ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

H.尾道峠(びどうとうげ)のレッキへ


 コンビニから15分後、僕らは尾道峠の入り口に着いた。

 ルートブックのコマ図に従い、国道から林道へ。

 でも冬季閉鎖用のゲートを過ぎると、そこは別世界だった。

 最初、ミスコースをしたんじゃないかと自分を疑ってコマ図を見返した。

「おい。林道って、みんなこんなにヒドイのか?」

 これが、僕の第一印象。

 尾道峠は、今はバイパスになっている国道の旧道で、地図で観ると一応は県道扱いになっている。だから、一般車が普通に通っている道路を想像していた。距離は約10km。前半は登りで、後半は下りという、典型的な峠道のレイアウト。

 前回出た計算ラリーでも林道扱いの道はあったから、似たような雰囲気と思い込んでいた。実際、ネットで公開されていた尾道林道の車載ビデオ映像でも、そう思えたし。

 でも、実際に見るとまるで違う。

「…ひでえな、これ。まるで、廃道じゃねえか」

 たぶんこの率直な言葉が、服部の第一印象。

 とにかく、狭いのだ。

 もちろん、センターラインなどない。うまくエスケープゾーンを見つけなければ、対抗車両ともすれ違えない。ガードレールさえ、ところどころにしか設置されていない。

 幅員はそれなりにあるように見えるけど、うっそうと茂った木々が崖側から道路を覆い隠している。 反対側は、聳える崖。そこから転がり落ちてきたらしい大小の岩が、そこここにある。工事中のような凸凹の路面のあちこちには砂が浮いている。

 服部は岩を避けながら、ゆっくり“野良猫”を進めていく。

 しばらく進むと、停車している前走車の後姿が見えてきた。

 入り口からここまでは、約1キロ。

 競技車両は、ほぼゼッケン通りに並んでいる。

 その先に、SSセクションのスタートラインが設置されていた。

 前走車の後ろで、“野良猫”は立ち止まる。

 ちなみに、前走車はBクラス車両。

 レッキ中はゼッケンなど関係ないので、ここでの出走は並んだ順なのだ。

「たぶん、本コースはこんなに酷くないよ」と、僕。

「そうだな、きっと。コース上から岩ぐらい退けておいてくれているよな」

 なんとなく、空を見上げた。

 雲は、いっそう灰色に濃くなっているように思える。

 こんな路面の荒れた林道で、雨でも降られたらどうなってしまうのかと不安になる。

 午後1時30分、予定通りにレッキ開始。

 一台ずつ、適当な間隔をあけてスタートしていく。

 やがて、“野良猫”の番。

 スタートライン横のフィシャル車両のところで停車し、指示を受けた。

「この林道区間は道路使用許可をうけていますが、まだこの時間では占有許可ではありません。なので、対向車が来るものと考えて、法定速度内でのレッキを心がけてください」

 恐ろしく堅苦しい言い方の指示だったけど、早い話が安全にレッキしろってことだ。

 警察署が認可する道路使用許可では道路交通法の尊守が義務付けられが、占有許可の元ではその限りではなくなる。マラソン大会での一般公道などと同じ扱いになるという。つまり、占有許可がおりた区間は道路ではなくなるので、制限速度の拘束がなくなる。

 公道でSS区間が開催できるのも、所轄の警察署が発行するこの占有許可書による。

「すみません。ちょっと聞きたいんですけど、この先もこんなに落石があるんですか」

 僕の質問に、オフィシャルはきょとんとした顔で答えてくれた。

「ええ、まあ。コース上の大きな石は、極力排除したつもりですが、小さい石は、跳ね飛ばして走ってください。しかし競技開始後にも、新たな落石も起きます。自己責任の判断で危険回避してください。砂や苔も滑りますから、気をつけて」

 危険だと思ったら、スピードを落せばいい。オフィシャルの目はそう語っていた。

 僕は礼をいい、差し出された指示確認書にサインをした。

“野良猫”は、前方のスタートラインまで移動する。

 服部は、ロールバーに取り付けたビデオカメラをオンにした。

 レッキ映像を残しておけば、後でノートを整理するときに便利だ。

「さあ、いいぜ。準備完了だ」

 ノートとサインペンを手にして、僕は宣言した。

 服部は、やや緊張した面持ちで“野良猫”をゆっくりと動かしはじめた。

 目の前には、すぐに右コーナーが迫ってくる。

「右のヘアピンだ…、ええと、その後は真っ直ぐで、次は、左のコーナーで、…やっぱ、ヘアピンで…、あれ…、ここはコーナーと直線の中間みたいなスラロームセクションで…」

「ちょっと、待て。止めろよ」

 僕の指示で、服部が“野良猫”を止める。それも、以前のようなギクシャクの急停止。

「なんだ?」

「速過ぎる。書ききれない」

「そうかな。ゆっくり走っているつもりだけど」

 いつの間にか後ろに来ていた後続ゼッケンの車が“野良猫”を追い越していく。

「もっとゆっくり行こう。わけの判らないことを言うくらいなら、完全に止まってくれ。それに、ヘアピンは“1”じゃなかったのか。直線の距離も、ちゃんと言ってくれ。大体でいいから」

「ああ、そうか。そうだったっけな。わかった。もっとゆっくり走る」

 そう言いながら、服部はすぐに発進しようとした。

「もうちょっと、待ってくれ。ここまでのセクションを整理するから」

 今回のレッキでは、逆走は厳禁とされている。だからスタート地点には戻れないので、ここまでの部分を、服部のいい加減な“読みあげ”を元に整理しておかなければならない。

「了解。だけど、思っていたよりもずっと難しいもんだな」

「ああ、本当にな。もっと、簡単に書けると思っていたよ、ペースノート」

「俺もさ。三段階のコーナーに分類するなら、簡単だと思っていた。だけど、見ろよ」

 服部は“野良猫”の後ろから前を指差しながら、首をかしげた。

 スタートから200mくらいの、服部が“コーナーと直線の中間みたいなスラロームセクション”と読んだ部分だ。

「ここなんか、先のコーナーが見通せる。だから、この複合セクションはペースノートに書かなくてもいいんじゃねえのかと思ってさ。迷っちまった。たぶん、この先にもこんなセクションが山ほど出てくる。正直、まともなペースノートを作れるとは思えねえぜ」

「確かに。こういうところ、迷ったらシンプルにすることを原則にしないか。だから、ペースノートには書かない。お前の目視を中心に組み立てるんだ。正直、こんな調子だと、たぶん僕も、十分に服部の手助けになるほどの仕事は出来ないと思う。ノートを造るだけでもこんなに難しいなら、タイミングよく読むのだって絶対に不可能だ。だから、ノートに頼ることを最低限にしておいて、服部が確実に速く走れるところを重点的にチェックしておくのさ。砂が浮いていて、滑りやすいところなんかも。つまり、アクセルを踏んでいける直線を探すためのペースノート作り…ってことになるのかな」

 後続車両が停車している“野良猫”の傍らを通過していく。服部はそれをぼんやりと目で追いながら、少しだけ間をおいてから口を開いた。

「…なるほど。コーナーを読むためのペースノートじゃなくて、直線確保のためのペースノートか。…いいな、それ。今の俺らには、その方がいいかもしれねえ。よし、それだ!」

 学生時代のゼミからのことだけど、こいつの思い切りの良さと変わり身の早さには舌を巻く。大雑把な性格のこの僕が、多少の不安を感じるくらいだ。

「おい、いいのか。自分で言っておいて何だけど、セオリー的にはたぶん、間違いなんだぜ。基本に忠実にペースノート走行を覚えるなら、出来ないながらもみんなと同じやり方を選択したほうがいいんじゃないかとも思う。次の、いや来年のラリーのためには、さ」

 服部は鼻で笑った。

「いいさ。今回、考えることは学者のお前に任せることにしている。俺は出来る限りの準備はしてきたつもりだ。少なくともジムカーナSSは、上手くいった。それで欲をかくことにした。セオリー通りなら、先輩に言わせれば、絶対に勝てない筈らしいからな」

「勝ち負け?何番ぐらいまでが、勝ちになるんだ?」

「そうだな。やっぱ、6位入賞なら、勝ちだな」

「…そうか。なるほど…」

 ようやく、僕は服部の本音に気づいた。

 ジムカーナSSでプラスハンデを獲得するためだけに夏休みと貴重なボーナスを全てつぎ込んでいたわけではなかったようだ。このラリーそのものに、勝つ気いる。

 僕は服部の不敵な横顔をじっと見た。

「…おまえ、ここのインカービデオ、何回くらい見てきたの?」

「えっ?…ああ。二ヶ月前から、ほぼ毎日な。だから百回くらいは見たな」

 尾道峠を走るラリーカーのインカービデオは、インターネットの動画サイトに幾つか転がっている。服部のことだから、それを見ていたのは確実だと思って聞いてみたが…

「あの動画、片道10分くらいだったよな。じゃあ、17時間も見たことになるぞ」

「毎日、2往復だ。だから、その4倍」

「暇だな、服部…」

「うるせえ。ちょうど二ヶ月前、彼女と別れた時だったんだよ」

 ビールでもあれば、青春に乾杯!とでも言ってやるところだ。

「立派な心がけだ。ラリードライバーの鏡だな。別に、皮肉じゃないぜ」

 僕は少しだけ、こいつが偉いと思った。

 もしかしたらジムカーナSSだけでなく、林道のSSでも服部に任せっきりの方がいいのかもしれない。不慣れなペースノートなど読むより、コースを完璧に覚えているのなら。そのほうが僕も楽だと思いつつも、ただの重りに成り下がる自分を情けなく感じながら。

 服部は眉間にしわを寄せて、不敵な顔を苦々しいものに変えた。

「ほめてくれて、ありがとよ。本番コースの下見は絶対にするなって、先輩にきつく言われていたから、ここに来たことねえけど、ビデオ見てコースは大体覚えたつもりだった。でもよ、全っ然だめ。走り出したら、ビデオ映像のイメージなんかすっかり頭から抜け落ちちまった。勾配やコーナーの角度なんか読めないし、路面は落ち葉や砂だらけだ。やっぱ、ペースノートは必要だ、絶ってー」

 僕らの横を、後ろにいた車両が次々に追い抜いていく。

 5台目が通り過ぎたころ、“野良猫”はのろのろと動き出した。

 スピードは、先ほどまでの半分。

「…ええと、右のヘアピンだから、1。…だいたい60mで…、左のヘアピンで、1」

 言われるままに、僕は服部の判断をノートに書き取っていく。

 距離はラリーコンピュータの表示によるものではなく、服部の直感的なもの。だから、恐ろしくいい加減で、コンピュータの表示距離とは明らかに違うのだが、どうやらそれでいいらしい。一般にペースノートは、ドライバーの主観によるものなのだそうだ。

 スタートして2kmくらいまでは、きつい登り勾配に直進とヘアピンコーナーが連続するコース。路面にはあちこちに欠落があり、砂も浮いていて、とても悪い状態だ。

 それでもしばらく走るうちに、だんだん目が慣れてきた。

 悪路も、見慣れれば普通になるのだろう。あくまで、見た目だけのことだけど。

「左のヘアピンで、1。その先が…おおっと、こいつは長いな。稼ぎどころで、120m直線で、その先が左の3。両側に大きな側溝がある。…インカットは出来ねー。ストレートの150mで、今度も3、左な。で、ストレートの70mで、ここは、車速乗るなー…」

 距離やコーナーの数値を修正したり、左右を言い間違え(あるいは聞き間違え)たりしながら、ようやく峠の頂上あたりにたどり着いた。

“野良猫”は立ち止まる。

「ここまでは、どう?」と、僕は尋ねた。

「問題なし。でも、すごい道だ。幅員が広いところと狭いところがランダムに出てくるから、どこを走ればいいのか判りにくい。コーナー中の側溝も、あったりなかったりだしな。季節的なことだけど、路面は砂や落ち葉だらけだし、ガードレールがないところも多い。まだ4km強だけど、コーナーの数が60近くある。早い話が、すげえ走りにくい」

「ヘアピンコーナーがたくさんあるけど、直後に高速コーナーも急に出てくるしな。そのあたりのチェックが一番重要かもしれないぜ」

「確かにな。一応、それぞれのコーナーに通し番号をふっておいてくれ。特にスタートから2kmあたりの右ヘアピンコーナーの直後から、しばらくは全開走行できそうだ。こちら側の登りでは、たぶん最高の稼ぎどころだから、絶対に見逃せねえ」

「了解。ノートに赤丸でも付けておいておくよ。一応、それぞれのコーナーにも通し番号をつけてある。お前が言ってるのは、たぶん、13番目のコーナーのことだと思うけど」

 通し番号なんて、ノート上でコーナーをひとつ見落としたら意味がない。でも、後でビデオを見ながら書き直すときには役に立つはず。

「おい、おまえら。いつまでも、ここに止まっているな」

 いきなりドスのきいた低い声をかけられ、顔を上げると、窓の外にはヒグマのような巨漢がそこにいた。体重は恐らく、130kgを超える。

 鋭い目つきと圧倒的な威圧感に、服部が息を呑んだ。

 僕は反射的に、“ヒグマ”の拳に目を向けた。タコはない。空手の経験者ではなさそうだ。

 左手には、工事現場で警備員が手にしている40cmほどの長さの赤色灯。本当なら、抜き身の日本刀をぶらさげている姿が良く似合いそうな雰囲気だ。

 つまり見た目は、武闘派ヤクザの大幹部。森さんを『ドラゴンボール』のタオ・パイパイに例えるなら、きっとこの人は魔人ブーになる。

「すみません。すぐに、移動します」

 そんな無礼な観察とは裏腹に、窓を開けながら僕はあわてて口を開いた。

“ヒグマ”は、にやっと笑って頷いた。

「おお、お前等が村木さんとこの新人か。SS、速かったそうじゃねえか」

「あっ、はい。ありがとうございます。でも、チームは違います。服部と水谷です。よろしくお願いします」

 服部がたどたどしく答えた。

「がんばれ。この先に少しコケが多く生えているところがある。気をつけていけ。でも、あんまり、止まるな」

“少し”“多く”生えているって表現が気になった。

「はい。ありがとうございます」と、服部が素直に応じる。

“ヒグマ”は、のっしのっしと去っていった。

“野良猫”はあわてて、こそこそと出発した。

「おう。すげえ迫力。地元のヤクザかと思ったぜ」と、服部。

「オフィシャルだろ。赤色灯持ってたし」

 頂上からやや直進し、下りの右コーナーへ向かう。

 路面はハーフウエット。つまり、全体的に湿気で濡れて路面が黒ずん見える。

 登りでは、ところどころに黒ずんで湿ったところもあったけど、下りのこちら側は逆だ。

「さあ、気を取り直して。頂上からここまでは直線80m。右コーナーで2、いや、やっぱヘアピンの1だ。先、ストレート50m…て、おい…」

 服部がいきなり黙りこむ。そして、“野良猫”も足を止めた。

「止まると、またさっきのオフィシャルに起こられるぜ…」

 そう言いながらも、顔を上げてみて、停車した意味が解った。

 幅員の半分を落ち葉が占めている景色にはだいぶ見慣れてきた。

 でも、この部分は違った。

 目の前にあったのは、道路の上にびっしりと生えたコケの帯。

 さっき“魔人ブー”から聞いた、“少し・多く”生えているという緑色の絨毯。

 右側に生えて頭上を覆う木々が、昼尚暗い陰を路面に落している。左側は岩肌が立ち上がる崖だ。そのために、この部分には湿気がとどまりやすいのかもしれない。

 急な下りストレート後の、右コーナー直前の部分だった。

「“少し”なんて、生易しいもんじゃない。こんなの、アリかよ!走るところがないぞ」

 コケの左右には、湿って黒く変色した枯葉がコーナーの先まで続いている。

 車が通れそうな走行ラインは、10m以上続く緑色のコケの上にしかない。

「とりあえずあの上を走ってみて、確かめよう。みんなもここ、走っている筈だし」

“野良猫”はゆっくりと、また歩みだした。

 そのままコケの上を進み、コーナーの直前で服部はガツンッ、とブレーキをかけた。

 僕でもわかるほど、“野良猫”の車体は不自然な角度で斜めに滑った。

 服部の舌打ちが聞こえた。

「うわっ!やっぱ、すげえ滑る。それにここ、ブレーキングポイントじゃねえか」

 急な下りコーナー直前のブレーキポイント。タイムの稼ぎどころのエンジン全開ストレートエンドは、ドライバーの腕の見せ所だ。服部に言わせれば、コケなんか生えてなくても、ドライバーがもっとも気をつけなければいけないところだそうだ。

 でも、とても、腕の見せ所どころじゃない。

「絶対に要注意ポイントだ。“トリプルコーション”だな」

 そう言いながら、ノートに赤ペンで印をつけた。

“トリプルコーション”とは『!!!』のこと。最重要危険地点の印だ。

 ちなみに、『!(シングルコーション)』は『気をつけて進め』、『!!(ダブルコーション)』は少し気をつけて進め、という意味。つまり『!!!』は、絶対に危険だから残念だけどアクセルを抜いて走れ、という意味だと“歩きウンコ”先輩から教わった。

 ここまでのペースノート作りでは、頂上までが登りだったこともあるけど、『!』が四つに『!!』が二つだけだった。もちろん、『!!!』は今が初めてだ。

 コーナーを抜けると、コケは消えていた。

 ただし路面は湿っていて、落ち葉は相変わらず路肩の左右を埋め尽くしている。

 その先も、路面の雰囲気は似たような状態がずっと続いた。

 ガードレールさえろくにない、急勾配の下り。

 特に危険なストレート後のコーナーに、なぜか決まってガードレールが設置されていない。一番必要だと思うのだけど。

「なんで、こんな危ないところにガードレールがないんだろう」

 不思議に思った僕は、いつの間にか呟いていた。

「ああ、それなら知ってるぜ。道路に積もった雪を、そこから落とすためらしいぜ。一般の国道でも、ガードレールのないコーナーが多いのはそのためだ」

「へえ。でも、こんな道、冬に雪かきに来る役人がいるとは思えない」

「同感。だから夏でもあまり人が来ねえから、ガードレールなんか作らねえのさ」

 頭上は、葉の落ちかけた木々の枝が覆っていて、全体に暗い影を落している。

 昼間の舗装路とは思えない、薄暗くて荒れた路面。

 幅員が常に変動する、連続の中低速コーナーと極端なヘアピンコーナー。

 コケの絨毯もあちこちで見かけたが、ただし、先ほどのものに比べるとまだマシな方。

 結局、ゴールラインに着くまでにもう一箇所『!!!』を記した区間があった。橋の手前で砂利と砂が道路の全面を覆っていた所で、急制動をかければ確実にすべる。

 ちなみに『!』は四箇所で、『!!』は三箇所。

 どれも、ガードレールなんか設置されていない。

「まいったな。こっち側、すっげえハード!」

「ああ。山の北側になるから、道がなかなか乾かないんだろうな」

「普通の車でなら、徐行で下りてくるんだって嫌だぜ」

 ゴールラインの先にはオフィシャルの車が止まっていた。

“野良猫”はその横に止まり、差し出されたサインボードに記名する。

「はい、OK。では、この先でUターンして列の最後尾についてもらうことになります」

 列というのは、オフィシャル車の後方で一列になっている競技車両のこと。順番はランダムのようだけど、先頭にいるのはゼッケン1の“インディアン魔神”ランサー。

 服部は丁寧に

「はい!」と大きな声で返事をして、直後に“野良猫”は動き出す。

“魔神”や“パイパイ”を筆頭に、人相の悪い薄笑いのエントラントたちは、車の外に出てなにやら楽しげに立ち話をしている。

 パチンコ屋の開店待ちしているヤクザたちみたいで、競技前の緊張感なんかまるでない。

 その途中、“ラッキョウ”青田さんとチラッと目があった。

 青田さんは、おっ!と言いたそうな顔になった。

 僕はなぜか、反射的に目を伏せた。

 その先にいたオフィシャルの指示でUターンして、“野良猫”は列の最後尾についた。

 僕も服部も、止まると直ぐに外に出た。

 三十分以上、下を向いてノートを記すのはさすがに肩がこる。

 大きく伸びをして、お茶を一口飲む。ビールがほしい、と思いながら。

「アキラ~。無視すんなよ~」

 低い声のほうに振り向くと、にやにや笑いの青田さんが立っていた。

「あっ、すいません。別にそんなつもりじゃ…」

 僕は少し、うろたえながら答えた。

 正直者の服部は、憮然とした表情で小さく頭を下げた。

「おっ!ジムカーナだけ3位の服部じゃん。機嫌、悪そうじゃん」

「はい、まあ…」

「こんな道だから、服部はナーバスになってるんです」

 気配りの苦手な僕だけど、とりあえず割ってはいることにした。

「おっ!そりゃあ、あたりまえじゃん。最近の尾道峠は、いつもこんなだよ」

「走りにくそうな道ですよね」

「おっ。解ったろ~、勝負はここだって」

「青田さんは、この道をどういうふうに走るんですか」

 何を思ったのか、生真面目な声で服部が聞いた。

「オレは優しいからマジで答えてやるけど、普通に走るんだよ。特別なラインなんか考えない。道の真ん中に車の軸線を置くようにして、道なりに走るだけ。荒れた道の走り方の鉄則よ。きれいなアウト・イン・アウトなんか取ろうとすると、足をすくわれる」

 青田さんは、真面目な口調で答えてくれた。

「じゃ、コケが生えている区間は?」

「最初は抑えて走るしかないじゃん。ただ、二往復目だとコケは踏み潰されているはずだから、タイヤ痕の上ならある程度はアクセルを踏んでいけると思うじゃん」

「なるほど…」と、服部は関心顔でうなずきながら続けた。

「今、ペースノート作ったんですけど、…これなんですけど、どうですか?」

 服部は、僕の記したノートを青田さんに見せながら聞いている。

「おー、どれどれ。…おう、なかなか。三段階ノートは珍しいじゃん。でも、ま、この方がいいかもじゃん。…よし、と。ここまでも、よし。…こんな感じなら、初めてにしちゃあ、上出来じゃん。アキラ、おまえ案外、優秀かもね」

「ありがとうございます」

 ノートをペラペラと捲りながら、青田さんは隅々まで目を通していく。

「気をつけるのは、ここんとこと、ここな。ショートコーナーの連続は、口が回らなくなるから。で、…この辺りのストレートはコーナーに入る前に教えること。それと、コーションマーク区間はどれも早めに読め。コーナーと同じリズムで読むと、手遅れになるぜ…」

 青田さんの細かい指導に、服部は真剣にいちいち頷いている。

 悪気はないのだけれど僕は、頷きながらも何となく聞き流していた。

 とても覚えられそうになかったからだ。それに仮に覚えていて指示を出せたとしても、服部がそれに応じて走れるとは思えなし、無理をすれば道の上に入られなくなる。

 早い話が、しょせん僕らは新人の凸凹コンビなのだ。

 もちろんいい成績に越したことはないけれど、そのために危険を冒すべきではない。初心者チームは、安全運転で完走を目指すことにプライオリティをおくべきなのだろう。

 それでも服部に説教じみたことを言って、こいつの気合に水をさすつもりはない。二ヶ月とはいえ並外れた努力を重ねてきたものに対して、付け焼刃にもならない程度の認識しかない僕が、余計なアドバイスをするなどおこがましいとも思った。

 やがて、“ラッキョウ”指導のノートのチェックは終了した。

「ところで、青田さん」と、僕が次の質問に引き継いだ。

「なに?」

「さっき頂上にいた、怖そうなオフィシャルの方、知ってますか?」

 一瞬、青田さんは首をかしげたが、直ぐに大目玉を剥いた。

「ああっ!

 超重量級の大林晃さんのことか。もちろんオフィシャルだぜ。この区間のボスだよ。お前と同じ名前だけど、アキラ。まさかお前、あの人を怒らせたりしたの?」

「とんでもない。さっき、ちょっと話しただけですよ。まさか、…そのスジの方ですか」

「バカか、おまえ。今の大林さんはカタギのサラリーマンだよ。でも、昔はいろいろあったって噂も聞いてるし。ヤクザの用心棒だったとか、地下プロレスのアルティメット・レスラーだったとか、じゃん」

 まじめに答えているのか、からかわれているのかはわからない。

 オレの兄貴はヤクザの殺し屋だぜ、って自慢するおバカの中学生みたいな会話だった。

 それだけ言うと、青田さんはニヤッと笑って踵を返した。

「青田さん」

 歩き出した青田さんの背中に、服部が声をかけた。

「うん?」と、青田さんは立ち止まりながら。

「いろいろと、ありがとうございました」

 青田さんはぎょろりと僕らを睨んで、楽しそうな笑顔を見せて去っていった。

「あの人、思っていたよりもずっといい人かもな」

 誰に向かうでもなく、人の良い服部は呟いた。


 25分後。

 全車、順走のレッキを終えると直ぐに逆走のレッキが開始された。

 逆走のルートは順走よりも走りにくい、と服部は走りながら盛んに愚痴った。

 頂上を通り過ぎるとき、両腕を胸の前に組んで相撲取りのように超然と傍らに立っていた“ヒグマ”のアキラさんと目が合って、僕は反射的にぺこりと頭を下げた。瞬間、“ヒグマ”が、にたりと笑ったのを目の隅で捉えた。

 当たり前のことだけど、逆走路の下りは路面も比較的に乾いていて、今のところは走りやすい。でも、“忍者部隊”の予言だと、もうすぐ雨が降ってくるという話だ。

「この路面のコンディションで、さ。雨が降ったらどうなるのかな」

 答など期待せずに何気なく、僕は呟いた。

「…さあ。あんま、考えたくねえ。でも、みんな同じ条件だし…」

 僕の漠然とした不安を計量すると、たぶん、服部と同程度くらいなんだろうと思った。

 そして僕らの逆走レッキが終了したのは、3時47分。

 空はますます暗くなり、雲も以前よりまして厚く垂れこめてきた気がする。

 そして気温も、ますます下がってきた。

「やっぱ、雨、降りそうだよな」

 尾道峠を後にして国道を走り出して直ぐに、服部が口を開いた。

「…たぶん。最悪だよな、そうなったら」

「ああ。こんな道じゃあ、抑えて走るしかねえよな…」

 でもこの6時間後、雨が早く降ってきてくれることを願うことになるなんて、このときの僕らは全く考えもしなかった。まさか、雨よりも最悪のことがあるなんて…。



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