ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

N.第一ステージ、“SS5”逆走・尾道峠(びどうとうげ)


 10分程して、“野良猫”は尾道峠の入り口を通り過ぎた。

 入り口とは、つまり順走の時の方。逆走のSS2は、先ほどの出口側が入り口になる。

 さらに、5分後。指示書のコマ図を右折する。

「コマ図のズレは、相変わらずだね。今度は75メートル」

「補正、よろしく」

「了解。後、300メートルまでノーチェック。でもたぶん、さっきのゴールがSS5のスタートポイントだと思うから、チェックは500メートル先当たりだね」

「7、8分あるよな。ファイナル的には」

「まあね。でも、雨が降っているから、出来れば外に出たくないな」

 濡れることが嫌だというのもあるけど、それだけが理由じゃない。

 服が濡れると、湿気で“野良猫”のフロントガラスが曇る。“野良猫”にはエアコンなんか付いていないから、一度曇ると元に戻るまで時間がかかる。

「暖房全開にすれば、大丈夫だろ。それに一応、曇り止めをガラスの内側に塗ってあるし」

 しばらく進むと、前方に前ゼッケンの車が5台止まっていた。

“野良猫”はその最後尾に停車する。

「路面、びしょぬれだな。どうする、服部?攻められるか?」

「一応そのつもりだけど。正直、あんま、自信ねえな。雨の峠は走り慣れてねえし」

 雨足はそれなり。

 強くもなければ、弱くもない。

 靄は、一時間半前と比べて少し薄くなったのが幸いだ。

 服部は“野良猫”の後ろから傘を取り出した。

「ちょっと、前の車に聞いてくる。おまえは、中にいろよ」

「悪いけど、そうする」

 僕はSS5のペースノートを取り出しながら言った。

 服部がドアを開けたとき、後ろに小林さんたちの車が来た。

「ちょうどいい。やっぱ、後ろに話を聞いてくるわ」

「了解。確かに、その方がいいね。でも、スタート準備の時間がいるから、5分くらいで戻ってくれよ」

「モチ!わかってる」

 服部は情報収集のため、嬉々として傘をさしてすっ飛んで行った。

 情報を必要としているというよりは、誰かと話して胸中の不安を埋めること。

 それが服部の本音なのだろう。

 不安は、僕の中にもある。

 霧の中の幻の件だけじゃない。

 実は上町さんが、染谷先生を知っていたことが気になっている。

 まさかとは思うけど、根性曲がりの“忍者部隊”が武道の経験者なのではないか、と。

 まさかとは思うけど、染谷先生の昔の弟子だったりして。

 でももしそうなら、“忍者部隊・上町”は武道の延長でラリーに参戦しているのではないんだろうか。そしてつまり、僕自身が今回のテーマとしている問題の答は、あの底意地の悪い奴が知っているんじゃないか、ということだ。

 ペースノートに折り目をつけて、ページを捲りやすくし終えたころ、服部が帰ってきた。

 服部は傘の雨露を振り払って、後部に放り込んだ。

 ファイナルではちょうど2分前。

「おかえり。どうだった?小林さんたち」

「順調だって。さっきの区間も、余裕でのったらしいぜ。頂上からずっとオンタイムだったってよ。だいぶ、霧の中の走りにも慣れてきたって言ってた」

 運転席に着くと服部はヒーターを強くし、フロントガラスに熱風が当たるようにした。

「こっちと同じってこと?」

「まあ、そうだな。元レーサーも、だいぶ林道に慣れてきたってさ。ところで、小林さんはプログラマーらしいぜ。石川さんは、漫画家だって」

 短い時間で、服部は付録情報まで仕入れてきたようだ。

「へえ。妙なコンビだね」

「二人共、元はゲーム業界にいたらしい。小林さんは、そのころに趣味のレースをやってたんだってよ。ま、そんなことはともかく、まずい事態だ。当面の敵は小林さんたちだぜ」

 傘を後部のロールバーの間に挟みながら、服部が答えた。

 互いにヘルメットを手に取り、装着する。

「まずい事態。…の、割には楽しそうだね」

「えっ、俺?そうか。追い上げられてるから、確かにマズいだろ。でもそれ以上に、楽しいな。具体的な競争相手が直ぐ後ろにいるんだから」

 いつの間にか、“野良猫”の前に車はいなくなっている。

 ゼッケン15がいなくなっているんだから、ファイナル上は当然なのだけど。

 シートベルトを締め終えるころには、残り時間は1分を切っていた。

「チェックインは、“0”で」

「了解」

 ファイナル上では3秒前に、“野良猫”が動き出す。

 二つ先のコーナーの奥に、CPラインが見えた。

 ファイナル“0”をキープして、ラインを通過。

 笛の音が聞こえるのと、CPボタンを押すのはほぼ同時だ。

「よし、バッチリ!」

“野良猫”はCP車両の横に止まり、僕はCPカードを受け取った。

 記載タイムは“9時07分23秒”で、発行順は14。つまり、“野良猫”の前には2台のリタイヤ車両がいる。当然かもしれないけど、あれから減ってはいないようだ。

「先にSS5のスタートラインがありますから、そちらまで移動してオフィシャルの指示に従ってください」

 僕と服部は、ほぼ同時に

「はい」と答えた。

 ひとつ先のコーナーを過ぎると、前方に2台の競技車が止まっていた。

「基本的な作戦は、さっき同じでいいな。ペースノートは読むけど、あまり当てにしないでくれ。でも、出来るだけ大きな声で、真剣に読む。言うまでもなく、第二ステージのためだ」

「もちろん!俺だってだいぶ慣れてきている。逆走とは言え、距離は大体一緒だろ。ノーミスなら、10秒は詰められると思う」

「それが出来れば、ステージボスの攻略成功ってところだ」

「ゲーム業界チームなんかに負けるか。この二ヶ月、頭の中では毎日ここを走ってたんだ」

 甲高いエンジン音を轟かせて、ゼッケン13番の車がスタートした。

 前の車がスタートラインに付く。

“野良猫”も少しだけ移動。

 傘を差した若い女の子のオフィシャルが、スタート時間を書き込んだカードを持ってきてくれた。

「9時11分、スタートです。それと、スタートから2.2キロ地点と6.4キロ地点の頂上付近にリタイア車両が止まっていますので、気をつけてください」

「はい、ありがとうございます」

 頂上付近の車は、たぶん“ラッキョウ”号だと思った。

 僕は窓を閉め、ペースノートを取り出す。

「頂上までのコーナーの数は、84。そのうちのヘアピンの数は16個。落石や落ち葉や、コケもいっぱいだ。それに向こう側よりも、こっちの方がペースノート読みはずっと難しいと思う。だから、走る方だって難しい筈だ」

「俺もそう思う。だから10秒速く走れれば、ステージクリアたぜ」

 僕は小さくうなずいた。

 このハードルは高い。でも、服部の気合を削ぐようなことを言うつもりはない。

 雨の中、ゼッケン14番がロケットスタートで発進した。

 一瞬、トランク部が小さく沈んだ直後、蹴りだされるように飛び出していった。

「発進は、あのイメージだな」

 服部が自分に言い聞かせるように呟いた。

“野良猫”はオフィシャルの指示通りにスタートラインに移動する。

 服部はハイビームに切り替え、補助燈をオンにした。

 闇を真っ白く切り取るライトの光芒に、白金色の雨が無数に輝いている。

「30秒前です」と、オフィシャルが窓の外から声をかける。

「リタイアしたクルーには悪いけど、2.2キロ地点に目印の車があるのはラッキーだな。そこ辺りまでが、稼ぎどころだったよな」

 僕は、知らぬ間にニタリとしていた。

 青田さんのリタイアを見てうろたえていたときとは異なる、頼もしい言葉だ。

「そう。上りセクションは、ちょうど2.1キロから危険箇所が多くなる。たぶんリタイアしたクルーも、あの辺りのコケにでも足をすくわれたんだと思うよ」

「気をつけようぜ。でも、攻めるとこは攻める!」

「当然。雨のおかげで、靄も薄くなってるし」

「10秒前!」と、オフィシャルの声がかぶる。

 服部は小さくうなずき、ローギアに入れる。

 そのまま、エンジンの空ぶかしを始めた。

 5秒前からカウントダウンを始めたオフィシャルの号令が、エンジン音に重なる。

「…2、1、ゼロ!?」

“野良猫”は、弓を放つ勢いで発進した。

 ラフなクラッチ操作で、ぬかるみに絡んだ右前輪が僅かにぶれる。

「ストレートエンド、右2!その先、もうひとつ右2!」

 2速全開のまま外側からアプローチし、コーナーの奥にクリッピングポイントを確保。僅かな横Gを左後輪で受け止めながら、そのまま次の右コーナーに突っ込んでいく。

「ストレート70!先、右2!」

 コーナーを抜けた瞬間に3速へシフトアップ。

 次のコーナー直前までを3速キープし、アクセルを少し抜いてブレーキングと同時にシフトダウン。ハーフアクセルで右2のコーナーに飛び込んだ。

 ややイン側にラインをとり、出口付近の手前からアクセルを全開に!

「ストレート50!その先、複合3連。右2から3、続いて左2!」

 ここでも、服部の操作に揺らぎはない。

“野良猫”は安定した姿勢のまま、このコーナーもクリアした。

 いいリズムだ、と思う。

 ペースノート読みと運転のリズムが合っているというよりは、ビデオで予習してきた記憶からイメージを組み立てられているのだろう。

 いちいちこちらの指示に返事などしないのも、そのためかもしれない。

「右3、その先、左2からもうひとつ、左2!」

 雨のことも、霧のことも、僕の念頭から消失している。恐らく、服部も。

 ヘッドライトが描き出す無彩色の影に向かって、全開で切り込んでいく。

 そのために、本能的な恐怖心に耐え、全知全霊を賭して!

 僕はペースノートを読み続け、服部は必死の形相でアクセルを踏み続けた。

 やがて、スタートから2km地点を通過した。

「右2から、左の2!その先、そろそろリタイア車両がくる!」

「わかった!」

 二つのコーナーを抜けた直後に、路肩の白い競技車両が目に入ってきた。

 フロントバンパーが折れ、右フェンダーが潰れていた。

 潰れた屋根と大きく凹んだ運転席側のドア。

 でもそれ以上に痛々しかったのは、右のタイヤがありえない角度で『くの字』に曲がり、ホイール面を斜め上空に向けていたこと。

 ドライバーたちの姿はない。車だけが、まるで、鋼鉄の墓標のような姿でそこにいる。

 死んだ巨大な怪物の、真っ白い“しゃれこうべ”のような。

 一瞬だったか、惨状は記憶に強く残った。

 恐らく、コケで足元をすくわれ、ガードレールにぶつかって転倒したのだろう。

「この次!!左の2、ストレート50で右ヘアピンが来る!」

 心に忍び込もうとしている冷気を振り払うように、僕は大声で叫んだ。

 ペースノートの情報を伝えることよりも、役払いのつもりで。

「おう!?コーション区間だ!!」

 攻めの走りから、守りの走りへ。

 一転して“野良猫”は慎重になる。

「右2。その先、ダブルコーション!コケ。その先、右2の逆バンク、イン側側溝!奥の左側ガードレールの前に落石!その先、ストレート60!…」

 そこから約3キロ、服部は頂上区間の直前まで丁寧な操作を続けた。

 そしてどういう訳か、僕もペースノートをロストしないで済んだ。

 頂上の直前には、一見無傷に見える“ラッキョウ”号が止まっていた。

 ハイビームライトに照らし出されるピカピカの白いボディが、逆に痛々しかった。

 ここでも、ドライバーとナビの姿はない。

「頂上、クレストで左2!先、ストレート80!稼ぎどころだ!」

「了解!!」

 下りに入ると、“野良猫”は少しだけ野生を取り戻した。

 僕は二回、ペースノートをロスとしたけど、ヘアピンの通し番号作戦のおかげで直ぐにロストポイントを確認できた。

“野良猫”は一度、側溝にまともに突っ込んでしまったが、幸いにもアンダーガードに弾かれて、元に戻れた。落石を踏んで飛ばされたり、落ち葉に足をすくわれてコースアウトしそうになりながら、ジタバタもがくようにしてゴールラインを通過した。

 笛の音と同時にCPボタンを押した瞬間、ドッと音を立てるように汗が噴出したような気がした。熱い汗と冷や汗が、半々に。

“野良猫”はよたよたと計測車の横にたどり着き、僕は窓を開ける。

「ゼッケン16番…」

 かすれた声で、それだけ言うのがやっとだった。

 ペースノート読みで大声を出しすぎたことによる酸欠かも。

 ラリコンの表示を見ても、視界がかすんで数字の意味を読み取れない。

 疲れで頭がバカになってしまっていることを自覚した。

「はい、お疲れ。どうだ、調子は?」

 どこかで聞いたような声に顔を上げると、大林さんの怖い顔が笑っていた。

「あ、どうも。もう、ヘロヘロみたいです」

 CPカードを受け取りながら、答えた。

「後半も頑張れ。出口のコマ図辺りで、1ステの正解表を配ってるから受け取るように。それとな、青田はオフィシャルの車で中継に戻ったぜ。愚痴でも聞いてやれや」

「はい。でも、同じ量の僕らの愚痴も聞いてもらうつもりです」

 逃げるように走り出した“野良猫”の窓に、大林さんの笑い声が聞こえてきた。

 20mほど進んだところで、ラリコンの操作を忘れていたことを思い出した。

 必要なキー操作をしようとして、ようやく気づいた。

「服部、止めてくれ!」

「どうした?」と、ぼんやりした声が返ってきた。

“野良猫”は停車した。

 僕から見えるバックミラーには、オフィシャル車両のテールランプが映っている。

「信じられないけど、さっきより18秒速かったみたい」

「…えっ」

 服部は、不思議な生き物に遭遇したような目で僕が差し出したCPカードを見ている。

「間違いない。“9時21分30秒”だ」と、僕が念を押す。

 服部はのろのろとヘルメットを外した。

 僕も、のろのろとヘルメットを外す。

「なんで?」

「“なんで?”って…。そんなこと、僕に聞かれても解らないよ」

 この時ようやく僕は、このセクションが終わった後の服部の顔をまともに見た。

 汗まみれなどという、生易しい言い方では不足。

 川から引き上げられたばかりの河童、といったずぶ濡れ状態の姿だ。

 絶望的に疲れきった虚ろな表情は、平素なら笑い出してしまうように滑稽だった。

 笑えなかったのは、多分自分も似たような顔色だと感じたからだ。

 服部は10秒ほど、CPカードをじっと見ていた。

「そうか。俺、10秒以上詰めたのか」

「“ミッション、クリアー!”で、次のステージだ」

 服部の頬が、ニタリと歪んだ。

 ギアをローに入れ、スタートしようとした。

「ちょっと、待て。あと少し」

 服部の動きが止まる。

 僕は耳をそばだて、遠方から響いてくるエンジン音に集中する。

 同時に、ラリコンの時間表示をじっと見る。

 エンジン音はどんどん近づき、バックミラーにヘッドライトのビームがチラつく。

 やがて笛の音とともに、ゼッケン17番は計測ラインを通過した。

 知らぬ間に、口から漏れた軽い舌打ちを意識する。

「もういいや。行こう」

 服部を促すと、“野良猫”はのそのそ動き出した。

「どうだった、小林さんとこ?」

「たぶん1、2秒負け。ウチだけがタイムアップって訳にはいかないみたいだ」

「チェッ!レーサーチームは、しぶといなあ」

「全く。一喜一憂の連続だね」

 尾道峠の出口に待機していたオフィシャルから正解表を受け取り、国道に出て中継ポイントに向かう。

 何はともあれ、これで第一ステージは終了した。

 とりあえずは、無事に。



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