ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

I.本戦スタート会場


“野良猫”がスタート会場に到着したのは、午後4時08分ごろだった。

 ナイトステージになる本戦のスタート会場は、尾道(びどう)峠から12kmほど離れたところにあるダムの脇にあるドライブイン。

 紅葉見物の帰りらしい一般車両がまばらにいる東側の一角に、廃車ゾンビみたいなラリー車軍団がひっそりとうずくまっていた。

 すでに、殆どの競技車両が揃っている。

 広い駐車スペースを持つそこは、中継のサービス会場にも指定されている。

 そのため、駐車場のあちこちではタープテントが設置中だった。

 タープテント群の多くは、二つ乃至は三つが組み合わされていて、三方乃至は四方をブルーのビニールシートで包まれていた。その床にも、ブルーシートが敷かれている。

「まるで、祭りの前だな。夜店の準備をしているみたいだぜ」と、服部が笑った。

「確かに、ちょうちんでも下げたら似合いそうだね」

 曇天の空は薄暗く、風はいっそう冷たくなった。

「どっか、止める場所をさがそうぜ」

 服部がそう言った直後、僕の携帯電話の着信音が鳴った。

 はい、と返事をした瞬間。

「おい、アキラ!ここだよ、ほら。見えないのか!」

 いきなり、甲高い声が鼓膜に突き刺さった。

 僕は慌てて周囲を見回した。

 そして左後方に、携帯電話を握り締めて両手をぐるぐる回している四谷先輩を見つけた。

 服部が先輩に気づいたのも、ほぼ同時だった。

 先輩の誘導に従って、“野良猫”はJリーグ軍団の片隅に身を寄せる。

「ごくろうさまです」

 車を降りてすぐに、僕らは四谷先輩と松尾さんに挨拶した。

「おう。調子いいそうじゃないの。良かったな、おい!」

 そう言って、先輩はウッヒャヒャッ、と笑った。

 釣られて僕らも笑い返した。

 それから僕ら4人、つまり四谷先輩と松尾さんと服部と僕で、サービステントの設営を始めた。大判のブルーシートを地面に敷き、その上にタープを2セットたてて連結し、四方周囲にブルーシートをビニール紐とガムテープで貼り付けた。

 その作業中、先輩たちは服部にこれまでの経緯を質問し、服部は嬉々として答えた。

 僕も含めて、誰もが楽しげだ。

 でも、レッキと尾道峠の話になると、僕と服部は知らぬ間に不安を口にしていた。

「そりゃ、まあ、あそこは昔からそんなんだから、仕方ない。ムサシノシリーズで使う林道なんか、似たり寄ったりだし、仕方ないのよね~。慣れるしか、ないのよね~」

 四谷先輩は苦い顔で笑った。

「ところで、Jリーグの皆さんはどこにいるんですか?」と、服部。

「ドライブインの中。たぶん、メシ食ってる。お前たちも、受付をして中に行けば?」

「でもサービステントの設営、まだ終わってませんよ」

 テント自体の設置は終わっても、椅子やテーブルの設置はこれからだ。

「もう、ここはいいよ。後は、おれと四谷でやっておくから。中に入って、ペースノートの書き直しとコマ図のチェックでもしてこいよ」

 松尾さんが、ドライブインの方に指さした。

「はい。ありがとうございます。そうします」

 そう言って歩き出したとき、服部がふいに足を止めた。

「あっと、そうだ。忘れてました。青田さんが、サービス頼みたいって言ってました」

「んっ?青田?…あの野郎。まあ、いいや。やってやる、って言っといて」

「はい。じゃあ、お言葉に甘えてあの中に行ってきます」

「タイヤは?」

「はい?」

「青田のタイヤ、運ぶのかって聞いてんだよ」

「はあ…。タイヤ、ですか?」

 僕と服部はその言葉の意味がわからずに互いの顔を見合わせた。

「スペアタイヤのことだよ。2本持ってきていたら、1本はここからゴール会場まで運んでやるって言ってるの!…おまえたちも、どうするの?」

「俺は、スペアタイヤなんか1本しかありませんから、載せたまま走ります。でも、サービスって、そんなこともしてもらえるんですか。知っていたら2本持って来ればよかった。ラリーの基本は自己責任だから、自分で運ばなきゃならないものと思ってました」

「おまえ、相変わらず頭固いのよね~。サービスがいるときは、2本持って来るもんだぞ。まっ、いいや。青田に、タイヤがあるならもってこい、って言っといてよ」

「はい」と返事をしてオフィシャルテントの受付に向かった。

 暗くなりかけた空の下、遠方の山々には、うっすらと靄がかかり出していた。


 僕らは受付に行って登録を済ませ、新しいゼッケンとコマ図を受け取った。

 車検はジムカーナSSの前に終わっているので、ここでは行われない。スタートまでにゼッケンを左右のドアに張るだけでいいという。

 車検は終わっているから車には戻らず、そのままドライブインの中に直行した。

 店の中は観光客も多く、思っていた以上に混雑していた。到着したばかりの観光バスから大勢の観光客が土産売りコーナーに押し寄せていた。その先にはパイプテーブルを並べた軽食と喫茶コーナーがあり、その過半はラリーのエントラントたちが占領していた。

 その一画に“ラッキョウ”の青田さんと、ナビの“のび太くん”を見つけた。

「青田さん、ここ空いてます?」と、服部が声をかけた。

「おお。空いてるよ」

 食べていたソバの手を止めて、“ラッキョウ”が答えた。

 僕らは彼らの隣に席を取った。

「さっき、先輩にサービスの件、伝えておきました。大丈夫だそうです。四谷先輩が、運ぶタイヤがあるなら持ってくるように、って言ってました」

「おお、そう。そりゃあ、ありがたいじゃん」

「ところで、青田さん」と、服部。

「んっ?何?」

「ラリーって、タイヤ2本積みで来るのが常識なんですか?」

“ラッキョウ”は少し考えるようにそばを一口すすった後に、口を開いた。

「ま、ダートの場合、2本積みはあたりまえだな。ストレートでのバーストなんかだと、同時に前後輪が裂けることもあるし。ターマックならスペアは1本積み。2本だと、20キロ以上は重くなるし。でも、普通はサービスに1本預けておいて、中継で車載のスペアタイヤも使って、前輪だけ交換する。…おまえ、1本しかスペア持ってきてないの?」

「ええ、まあ。1本だと、ヤバいっスか?」

「今日は問題ないよ。でも、俺なんかは、1ステ後の中で前輪のタイヤは交換するつもり。6分山くらいのタイヤが良く食いつくから。Bクラスの奴等なんかは、大抵そうするぜ。おまえ、タイヤの残りヤマは、どれくらい?」

「前輪は、五分を切ってます。後輪は、七分くらいはあのます」

「おお。それなら、中継で前後タイヤのローテーション交換すればいいじゃん。でも、今日はその必要ないかもな。雨、降りそうだし。だからタイヤ、減らないかも、じゃん」

「青田さん、質問」と、僕が口を挟んだ。

「なんだ、アキラ?」

「前輪の交換とか、ローテーション交換したときって、ラリコンの補正はどうするんですか?」

「そんなの、ナビが何とかするに決まってんじゃん。コマ図ごとに補正をとる。クルーによっちゃあ、オドを取り直す。ま、俺んとこはコマ図ごとの二次補正で対処する。な?」

“ラッキョウ”に視線を投げられた“のび太くん”は、小さくうなずいた。

「なるほど。じゃあ、僕もそうします」

「ま、せいぜい頑張れ。どうせ、ウェットコンディションじゃあ、そう速くは走れねえさ」

 このとき、“ラッキョウ”は服部への皮肉のつもりではなく、難しいコンディションに挑む自分自身に向かって言った台詞だったのではないかと思った。

“ラッキョウ”は食べ終わったソバの器を返却棚に戻して、同じ席に戻ってきた。

 その後、僕らは“ラッキョウ”チームとコマ図への書き込みの確認とペースノートの読み合わせをした。危険箇所の確認と検討がメインだった。

“ラッキョウ”と“のび太くん”は僕らのトカチンカンな質問にも丁寧に答えてくれた。互いのペースノートとコマ図を広げ、頭を突き合わせて話し合っていた。

「ねえ、“どろどろウェット”がとても苦手な青田くん」

 不意に上から声をかけられて、僕らは同時に顔を上げた。

“ラッキョウ”は憮然とした表情で目を見開いていた。

 そこには、ニヤニヤ笑う“忍者部隊・上町”が立っていた。

「なんスか、その無礼な言いがかりは」と、“ラッキョウ”が低い声でつぶやく。

「じゃあ、“ヌタヌタ路面”が得意な青田くん」

“忍者部隊”の顔からはニヤニヤ笑いが消えていない。

“ラッキョウ”はますます苦い顔になった。

 一瞬、それを見た“忍者部隊”の頬に浮かぶ笑い皺がいっそう深くなったような気がした。この人は、相手を嫌な気分にさせるのが好きなのかもしれない。

「…なんか、用スか?」

「そう。ちょっとした相談。うちの会長のこと」

「村木さん?どうかしたんですか」

「なんか、調子悪いみたい。今年に入ってから、あんまりタイムも出てないじゃない」

「まあ、そうみたいッスね。今年はまだ、優勝ないし。今日は、チャンスじゃん」

「もしかしたらさ、引退なんか考えてんじゃないかな、と思ってさ」

 僕ら一同は、測ったような同じタイミングで顔を見合わせた。

 少なからぬ、ショッキングな言葉だった。

 なぜか、あの鳥小屋事件が直ぐに脳裏に浮かんだ。

 同時に、森さんのナビで中継に戻ってきたときの、深刻そうな村木さんの表情も。

「…まさか。ハンドル握りながら死ぬような人だぜ」

“ラッキョウ”は、店の中に村木さんの姿を探している。

 でも、“インディアン魔神”の姿は見当たらなかった。

「そう思ってた。でもさ、今日なんかも元気ないじゃない」

「ああ、まあ。確かに…でも、なあ。…それで、どうしろって言うんです?」

“ラッキョウ”が口を尖らせた。少しだけ、心配そうな声で。

「大したことじゃないよ。たまには、青田くんから村木さんに声をかけてやってくんない?世間話でもなんでもいいから。どうせ、サービスも一緒なんだしさ」

「まあ、そのくらいのことなら、いいッスよ」

“忍者部隊”は、よろしくね、とヘラヘラ笑いながら立ち去った。

「村木さん、引退するんですか?」

 服部が“ラッキョウ”に声をかけた。

「するわけ、ねえじゃん…」

 それからしばらく、“ラッキョウ”は無口になって考え込んでいた。

 僕らは何となく居づらくなり、先に席を立って“野良猫”に戻ることにした。

「もし村木さんが引退するならさ…その前に」

 店を出てすぐに、服部が小さく呟く。

「…一本でもいいから、林道のSSで勝ってみたいよな。無理かもしれねえけど…」

 僕は服部をちらりと見た。

 勝気な性格の、新人ラリードライバーの横顔だった。

 そして何となく、その言葉がわかるような気がした。

「いや、本当に引退するつもりの相手なら、きっと勝てるよ」

 服部のために言ったつもりはない。

 これは、僕らと“野良猫”の決意なのだ。


 サービスパドックに戻ると、服部は“野良猫”にゼッケンを張り始めた。

 僕は、テントの設営を終えてタバコを吸っている“歩きウンコ”先輩を捕まえて、あれこれ質問をした。コマ図の指示や書き直したペースノートの確認から始まって、SSラリーのノウハウについて、チェックインやスタートの仕方など。

「お前まるで、“なぜなぜ小僧”みたいにしつっこいのよね~」

 そんな文句を言いながらも、先輩は細かく教えてくれた。

「いいか!いいか!…本当にわかってるか!」を繰り返しながらの、30分に及ぶ熱血指導だった。

 その間に服部は他のドライバーたちのところに挨拶に行き、情報収集に徹している。

「ところで、先輩。服部がジムカーナSSでこんなに速いって、予想してましたか?」

 四谷先輩は、きょとんとした表情になった後に、ブンブンと首を横に振った。

「驚いちゃった。あいつ、夏の間に頑張ったんだねえ」

「この後も、勝算ありますかね」

「う~ん…わかんない。普通の峠なら、マシンコントロールは出来てるかもしれないけど」

「尾道峠じゃあ、難しい、と?」

「いや。…ほら、あれ」

 四谷先輩は遠くの山を顎でさした。

 夜の帳がおり始めている晩秋の山々は、厚い雲の下でぼんやりと霞んで見える。

「雨の予感…ですか?」

「そう…それもあるし…」

 その時突然、

「うるせえ、馬鹿野郎!?」という怒鳴り声が轟いてきた。

 顔を向けると、遠くで“ラッキョウ”が“魔神”の前から逃げ出すところだった。

「馬鹿だね、あいつは。どうせ、余計なことでも言ったんだろ」

 いつの間にか、テントの奥の椅子に赤いレーシングスーツ姿の色黒の男が座っていた。

 その言葉は、その人が言ったらしい。

 年は“魔神”たちと同じくらい。丸眼鏡に、くわえタバコが良く似合う。

 まるで、赤ん坊のときから眼鏡をかけてタバコを吸っていたんじゃないかと思えるほど。

「ああ、西川さん。いつの間に」

 ゆっくり手を振る“西川さん”に、先輩がへらりと笑う。

「四谷君、コーヒーくれる?」

「ほーい」と、先輩が答えた。

「あっ、僕が入れます。僕も飲みたいですから」

 僕は三人分のコーヒーを入れる準備を始めた。

「西川さん、今日は村木さんのナビでしたっけ」と、四谷先輩が問う。

 えっ、と僕は口の中で呟いた。

 そう言えば、村木さんに挨拶したときも、今日のナビが誰なのかは見ていなかった。

「そうだよ。この前壊したデフ、まだ直んねえんだよ。それで、村木さんのナビ、やってやることにしたんだよ。急に、頼まれてよ」

「エボ6のフロントデフじゃあ、工賃込みで40万円コースだ。高いのよね~」

「まあな。でも、しょうがねえよ。会社の消費税もまとめて払う時期だから、痛えんだよ」

「普段は、ドライバーをなさってるんですか?」

 僕はコーヒーを西川さんに差し出しながら言った。

「まあな。でも、Jリーグじゃねえぜ」

 西川さんのプロフィールについては、すぐに先輩が解説してくれた。

 自販機のメンテナンス会社を経営する人物で、年齢は森さんよりもひとつ下らしい。ラリーを始めたのは40年近く前なのに、中30年のブランクがあるという。

 孫が二人いる、超ヘビースモーカー。

「ところで、さっき上町さんから聞いたんですけど、村木さん、引退を考えてるんですか?」

 僕の問に、先輩と“スーパースモーカー”の顔から表情が消えた。

 つかの間の沈黙の後、先に先輩が口を開いた。

「初耳。でも、あり得るかもね~。西川さん、村木さんにそんな様子あります?」

「いやあ、どうかなあ。村木さん、確かに今度は急に参戦する気になったようだけどよ。でも、引退はなあ…。少なくともそんな話はきいてねえけど。ないとはいえねえか」

 僕らの視線は、通路を隔てた反対側の駐車スペースで、仏頂面でタイヤの空気圧を確認している村木さんの方に向いた。

 それに気づいたのか、突然村木さんが顔を上げ、“魔神”に相応しい邪悪な視線をギロリとこちらに向けた。反射的に僕と先輩は“明後日”のほうを向いたが、西川さんはニタリと笑って村木さんに手を振った。

「いつかは引退する。遅いか早いかの差だ。最後はみんな死ぬのと同じだよ」

 ぽつりと呟いて、西川さんは大きくタバコの煙を吐き出した。



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