない。
紗季はマウスを動かし、遠隔操作元の自由を奪うと、テキストエディタを起動してキーボードを叩いた。
『ごめんなさい。勝手に動いてたから気になってしまって。そちら、どうですか?☆さき☆』
Enterキーを数回叩いて暫く放置した。
ややあってから、同じエディタ上に文字列が流れるように弾き出されていく。
『暫く帰れないと思うよ。まだ遭遇すらしてないし、そもそも相手が何だかよく分からなくてな。後輩のレポートには人狼の可能性が書いてあったが・・・』
一年前なら信じ無かったろうな。そう思ってクスリと笑う。
『分かりました。帰る時、連絡くださいね。では、部屋に戻ります』
エレナが行方不明になってから、二人は一緒に暮らしていた。
特に何か感情があってそうした訳ではない。ただ都合が良かったからだろうか。壮介は不在がちだから、実質的には独り暮らしみたいなものだったし、何か関係が進展する事もない。
人であった時であればヤキモキもしたろうが、今は冷静沈着で気にも止めなかった。
感情の昂りは殆んど消えた事を自覚はしていた。面白い話しに爆笑する事もなくなったし、先月友人が交通事故で亡くなった時に、涙は出たが、以前のように沈み込むような悲しみはなかった。
感情が希薄になっている。そう感じられた。
しかし、それに対する不安や心配も無い。どうなってしまったのだろう?なんて事にも辿り着かなかった。確かに異常な精神状態だったが、オカシイなんて全く思いもしなかった。感情が無くなってしまった訳ではなく、笑う時は笑う。怒る時は怒る。だが、角度の低いゲレンデのように刺激のないものになっていた。
最近、昔みたいに楽しそうに笑わなくなったね。そう、職場の先輩に言われて、紗季は仕事を辞めた。
それが先々月の事。
いつまでも年を取る事はない。これからずっと、未来永劫容姿も変わらない。そんな事も考えるようになっていた。
いずれ辞めなくてはいけないだろう。暫く働き続けても良かったが、早かろうと遅かろうと、どちらでも良い。なら早い方が良いのではないか。周囲が紗季に対する変化に気付きはじめた今なら、辞める理由も作りやすそうだ、そう思っての行動だった。
辞める時、しつこく説得に当たった男性が居た。
彼は紗季の事を好いていたらしく、説得はいつしか口説きに変わっていた。心が変わり果てた紗季は、こう答えている。
「別に貴方に抱かれても良いけど、私は貴方を愛せない。それでも良い?」
関係は発展しなかった。
「何だか、冷たい人になってしまったね・・・」
彼の寂しそうな表情は、何故か心の底に染み付くようにして残った。
生活は、普通であれば退屈な日常になっていた。まるで年老いた老人が、縁側で茶をすするような生活だ。
身近な人達はそれを見て心配をした。本人にしてみれば退屈すら感じていない。
時折襲ってくる乾きが唯一に近い感情の昂りではあったが、それは事前に抑え込んだ。
PCの画面を見ながら昔の自分を思い返す。
楽しかった記憶に、あの時のような日々は二度と来ないだろうなと冷笑する。
メールの中に、一瞬吸血鬼に関する情報が見えた。たった一瞬だったが、プレビューの中身は大体把握する。
以前住んでいた、エレナに出会った、自分が吸血鬼になった街だ。引っ越してから足を踏み入れていない。
被害の文字列、複数、教会のキーワード。何かが気になった。
急に気持ちが引き寄せられていく。渦巻きに飲み込まれるように、深く、深く。
紗季は“蚊”を媒介にして吸血鬼になったのだ。ただの偶然ではあったが、同じようにして自分同様に吸血鬼になった人間が居るのではないか。
その日の紗季の行動は決まった。
あの街に行ってみよう、と。
真夏の日差しは、白い肌に激しく、鋭く突きささる。
ただでさえ紫外線に弱い身だ。何もしていないと、肌がチリチリと焼けるような感じがしてしまい、終いには痛みを伴った。
日焼け止めをしていれば防げるようだが、素のままにすると、白い肌は二十分程度で真っ赤になってしまう。回復も早いのですぐに白く戻るが、その状態で外を出歩くのは、人目を考えて難しいと思っていた。
予報では晴れとなっているから、日中は出歩く事をやめようと決める。
出発は日が傾いてからにして、それまでは家事をしたりテレビを見たりして過ごした。
その間、常に何かを食べ続けていた。
紗季はよく食事をしたが、行動自体が人間の時の名残のようであった。空腹等はそもそも無かったが、長期間食事をしない事で力が入らなくなる事も分かった。飲む血の量が少ないからかもしれない。が、食事をする事で体が正常に動くのだから、必要以上に血を摂取する必要はない事を知った。
外の景色がオレンジ色に染まる頃、紗季は出掛けた。
空気はまだまだ熱を帯びていて、植物の葉が薫っていた。鳴き続ける蝉の中にツクツクホウシが混じっていて、夏の終わりを予感させる。
買い物帰りの主婦とすれ違い、帰宅途中の学生を避け、駅に着く頃には空の赤みはすっかり落ち着いていた。
以前住んでいた街へ行くのには、電車で一時間以上かかる。タイミング良く来た電車に飛び乗り、ガラガラの席に腰を下ろす。帰宅ラッシュで混んでいる電車を、空いた反対側の上り線の中から見た。その違いが、普通の人間と紗季の世界の違いのようにも感じられた。
よくよく考えてみれば、今は居候の身である。そろそろ何らかの収入は得なければならないだろうなと思い悩む。
貯金は多い方だったが、無尽蔵に湧いて出てくる源泉とは違う。
電車を何本か乗り換えた。
帰宅ラッシュに巻き込まれ、蒸し返す列車の中で揉みくちゃにされていると、近くに居た若い女性の首筋が目の前まで近寄ってきたりして、何度か唾を飲み込んだりもした。
懐かしい駅に到着すると、紗季は早足で外に出た。満員電車の中に居るのは思ったよりも我慢が必要なものだったから、次は避けようと心に誓う。
吹き出す風に押し出されるようにして地下鉄の階段を上がりきって外に出ると、夏の終わりでも意外な程涼しい外の空気が待っていた。湿り気が強いから、もしかすると雨が降るかもしれない。
街並みはあまり変わらず、駅前の閉まっていたゲームセンターがコンビニになっている以外は、引っ越す前の風景を維持している。
商店街を見ながら辺りを散策する事にした。
駅の外に出たところから、人間ではない別の気配を感じていた。ただ漠然と感じるだけで、どこに何がいるかまでは分からない。どれだけの数が居るのかも分からない。ただ、それ程多くはないとも感じる。
どこへ行けば会えるだろうか、それを考えながら足早に夜の住宅街に踏み込む。
エアコンの室外機の音と、アスファルトからの熱気。
住宅街の奥へ奥へと歩いて行く。
初めてエレナと出会った駐車場の前に来ると、以前この辺りに住み着いていた猫の姿を探す。視界に入るところには居ないが、どこか周辺に気配がする。自分の事を怖がって出てこないのだろう、そう考え、少し立ち止まっただけでまた歩き出した。
近くのコンビニに立ち寄り、少し雑誌を読むと、儀式的にアイスを買って外に出る。
近所の家から聞こえてくる子供の笑い声に釣られるようにして微笑むと、アイスを頬張りながら後ろを振り向いた。
少し前から何かが同じ距離を置いて付いて来ている。二人、もしくは三人か四人か。
同族の気配ではない。しかし、殺気も放っていない。無感情である事が伝わってくる。
ヒールを脱いで全力で走れば逃げ切る自信はあったが、そのまま歩き続ける事にした。
相手が出てきやすいように、広めの公園に入ると、ブランコに座って現れるのを待つ事にする。視界の中に人の姿は見えない。
アイスの棒を咥えたまま、離れた所にある街灯の光の下をずっと見る。その向こうにある曲がり角の影で気配は止まっていた。先ほどとは一転して、困惑した様子が感じられた。
夜の住宅街にアブラゼミが騒音を立てている。その中、後ろからの足音が混ざっていた。先ほどの隠れている相手の気配は動いていない。
足音は紗季の後ろで止まり、背中に何か筒のようなものが押し当てられた。
「何故逃げなかった?」
若い男の声だ。
落ち着いた声色から、相手が自分に対して恐怖感を全く持っていない事を理解する。
「逃げないわよ・・・。わざわざ何かを探しに来てるんだから」
「何かとは、何だ?」
「んー・・・、兄弟、かしら?」
紗季の言葉に、背中に押し当てられた筒が離れた。気配が少し右後ろに下がっている。
紗季は振り向かない。
正面で隠れている気配が、今度は殺気を放っている。多分これはまた別の人間だ。目を逸らしたくなかった。それとは別に、後ろの気配は全く殺気を放っていない。
「・・・隠れてる人、私の事狙ってる?」
「そうだな。きっとお前の眉間に照準があってるだろう」
「絶体絶命ね」
「そうだな」
空気が重苦しくなってきた。
こんな状況に置かれたら、エレナはどうするだろう。紗季は正面の気配に集中しつつ、次の行動を思案した。
血が騒ぎ出す。荒れ狂うように鼓動が高鳴り始めた。緊張ではない、何か喜びを持って動いている。吸血鬼の血か・・・。紗季はそれを思いつつ、ブランコを立った。
標的が急に立ったのに慌て、その男はうっかり引き金を引いた。
サイレンサーが乾いた音を立て、銃弾が相手の腹部に吸い込まれるように命中する。人の家の庭先だと言うのに、うっかり
「あっ!」と声を出してしまい、口を塞ぐ。
周囲を見回し、何も反応が無いのを確認すると大きく息を吐き。再度スコープを覗いた。
標的はブランコの向こう側に倒れたようだ。その隣で先輩ハンターが拳銃を抜いているのが見えた。先輩ハンターは、相手の方に銃口を向けた時、足をすくわれて横転する。手前にある隆起した部分が邪魔になって向こうでどんな状態になっているのかが見えなかった。
次にもう一度標的が見えたら再度狙撃するつもりで、息を殺したままそちらを見続ける。
紗季は腹部の激しい痛みに目を白黒させ、仰向けに倒れた。
その横で、若い男が拳銃を抜いて近付いて来るのが見える。全てがスローモーションのようにゆっくりと動いているように感じられ、思考も急速に回転しているのを自覚した。
身体が全て覚えているかのような動きで、相手の脚を絡め取るようにして引っ張り上げる。相手はこちらが完全に無抵抗状態になっていると思い込んでいた為、虚を突かれて体勢を崩し、左半身を地面に打ち付けた。
紗季は姿勢を低くしたまま近付き、銃を持つ腕を押さえて相手の顔を見た。僅かなタバコの臭いと、かなりの酒気が感じられる。
腹部の痛みに耐え、利き腕に牙を突き立てる。行動として、あまりにも自然にそれが出てきた事に、紗季自身驚きを隠せなかった。
弾は抜けているようだ。
紗季は、相手の腕から漏れる血液を力いっぱい吸うと、腹部へ集中した。痛みはともかく、流血が収まるのを感じる。
ニコチンとアルコールが混ざっているからだろうか、いつもの血液パックとは味が違う。新鮮なフルーツジュースに化学調味料でも混ぜたような、不思議な味がした。
血を味わうと、相手の記憶が少し流れ込んでくるのが感じられた。
牙を抜き、頭を少し離す。
「あなた、エレナさんを銃撃した人ね?」
相手は倒れたまま黙って目を閉じている。もう、戦う気はないようだ。そう言えば、最初から殺気は感じなかった。元々戦うつもりはなかったのだろう。つい今さっきの行動は、本人の心の歪みによるものだろうかと推測された。
「・・・ああ、あの女の仲間だったか」
返答があったのは数分程してからだった。静かに、力なく、まるで呟く様な返答だ。色々な事に疲れきった、老人のような喋り方だ。
「あの女、結局どうなったんだ?」
「それはこちらが聞きたい事なんだけど?」
相手の目が開く。紗季をジッと見ると、何かを決めたような顔をして体を起そうとした。
「お前はそのまま暫く屈んでろ。新入りがヘマをして済まなかったな」
元々は撃たせるつもりはなかったらしい。狙撃主の方へ何か懐中電灯のような物をを使って合図すると、拳銃をしまった。
ただの人間だったら死んでいるところだ。何より、撃たれた後にトドメをさそうとしていたはずだ。まだ信用が出来ない。だが、吸血鬼の血のせいだろうか、気持ちは“肩がぶつかった程度”の相手として受け止めている。
5分前後経った辺りで相手の顔がこちらを向いた。
「撤収させた。もう立っても良いぞ」
恐る恐る立ち上がる。本人の“つもり”は血から読み取ったが、それでも騙まし討ちに警戒しなくてはならない。頭を隠し、狙撃主の居た方に対して横になるように立つ。本能がそう行動を促した。気持ちと、自然に出てくる行動とのギャップに少し戸惑う。
「お前、知らないのか?あの女の行方」
「戦いに出たっきり、帰って来ないんだもの。知る訳ないでしょ」
血の繋がりを感じる事については触れない事にした。
目の前の相手は、塞がりきった腕の傷痕を見ている。不思議そうな顔をしていた。紗季の方を見ようともせず、話は続いた。
「あの女は・・・」
一瞬躊躇い、続ける。
「あの女は、教会の精鋭を全て再起不能にしてくれたよ。各国から選ばれた10人の精鋭達をだ」
視線が初めて紗季の方へ向けられた。悔しさが感じられる。眉間に深く刻まれた筋がそれを物語っている。自分が殺されもせず、軽く遊ばれていたという認識への屈辱感や、本気で戦ったエレナの力を見る事すら出来なかった事への嫉妬感もあったろう。
「生き残った数人は口を揃えて言った。間違いなく“化け物”であると。どんな戦いをしたのか、どんな力を見せ付けられたのか、それについては皆震え、誰一人として答える事はなかったそうだ」
定着した“吸血鬼”の血が、エレナの戦っている姿を脳裏に映し出す。紗季への危害が及ばないようにする為に。自分の娘のような存在を守る為に。感情がエレナを動かした。吸血鬼は感情が希薄になっているのではないか、自分の今と照らし合わせると疑問に感じたが、間違いなくその為に行動している。
「やっぱり、もう会う事は無いか・・・」
目の前の相手はもう一度エレナに会いたいと、確かにそう願っている。まるで心が読めるように感じられた。血の繋がりがある紗季が本能的にそう願うのは分かる。だが、壮介にせよ目の前のこの者にせよ、どうしてそこまで惹かれているのだろうか。容姿が美しく、強く優しく、それだけで人を惹きつける事が出来るのか。
「エレナさんに会いたいの?会ってどうするの?」
ポツポツと雨が降り始めた。にわか雨だろう。
「・・・さぁな」
気だるそうな反応をして、遠くを見た。
雨が降る時にする独特の香りが立ち込めている。
雨は次第に音を立てて広がり、世界を包み込んだ。地面に染みた紗季の血が洗い流されていく。
二人は、暫く雨の中無言で立った。立ち去る事も無く、会話する事も無く、静かに時間だけが流れていく。
紗季は腹部の痛みが、また悪化してきていた。回復に用いる“血”が足りなくなってきている。これ以上使いすぎると理性を失うような予感があり、危険だと判った。
起きてから飲んだ血液パック、1つを我慢するべきではなかったと後悔する。
痛みで意識が飛び始めている。チカチカと星が飛ぶような感覚。三半規管がやられたような世界の回る感覚。水浸しの地面に膝をついた。
異変に気が付いてこちらに近寄ってくる相手の姿を見ながら、紗季は視界がブラックアウトして意識を失った。
紗季が目を覚ましたのはベッドの上。酒とタバコの臭いが染み付いた部屋だった。酒の空き瓶ばかりが転がっており、生活に必要な物が欠けているようだ。
すぐ近くに紗季の着ていた物が干してある。絞ったままの状態で干してあった為、全て皺くちゃになっていた。
財布やら携帯やらは枕元に置かれており、鞄はベッドの脇に置いてあった。
何故か下着は着ていたが、他の物は全部乾かしておいてくれたらしい。きっと、そういう理性はちゃんと働く人なんだなと思い、道徳的な意味で関心した。
どれ位寝ていたのか判らないが、腹部の傷はすっかり消え、疼く程度の痛みしか残っていない。数日間は寝ていたのだろうと思われる。
部屋の中には他に誰も居ない。隣にも部屋があるが、そちらも同じく無人である。外が暗いので夜だとは思うが、何をしに出掛けているのだろうか。
とりあえず裸で居るのも気持ちが落ち着かない為、皺くちゃになった服を着た。バサバサになった髪を手櫛でとかしながら、洗面所に向かい、鏡を覗き込む。寝起きだが顔が浮腫んでいたりはしない。
化粧は落とされておらず、酷い状況になっている。近くにあったハンドタオルを手に取り、頭に巻くと、水で顔を洗った。ウォータープルーフを使っているので、なかなか落ちない。乾いた石鹸を何とか泡立てて顔をもう一度全て洗い流した。
もう一度鏡を見ると、幼さの残った少女のような顔が映る。
部屋に戻って鞄から化粧品を取り出し、手際よく化粧をしなおすと、カーテンを開けて外の景色を確認した。
住宅街が広がっていた。少し離れたところに大きな団地が見える。大体どの辺りに居るのかが分かった。
扉の鍵が閉まっているので窓から出る事にしようと思い、ベランダから下を覗き込む。1階ではないが、下が土なので降りられるだろう。だが、高いところから飛び降りるのは初めてである。骨の一つも折るかもしれないと考え、躊躇した。
暖かな風が顔を撫で、髪がはためく。
身体が頑丈になっているから、きっと大丈夫だろう。そう、意を決して、紗季は空中に飛び出した。
遼二は空っぽになった部屋を無感動に見ながら、焼酎のビンの蓋を捻った。そして、そのままラッパ飲みに喉を鳴らして、まるで水でも飲むようにして飲む。四分の一程飲んだところで、焼けるような感覚に我慢が出来なくなり、咳き込んだ。
ようやく空いたな。そんな気分でベッドに横になる。
若い女の匂いがした。シャンプーや化粧品の匂いではなく、女性から発せられる独特な匂いだ。それが、何だか懐かしくすら感じられる。
3日程、毎晩殆ど寝ずに、女の寝顔を見て過ごした。その対象が姿を消すと、意外にも寂しく感じられるものだ。帰って来て寝ている姿を見るのが、少し楽しみになっていたのかもしれない。少なからず、あの女に興味はあったのだろう。
普通の女にはあまり興味を示さないのに、どうして吸血鬼の女には興味を示すのか、遼二自身全く分からない。興味を示すと言っても、女性に対する興味では無く、別の歪んだ何かである事は確かだが。
もしかすると、死んだ姉に重なるところがあるのかもしれない。
目を閉じると、まるで隣で寝ているかのような錯覚を覚えた。
すぐにまた、酒とタバコの臭いで充満した部屋に戻ってしまうだろうが、今夜はまだ匂いが残っている。そう思いつつ、遼二は深い眠りに落ちていった。