ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

O.中継ポイント


 国道を走っている間、小学生のような計算問題に夢中だった。

 ガタガタ揺れる乗り心地が最悪な“野良猫”の中で、コントロールシートに全てのCPカードを順番に貼り付け、各CPでの減点を計算するのだ。

 単純な60進法の引き算から区間時間を出し、正解表の区間時間と照合する。

 ここでは、1秒に付き1点の減点だ。

 尾道峠の二箇所のSSの区間タイムはそのまま加算する。

 さらに、ジムカーナSSのタイムも5倍に修正して加算する。

 これが人生で、三度目のコントロールシートの計算。

 もっともその内の二回は、キャッシュラリーのときの第一ステージと第二ステージだ。

 完走目的だったあの時とは、緊張感がまるで違う。

 七割の“わくわく”期待と、三割の“どんよりした”不安。

 僕は区間タイムだけ先に全て算出してから、最後に正解表の正解時間を書き込んだ。

「やった!?」

「おっ!出来たか?」

「あっ、いやいや。まだ1チェックだけ。でも、“0”だよ」

「おーっし!」

 2CPは、あの霧に悩まされた荒船林道のゴールだ。ここも…。

「よーっし!」と、これは僕が叫んだ。

「2チェックも、“0”!!」

 服部が、南方の鳥みたいな歓喜の奇声を発しながらハンドルを、ガン!と叩いた。

「おっと、残念。3チェックは2点、くらった。補正、のせすぎたみたい」

 今度の服部は、空腹に悲しむ荒野の一匹狼みたいな声で

「アォーン!」と呻いた。

「5チェックは“荒船”の受けで、…ええと、1秒。ゴールの6チェックが、…あれ。逆に、2秒早着か。遅らせるのが正解だったみたい。逆走の“荒船”で、結局3点だよ」

 再び運転席から、さっきよりも小さい

「アォ~ン」が聞こえてきた。

「7チェックは…、おや。ここは、1秒で1点。まあまあかな?」

 運転席で、今度は南方の鳥が楽しそうに咆えた。

 ふと、牛の鳴き声をしていた西川さんを思い出す。

 僕は、ニヤニヤと笑った。

「まるで、田舎の動物園だ」

「じゃ、人間に進化してやる。結局小林さんとことは、SSのタイム差と補正の減点で相殺ってことなんだろ?つまるところ第一ステージは、イーブンって訳だ」

 人間に戻った服部は、ペットボトルのお茶の残りを一気に飲み干しながら言った。

「まあね。でも、ジムカーナSSで大きくリードしている」

「お互いに、林道の走り方に慣れてきている。第二ステージが本当の勝負だ」

「4チェックはSSのゴールだから、区間タイムは648秒で、648点だ。8チェックは尾道峠の逆走SSで、630秒だから、630点になる。だから、第一ステージの減点は、1,284点だ。ジムカーナステージのタイムが287.9秒で、五倍すると1,439.5。…総減点は結果、2,723.5!これが僕らの成績だ」

「いい成績なのか悪いのか、さっぱり解らん」

「そりゃそうだ」

“野良猫”とレーサーチームだけがタイムアップしているとは思えない。

 恐らく1本目の全開走行で、尾道峠の路上にあった泥や砂利がある程度跳ね飛ばされていたんだろう。走りにくい筈の逆走路は、1本目の順走路よりも走りやすくなっていたんだ、きっと。だから、服部や小林さんたちは予想以上にタイムアップした。

 つまり、エントラントは皆タイムアップしていると考えていいということだ。

「とにかく、今は俺たちが最初よりタイムアップしたって事実が大事だ」

「同感。霧と雨も、前より少しだけましになってきたようだし…」

 それからしばらく、僕らは尾道峠での小さな冒険について盛り上がった。

 あそこは危なかったとか、こっちはもっと攻められたとか、そんな他愛ない話だった。

 そんな冒険談も、クルーによってまるで異なるものになるんだろう。

 ラリーという、奇妙なモータースポーツの特色はこんなところにもあるのだ。


 15分後、“野良猫”は中継ポイントにたどり着いた。

 雨足は以前より少し弱くなっているのとは逆に、風が強くなってきた。

 言うまでもないけど、夕方のスタート会場だったダムサイドのドライブインと同じところが中継ポイントになっている。

 中継ポイントの会場は、田舎の祭りみたいに明るかった。

 あちこちに各チームのサービステントが立ち並び、それぞれの小型発電機がそれぞれのテントに明かりを供給している。

“野良猫”が駐車場の奥に向かって入っていくと、合羽を着た四谷先輩が赤色灯をくるくる回して、Jリーグ一派が確保しているスペースの一角に誘導してくれた。

 そこに車を止めると、服部が窓を開けて外の四谷先輩に挨拶した。

「ありがとうございます、先輩。雨の中、誘導いただいて申し訳ありません」

 服部の言葉には、本当に申し訳なさそうな思いがこもっている。

 ずぶ濡れの四谷先輩は、開けた窓にぐっと顔を近づけた。

「おう、ご苦労。車、どっか見るとこ、あるか?タイヤの交換は?」

「大丈夫です。何もありません。タイヤは、交換用のスペアはもともとありません」

「わかった。中に入って、おでん定食を食え」

 それだけ言うと、四谷先輩はタイヤ交換をしている簡易テントのある方に歩き去った。

 服部は窓を閉め、後ろから傘を二本取り出した。

「雨のサービスは、大変だよな」

「ああ、ホントにね。僕は、コントロールシートを出してくるよ。先に、食っててくれ」

 僕は、服部が差し出した傘を受け取りながら言った。

「おう。よろしく」

 コントロールシートの受付はドライブインの入り口脇の大型テント内に設置されていた。

 先輩たちのサービステントよりは一回り大きい、よく運動会なんかで見かける類のやつ。

 ドライブインはすでに営業を終えていて、その近くにある横並びの飲料の自販機の明かりが雨の中に浮かび上がるようにぼんやりと見えている。

 ここからは近くて遠い、約二百メートル程度の距離。

 妙に神経質になりながら、僕は傘をさして歩き出す。

 周囲には無数のサービステントが店を広げていて、メカニックたちは戻ってきた競技車両の整備に余念がない。ガレージジャッキで持ち上げられたラリー車の下に潜り込んでいる人がいたり、傍らで深刻な顔つきでエントラントと話し合っている人たちもいる。

 傘に当たるささやかな雨音の向こう側からは笑い声も聞こえてきた。

 次々に戻ってくる競技車両と、整備を終えて移動している競技車両が傍らを過ぎていく。

 中継の会場はにぎやかだ。そのはずだった。

 でも、なぜか受付に向かう僕の足取りは重い。

 受付テーブルの向こう側にはオフィシャルが三人座っていて、こちら側にはシートを提出しに来たクルーや、中間結果の確認に来ていたエントラントたちが数人いた。

 そして僕はテントの中に入って傘をたたみ、ようやくコントロールシートを手に持っていないことに気づいた。余にもばかばかしい違和感の正体に、我ながらあきれ返った。

 この雨の中を“野良猫”に戻って、取ってこなければならないと思うとうんざりした。

 軽い舌打ちをしながら、何気なくそこに張り出されている中間減点表に目をやった。

 最初、それぞれのクルーが手書きで記したその数値の意味が解らずに焦った。

 理解できないまま、頭に血が上ってくるのを自覚する。

 熱にうなされたように、僕はぼんやりとしたまま傘をさして雨の中に踏み出した。

 脳裏に浮かぶ数値の記憶が、夜陰の雨の景色に重なる。

「何やってんだよ、アキラ。おまえ、コントロールシート忘れてったろ」

 服部の声に驚いて顔を上げると、僕はいつの間にかJリーグのテントの中にいた。

“魔神”村木さんを中心に、“忍者部隊”や“タオパイパイ”さんたちが屯している。

 服部はテントの片隅に立ったままニヤニヤ笑って、“野良猫”の中に忘れていったコントロールシートを突き出した。

「ああ、悪い。でも、なんか、計算間違いしたみたいなんだ…」

 僕はそれを受け取りながら、しどろもどろの口調で答えた。

「…どうしたんだよ」

 服部の声が、酷く虚ろなものに聞こえる。

「トップとは200点近く。5番の森さんたちからも100点以上離されている。…なんてこと、幾らなんでもあるはず無いよな」

 僕はまともに服部の顔を見ることが出来ず、コントロールシートの時間計算を暗算でチェックしながらそう答えた。それぞれの区間タイムを、繰り返し、繰り返し確認した。

 答は同じ。計算間違いはない。

 頭の中の風船が、限りなく膨れ上がっていくような気分。

 耳の奥で、ドドン、ドドン、と血液が流れ去っていく音が聞こえてくるような。

 いつの間にか踵を返して、僕は雨の中を歩き出していた。

 そしていつの間にか傘を差しており、気がつけばオフィシャルテントの中にいた。

 夢の中の光景を見ているような雰囲気の中で僕はコントロールシートを提出し、その結果の数値を中間減点表に備え付けのマジックペンで記入した。

 再び傘をさして真っ直ぐ“野良猫”に戻り、助手席に身を委ねると猛烈な睡魔に襲われた。最後に目に映ったのは、ラリコンの時計表示で“10:02:24”。

 そのまま目を閉じる。

 一瞬で、泥の中に沈み込むような深い眠りに落ちた。


 やがて目が覚めたとき、僕は、自分がどこにいるのかまるでわからなかった。

 真っ暗な中で、窮屈な格好のまま眠っていたことに少しずつ思い至っていった。

 背もたれを倒すことなど出来ない、狭っ苦しいバケットシートの中にいた。

 肩や背筋が不平を訴えるようにチリチリと痛む。

 僕はのろのろと右手を上げて顔をこすり、手元のドリンクホルダーにセットしてあったペットボトルのお茶を一口飲んで大きくため息をついた。

 つけっぱなしのラリーコンピュータのデジタル時計を見ると、“10:17:30”を表示していた。つまり僕は、15分ほど爆睡していたらしいのだ。

 目の前のフロントガラスの全面には、雨の滴がびっしりと付いていた。

“野良猫”の周囲にはいろいろな車があり、そこここのテントからは淡い光が溢れている。

 それでようやく、ここがラリーのサービス会場だったことを思い出した。

 ぼんやりと、酷い夢を見た、と、思った。

「…えっ」

 知らぬ間に、呟いていた。

 耳の奥に響いたのは、自分の口から漏れたとは思えないような低い声。

“酷い夢”と思ったことの正体は、競争相手のトップに200秒近い差をつけられてしまったということ。そして“漏れた声”の正体は、それが悪夢などではなくて全くの現実であることを思い出したことによるものだった。

 次に口から漏れたのは、大きなため息だった。

“野良猫”の外に出ると、雨は止んでいた。

 でも、雨あがりという感じではない。

 またいつ降り出してもおかしくない雰囲気だった。

 僕はテントの中に入り、目に付いた一番手前の折りたたみ椅子に身を預けた。

「アキラ、メシ食うか?」

 声をかけられて顔を上げると、松尾さんが目の前に立っていた。

「あっ?はい。ありがとうございます」

 そう答えてから見回すと、広いテントの中には松尾さん以外には誰もいなかった。

「あの…、Jリーグの皆さんは?」

 僕の問いに、小松さんがトン汁の器と大盛りご飯の紙皿を差し出しながら。

「雨が上がったから、敵情視察。…というのは表向きで、ホントはあちこちに嫌がらせをしに行った。四谷と不調の村木さんと絶好調の森さんは、連れション」

 トン汁は、異常なほどに美味かった。

 僕は白飯をガツガツと食い、具沢山のトン汁をかき込むように詰め込こんだ。

 何もかも忘れて、夢中で一気に食い切った頃、四谷先輩が帰ってきた。

 一瞬、きょろりと、テントの中を見回した。

 何となく、青木さんがいないことを確認したように、僕には思えた。

「ご馳走様でした。バツグンのトン汁です」

「アホ。これは、“おでん”なんだよ」

「えっ?でも、味噌味ですよ。豚肉バラだって入ってるし」

「ウチの“おでん”は、これなの。基本は醤油だしで、味噌は隠し味だ。“はんぺん”と“ちくわ”も入ってるだろ。“つみれ”と“しらたき”だって」

「はあ…。でも、本当に美味しかったです。ところで青田さん、大丈夫だったんですか?」

 この時、四谷先輩の顔がギクリと引きつったように見えた。

「ああ、大丈夫だ。車も、電装系が燃えただけだったみたい」

「今は、どちらに?」

「まだ、尾道峠の上。自走できないから、ローダーに積まないと運べない」

「青田さんもですか」

「いや。青田…選手はオフィシャルんとこ。状況報告。ところでおまえら、調子いいじゃねえか。このコンディションで真ん中くらいに着けてるなら、上等だ」

 先輩は青田“選手”の話を打ち切りたいらしい。

 どうやら、西川さんとの賭けの行方は微妙になった。

 でも実際、そんなことより僕もその話“上等”の方を聞きたい。

「あれで上等なんですか。正直、もの凄くショックです。1本目の尾道峠でトップと20秒程度の差と思ってましたから。あれが勘違いだったって知ったのは、さっきです」

「服部から聞いた。あいつも、ショック受けてたのよね。しばらく、メシが食えないくらいだったぜ。1本目のSSのトップとのタイム差は、20秒じゃなくて、1分20秒の差だったのよねえ。お前らが聞いたのは、秒末尾の違いだけ。つまり、分違い」

「えっ…」

 そう呟きながらも、納得していた。

 結果として200秒近い差をつけられていたのだから、当然だ。

 約10㎞で、80秒の差をつけられた。つまり、キロ8秒の負け。

 勘違いの元凶は、小林さんたちからの誤情報だ。

 恐らく小林さんたちも、僕ら以上に中間結果に衝撃を受けた筈。

「今のところトップは、地元インプレッサの堀井。僅差で、井出が続いている。その5秒下にウチの上町さん。やや離れて、4番に権藤さん。5番には2秒差の森さんで、これは嬉しい誤算なのよねえ。絶不調の村木さんは森さんの10秒落ちで7番手。大野・川田組にまで抜かれちゃってる。村木さん、中継でも静かでさ。さすがに、茶化すことも出来ない。落ち込んでるあの人を突っついて遊んでるのは、性根の腐ってる上町さんだけ。本っ当、タチの悪い人なのよねえ。で、おまえたちは9位」

 10位以内なので、一応ポイント圏内と聞いて少しだけほっとした。

「いくら道の状態が悪いからって、こんなに差がつくもんなんですか?」

「それが、ラリー…なのよねえ。今回のお前らは、ポイントが取れれば上出来だ」

 ふいに、四谷先輩がテントに入り口に目を向けた。

 つられてそっちを見ると、仏頂面の村木さんが入ってくるところだった。

 僕は反射的に、ぺこりと頭を下げた。

 顔を上げたとき、村木さんと目があった。

 ギロリと睨み返されることもない、淡々とした視線だった。

 虚ろなものではない、その静かな視線に奇妙な違和感を覚えた。

 それでつい、口が滑った。

「どうも、ご愁傷様です」

 後ろで、四谷先輩が凍りつく気配がした。

 僕自身、しまった!と思った。

 怒声か鉄拳が飛んでくるかと思って逃げ腰になる。

 実際その瞬間、村木さんの目の奥で何かが光った。

「べべん、ベンベン~ベン、ベベ、ベベ、べんべん~べん」

 そう呟きながら、“魔神”がニタリと笑った。

 悪魔の鼻歌…

 そして僕の傍らを通り過ぎて、テントの奥の席にことを下ろした。

「四谷、コーヒー!」と、村木さんがぶっきらぼうに叫ぶ。

「はっ!ああ、…は、はいはい」

“魔神”の声に、四谷先輩が飛び上がった。

 テントのさらに奥では、喫茶店のマスターのように手際よく松尾さんが、コーヒーを紙コップに入れる準備をしている。無論、インスタントコーヒーだけど。

 四谷先輩はコーヒーを村木さんの前に置いたついでに、僕の分も入れてくれた。

「ありがとうございます。ところで、四谷さん。さっきの村木さんが言っていた“ベベン、ベンベン”…とかって、何のことですか?どこかの民謡ですかね」

 小声で聞いたら、先輩の一層小さくなった声が返ってきた。

「知らない。あの人、たまに常人じゃあ全く理解できないことを言ったりしたりするのよねえ。だから、分かるわけがない。でもどうせ、大したことじゃないから気にするな」

 そこに、くわえタバコの西川さんが帰ってきた。

「よう、アキラ。良く寝られたか?」

「はい、おかげさまで」

 西川さんはニヤッとして、村木さんに目を向けた。

 いつの間にか西川さんのタバコは、口の右端に寄っている。

「村木さん。権藤さんとこ、行ってきたよ。さすがに落ち込んでたね」

「激励してやったか?」

「そりゃあ、もちろん。もし2ステで一本でも森さんに負けたら、権藤さんも村木さんと一緒に引退だねって、言っておいたよ」

 ブティックの閉じたシャッターのような無表情な顔で、村木さんがうなずく。

「上町は?」

「タイヤのローテーション中。服部が手伝ってる」

 タイヤのローテーションとは、前後のタイヤを入れ替えること。

「へえ。珍しいですね」

 四谷さんが口を挟んだ。

「上町さん、普段はローテーションしないんですか?」

 小声で尋ねると。

「あの人、ケチなのよねえ。新品のタイヤ、前輪に履けば一晩で丸ボウズになるけど、後輪なら3戦は使えるっていつもは言ってる。ローテーションをすれば、一晩で四本のタイヤを使い切るから嫌なんだってさ。だから、よっぽどじゃないとやらない」

「逆に言えば、上町さんは、勝機があるって考えてるってことですか?」

「そういうことになる…のよねえ」

「堀井の車、左後ろのドライブシャフトに爆弾かかえているらしいぜ。あいつ、振動が酷くなってきたって、グチッてっからよ」

 西川さんが教えてくれた。

「本当ですか?」と、僕。

「ホント。堀井はバカだけど、絶対に嘘はつかない。ラリードライバーの“鏡”だ」

「へえ…。堀井さんて、速いんですか?」

“ヘビースモーカー”が、ゴウっという勢いでタバコの煙を吐き出した。

「アキラ。おまえ、知らねえのか。あいつはあれでも、一昨年の北日本地区のチャンプだ。その時のナビがこの俺なんだよ」

「えっ!西川さん、地区戦のチャンピオン・ナビなんですか!?」

「そうだよ。オレ、偉いんだよ~」

 西川さんの口元のタバコが、胸を張るようにピョンと跳ね上がった。

“ヘビースモーカー”が偉大な人かどうかはともかく、地区戦チャンプ堀井さんのことが気になった。

「何で、地区戦チャンピオンのドライバーが関東エリアのムサシノシリーズなんかに出てくるんですか?」

「練習。例え県戦でも、SSラリーならいい刺激になる。実戦に勝る練習は、ねえよ」

「それにしても、ムサシノのレギュラーは迷惑ですよね」

「堀井の参戦を楽しんでる奴らの方が多い。それに堀井の今日の車、練習用に5万円で買ったGC8だ。つまり、オンボロの旧式インプレッサで、リアのデフとハブがガタガタなんだよ。だから、ジムカーナSSは遅かったろ?ありゃあ、多分、完走できねえぜ」

「そんなに上手いドライバーなら、様子を見ながら完走目標に切り替えるんじゃないんですか。優勝はしなくても、3位くらいなら…」

「だから。あいつは、バカなんだって言ってるだろ。元々、優勝なんか眼中にない。壊れるまで全開走行だ。上町は最初からそれを知ってて、堀井は途中で消えるとふんでいる」

 言われて、思い出した。

 確かに“忍者部隊”の口から、堀井さんの名前は出ていなかった。

 つまりスタート時点で、上町さんは堀井さんがリタイアするものと考えていたのだ。

「じゃあ、上町さんは銀メダル狙いでタイヤのローテーションをしているんですね」

「いや、違うな。上町はセコいから、銀狙いじゃタイヤの組み換えなんかしない。金を狙えると踏んだんだな。井出にも、何かトラブルが出てるのかもしれねえ」

“ヘビースモーカー”の口から、大きく吸い込んだ煙がゾロリと吐き出される。

「そうですよね」と、四谷先輩が口を挟んだ。

「あの人、セコいだけじゃなくて妙に小賢しいし。リタイアする車の匂いを嗅ぎつけるの得意なのよねえ」

「つまり、ハイエナみたいな人ってことですね」

「お、アキラ。いい事いうなあ」と、西川さんが笑った。

 このとき、一瞬、村木さんの横顔に笑みが浮かんで消えたような気がした。

 気落ちしている者には相応しくない表情だったから、僕の見間違いかもしれないけど。

「おう、フテ寝小僧」

 低音の声に振り返ると、森さんがテントに入ってくるところだった。

 目が合うと、“タオパイパイ”はニヤッと笑った。

 その後ろから、森さんのナビをしている“砂かけ姉さん”と服部が続いていた。

 服部の顔を見たとき、何となく気まずく感じた。

 どういう声をかければいいのかわからなかったからだ。

「よう。全く、まいったぜ」

 予想に反して、服部が明るい声をかけてきた。

 別に、いじけたり開き直ったりしている気配はない。

「悪い。気がついたら、車の中で寝てしまったらしいんだ」

 僕と服部は、テーブルを挟んで一番はじの簡易チェアーに腰を下ろした。

「ああ、別にいいんじゃね。俺なんか、最初はメシが喉を通らないぐらいショックだったからよ。で、あっちこっちに行って、話しを聞いてたんだ。小林さんたちとも。ところで小野先生たち、リタイヤじゃないぜ。完走目的で、Aクラスの後ろを走ってたんだってよ」

「えっ?」

「ナビの桜井君、10回以上ゲロったそうだ。それでも頑張ってる。減点なんか三千点以上だって言って、小野先生、笑ってた。桜井君も、どうしても完走したいそうだ」

 ラリー車両の車酔いが肉体的にどれほど辛いものなのか、僕には想像もつかない。

 それでも、10回ゲロを吐いても続けようとする根性が賞賛に値するものであることは僕にも理解できる。とてつもない精神力だ。

「不謹慎に聞こえると思うけど、俺、その話しを聞いて腹が減ってるのに気づいた。小野先生たちに比べたら俺たち、落ち込むべき状況じゃねえよな」

 僕はうなずいた。なぜか、向こうのテーブルの絶不調の村木さんの横顔をちらりと見てしまった。村木さんは、森さんたちと静かに話し込んでいる。

「それで先輩のトン汁を食ってから、また情報収集に行ったんだよ」

「“トン汁”じゃない!“おでん”なのよねえ!!」

 離れたところにいるはずの、地獄耳の“歩きウンコ”が不機嫌そうな声で話に水を差した。服部は罰の悪そうな顔で、ぺこりと先輩に頭を下げながら続けた。

「今は、9位。8位とは50秒くらい差があるから、追い上げるのは難しい。10位は、後ろゼッケンの小林さんたち。たったの9点差だ」

「逃げ切れるか、どうか…。それが、第2ステージのテーマだね」

「ああ。もう、ポイントも順位も関係ない。小林さんたちに勝つ。それが目標」

 ビニールシートの扉がバサリと音を立てた。

 振り向くと、“忍者部隊”が入ってくるところだった。

「よう。さっきはありがとう、服部君」

「あ、いいえ。お安い御用です」

 たぶん、服部がタイヤローテーションの手伝いをしたことを言っているのだろう。

「上町」と、突然村木さんがコーヒーを飲みながら声をかけた。

“忍者部隊”が、チロリと視線を向けた。

「おまえが、“セコいハイエナ”みたいなヤツだって、今噂していたところ」

 何を思ってか“魔神”がとんでもないことを言い出して、主犯の僕はギクリとした。が、それが表情に出るのを必死でこらえながら上町さんの顔色をうかがった。

「おや。それはご丁寧に」と、“忍者部隊”は笑みを浮かべて続けた。

「三番だと、みんなにヒガまれて辛いですね。ところで、村木さんは何番でしたっけ?確か、一番ですよね。もちろん、今の順位なんかじゃなくてゼッケンの番号のことですよ~。四谷くん、現在入賞圏外の7番で絶不調の村木さんにコーヒーのお代わりを淹れてあげて下さい。おっと、砂糖は抜きでね。“じいじ”が糖尿になっちゃったら可哀想だから」

 急に振られた四谷先輩は目を白黒させている。

 僕は怒鳴り声を期待してどきどきしていたが、意外にも村木さんは平然としていた。

「おまえ、三番程度でそんなに嬉しい?堀井と井出がこのまま最後まで走りきれば、タイヤの組み換えが無駄になるな。銅メダルのために四本がパアだ」

 村木さんは前を向いたままコーヒーを口にして、左手を開いてひらひらと振って見せた。

「ところが、堀井君は完走できない。完走しても、ほぼ確実に失速しますね。井出君のとこは、ナビが風邪で熱を出してます。今は薬で抑えてますが、だいぶヤバいみたい」

 村木さんの頬がピクリと動いた。ほぼ同時に、西川さんが妙に真剣な顔をした。

「そうなのか?」と、今度は森さんが低い声で口を挟んだ。

 少しだけ、嬉しそうだった。

「ええ。さっき本人に聞いてきたところです。途中で話しかけたときに正直者の井出君の声が、SSのタイムが良いのに、沈んだ感じだったから気になってたんですよ」

「まあ、お気の毒に…」

 ぜんぜん気の毒そうには聞こえない声で“砂かけ姉さん”が呟いた。

 僕らも含めて、みんなの本音を代表した声。

 2台消えれば、クラス順位は2つずつ上がる。

「じゃあおまえは、権藤の追撃を振り切ればいい訳だ」

「まあね。それでこの“セコいハイエナ”は断腸の思いでタイヤを組み替えたって訳です」

「…なるほど」と、“魔神”が嬉しそうにうなずいた。

「運が良ければ、村木さんも5位に上がれますね」

“ハイエナ”が笑う。“魔神”も、静かな笑みを浮かべた。

 僕はだんだん、悪巧みの渦中にいるような気分になっていた。

 恐らく、服部もそう感じていたのだろう。

「…おい、アキラ」と、服部に小声で促されてテントの外に出た。

 雨は上がっていた。

「だめだわ、俺。あの雰囲気に、ついていけね」と、服部が吐き捨てた。

「半分同感。でも、情報的には役に立ったよ」

「…かもな」

 僕らはJリーグの毒気を抜くために、関東工科学院のテントに向かった。

 テントの前には、小野先生の車と、Bクラスの競技車が止まっていた。

 中に入ると、小野先生たちが歓迎してくれた。

 吉山さんや柳沢さんたちも喜んでくれていて、まるで天国のようだ。

 顔色の悪い桜井君さえ、小さく笑みを浮かべてくれた。

「大丈夫?」と、桜井君に尋ねる。

「何とか。小野先生には申し訳ありませんけど、ゆっくり走ってもらってます。2ステでも服部さんと水谷さんにはご迷惑をおかけしますけど、でも、完走だけはしたくて」

「君たちが近くに来たら、すぐに道を譲るからね」と、小野先生が笑う。

「あ、いえいえ。でも、万一のときは、よろしくです」

「ところで、Jリーグの皆さんはお元気でしたか?」

 服部が露骨に顔をしかめたので、僕が答えることにした。

「はい。嫌になるくらい元気です。今は悪巧みの最中です。居たたまれないので、あのテントから逃げてきました」

 それからしばらく、僕らは居心地のいいひと時を過ごした。

 小野先生は現在、ぶっちぎりの最下位な訳だけど、決して腐ったりせずに自分たちの目標達成に全力を尽くす覚悟でいる。60台の競技車両の中では、他の誰にも理解されない自分たちだけのドラマを、自分たちだけで描き出そうとしているのだ。

 小野先生たちはゼッケン15番だから、後ろに45台の競技車両がいる。

 桜井君の体調に気を配りながらゆっくり走れば、最終ゼッケンの通過までは45分のマージンがある。さらに、ラリーのレギュレーションでは各CPの撤収は最終ゼッケンの通過予定時刻から15分後になっているので、単純計算では60分遅れでゴールすれば完走扱いになるという。荒船林道セクションと尾道SSセクションのそれぞれ往復の四箇所で、15分ずつゆっくり走ることが出来る計算になる。

「本当に、そんな走り方をするんですか」

 服部は、真剣な面持ちで質問した。

「ええ。もちろん桜井君の体調次第ですが、あくまで最悪の場合には、です。私も若いころ、ナビをして酔った経験があるから、桜井君の辛さはよくわかります。酷くなると、全身の痙攣を起こしますから。場合によっては、救急病院に搬送されることもあります。でもマナーとしては、通過予定時刻の45分遅れにはなりたくないですね」

「そこまでしても、完走することに拘るんですか」

 本来なら失礼な質問だと思う。でも、どうしても聞いてみたかった。

「はい」と、桜井君が小さな声で力なく答えた。

 ほんの少しの間、気まずい沈黙が流れた。

 その後の話は、小野先生が引き継いだ。

「聞いたところでは、トップの堀井さんは車が壊れているのに全開走行に徹すると言っているそうです。リタイア覚悟の宣言です。井出さんと組んでいるナビの岩下谷さんは、高熱をおして2ステに挑むそうです。彼らはトップ争いをしていますが、優勝争いのためにがんばっているのではないと思います。彼らの気持ちは、桜井君の気持ちと同じものです」

 淡々と語る小野先生の言葉は重く、それでいてどこか優しかった。

「…同じ気持ち」と、服部が呟く。

「はい。順位争いではなく、ラリーに勝つこと。それがどんなラリーなのかは、それぞれのクルーにしかわかりません。今回の私たちのラリーは、完走できれば勝利です」

 服部が息を呑む音が聞こえた。或いは、僕の喉から出た音だったのかもしれない。

「小野先生、よくわかりました。俺も、俺のラリーを戦いたいと思います」

 服部の言葉に小野先生は少し恥ずかしげにうなずき、吉山さんたちは笑みを浮かべていた。本来なら臭い台詞といわれても仕方のない言葉を、服部は本気で言い放つ。だから臭い台詞には聞こえなかった。寧ろ、くすぐったいような共感さえ覚えた。

 そう思いながら一方で、Jリーグ一派のテントで今も続いている筈の悪巧みと馬鹿騒ぎの様子を、僕はある種の憧憬を抱きながら想い描いていた。

 爽やかな情熱とは裏腹の、駆け引きや暗闘で勝負に執着する、Jリーグ流のラリー。

 どちらも、真剣勝負であることに変わりはない。

 それから約20分。楽しい時間は足早に過ぎていった。

「服部、そろそろ時間だぜ」

 腕時計に目をやりながら、促した。

「おっと、そうだな。もうすぐ村木さんたちがスタートする」

 僕らは柳沢さんたちに礼を言ってテントを後にした。

 スタートラインの方を見ると、トップゼッケンの車両は既に並んでいた。

 自分たちのスタート時間まではまだゆとりがあるので、とりあえずそこに向かうことにした。ちょうど“魔神”チームが走り出すところだった。

 ゼッケン2番の“ドクターマリオ”チームが、スタートラインに移動していく。

 挨拶をしようと思って近づいていくと、そこに森さんが笑顔でやって来た。

 森さんは権藤さんの顔をサイドウィンドーからグイッと覗き込む。

 何気なく顔を上げた権藤さんに向かって、何かを呟くのが遠目に見えた。

 直後、権藤さんの表情が露骨に曇った。

 紳士的な権藤さんには似合わない、険しい表情だった。

 ふいに、何か嫌な予感がした。

「どうした、アキラ?」

 服部に声をかけられるまで、僕は自分が立ち止まったことに気づかなかった。

「えっ?ああ、今の見た?」

「森さんのことか?何か、権藤さんに言ってたみたいだな」

「うん、何かね…」

 森さんは楽しげな顔で権藤さんの傍らから離れて自分の車に帰っていく。

 僕と服部は顔を見合わせ、必然的に森さんのところに向かった。

 その間に、仏頂面の“ドクターマリオ”がスタートした。

 その後姿を目で追いながら、“タオパイパイ”号の傍らに立った。

「森さん、頑張ってください」と、最初に僕が声をかけた。

 森さんはちょうど、シートベルトを締め終わったところだった。

「おう、ありがとう。おめえらも、頑張れ」

 森さんは楽しそうに答えた。まるで、遠足に行く子どもみたいに。

「ありがとうございます」と、服部が答える。さらに続けて

「ところで今、権藤さんに話しかけてましたよね。何をおっしゃったんですか」

「激励をな、してやったんだよ。たったの2秒差だから、お互い頑張ろうぜって、な」

「すごいですね、森さん。トップグループで走ってるなんて」

「おお、そうよ!俺も意外でな。尾道の一本目がベストの16秒落ちで、二本目は油断しちまって、40秒落ちだぜ。スピン、こいちまってよ。ジムカーナと、荒船のお陰で、なんとかな。まあ、2ステの結果はともかくよ、今は気持ちよく走ってるぜ」

 森さんは上機嫌で車を発進させて、一台分だけ前に詰めた。

 その後ろ姿を見送りながら、きびすを返す。

 ふいにまた、先ほどの嫌な予感が、また胸の中にじわりと滲んだ。

「…ふう」と、歩きながら服部がため息をついた。

「どうした?」

「いや、森さんもあんな“おじい”顔なのに速いんだなって、思っただけだ。みんな、速いよな。トップの堀井さんなんて、どんな走りしてんだろ」

 僕はチラリと、後ろを通り過ぎるゼッケン6番の黄色いインプレッサに目を向けた。

 5万円で買ったという噂の、“野良猫”以上にオンボロの姿。

 ゆっくり移動しているだけなのに、いろいろなところから異音が響いてくる。

 メカにはシロウトの僕でさえ、車が故障寸前のもののように感じる。

「あの人だろ?」

 服部がうなずく。

 乗っていたのは、少し太めの、ふてぶてしい面構えのドライバーだった。

 何となく

「ドラえもん」の“ジャイアン”を連想する。

 多分トラブルでリタイアしても、苦笑いを浮かべるだけなのだろう。

「行こうぜ」と、服部が力なく呟いた。

「ああ」と、僕が従う。

 僕らはテントに戻り、先輩たちに挨拶をして“野良猫”に向かった。



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