秀綱陰の剣・第六章

著 : 中村 一朗

ひき肌


 最初、文五郎が卜伝を連れて上泉の下柴砦に戻った時は大騒ぎになった。

 門前で文五郎は兵助に塚原卜伝の来訪を伝え、兵助はすぐにそれを家中の者や内弟子たちに伝えた。内弟子たちは緊張した面持ちで玄関に走った。上泉では先日来騒動が続いている。皆が出来事に敏感であった。丁度その時屋敷に出入りしていた町人のひとりがその騒ぎから、天下の剣豪塚原卜伝高幹が上泉秀綱先生に他流試合を挑みに来た、と錯覚したのも無理はなかった。噂はすぐに町中に知れ渡った。

 一方、屋敷では文五郎が内弟子たちに卜伝を紹介すると、彼らの目は一様に敬意と期待で輝いた。卜伝はしばらくここに逗留するという。その間、彼らは卜伝から剣術指南を受けられるものと期待した。卜伝は無表情で彼らの目を覗き込んでいた。

 文五郎は内弟子たちを引き取らせ、卜伝を客間に案内した。玄関から東側の外廊下を抜けて南側へ。文五郎を先にその後ろに卜伝、さらに後から従うように卜伝の大太刀を持つお町が続いた。南の庭に面する客間につくまで、卜伝は無言だった。お町は刀を床の間に納めると一礼して部屋を出た。文五郎と卜伝は火鉢を挟んで対座した。

「何がお気に召さないことでも」

 文五郎が問う。卜伝は仏頂面で火箸を弄んでいた。

「いや、別にそういうことではないがな。あの内弟子どもとやら、本当にそうなのか」

「はい。近在の城主から叔父上が預かっている者たちでございます。ここに来る前から、どの城でも一二を争う腕であったはずでございます」

「ほう。なるほど。…で、他の弟子たちは」

「町人や百姓たちが少々。二日に一度、玄関の前庭で教えております。おかげで、指南料がわりに食菜や酒肴を持ち込む者が多く、飲み食いには困りませぬ。反面、皆が気軽に屋敷に出入りするようになり、中には盛り場と勘違いをしている者もおりまして」

「師範代は意伯殿だけか」

「はい、今は」

「〃今〃とは」

「おれの他に三人。ですが今は、叔父上の指示でそれぞれ武者修行の旅に出ております。次にここに戻るのは、早い者でも年明けの頃になりましょう」

「そうか。それは残念だ。じゃあ、残っておる者で腕が立つのはあれらだけなのか」

 文五郎は少し考え、躊躇いながら口を開いた。

「いえ、他にも。女子がひとりおります。弟子入りは二十日ほど前からでございますか」

 卜伝が不思議そうに眉を顰めた。文五郎が小さく頷く。

「お静という、厩橋の医者の娘です。正式な弟子という訳ではありませんが、ふとしたことから。耳聡い者ですから塚原先生のことを聞けばすぐにやって参りましょう」

 文五郎は、後で仁右衛門に聞いたお静と秀綱の二十日前の試合の様を話した。卜伝はその話を大目玉を細めて聞いていた。その後で愉快げに。

「そのお静さんていう娘、意伯殿の〃色〃かい」

「そのようなものではござらぬ」きっぱりと即答した。

 卜伝がニヤニヤ笑っていると、お町が膳を持って来た。

「昼食を用意させました。ご自分の屋敷と思い、ごゆるりと御寛ぎ下さい」

 では。と、言い置いて文五郎は座を立った。

 卜伝は膳の上の一汁一菜をきれいに平らげると、庭を向いて火鉢の横の床板にごろりと寝ころんだ。庭木の間で雀たちが遊ぶ。人の声、水車の音、遠い町の喧騒が耳に優しい。空に雲が流れ来ては去って行く。縁側を深く照らす晩秋の揺らぐ日差しをぼんやりと眺めているうちに、卜伝の意識がゆらゆらと霞み始めた。お町が茶を運んできた頃には、軽い寝息を立てていた。お町は傍らに茶を置いてそっと部屋を出た。

 九ツ半を過ぎた頃、屋敷の中庭が騒がしくなった。卜伝は目を覚まして廊下に出た。

 中庭では午後の稽古が始まっていた。六人の内弟子たちに加えて、近在の侍や百姓たちも集っていた。総勢十六名。卜伝はすぐに彼らの手にしている木刀の異様さに気づいた。通常のものよりも大きい。一見、こん棒のようにも見える。が、ただ単に長く太いだけではなかった。全体を何かの皮で包んである。彼らは二人一組になり、列迫の気合いと共に一方が掲げる木剣に対して激しい打込を繰り返していた。その奇妙な木剣がぶつかり合う時の音も異様であった。木を皮で包んであるために出る音ではなかった。

 打ち込み稽古はやがて試合のような形に変わっていった。

 一対一。それぞれの組が、さながら合戦のように獣の気迫で中庭を所狭しと走る。木刀が相手の体を捉えても、互いに手を緩めようとしない。攻め手はとどめを刺すように第二第三の剣撃を加えようとし、受け手は相手の隙をうかがって反撃に転じようとしている。激しい稽古であった。互いの木刀は容赦なく相手の肉を叩き、頭蓋を打つ。戦意を失わない限り、誰もが苦痛に呻きながらもすぐに立ち上がり、稽古を続けた。

 更に、一対一から一対二へ。一人を二人が狙い打つ、三人掛けの稽古である。狙われる一人は順次変わる。文五郎が抜けて、五組が入り乱れて激しく打ち合った。

 初め、卜伝は目を疑った。稽古の激しさもさることながら、不死身を思わせるような彼等の耐力についてである。木刀の打ち込みは容赦ない。まともに当れば骨が砕け、頭蓋が割れる程のものであった。ところがその打撃を身に受けながら、秀綱の弟子たちは稽古を続けている。いかに高弟たちとはいえ、あり得ない光景であった。

 暫くして卜伝は、彼らの振るう奇妙な木剣に再注目した。

 一頻の打込を終えると、文五郎が休止の号令をかけた。皆が卜伝に一礼して散会する。汗を拭いにぞろぞろと井戸端へと向かった。文五郎だけが残り、卜伝の前に。

「これがお気になられたご様子であらせられましたな」

 文五郎が木刀を差し出した。卜伝はそれを手にした。重さを量るように両掌の上で転がし、握り締め、軽く振ってみる。そしてじっくりと見た。

「見た目よりも軽いな。竹を皮の袋で包んでおるのか」

 やはりただの木刀ではなかった。卜伝は手触りと感触で凡そのことを知った。細かく裂いた竹を細長い袋状に編んだ獣皮で包んで棒状にし、その上から漆を塗ってある。もっとも漆は激しい打ち合いのために過半が剥げ落ちている。

「〃しない〃と呼んでおります。竹の刀と書きますが」と、文五郎。

 ほう。と呟いて、卜伝は竹刀で自分の額を軽く叩いてみる。カシャカシャと鳴った。袋とその中の竹同士が打込の衝撃を吸収していることを理解した。

「面白い。これなら思い切った打ち込み稽古が出来る」

 卜伝は心底感心したように言った。文五郎は汗を袖で拭いながらにこりと微笑む。

「はい。試合や稽古で受け損なえば木剣では命を落としかねませんが、これなら瘤程度で済みます。叔父上、いえ先生が考案しました。鞣した馬の皮に漆を塗って、外側を包んであります。蝦蟇の肌に見えるところから、口の悪い者は〃蟇肌〃とも呼びますが」

 蟇肌竹刀は後の竹刀の原形である。竹刀は平和な道場剣法が主流になった時代に発明されたと思われがちだが、実は違う。戦場が身近にあった時代だからこそ、より実戦的な激しい稽古のための道具が求められた。太刀筋を見切る修業は、相手の峻烈な打ち込みの下に身を晒す以外にはない。秀綱はそのために竹刀を編み出した。

 他流試合は木刀で行われることが多い。それでも多くの者が落命し、不具の身になっている。卜伝自身、若い頃戦場で槍の柄を打ち下ろして相手の頭蓋を砕いたことがあった。一流の兵法者による木剣での打ち込みは必殺の一撃になる。

「それでも、あの勢いで叩かれれば痛かろうな」

「皆、いつも痣だらけです。それでもここにいる者たちは、さすがにまともに頭を打たれることはあまりありません。剣の次の動きを読む目は養われるようです」

「なるほど。上泉秀綱殿は大変な知恵者らしい。道具を思いつくだけでなく、その使い方もよく心得ておる。確かに合戦向きの修業法のようだ」

「元々は、こうした掛り稽古を行うための工夫だったようです。竹刀を作ってから修業教範を書かれた訳ではありません」

 卜伝の目が竹刀に落ちる。何かを考え込むようにじっと見つめた。

「あるいは昔、秀綱殿は木剣でこうした修業をしなければならぬようなところにいたのやも知れぬな」

「まさか、そのような。それでは毎日死者が出ます」

 卜伝は小さく頷き、ニタリと笑いかけた。目が文五郎の反論を肯定している。

 まさか、と文五郎は再び喉の奥で繰り返した。

「若い頃、秀綱殿がどこでどのように剣を学んだか聞いておらぬのであろう」

「…確かに、詳しいことは知りませんが…」

 漠然とは聞いていた。秀綱は元服して間もない頃、下柴砦を出て十年にも及ぶ放浪の旅をしていたという。いずれ来る大胡の動乱を予想した先代城主だった秀綱の父憲綱の意向によるものであった。気弱げな秀綱の中に眠る剣才を目覚めさせるための荒療法であったらしい。その間の武者修行が秀綱を変えた。傷つけられるよりも人を傷つけることを恐れていた内気だった若者は、鬼神をも凌ぐ無双の剣客に生まれ変わって戻ってきた。

 陰流。卜伝の懐にある書状には秀綱の名が記されている。書面を信じるなら、秀綱はその陰流の継承者である。が、文五郎たちは聞いていない。恐らく、同じ立場にある高弟たちも知らぬことである。文五郎の脳裏に、新たな疑念が浮上する。秀綱が陰流の名をあえて口にしない理由はなにか。それが此度の騒動に関わりがあるのではないか、と。

「だが」卜伝はスッと竹刀の切っ先を文五郎の眼前に掲げながら。

「その気になれば、これでも相手の頭を砕くこともできるじゃろう」

 竹刀を見る文五郎の目は戸惑うように小さく揺れた。

「さあ。考えたこともありません。竹刀は瘤や痣を作る程度のものと思って使っていますので。少なくとも、今まではこれで大怪我をした者はいませんでしたが」

「稽古だから、知らぬ間に加減するからじゃろう。先程の意伯殿の竹藪の稽古と同じだ。実際の戦いとは違うよ。ところで聞きそびれていたが、秀綱殿はどこに行ったのだ」

 卜伝の言葉は耳に残ったが、文五郎は先に問に答えた。

「堺です。口入れ屋の友人と気ままな旅をしてくると言って出ました。先日来の事もありますから、それも良いかと思いまして。警護の者たちも連れ立っております」

 ふうん、と卜伝は鼻を鳴らした。竹刀に目を戻しながら。

「意伯殿、これを暫く借りていてもいいかな」

「どうぞ」と、文五郎。

 ひと息ついてぞろぞろと戻ってくる弟子たちと入れ違うように、卜伝は客間に引き上げた。右手には文五郎から借りた竹刀を持っていた。部屋に戻って丸御座に腰を下ろす。竹刀を傍らに冷めた茶を口に運ぶと、再び稽古の気合いが聞こえてきた。

 卜伝はのんびりと時を過ごした。だらだらと午睡をまどろんだ。時折目を覚ましては、噂の剣豪を一目見ようと庭先の傍らまで覗きにやって来る町人たちに手を振る。卜伝と目が合うと、その度に町人たちは何かを囁きあいながらこそこそと逃げた。

 一時程過ぎた頃、卜伝が何気なく目を覚ますと縁側の敷石上に四人の子等がいた。寝ぼけ眼の卜伝を見ると、キャッキャッとはしゃいだ。

「じいさんが卜伝かい。そんなに強そうに見えないな」

 八才くらいの、一番年長そうな子どもが言った。卜伝は身を起こし、ゆっくり縁側に足を向ける。すると突然、

「ギャオー!」と叫びながら廊下に飛び出した。子ども等は悲鳴を上げて逃げ散った。卜伝は部屋に戻り、その場で蹲る。暫くして子ども等はまた恐る恐る近寄ってきた。縁側まで来ると再び卜伝が吠えて飛び上がる。その都度子どもは逃げては戻って来る。幾度も同じ事が繰り返され、悲鳴はやがて歓声に変わった。四半時近く、卜伝と子等は飽きもせずに続けた。子等の叫び声は中庭の稽古に負けぬ程である。それが仲間たちを呼び寄せたらしい。夕刻近くには、子どもの数は三倍以上に増えていた。

 南の庭の騒ぎは屋敷じゅうの者が気づいていたが、この奇妙な剣豪の振舞に対して、誰も咎めようとはしなかった。それでも、さすがに日が暮れ始めるとお町が声をかけた。

「皆、もう遅いからそろそろお帰り。また明日おいで」

 子ども等はお町と卜伝を交互に見ながら、ぞろぞろと庭から去って行く。最初に口をきいた子だけが

「じゃあね、卜伝」とぽつりと呟いた。卜伝が手を振る。

 卜伝は縁側に座り、子等の後ろ姿と西に沈む夕日に目を細めている。お町はその傍らに茶をふたつ置いた。ひとつは卜伝のために。もうひとつは自分のものである。

 お町は茶とつまみの梅干しを挟んで、卜伝に並ぶように縁側に腰を下ろした。

 卜伝は茶をすすり、梅干しを箸でひょいと摘んで口に放り込んだ。少し顔を顰めながらも、美味そうであった。種をなかなか吐き出そうとせず、しゃぶっている。舌の上で種を弄び、歯に当たってカリカリと鳴った。その横顔を、お町は繁々と見ていた。

「どうした、娘。わしの頭から角でも生えてきたか」

 言いながら、卜伝がお町の方を向いた。大きな目が面白げに笑う。

「いいえ。そのようなことは…。塚原さまは先生を斬るためにここに来たのですか」

 お町の声は小さく、消え入りそうに暗かった。

「そのつもりなら、ここは敵陣になる。厄介になったりはせんよ。お前さん、名は」

「お町です。四月程前からここで奉公させて頂いています」

「秀綱殿を好いておるのか」

「そのような…。滅相もございません。でも、とてもお世話になっています。剣のことは解りません。でも、秀綱さまは先生なんです。わたし、先生のお陰で目が覚めました。何かを教えて頂いたのでもありません。でも…」

 言葉が詰まる。頬を伝ってこぼれ落ちた涙に、お町自身が驚いた。

「罪な先生じゃ。女子がそう言う時は悪いことが起こる前触れだ」

 卜伝は西の山並みに沈みゆく夕日に目を向けた。種を吐き出し、次の梅干しを口に放り込んだ。また顔を顰めながら茶を飲む。暫くして、お町に目を向けた。

「塚原さまは他流試合のために上泉に来たと聞きました」

 ううむ、と卜伝が唸った。頭の剥げた部分をつるりと撫でる。

「どうもなあ。解らなくなった。試合を望まぬでもない。だが今は、三十年前とは違うでな。昔、秀綱殿の師匠と立ち会おうとしたことがあってな。愛洲移香斉という名の剣客だった。したが、どういう訳か出来なんだ。帳尻を合わせようとしてやって来たのだが…。やめた。秀綱殿と立ち会うといえば、お町がわしの膳に毒でも盛りかねぬ」

 卜伝がチラリとお町を見た。お町は無表情で俯いている。血の気の引いた唇と冷めた目元。その顔色が、卜伝の言葉があながち遠い戯言でもなかったことを物語る。

「塚原さまが悪い人なら良かったのに。でも、さっき近所の子ども達と遊んでいるところを見てしまったから。もうわたしには何も出来ません」

「それで良いのさ。妙な因果は背負わぬに限る」

 日は沈み、山々の稜線を赤と黒に染めている。二人は暫く無言でその景色を見ていた。卜伝は冷めかけた茶を飲み干した。お町は茶碗を盆に載せて厨に去った。



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