ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

J.“ネズミ年”事件


 時は、瞬く間に過ぎていく。

 午後4時40分頃、服部がサービステントに戻って来た。

「車検は?」と、四谷先輩が服部に問いかける。

「無事に。クラッチオイルのタンクをテーピングするように指示されましたけど、それももう終えました。タイヤの空気圧も確認済みです」

「いくつにしたの?」

「冷間でフロント、1.8。リア、1.9。スペアは、1.9」

「よし。冬場のヨコハマA036なら、それでいい」

 よく意味がわからなかったので、横にいた松尾さんに小声で聞くと、ヨコハマA036とは、ヨコハマタイヤが販売しているラリータイヤの名称だそうだ。

 一般に空気圧はkPa(キロパスカル)で測る。

 でも、頭が古い“ジジイ”たちラリードライバーは、昔の表示で言う“気圧”の基準で測る。ちなみに200kPaが、だいたい旧表示の2.0気圧。

 モータースポーツにとって、最大の敵はタイヤの熱ダレだ。

 漫画なんかでもすっかり知られるようになったけど、長距離の全開走行時にはタイヤは摩擦によって蓄積していく熱のために徐々にグリップ力を失っていく。

 同時に、タイヤ内の空気圧も高くなる。

 空気圧が上がればタイヤは膨らみ、さらに安定した設置性を損なわれるのだ。

 松尾さんの解説によれば、A036タイヤは通常のタイヤよりもサイド剛性が高い。空気圧はある程度までは高くても低くても大丈夫らしい。でも、重量級車両の場合は低い設定にする。ドライバーによっては空気圧を1.6まで落すらしい。ただし、その場合はスタートしてから1㎞ぐらいはコーナーでふらつくらしいけど。比較的重量の軽いBクラスの車両だと、逆に空気圧は2.2くらいまで上げたりもする。

 つまりは、ドライバーの好みによって真逆のセッティングにもなる。

 そんな話を聞いているうちに、“ラッキョウ”がぶつぶつ言いながらテントにやって来た。

 チラチラと後ろを振り返って、村木さんが遠くにいることを確認している様子だ。

「四谷さん。これ、預かってもらえます?」

 大きなスポーツバッグを差し出しながら、“ラッキョウ”が低く小さい声で言った。

「おう、青田!そこにでも置いておけ。タイヤ、どうした?」

 先輩は横柄に答えた。

「外に置きました。運んでもらって、どうも」

「“ありがとうございます”だろ?口の利き方くらい、勉強して来い」

“歩きウンコ”先輩は、急に嫌な奴になったらしい。でも、別に“ラッキョウ”を嫌っている訳でもなさそうだった。きっと、時代遅れの縦型体育会系部活の名残だ。

「はい、はい。わかってますよ。ところで、西川さん。村木さん、ラリーやめるの?」

 服部が顔を上げ、松尾さんも“スーパースモーカー”の方を見た。

 西川さんは悠然とタバコをふかしている。

「さあなあ…。ま、火のないところに煙はたたないって、か。今の俺の周りみたいによ」

 静かに笑うその顔は、不敵だった。

 そこに、“忍者部隊”がふらりと現れた。

「四谷君、これ、よろしくね」

 小ぶりの紙袋を差し出しつつ、“忍者部隊”が言った。

 四谷先輩はそれを受け取った。

「これだけ?上町さん、タイヤは?」

「ないよ、そんなもん。スペア、一本積みだから。温泉セットとゴールで食べるおやつだけ、預かっててくれればいい。ところで、サービスの晩ごはん、何?」

「おでん。ごはんもあります」

「おっ!いいね、それ。おや、青田君。どうしたの?膨れっツラしちゃって」

“ラッキョウ”は“忍者部隊”をじろりと睨んだ。

「怒鳴られましたよ」

「誰に?なんで?」

「上町さんが、言ったからでしょ!村木さん、落ち込んでるから慰めろって」

「そんなこと、言ったっけ?」

「言いましたよ」と、僕が横から口を挟んだ。

「声をかけてみて…って、言ったんだと思うな。別にあの人、日本が滅んだって落ち込んだりしないから」

 僕と“ラッキョウ”は不快な気分で顔を見合わせた。

「そうかもしれねえですけど、さ…」と、“ラッキョウ”がぶつぶつ言う。

「ねえ、青田君。村木さんに、何言ったの?」

“忍者部隊”の顔は一見真剣そうに見えるが、明らかに面白がっている。

 やっぱこの人は、悪い奴なのだ。

「別に、さ。『元気ですか?今日はがんばりましょうね』って言っただけですよ」

「どうせ、へらへら笑いながら言ったんでしょ?」

 へらへら笑いながら“忍者部隊”が一歩、“ラッキョウ”に近づきながら言った。

 ギクリとした顔で“ラッキョウ”が顔を上げる。

「ああ、まあ…」

「青田君。村木さんとの付き合いは、君だって長いじゃない。例えば、そうだなあ…。例えばさ、君は年取った犬の頭を撫でようとした、…みたいなことをしたんだよ」

“忍者部隊”は、少し首をかしげながら言った。

“ラッキョウ”は意味が良くわからないように、ぽかんと口を開けた。

 歯医者のような目でその口の中を見ながら、“忍者部隊”は続ける。

「ところが、青田君は大きな勘違いをしていた。頭を撫でてあげようとしたのは老犬なんかじゃなく、野生のケダモノだった。トラとか、オオカミとか、怪獣みたいな…フフッ」

 何となく、感じた。本当は、“悪魔みたいな”って言いたかったんだろう。

 どのみち、ひどい例え話であることは間違いない。

「とにかく、ラッキーで良かったよね。指を、食いちぎられなくて、さ」

“忍者部隊”は踵を返して。

「まあ、青田君は、あまり気にしなくていいよ。向こうは気にしてるかもしれないけど」

 再び、毒針でチクリ。

「年だって、ちょうどふた廻りくらい違うんだから、さ。じゃあ、頑張ろうね」

 そして“忍者部隊”は楽しそうにテントを去っていった。

 その後姿を睨みつけながら、“ラッキョウ”が呟く。

「ふざけんなよ。ふた廻りも違うわけ、ねえだろ。オレ、“ネズミ年”だし…」

 憤慨した様子の“ラッキョウ”も、

「ふざけんじゃねえよ…」を連発しながら悲しげにテントを出て行った。この毒は、確実にラリー開始まで効力を発揮するに違いない

 その可哀想な“ラッキョウ”の後姿に、四谷先輩は細い目を見開いている。

「底意地が悪いのか、根性が曲がっているのか、壮絶な人ですね…、て、どうしたんです?」

 先輩に声をかけたつもりだったが、僕の声は耳に入っていない様子だ。

 顎の先が小さく震えている。小首をかしげながら、“ネズミ”、“ネズミ”と呟いている。

 肌寒くなってきているというのに、額にはうっすらと汗まで浮き出していた。

「どうかしましたか、先輩?」と、大きな声で服部が心配そうに問いかけた。

「あっ、えっ!?…今。西川さん、あいつ今、“ネズミ年”って言いましたよね」

「ああ。言ってたねえ」

 美味そうにタバコの煙を燻らせらがら、“ヘビースモーカー”が笑った。

「だって、オレ、…“牛”なんですよ!“牛”!“牛”!」

「ゥン、モー!!」

“ヘビースモーカー”は、楽しそうに牛の声を模倣した。

 動揺している先輩の目が、白黒と反転を繰り返す。

 先輩には悪いけど、豆鉄砲を食らったハトは多分こんな顔になるんだろうと思った。

「ちがうって!?“ネズミ”ってことは、オレよりも年上ってことですよ」

「へー、そう。当たり前だねえ…」

 大きく吸ったタバコの煙を、天井に吐き出しながら。

 そして不思議そうな顔で先輩の顔をちらりと見た。

 僕と服部は、ようやく先輩の動揺の正体を知った。

 体育会系縦型人間の悲しいサガ。

「アイツ…。青田…さん、年上だったのよね~!?」

 先輩の声は、悲鳴に近かった。

「そうだねえ。たぶん、昔からずっと、年上だったと思うよ」

「どうしよう!?オレ、おの野郎、いやあの人、ずっと年下だと思って、さんざん…」

 僕の脳裏に、つい先ほどのシーンが蘇る。『…口の利き方くらい勉強して来い…』と、年上の“ラッキョウ”を怒鳴りつけた“歩きウンコ”先輩の勇姿。“キャッシュラリー”のときには、“ラッキョウ”の首を絞めて振り回していた勇姿もあった。

「今更、どうしようもないから、バッくれちまえ。侘び入れる訳にもいかねえだろ」

「すぐにバレますよ、きっと!?免許見たら、一発なのよね~!」

「馬鹿だなあ。職務質問の警官じゃあるめえし、免許見せることなんかあるか」

「エントラント・リストに、年齢が載る時もあるじゃないですか!」

「そんなの、申告書に年齢なんか書かなきゃいいだろが!女のエントラントなんか、書かねえぜ。おまえ、気にし過ぎだよ。何なら、村木さんか上町にでも相談したらどうだ?」

「だめ!?それたけは、絶対にやめてください!」

 やめたほうがいいと、僕も思う。

 飢えた野生の虎の前に、生肉を放り投げるみたいなものだ。

「だけどよ。お前、何でそんな勘違いしたの?」

「…え?ずっと昔のことだから、…。誰かに聞いたのよね~。“青田君は四谷君よりも二つぐらい年下だよ”って…」

 ピン、と来た。

“ラッキョウ”より年上で、四谷先輩を“四谷君”と呼んでいるラリードライバーは、僕が知っている限りでは一人しかいない。

 つまり、さっきまでここにいた“忍者部隊”上町さん。

「とにかく、今日は知らなかったことにしとくんだな。そうすれば、次も大丈夫だぜ」

“ヘビースモーカー”の声は、四谷先輩に届いていそうもない。

 全くの直感だけど、たぶん“歩きウンコ事件”が起きたときでも、四谷先輩はこんなに動揺しなかったんじゃないかと思った。

 人のいい服部も、先輩の混乱を自分のことのように心配している様子だ。

 僕は腕時計をチラッと見た。

「おい。そろそろ、ドライバーズミーティングの時間だ」

「えっ。ああ、そうか」

 服部が立ち上がり、“ヘビースモーカー”は携帯灰皿でタバコをもみ消した。

 タバコは、指先を焦がしそうなまでチビていた。

「先輩。では、よろしくお願いします。ドラミ、行ってきます」

 服部の声に先輩は小さくうなずいたが、目は虚ろなままだ。

 僕と服部が先に外に出て、後から“ヘビースモーカー”が続いた。

 薄暗い空と、遠くの山に垂れている雲の姿は、まるで四谷先輩の心模様のようだ。

 テントには、そんな無口になっちゃった先輩たちが二人、残っている。

「四谷のヤツ、青田のこと、これから何て呼ぶかな」

 予想に反して、西川さんの声は少しだけ真剣だった。

「まずいッスよねえ」と、服部。

「“青田さん”で、いいんじゃないの」と、僕。

「じゃ、賭けようぜ。この後、四谷が青田を、“さん”付けで呼ぶかどうか」

“ヘビースモーカー”の声は、やはりどこまでも真剣だった。

「いいですよ。僕、先輩が“さん”付けで呼ぶほうでいいですか?」

「一応、俺も“呼ぶ”ほうで」

「よし。じゃあ、オレは四谷がバックれる方に、ビール2本。お前らは1本ずつでいいや」

「OKです!」

「俺は、酒ダメだから牛丼でいいッスか?負けたら、帰りにおごります」

 ウッシ、と西川さんが快諾し、先輩たちには内緒のギャンブルが成立した。

 結局僕ら三人は、これから起きる可能性の話に盛り上がった。

“歩きウンコ”先輩は気の毒と思う気持ちに嘘はないのだけど。

 どういうわけか、僕も服部もラリーストらしい気質になりつつあるのかもしれない。



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