ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

P.第2ステージ・尾道峠逆走(SS6)


 予定スタート時刻は、午後11時16分。

 でもスタートラインを出たのは、予定よりも2分ほど早かった。

 スタートフラッグを振られて送り出された第一ステージとは異なり、前ゼッケンの小野先生たちに続いて適当にスタートした。

「一応確認しておくけど、基本的に第2ステージは1ステの逆走。とは言っても、第1ステージも“尾道”は順逆両方走っているから、同じと言えば、同じだけど。つまりSS6は、SS5と同じ。1ステの尾道逆走からだ。最後のSS7は、SS5と同じ。ただし、“荒船”は1ステの順走方向の1本だけ。“尾道”の順逆の繋ぎにね」

 60台のラリー順走で尾道峠を通過するのに、約60分。逆走はその後じゃないと出来ないから、どうしても時間稼ぎの繋ぎ区間が必要になる。

「了解。でも、雲が晴れて、風が出てきたから靄は消えたみたいだ」

「うん。恐らく、“荒船”の霧もね」

「そりゃあ、朗報…て、訳でもねえなあ」

「そうだね。経験値を上げるなら、霧の中を走る方がいいのかもしれない」

「どっちにせよ今は、小林さんたちと競うには、影響ねえな」

 僕はうなずく。

 経験値を上げるのは、これからラリーを地道に続けていけばいいことだ。

 今のチーム“野良猫”の目標は、後ろゼッケンの“レーサー”チームに勝つこと。

 もちろんタイム的に勝つことが重要だけど、でもそれは目的達成の手段に過ぎない。追い上げてくる敵を振り切ってゴールすること。それが今日のラリーの目的になった。

「小野先生たちに教わった。ラリーに勝つことと順位は別の話だ。だけど僕らの場合、小林さんたちに勝たなきゃ、このラリーに勝ったことにはならない」

「早い話が、ゼッケン17に競り勝たなきゃならねえ」

「9点の差は、確かに際どいよ。林道SSで5秒ずつ詰められたら逆転される。路面が良くなれば、レース経験が生きてくるだろうからね。それに、ナビ減点も加わるし」

 第1ステージのナビ減点は、偶然良かった。

 つまり逆に言えば、運は既に使ってしまっているのかもしれないということだ。

 貧乏性の僕は、幸運についてそんな観念を持っている。一度掴んでしまえば幸運はしばらく続くというギャンブラー的な考えを持つ楽天家たちを、羨ましく思う。

「だからアキラも、せいぜい頑張ってくれ。総力戦だ!」

「わかってる」

 コマ図の指示で、尾道林道の入り口を右折する。

 コマ図間距離のズレは、49メートル。

「あれ。さっきよりズレが少ねえんじゃね。走行距離は長い筈だよな」

 服部が真剣につぶやいた。

 先ほどは、荒船林道の出口からここまでで53mのズレだった。今度は、中継からだからその4倍以上の距離を走ってきたことになる。服部の疑問もうなずける。

「計測に間違いはないと思う。タイヤ、思った以上に磨耗しているのかもしれない。ブロックが磨り減って、直径が小さくなったのかもね。とにかく、この数値で補正するよ」

「了解!じゃ、任せた」

 よく整備されてる国道から、廃道のように荒れた小道へ。

 300メートルほど進むと、前方に複数の赤いテールランプが見えてきた。

 車の外に出て話をしているクルーもいた。

“野良猫”は、その最後尾で足を止める。

 風はそれなりに強く、気温はさらに下がってきている。

 路面は、先ほどとあまり差のないハーフウェット。

「時間、あるよな」

「10分ぐらい」

 前に止まっているのは、ゼッケン15の小野先生たちだ。

 僕は助手席の桜井君に、服部は運転席の小野先生に声をかけた。

 十分に休んだ後なので二人とも、元気そうだった。

 やがてゼッケン17のランサーEvo.7が到着して、小林さんと石川さんが出てきた。

「やあ、参ったよ」

 僕らが声をかける前よりに、小林さんが口を開いた。

 石川さんは、傍らで苦笑いを浮かべている。

「あんなにヤラれているとはな。お互い、仕切りなおしだ」

「はい。ここからが勝負です」と、服部が宣言した。

「よし、望むところだ。SSごとにマッチプレイでコーヒーでも賭けるか、服部くん?」

「おっ、いいですね!喜んで、受けます!!」

「よし!小野さんたちも、如何です?ひと口、のりませんか」

 運転席を覗き込みながら、小林さんが言った。

「いいえ、私たちは遠慮します。また次の機会にでもお誘いください」

 小野先生は明るい声で、きっぱりと拒否した。

 小林さんたちも事情を知っているはずだから、断られることは承知で誘ったのだろう。

「そりゃあ、残念。でも、ゴール会場では一緒に飲みましょうね」

「はい。是非」

 ゼッケン14番が前に詰めたので、小野先生たちも続いて前に動いた。

 それが合図になり、僕と服部も“野良猫”に戻った。

「オプションの楽しみが増えたぜ」

「そうだね。だけど、あまり煽られるなよ。無理をさせようとする小林さんたちの罠かもしれないぜ。9秒のマージンを使って逃げ切れれば、勝てるんだ」

「おまえ、考え過ぎ。でも、まっ、熱くなり過ぎないように気をつけるよ」

 確かに考え過ぎかもしれない。

 これも、“Jリーグ”の魔人同盟に毒された結果かも。

 ヘルメットをかぶってシートベルトを締め終えたのは、ファイナルで2分前。

「ファイナルは補正済みだから、チェックインはゼロで」

「了解。その後は、スタートラインまでフリー走行だな」

「イエス」

 小野先生の車が、ヘッドライトを点灯させた。

 しばらくすると、じわりと発進していく。

「もしかしたら、途中で追い抜くことになるかもね」

 ナビの桜井君の青白かった顔色が脳裏をよぎる。

「そうだな。でもたぶん、広いところで止まってくれると思うぜ」

 僕もそう思いたい。でも、追いついたときに必ず幅員の広い区間だとは限らない。

 恐らく、同じ不安を服部も感じている筈。…と、考えていると気がついた。

「あっ。でも、小林さんたちも小野先生たちを追い越すことになるから、条件は同じか」

「ああ、そうか。オレ等、バカじゃん」

 つぶやきながら服部は、“野良猫”のヘッドライトをつけてハイビームに切り替えた。

 とたんに、世界が白く輝きだす。

 ファイナルがマイナス5秒を示したとき、“野良猫”はのそりと動き出した。

 ファイナル“0”をキープし、ゆっくりと。

 二つコーナーを過ぎると、前方の奥に9CPのボードが見えた。

 約二時間半前に通過した、7CPと同じ位置。

 そのままラインを通過し、笛の音を聞いて計測車の傍らへ。

「ゼッケン16!11時44分23秒」

 僕の声にオフィシャルがうなずき、無言でCPカードを差し出した。

 それを受け取り、時刻を確認する。カードの記載は“11時44分24秒”。

「先に進んで、オフィシャルの指示に従って」

 そっけなく、中年おじさんのオフィシャルがつぶやいた。

 声に疲れが滲んでいる。

 恐らく、僕らが集合する一時間以上前の早朝から準備をしていたのだろうから、彼らも20時間以上のボランティア勤務になっているはずだ。

「はい。ありがとうございます」

“野良猫”はゆっくりと発進。

 一応僕は、ラリコンの再スタート時刻を修正する。カードはホルダーの中へ。

 ひとつ先のコーナーを過ぎると、先ほどと同じところにスタートラインが見えた。

 その前には、ゼッケン“14”と“15”の2台の競技車両が並んでいる。“14”は、フォグライトも点灯しているから、スタートラインの周辺はメチャメチャ明るい。

 その後ろにつけて停止すると、若い女のオフィシャルがSS6のスタート時刻を記したCPカードを持って来た。

「11時49分スタートです」

「はい」

 カードを受け取りながら、確認する。

 直後にカウントダウンの声が聞こえてきて、ゼッケン“14”がスタートした。

 四輪駆動のランサーEvo.8が、ホイルスピンをさせて発進した。

「速い…」

 自分の声とは思えない、無感動な声でつぶやいていた。

「こっちだって、パワーじゃ負けてねえぜ」

「ああ」

 服部が、バックミラーでちらりを後ろを見た。

“レーサー”チームのマシンは、ランサーEvo.7。Evo.8と同じトラクションコントロールシステムを搭載できる、とカタログで見たことを思い出した。四つのタイヤにエンジンパワーを均一に伝達するのが従来の四輪駆動。“野良猫”はこのタイプだ。でも、ACDという駆動システムの組み込まれたEvo.7以降の競技車は、路面の変化に応じてそれぞれのタイヤに理想的なトルク配分ができるようにエンジンの力を分散させることが出来る。早い話が、悪路でもタイヤに無駄なスリップをさせないシステムなのだ。

 アクセルをちゃんと踏めるドライバーなら、特に悪路では有効な武器になる。

「ところで、小林さんたちのランサー、ACD搭載してんの?」

「ああ、そう言ってた。エンジンは少しタレてるけど駆動系はEvo.9並みだって」

「じゃ、ヤバいのかな」

「いや。関係ないね。俺たちの気合の問題だ」

 服部は能天気で直情型だけど、こういうときは頼もしい。

 小野先生のインプレッサがスタートした。

 静かで巧みないぶし銀のクラッチ操作、とでも言うべきなんだろう。

“野良猫”がスタートラインに移動する。

 直後に、僕と同じ年ぐらいのオフィシャルが服部の横に来た。

「インフォメーションです。1ステで落ちた2.1キロ地点のインテグラはそのままですから、気をつけてください。それと、スタートから3.7キロ地点に事故車両があります。通過にはあまり支障ないそうですが、気をつけてください。スタート時刻は予定通りで」

 僕はラリコンの操作とペースノートの準備を終えた。

 服部も補助灯を点灯させ、ヘッドライトをハイビームに切り替えた。

「事故車って、ゼッケン1の堀井さんかな」

「わかんねえ。でも、敵が一台減った。そうだよな」

 そう口にして服部がニタリと笑う。

「イエス」

 青田さんのリタイア姿を思い浮かべながら、僕は答えた。

 外から、

「30秒前!」の掛け声がかかる。

「1ステの区間タイムは、10分30秒。9分台で走るってのは、無理かな」

 本来なら僕は、服部のこのとんでもないハッタリ宣言を否定すべきなのだろう。

 服部も、僕が拒否するものと思っていったのかもしれない。

 でも、こいつの台詞の中にはチーム“野良猫”の本音がある。

「じゃ、ペースノートはひとつ先のコマを読むことにする。もちろん、出来る限りで」

「そうしてくれ。往復だけど二回走ったから、ビデオで観てきた記憶が生かせると思う。ペースノートのひとつ先を読んでもらえれば、最高だ!」

「10秒前!」

 先ほどの同年輩オフィシャルの気合の入った声だった。

 服部がローギアにシフトする。

「このストレート先は“右の2”、さらにその先はもうひとつ“右の2”だよ」

「そんな感じで、見えているコーナーのひとつ先を頼む」

“野良猫”のエンジンが咆哮を始めた。

 戦闘開始の雄叫びだ!

「5秒前!4!3!2!1!GO!!」

 慣れてきた衝撃と加速G。

 目前に右コーナーが迫る。

「先右コーナー後、ストレート70!」

 服部は無言でアクセルを踏み続けた。

 僕にも、服部がペースノートを聞いているのかどうかの判断がつかない。

 それでもただ必死で、目前よりひとつ先のペースノートのコマを読み続けた。

 強烈なライトが描き出す、モノクロームの高速世界。

 光と闇に彩られた、流れ去る木々の光景の奔流。

 ベテランのナビになると、殆ど外を見ないでノートを読むらしい。前後左右のGの変化でコーナーの位置を把握できるというが、僕にとってはそんな技術は魔法にも等しい。

 前を見ては手元のノートで位置を確認し、目の前のコーナーのひとつ先のコマを読み上げる。読みながらまた前を見て、コーナーを確認しながら、さらにそのひとつ先のコーナーの形状をノートから読み取って声に出して叫ぶのだ。

 ベテランナビには加減速のGが位置情報を察知する重要な手がかりになるが、僕にとってはただの敵以外の何ものでもない。フルブレーキとフル加速、横Gと悪路によるリバウンドの上下への衝撃が、殴りつけるように全身の筋肉と内臓を容赦なく痛めつける。

「そろそろ、コーションの連続区間!コケが、いっぱいだ!?」

 短いストレート区間でそれだけ叫ぶ。

「了解!」と、服部が答えた。

 直後に、第1ステージでリタイアしたインテグラの傍らを通過する。

 先ほどとは異なり、何年も前から廃車となって置き去りにされたような佇まいに見えた。

「ストレートエンド右1、その先ストレート40で、右2に!」

 ふいにフルブレーキのエンドゾーンで、“野良猫”がズルリと滑った。

 が、かろうじて側溝の直前で踏みとどまり、ふいにカクンと右に曲がる。

 ひやりとして、腹筋が硬く緊張した。

 が、服部は怯まない。ちらりと見た横顔は、鬼気迫る形相だ。歯を食いしばったままアクセルを踏み続けてストレートから右2のコーナーに飛び込んでいく。

「先、左2!そこからもうひとつ左2!その先、コーションの橋!」

 そう叫んで、気づいた。スタートから3.5キロを過ぎている。

「たぶん、橋の前後にリタイア車!注意しろ!」

「了解!?」

「橋の先、右の2!先、ストレート50!!」

 右コーナーを抜けて橋が見えた一瞬、ライトの光芒が白い車の影を欄干の片隅に浮かび上がらせる。その手前には、組立て式の三角停止板が見えた。

 道の半分近くを塞ぐように停車していたが、通り過ぎることは出来る。

 通り過ぎ様に見えたのは、ゼッケン2の新型ランサーEvo.Ⅹ!

「権藤さんか!?」と、服部の声。

「たぶん!!」

 ちらりと目をやった岩上の暗がりに、ヘルメットを手にしている二人のシルエット。

 その内の一人の口元に、ボウッと赤い火が灯る。

 口元のタバコからたちのぼる煙さえ、見えたような気がした。

 その人が多分、“ドクター・マリオ”の権藤先生。

 岩肌の上には日常と異世界の結界があるのだ。

 勝負のためにリスクを負って恐怖と向き合う、ラリー競技の異世界。

 不幸にして競技を終えてしまった“ドクター・マリオ”は日常的な世界に戻ってギャラリーになり、こちら側の世界の壊れた自車と通り過ぎるラリー車を見つめている。タバコの煙は、その境界を意味しているように思えた。

 そして“野良猫”は、まだこちら側の世界にいる。

 こちら側の世界から一台消えた、とはとても口に出して言えなかった。

 それでも、順位がひとつ上がったと、悪魔の声が耳の奥で囁いている。

“野良猫”は殆ど減速せずに、リタイア車の真横を数センチの差で走り過ぎた。

「ストレートエンドで左1から左の2へ!!」

「オウッ!!」

 服部が鋭く応じる。一瞬の動揺を、ねじ伏せるような勢いで。

「あの複合コーナー先には、キンクス・ストレート!!」

 言った直後、ストレートの中間位置でインプレッサがハザードランプを点灯させて左に目いっぱい寄せて停止していた。

 間違いなく、ゼッケン14の小野先生たち。

 すれ違い様、窓越しに目が合った小野先生は小さく笑った。

 疲れてはいても、まだ自分の戦いを続けている勝負師の笑み。

 抜き去る瞬間、服部はホーンを鳴らして挨拶を送った。

 恐らく、後ろゼッケンの小林さんたちが通過するまで、そこを動かないつもりなのだろうと直感的に思った。こちらの勝負が公平になるように同じ位置に停車したままで。

 服部は“野良猫”に檄を飛ばすようにアクセルを踏み込んだ。

 車体が振動するような獰猛な加速を全身で受け止めながら、左コーナーを立ち上がっていった。横に流れる慣性モーメントを、力尽くで、ねじ伏せるように。

「左2の先、ストレート60!その先、右の1!」

 服部の運転が、シロウトの僕の目で見ても解るほどに変わった。丁寧で洗練された操作を心がけようとしていたスタンスが崩れ、荒々しく戦闘的なものに。

 それが良いことなのか悪いことなのかは解らない。

 どちらかと言えば、たぶん、悪いんじゃないかと思う。

 でも、少なくとも、やたらと熱い気合が入っていることは確かだ。

「よし、このまま行っちゃえ!!この先、右2からもうひとつ右2、すぐに左1!」

 頂上にたどり着くまで、服部は“野良猫”の後輪を2度側溝に落とし、幸いにも勢いに跳ね飛ばされて道の上に戻ることができた。

 僕も2度、ペースノートをロストしたけど直ぐにリカバーできた。

 下りに入っても、服部は“野良猫”を抑えきれずに側溝に一度落とし、立ち木にボディを掠らせ、大きな落石をひとつ跳ね飛ばした。

 下りセクションで僕はペースノートのロストこそしなかったものの、読むタイミングを明らかに間違え、言い間違えもした。弁解できるとすれば、気合を入れるために大声で叫び続けてきた反動で声がかすれ、まともに息も吸えなかったためだ。

「チェック!?」

 服部が吼え、僕はライン上でCPボタンを押した。

“野良猫”が、チェック車両の傍らに身を寄せる。

「ゼッケン16です」

「おっ、お前らか」と、チェック車の“魔人”大林さんが声をかけてくれた。

 CPカードを受け取りながら、僕は口を開いた。

「ゼッケン14は、止まってました。スタート前に、ナビの体調不良を口にしてました。だからリタイアじゃなくて、遅れて来るんだと思います」

「そうか。ありがとうよ。お前ら、ずいぶん速かったじゃねえか」

「ありがとうございます!?」と、服部が答えた。

“野良猫”はゆっくり動き出す。

 僕はヘルメットを脱ぎながら、モニターウィンドーとCPカードの時刻を確認した。

 同じ時刻が示されている。

“11時58分59秒”。

 区間タイムは、9分59秒。

 服部は、出来ないと思っていた“無理”を、達成することが出来た。


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