秀綱陰の剣・第六章

著 : 中村 一朗

一の太刀


 明くる日、卜伝は文五郎たちの朝稽古のかけ声で目を覚ました。

 弟子達は玄関前の庭に集い、内弟子のひとりの号令に合わせて木刀を振っていた。数は五十六人。昨日の午後よりも遥かに多い。近在の百姓や町人達も相当数いた。文五郎と内弟子たちは彼らの間を回り、細かく指導をしている。どこの砦でも見る事の出来る朝稽古の風景である。暫く見ていたが、卜伝はやがて厨に足を向けた。お町の姿はなかった。居合わせた娘に米と梅干しと味噌汁をもらい、その場で腹に詰め込んだ。茶をすすり、厨の女達を与太話で笑わせながら、卜伝は厨で四半時ほどを過ごした。

 買い出しやら掃除やらで厨から人の姿が消えると、ひとり残された卜伝は裏玄関から屋敷の外に出た。手には蟇肌竹刀のみ。腰は無刀である。二人の門番が卜伝を険悪な目でじろりと見た。彼らには卜伝は秀綱に試合うために来た剣客として映っている。が、咎めだてたりはしない。卜伝を客分として扱うようにとの文五郎の指示があった。

 築地壁脇の細い道をひとり行く。踏みしめる土は、鞋越しでも冬の到来を感じさせるほどに冷たい。屋敷の表玄関からは気合いの入った稽古の声が響いていた。

 やがて川沿いの土手に出た。ここ上泉の近辺には山はない。小高い丘や森があるだけである。北に遠く赤城山系が聳えるのみで、東は見渡すかぎり遥か彼方まで、西は厩橋の先まで、豊かな農作物の床となる広大な平野が続く。肥沃な土地と水に恵まれていた。桃木川は利根の支流になる。それほど大きな川ではない。が、日を受けて煌めく豊富な水をたたえて滔々と流れていた。夏草が枯れ、秋の花々が咲く両の土手には子等が遊ぶ。昨日屋敷に来た子の顔もあったが、遊びに夢中で土手の上に立つ卜伝には気づかない。

 卜伝は鼻歌に遊びながらのんびりと歩いた。右手の竹刀を肩に担ぎ左手には摘み取った薄の穂を振りながら、土手の上を川の流れ来る方に向かう。厩橋の方角であった。

 暫くぶらぶらと歩いて砦が小さく見えるあたりまで来て足を止めた。無表情に頭を巡らし、左手の薄の穂を手放した。竹刀を肩から降ろして切っ先を地に向ける。

「おい。わしに用か」と、卜伝。前を向いたままで

「前方で待ち伏せている者たちがおります。お気をつけを」

 土手の下から声がした。が、姿は見えない。声の主は対岸の風上にいるらしい。

「空蝉か…。こら、忍び。おまえの方が余程物騒じゃ」

 低い笑い声が耳に残った。つられて卜伝の頬も小さく歪む。

 再び歩き出した。ものの半町も行かぬうちに、先程の声の予言通り藪の中から五人の男たちが飛び出した。十分過ぎるほどの間合いを取って卜伝を囲む。手に抜き身の刀を携えた若い百姓たちである。誰もが必死の形相で卜伝を睨んでいる。

「なんの真似だ」

 卜伝が問う。彼らに殺気はない。ただ卜伝への恐れがあるだけである。それをねじ伏せようとして自らの恐怖心に向けての抜刀であることに彼らは気づいていなかった。それなりの剣客であれば、彼らの誰もが人を斬った経験などないことは一目でわかる。

「あんた、ここを出てけ。先生のお屋敷から出てけ」

 呂律の回らない口調で正面の大男が叫んだ。

「秀綱殿を先生と呼ぶからには、おまえたちは弟子なのだな」

 動揺が一同の顔に走る。腰を引く者さえいた。

「か、関係ねえ!あんたがお屋敷を出ていけばそれでいいだ!」

 ガニ又の小男が背後で叫ぶ。卜伝は苦い表情で男をちらりと見た。

「いくらあんたが強くても、今は竹刀しか持ってねえ。おれ等は刀だ。だから、『うん』て約束してくれりゃあ、手はださねえよ。お屋敷を出てけ!」と、今度は右手の男。

 彼らは卜伝が秀綱に他流試合を挑むために来たものと信じている。そしてまた、彼らは秀綱のために命がけで卜伝を追い出そうとしているのだ。

「困ったなあ。おまえたち、勘違いをしていると言っても信じぬだろう」

 言った直後、卜伝の視線が彼方から走ってくる袴姿の人影を捉えた。疾い。瞬く間に百姓たちの背後に迫ってきた。それが若い女であることを知って目を見張った。女は十間手前で小太刀を抜くと、卜伝に向かって投げた。剣は弧を描いて飛び、大柄な百姓の頭上を掠めて卜伝の足下に突き刺さった。唖然とした表情の百姓たちが女の方に振り返る。

「ああ、女先生…」と大柄な男が呟く。

 お静であった。百姓たちと目が合った時にはお静は彼らのすぐ後ろに来ていた。

「馬鹿!こんなことをして先生が喜ぶ筈がない!」お静の両眼が火を噴いた。

 激怒した若い女の気迫ほど男を震え上がらせるものはない。皆が震撼した。

「でもお静さん。おれ等は先生やお屋敷のみんなのために…」

 お静に睨まれて、小男は言いかけた言葉を飲み込んだ。

「あなたたち五人が真剣でかかれば、竹刀の上泉先生に勝てると思うの」

「まさか、そんな。勝てっこねえよ」

「じゃあ、五人でこのお方が倒せるくらいなら、先生にお任せすればいい。もし倒せないなら、あなたたちがいくら脅かしたって無駄でしょう!」

 百姓たちは沈黙したままである。お静の、単純明快な正論に納得した訳ではない。お静の迫力に気圧されたことに、剣で人を脅かそうとした後ろめたさや戦わずに済みそうな安堵などが重なって、彼らの口を閉ざさせていた。

「…なるほど。理屈だ」

 卜伝は感心したように呟いた。足下の小太刀を抜き、お静に返す。

「塚原卜伝さまとお見受けします。皆の非礼をお許し下さい。決して悪気はありません」

 お静は一礼して小太刀を受け取りながら言った。百姓たちは剣を鞘に収めることも忘れてあたふたとその場を後にした。後ろ髪を引かれる思いが皆の胸に残ったが、誰に恨みを残すというほどのものではない。寧ろ、解放感の方が大きかった。

「ところで、お主がお静殿だな。意伯殿から噂は聞いていた」

 卜伝は顔を綻ばせて、剣を滑らかに鞘に戻すお静をしみじみと見た。

「意伯さまのお話なら、どうせ鬼女のように言われたことでしょう」

「いいや。あの時の様をお静殿に見せてやりたかった。だが、もうこれ以上は言ってやらぬ。爺いとて、僻むこともあるでなあ。それにわしは、他人より意地が悪い」

 お静はキッと顔を上げた。

「では、お許しいただけたものと考えます」

「いいよ。気にしておらぬ。ところで先程、剣を投げたのはわしを庇ってではあるまい」

「塚原さまがこの剣を手にすれば、彼らは逃げます。もしあのまま彼らが塚原先生に斬りかかっていれば、竹刀でも皆の腕や肩の骨は折られていたことでしょう」

「わしがその剣を振り回しておったらどうした」

「皆が四方に逃げれば斬られるのはひとりだけ。わたしがその役目を負いましたことでしょう。わたしが斬られれば、卜伝さまはお屋敷には戻れません。上泉を後にすることになります。どちらに転んでも目的は果たせました。でもそのようなお方とは思いません」

 それだけ言うと、お静は一礼して砦の方に向かった。

「待て。そう急ぐでない」

 卜伝がお静の背に語りかけた。お静が足を止めて振り返る。

「そこの竹藪まで一緒に行かぬか。そろそろ意伯殿も向かうころだ」

 お静の目が僅かに揺れた。卜伝が目を見開いて笑いかける。

「竹林で何をなさるおつもりですか」

「わしを助けてくれた礼をしようと思ってな。お静殿と意伯殿に見せておきたい」

 卜伝は対岸にちらりと目をやり、竹刀を肩に鼻歌まじりで歩き始めた。お静が訝しげな顔でその後に従う。暫くすると二人は川沿いから離れ、やがて町外れの竹林に。

 卜伝は傍らで立ち止まり、様子を伺うように耳を澄ませた。

「ほう。やはり先客がいるようだぞ。意伯殿であろう」

 卜伝は藪の中へ。その後からお静。薄暗い木もれ日の中を暫く行くと、十間程先にやや開けた空間が広がっていた。その中央に人影が見えた。ほぼ同時に相手が振り返る。文五郎である。二人を認めて、意外そうな表情が浮かんだ。

「やあ」と、卜伝が先に声をかける。お静に向き直って。

「お静さん。その小太刀を少しの間、貸してくれ」

 お静は無言で小太刀を抜いて差し出した。卜伝は竹刀をその場に置き、代わりにそれを下げて文五郎のいる地点に向かった。文五郎は近づく卜伝をじっと見ている。

「山本勘助から聞いておる。ここが、秀綱殿が襲われた場所じゃな」

「はい」

 文五郎は落ち着いた声で答えた。お静も興味深げに近づいた。

 卜伝は文五郎の脇を抜けて、その先の小さく開けた地に立った。卜伝から発散する無言の気迫に文五郎は後退した。兵法者の血がこれから起こることを捉えようと、一切の感情を文五郎の精神から消した。昨日の殺気への反応とは異質の気構えである。

 卜伝と二人との距離は約五間。視界を遮るものはない。

「二人ともよく見ておけ。わしも年じゃで、一度しかやらぬ」

 卜伝がスッと下段に剣を構える。そのままやや背を丸め、膝を曲げて瞑目した。

 周囲には四本の竹。卜伝の前方に一間、左前方に一間半、左後方に一間半、右に二間。その位置にはそれぞれ一本づつ青竹が立っている。

 水面の静けさ。ひとつ、ふたつ、みっつ…。文五郎の中に住む鬼が数え唄を奏でる。やがて風が凪ぎ、枯れ葉が足下に蹲った。さらに、ひとつ、ふたつ、…。時の流れが緩やかになってゆく。腹の中に燃え上がりゆく炎。ゆっくりと、確実に大きくなって行くのがわかる。精神の一部が卜伝の剣気に同化しつつあった。遠く卜伝を見ながら、卜伝の目で自身をも含む周囲の気配を捉えているような錯覚。

 突然、文五郎の身の内で何かが弾けた。次の瞬間、卜伝の体が飄のように旋回した。目ではその動きを正確に捉えることは出来ない。が、長年鬼神の剣技を操る秀綱に接していたことで養われた心眼が、その動きの輪郭を追わせた。

 文五郎は幻視界にいた。そこでは卜伝は秀綱であり、文五郎自身でもある。

 そして文五郎は見た。卜伝に向かって放たれた二本の矢。卜伝が雷光の疾さで応じる。一本目は開身して受け流し、二本目は左足を軸に回転しながら小太刀の峯で打ち払った。遅滞なく低い姿勢のまま矢の飛来した方向へ走る。脇から飛び出した男をひと太刀で斬り伏せ、すれ違い様に四本の竹に剣を閃かせた。一本に対して切り口が二つ。二本が後方に倒れ、二本が前方へ。倒れた竹が卜伝の姿を隠した。弓手たちは倒れた竹の葉陰に卜伝の位置を見切って第二の矢を射掛ける。が、逆にそこから飛び出した二本の竹槍が射手の胸を貫いた。竹槍は、今切り倒した竹の幹である。後方から四人目の刺客が竹を飛び越えて卜伝に挑んだ。小太刀が一閃し、男は着地する直前に首を失った…。

 すべては文五郎だけが見た幻影であった。一瞬文五郎は卜伝になり、四人を斬ったような錯覚を感じた。手ごたえすら残っているような気がした。

 が、二つに分かれた文五郎の意識は現実の卜伝の行動もある程度正確に捉えていた。実際、卜伝は一度瞬く間に四本の竹を切った。一呼吸、一挙動で幹の上下を二か所ずつ。飛燕とて掴み取るほどの疾さであった。竹が倒れたのは、卜伝が剣気を身内に引いて文五郎とお静のいる方に戻ろうとした時である。風が吹かなければ、竹はまだ暫くそのまま立っていたであろう。一見、達人によるただの試し斬りに見える。だが、違った。

「〃一の太刀〃…」お静が呟く。

 卜伝はにこりと頷いて、小太刀をお静に返しながら。

「人でも竹でも太刀筋は同じだ」と、ぽつりと言う。

 二人は卜伝の剣の異様さを知った。竹を斬る瞬間、体が僅かに振れる。剣に力を掛けるための起点になる軸芯が動くのである。左右前後上下の全方向に。恐らく実戦では相手の動きに応じて。だが、常人の目には卜伝の姿が霞んで見えるだけである。

 相手が打ち下ろそうとする剣の拍子と間境を見切って斬り返す。あるいは、機先を制する。攻撃の拍子をはずして敵の隙を突く技の境地。日頃、秀綱の言う〃後の先〃である。名こそ違え、あらゆる流派の達人たちがこれを奥義としている。

 しかし、塚原卜伝には通じない。相手が見切るのは卜伝の影の太刀筋に過ぎない。見切ったつもりで反撃に転じても、残像に斬りかかることになる。剣を交えることなく多くの剣豪たちを倒してきた秘剣〃一の太刀〃の正体はそこにあった。が、それが全てではないこともわかる。理で割り切れぬことが、卜伝の天才によって補われて完成した技である。他に真似る者がいないと言われる所以であった。

「これ程のご褒美を頂けるとは思いませんでした」と、お静。

「技を見せたのは久しぶりじゃ。もう三年にもなるかな」

 呼吸に乱れはない。それでも額から頭にかけてうっすらと汗が滲んでいた。

「その折りは、どなたが御覧になったのですか」

 文五郎の声が震える。脳裏の幻影とは別に、現実の太刀に愕然していた。秀綱以外では初めて、自分の技がまだ遠く及ばぬ領域がある事を痛感させられた。

「北畠具教じゃ。京で新当流を広めたいと言うので見せてやった。あやつは自分なりに解釈して、独自の太刀を編み出しおってな。わしの技とは少々違うが、大筋では正しく理解しておる。やはり〃一の太刀〃と呼んでおるようだ」

「おれには出来ません。あのような太刀筋など、まだとても…」

「具教も初めはそうほざきおった。己の体捌きを変えるだけで一年がかりだったな」

「しかし…。あの疾さで身の軸を動かしながら、静体しているごとく剣を振るなど」

「線ではなく、点だ。軸と思えば地に縛られる。虚空に浮く点から自在に太刀を操る術を捜せば良い。人により体の造りは違うでな。自身で己の筋を極めるんじゃよ。まあ、詳しいことは秀綱殿に聞け。陰流の継者であれば、わしと同じことが出来るはずだぞ」

 お静が眉根に皺を寄せて文五郎の顔を見た。文五郎にも不機嫌な表情が浮いた。

「昨日から塚原先生は妙なことを。陰流の話など知りません」

「それも秀綱殿に聞くと良い。陰流の開祖は愛州移香斉といってな。古い知り合いじゃ。三十年前に見た太刀筋はわしの剣とよく似ておった。実は、その継者である上泉秀綱の剣と開祖の剣を見比べたくてここに来たのだ。別の言い方をすれば、わしとの違いだな。もし秀綱殿の剣が移香斉殿と同じならば、あれを技として受け継いだことになる。ならばわしの剣も誰かが受け継ぐ事が出来るかも知れぬ。そんな期待もあってなあ」

 卜伝は地の上から竹刀を拾いながら続けた。

「先に屋敷に戻っておる。わしが言ったことを二人で話し合って御覧。体で考えるばかりが修業ではないでな。何か気づいたら、後で教えてくれ」

「いえ。わたしもそろそろ参ります。怪我人を回診しなければなりません」

 お静が卜伝と文五郎に一礼して、すたすたと先に竹林を出ていった。卜伝が呆れ顔を文五郎に向けると、文五郎は涼しげに口を開いた。

「お静さんは半月前に怪我をした羽黒屋の若い衆を看るために、二日おきに上泉に来ています。まだ起き上がれない者もいます。今日もその日ですから」

 文五郎は半月前に屋敷の門前で起きた長野家旗本との騒動を簡単に語った。

「なるほど。意伯殿は賢い。わしがその場に居合わせておったら、剣を抜いたな」

「…なぜです」

 文五郎はあの時、秀綱なら剣を抜いたであろうと漠然と感じたことを思い出した。

「さあ。話を聞いているうちにそう思ったのだ」

「それでは答になりません」

「ああ、そうか。…では、意伯殿が侍ではなく、一介の漂白者であったらどうした。今の剣の技量を持ち、そうした場に出会ったなら、剣を抜いたのではないかな」

 文五郎は一瞬躊躇い、考えをまとめてから口を開いた。

「それは…そうかも知れません。理不尽な振舞いを止めさせるためです」

「いいや、違うな。多分、剣を抜くことが好きだからであろうよ。だから、理由を捜して抜く。白刃を手にする度に生まれ変わるからだ。その後に斬る斬らないは、また別のことよな。わしが昔、若気の愚かさで戦場を走っておったのもそれがためじゃった。今では少し知恵がついて、無闇に剣を抜きたがる身内の阿修羅を抑えられるようにもなった」

「おれも人を斬らぬように、天秤棒を使ったつもりです」

「それで良い。人が人らしゅう生きるには足枷がいる。さもなくば獣かわし等のようになる。侍であることも足枷のひとつじゃ。だから意伯殿は剣を抜かずに天秤棒で馬を追い散らしたのであろう。わしの弟子なら見上げた振舞いと、大いに誇るところだ」

 文五郎は耳が熱くなるのを感じた。半月前の自分の振舞いに釈然としないしこりを胸中に感じていた。その正体を卜伝に教えられた。それによる羨望と慚愧の念である。天秤棒で馬を追い散らした事が、文五郎の中の『侍』の判断によるものであったことに気づいたのだ。長野の旗本たちのような生粋の侍を嫌悪しながら、結局自身もまだ侍の性に囚われている。そして自分が、卜伝や秀綱たちのような〃わし等〃とは異なると見抜かれた。

(では、まだ仕方がない)

 気落ちすることもなく、文五郎は素直に認めた。

 卜伝は竹林を出ていき、文五郎は稽古のためにひとり残った。

 卜伝が剣を振るった位置に立ち、瞑目する。先程の幻影が実体を持つほどの明瞭な姿で現れた。彼らの動きも同じ。文五郎は大太刀の柄に手を掛け、僅かな時を数えた。

 幻視界へ。そして寸刻。無我のまま体が動き、大太刀を抜いた。沈み込みながら身を翻し、背後から飛来した幻の矢を無造作なひと振りで二本とも切り払う。同時に走った。文五郎は何も意識していない。先程の記憶が体を動かしている。文五郎は卜伝に変じた。自身はむしろ〃目〃になっている。そして自分が幻影と戦う様を観察した。

 一連の動作の後、文五郎は初めて四人の幻士を斬ることが出来た。

 目を開いた。残る殺気は未だ夢幻から冷めきらぬままでいることを物語る。文五郎は剣を青眼に構えなおし、素早く踏み込んで左前方の竹を斬った。上下段を二か所、ほぼ同時に。手応えは殆どない。それでも竹は三つの分断されていた。荒い息を整えて切り口を調べる。竹の表面と変わらぬ滑らかさであった。卜伝が斬った四本の竹と同じであった。


 明くる日の朝、卜伝は竹刀を手に桃木川の土手の上を歩いていた。

 剣は携えていない。刻限は昨日と同じ頃。所も、百姓たちに囲まれたあたりである。空には厚い雲が垂れ込めている。辺りに人の姿がない。

 卜伝は足を止め、川面の方に向き直りながら。

「こら、昨日の忍び。隠れてないで出てこい」と、囁いた。

「へい」と、返事が土手の下から返ってきた。叢から長身の男が身を起こした。一見、ぼろを纏ったただの百姓にも見えた。年は三十代の半ばほど。手足首こそ細いが、筋骨は鬼のようにがっしりしている。細面の顔立ちに釣り合わせたように、目も細く、唇も薄い。漂白者らしいざんばら髪である。それでも愛嬌のある顔立ちだった。

「折角こうして隠れておりましたのに、塚原先生にはかなわねえ。拙者、西行寺聴海と申します。お察しの通り、この地に潜って参った忍びでござる」

 周囲に他の人影はなく、気配もない。聴海は重さを感じさせない足取りで、浮き上がるように滑らかに土手を上がった。少し背を丸めて卜伝に笑いかける。

「ここは、もう長いのか」

「些か。普段は厩橋の街道外れの小さな橋下で乞食に化けております。もっとも上泉の地には、塚原先生が来たと聴いて昨日の朝に参りました」

「おかげで昨日は助かった、と礼を言うのが筋であろうな」

「滅相もない。それには及びませなんだことは存じてござる」

「そうでもないぞ。お主の知らぬところで良いこともあった。話は変わるがお主、面白い技を使うな。いや、道具か。昨日の空蝉の事だ」

 聴海はにこりとして、懐から奇妙な形に切った紙と細い糸束を取り出して見せた。

「これが離れたところから声を伝えます。仕掛け方に工夫がいりますが」

 興味を抱いた卜伝が手を出そうとする前に、聴海はそれをさりげなく懐に戻した。卜伝は手を止めて苦笑う。

「なるほど。ところで聞いても答えぬであろうが、雇い主は山本勘助か」

「ご冗談を。とても答えられる類のことではございませぬ故、お許しくだされ」

「是非もない。では、頼み事はどうだ。お主は暫くこの地を離れるわけには行かぬか。あるいはお主の手の者でも良いのだがな。急げば、ほんの三四日ほどだ」

「そのような事を引き受ける義理が手前にあるとは思えませんが」

「そうか。お主は親切で正直者の忍びと見込んでここに来たのだがなあ」

 双方の目が合い、どちらが先ともなくにたりと笑った。

「恐縮で。ですが、この稼業に就いてからそのような忍びに会ったことはございません」

「人付き合いが狭いからだ。わしは他にも知っておるぞ」

 聴海の顔に皺が寄る。愛嬌の相が一層深くなった。

「手前が離れるわけにはいきませんが、手下でよろしければ」

「良い。手紙を託したいのだ。勘助はもう甲府に戻っていよう」

「困りましたな。はい、と答えれば塚原先生は手前を山本勘助さまの手の者と誤解されちまう。いいえ、と答えりゃあ文を預かることはできませんでしょう」

「誤解でも正解でも良い。これを勘助に渡してくれ。お主を当てにして、昨日したためたのだ。褒美は先方払いじゃ」

 卜伝は聴海に手紙を差し出した。少し考えて、卜伝の顔を覗き見ながら受け取った。

「拙者が信玄公の忍びでなきゃあ、中の文を盗み見るやも知れませんぜ」

「好きにしろ。届けると約束すればそれで良い。大したことは書いておらぬ」

 聴海は再び考えた後、真剣な表情で頷いた。

「承知。二日の内に山本勘助さまの手に渡るように計らいましょう」

 遠方から人影が二つ近づいてくる。町の者たちであった。彼らの目を意識した聴海は飯を恵まれた物乞いを装って大袈裟に頭を下げながら土手下に下りようとした。

「最後にもう一つだ。上泉秀綱は、確かに堺に向かったのか」

「そう聞いとりますが。羽黒屋仁右衛門の一行と共に、武州街道の国境を越えたところまでは後をつけさせました。堺に向かう方角ではございました」

 遠目には、ありがとうごぜえます、と言っているようにしか見えぬ物乞いの演技を続けながら聴海は土手を降りて行く。二人の町民が卜伝の間近まで来た時には、丈高い叢に消えていた。すれ違う時も町民は卜伝を意識して、聴海の影にさえ気づかなかった。



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