秀綱陰の剣・第六章

著 : 中村 一朗

飛龍六道


 同じ頃、甲府の外れ。森の奥、一本松の館。

 百舌鳥の巳陰が諏訪から戻った。一番組の乱波たちは久々に任を解かれ、甲府の町に残っている。皆、金をたっぷり懐に忍ばせて命を洗う夜を待っている。

 巳陰ひとりが館に帰って来た。諏訪での勘助の警護について報を入れるためである。また、草薙一族への今後の対応について、お久と話し合うためでもあった。

 相手方の首領である草薙陣内を捕えたという知らせは既に受けていた。その時はまだ瀕死の様だった陣内は奇跡的に命を取りとめた。お蝶たちの看護の元に丸三日間危篤状態が続いた後、峠を越したのだ。老いたりとは言え、忍びとして鍛え抜いた肉体が死の淵から陣内の魂を拾い上げたのであろう。四日目の朝に陣内は意識を取り戻したが、お蝶の差し出した粥を一口すすると、またすぐに深い眠りに落ちた。以後、約二時ごとに目を開けてはお蝶が口に入れるものを飲み込んで、再び目を閉じる。巳陰が帰ってきたのは、それから一日後、すなわちその館への襲撃から五日目の事である。

 館には四人がいた。お久、お蝶、巳陰。それに草薙陣内。

 陣内は深い眠りについていた。左傍らにお蝶がいる。巳陰は反対側に腰を下ろした。

「この男、口が聞けるようになるまでは今暫くかかりそうだねえ」

 陣内を見下ろしながら、疲れた口調で巳陰が言った。元来は陽気な男である。だが、草薙一族との戦いの顛末をお久から聞いた後であり、諏訪での談合を終えた山本勘助が甲府の屋敷まで無事に戻った事を報告した直後でもあって、さすがに疲労を感じている。加えて、気になる事があった。巳陰の意識には、不可解な行動をとったという黒夜叉の左門のことが引っかかっていた。以前、左門には幾度か助けられた事もあった。一度は裏切り者と断じていたが、事はそれほど単純ではなくなってきている。

「気長に待てばいい。どうせもう草薙一族には何も出来やしないさ」

 囲炉裏の側からお久が答える。南の縁側から入る日差しと囲炉裏の煙にうっすらと目を細めながら。その横顔は微笑んでいるようにも見える。

「確かに」

 お久を見ながら巳陰が頷いた。

 町娘のような色白の横顔からは裏傀儡の元締とは想像もつかない。さらに、五日前にはひとりで伊賀乱波二十一人の半数近くを手に掛けた修羅であるとは夢にも思えない。

 八日前。この館を発つ最後の最後まで、巳陰はここで草薙一族を迎え撃とうとしたお久の策に反対した。あまりにも危険であるからだ。自分を囮にして敵を森に誘い込み、傀儡の仕掛けを使って仕留める。言うは易く、行うは至難の策であると巳陰は断じた。敵を引きつけるには、極端に警備を手薄にしなければならない。そのためには少数をこの地に残すのみとすること。甲府周辺には彼らの動静を探る草薙の網が張られている事は承知していた。裏傀儡の一番組の動きは彼らには筒抜けであった。また、そうなるように仕掛けてもいたのだが。そしてお久を殺すために、手薄になった警戒網を草薙の多勢が破る。それを返り討ちにしようとする無謀な策であった。が、お久は巳陰の反対を退けた。結果、逆奇襲策は功を奏して草薙一族は事実上壊滅し、戦いは終了したのである。

 しかし、まだ多くの謎が残されている。猿飛と陰流について。

「巳陰。済まないけど、だれかを日向と月山に送っておくれ。腕よりも、なるべく聞き耳の達者な者を。おまえの手の者じゃなくても良いから」

 頷きながらも巳陰の眉間に皺が寄る。

「ああ。そりゃあいいけど、急ぐのかね」

 のんびりとした巳陰の口調に、お久がにこりと微笑む。

「三日前、奇眼坊さまから手紙を頂戴した。これに面白い事が書いてあったのさ」

 お久は懐から手紙を取り出して投げた。手紙は真っ直ぐ巳陰に向かい、その膝元に落ちた。巳陰はそれを開いて目を通した。細かい文字を追うにつれ、目の光が強くなる。

「愛洲一族と、猿飛陰流。それに加えて『飛龍六道』と…な」

 暫くして巳陰は手紙から疑わしげな顔を上げた。手紙には、勘助が塚原卜伝から聞いた愛洲一族と陰流、猿飛陰流に纏わる事が記されていた。さらに、若き日の勘助が日向を旅していた頃に耳にしたという謎の秘宝『飛龍六道』についても。

「奇眼坊さまらしいだろう。『飛龍六道』の事は以前から知っていたのに、あたしには言わなかったのさ。でも肝心なのはそんなことじゃない。愛洲一族の行方だ。彼らは月山から日向に移り、消息を絶った。死に絶えたか、あるいは別の地に移ったか。愛洲一族が腰を落ち着けた二つの土地に必ず何かがあるはずだ。それを調べてみてほしい」

 神妙に考え込む巳陰に、お久は先日千吉に聞いた話を語った。草薙と裏傀儡、さらに愛洲の秘宝を狙った先代冶平との関わり等について全てを話した。愛洲一族の継者が後醍醐天皇の血を引く可能性がある事をつけ加えつつ。

「わかった。手の者を差し向けよう」顔を上げ、お久の目をじっと見て。

「しかし、元締。ひとつふたつ、聞いておきたいんだが」

「何だい」

「愛洲一族を見つけて、どうなさるつもりだね。まさか先代の遺志を継いで、猿飛の秘宝を手に入れようなんて魂胆じゃあねえんでしょうねえ」

 お久が笑った。笑みを頬に貼りつけたまま、口を開いた。

「ちょっと違う。出来るものなら天下をね、ひっくり返してやろうと思って」

 お久の落ち着いた声に巳陰は当惑した。お蝶さえ、驚いた顔を向ける。

「その言葉、夢物語を信じているように聞こえますぜ」

「少なくともその夢物語のために大勢が死んでいる。だから、生きている者が帳尻を合わせてやらないとね。裏傀儡が草薙に取って代わるのさ」

「正気かよ…元締」

「さあね。でも、裏傀儡が陰流の継者を狙うと、草薙があたしを殺そうとした。黒夜叉さえ裏切らせてね。今も草薙は陰流、いや猿飛陰流に関わる者を守ろうとしている事は確かだろう。旧い主命を代々受け継いだのさ。愛洲を守れ。愛洲を捜す者を殺せ、とね」

「この草薙ごときに、愛洲一族は守られなきゃならねえ立場にいる、と」

「以前の草薙は手強かった。千吉はそう言っていた。今はこの様だけど」

 お久は陣内を顎で指した。巳陰も陣内に目を向ける。

「元締は、こいつから愛洲一族の隠れ住む地を聞き出すつもりかい」

「いいや。恐らく、彼らも愛洲の行方を知らないと思う。伊賀に忍ばせておいた時雨の知らせでは、草薙の里は大騒ぎらしい。残った者たちは反撃に備えて里を砦に変えようと必死だそうだよ。どこかに助けを請う動きは全くないとさ。草薙が何者かの依頼を受けていなかったことを裏付けていると思わないかい」

 巳陰は山本勘助の手紙を読み返し、ゆっくり考えてから口を開いた。

「では、こういうことかね。愛洲一族は二度目に卜伝が訪ねた二十年前頃に、てめえ等の行方を追おうとする野郎は皆殺しにするように草薙に命じて何処かに消えちまった、と」

「そう。世の中を覆せるっていう宝を手のそばにしていながら、愛洲は世の陰に消えた。あたしは宝に秘められた力なんかより、その理由を知りたい」

 巳陰は生真面目な顔で手紙をたたみ、膝元に置いた。

「その宝とやら。元締は何だと思いなさる」

 お久が立ち上がり、巳陰に並ぶように陣内の傍らに座った。

「巳陰。草薙という名から思い当たる事はないかい」

 お久は勘助の手紙を懐にしまいながら問う。巳陰が目を細めた。

「猿飛だった乱波たちの名だろう。そう言やあ、後醍醐天皇が名づけたと言ってたね」

 陣内を見下ろしながら、お久が頷く。

「たかが乱波集団に、南朝の天皇が恐れ多い名をつけたことに意味がある。いくら時をかけても庭番に秘宝を捜させるために氏名を与えた。あるいは奴等が必ず捜し出せると後醍醐に確約したのかも知れない。つまりその名が、あたしたちが捜す秘宝の鍵になる」

 ふと思い当たって巳陰は顔を上げた。

「草薙…。剣の名だ。皇族に代々伝わるっていう、三種の神器のひとつだぜ。…まさか、そいつがお宝だ、なんて言うつもりじゃないだろうね!」

 じっと見つめ返すお久の眼光に巳陰は顔を顰めた。

 草 薙 剣。天 叢 雲 剣とも言う。古事記によれば、天 照 大神の弟須佐之男命が八岐 大蛇を倒した時、その体内から見つけ出した剣と伝えられている。怪物退治の伝説はともかく、この剣に八咫の鏡と八尺瓊勾玉の二つを加えて三種の神器となる。神代より授かったとされるこの神器を受け継ぐ事で、皇位は代々継承されてきた。三種の神器は、天皇が実質的に世を支配していた時代の権力の象徴でもあった。

 源平の合戦はこの神器の争奪戦であったと言ってよい。 平 清盛の病死後、衰退する平家の世は長門の壇ノ浦で悲劇の幕を閉じる事になる。文治元年(一一八五年)三月、この海戦で源 義 経 の追撃により平家は滅亡するが、平家により奉り上げられていた安徳天 皇はまだ八つの幼子であった。安徳天皇は何も知らぬままに付き人たちに従い、入水してその幼過ぎる命の灯を壇ノ浦の波間に沈めた。その時三種の神器のうちの二つ、八咫の鏡と天叢雲剣も一緒に海に沈んだが、八咫の鏡は木箱に納められていた事が幸いして洋上から回収された。しかし、天叢雲剣は海底に消え、その姿は永遠に失われてしまった。以後の皇族の儀式には、新たに作られた天叢雲剣が用いられている。

 お久はその真正の天叢雲剣が現存し、姿を消した愛洲一族の手中にあると言う。

「いけないかい。もし、そうだったら面白いだろう。もっとも、最初に言い出したのはあたしじゃない。千吉爺さんさ」

 千吉は草薙との戦いの二日後に小田原に帰った。懐には約束の倍の金を持って。

「冗談じゃねえぜ。夢物語なら、もう少しましな事を思いつきなよ」

 巳陰に日頃の快活さが戻った。が、目は笑っていない。

「憶測だけど、それで一応の筋は通るだろう」

「根拠がねえな」

「二百年前、草薙は伊賀に来るまでは日向にいた。南朝に参じる前は、愛洲一族も日向にいたらしい。時雨が調べてきてわかったのさ。日向灘を知っているかい。腕の確かな船手を雇って黒潮にうまく乗れば、壇ノ浦の海峡から半日で辿り着くそうだよ。日向灘は、草薙の剣を持って逃げた平家の落ち武者が源義経の網をくぐり抜けて逃げ延びる地としては丁度良い位置だと思わないかい。どう、巳陰。あたしの夢物語も、満更捨てたものでもないだろう。時雨には引き続いて調べさせているけどね」

 巳陰は腰の竹筒から水を喉にひと口だけ流し込んだ。

「どうも、眉つばだぜ。よし、じゃあ仮にそのお宝が草薙の剣だったとしてもだ」

 巳陰は竹筒を腰に戻しながら、お久に体を向けて。

「今更そんなお宝が出てきても、誰が何の得をするんですかね。今は下剋上の乱世だ。南北朝の時代じゃねえんですぜ。本物の草薙の剣を後醍醐天皇の血を引く奴が手にして世に躍り出たとしても、誰も歓迎しませんぜ。楠木正成みてえに馳せ参じる武将なんか今時いねえよ。その宝剣にしたって半日も潮に浸かってりゃあ、きっと錆びだらけになってボロボロさ。後から造った贋物の方がずっと立派に違えねえ」

 後醍醐天皇は武家による支配を嫌い、古代天皇制を復活させようとした人物である。それを崇める武将などいない。今蘇っても、公家にさえ歓迎されないだろう。そんな南朝の縁者を擁すれば、京への上洛は逆に困難になる。巳陰はそう考えた。

「さすがだねえ。良くわかっているじゃないか」お久は表情を変えないまま。

「だから、愛洲一族は姿を消さなければならなかったのさ」

 巳陰の眉間に皺が寄った。訝しげにお久を見る。お久は続けた。

「足利幕府はもう潰れたようなものだ。それでも列強の武将たちは互いの顔色を窺いながら、未だ上洛出来ずにいる。方便がないからさ。帝に拝謁して、天下に号令をかけるだけの圧倒的な後ろ盾もない。で、そんな時に後醍醐天皇の血を引く某かが真正の草薙の剣を手に南朝の再興を宣言したとしよう。すると、どうなると思う。巳陰の言うとおり、犬みたいに尻尾を振る奴はいない。でも、有力な大名たちは挙って馳せ参じようとするだろうよ。そいつの首と剣を狙ってね。京の御所にいる北朝の裔に佞るためにさ」

 巳陰はお久の顔をまじまじと見た。ようやくお久の言わんとする事を理解した。お久は先を続けた。

「南朝の皇家の血を引く者の首と真正の草薙の剣を献上する事で、帝を後ろ盾にする。うまく立ち回れば、足利一族を京から放逐して新しく将軍職につく事だって出来るかも知れない。それでこの乱世に区切りをつけられるなら、寧ろ帝は歓迎するだろうさ」

 生唾を飲みながら巳陰は再び腰の竹筒に手を伸ばしかけたが、やめた。立ち上がり、壁際から瓢箪と椀を取って戻った。酒を注ぎ、ひと口に飲み干す。

「やっぱ元締も、そいつの首を狙うってえ訳かい」

「あたしは裏傀儡の元締さ。大名じゃない。首と剣を帝に売り込みに行くにしても、そいつが後醍醐の裔で本物の草薙剣を持っていると大和じゅうに知れ渡ってからじゃなきゃあ意味がない。でも、知れ渡れば覇を求める大名たちがすぐに首を刈りにやって来る」

「それじゃあ、あぶ蜂取らずってえやつですぜ。どうします」

「だからさ。とりあえず、なるたけ早く愛洲一族を捜し出すの。後は成り行き。当分は草薙の代わりを裏傀儡が務めればいい。首は切り取って塩漬けにしてしまっておくより、生かしておく方が長持ちするからね。そのうちに世情も変わる」

 呆れ顔の巳陰を尻目に、お久は瓢箪から自分の椀に酒を注いで飲んだ。

「じゃあ、お宝がその草薙の剣だとして、手紙に書いてあった『飛龍六道』ってのは何のことですかね」

「知らない。大方、愛洲一族の継者が後醍醐の血を引く証でも記されているんだろうよ。仰々しい奴はそうした書状にも仰々しい名をつけたがるものさ」

 小さく首を横に振りながら、巳陰は椀の酒を飲み干した。

「どうも妙な気分だ。話を聞いているうちに、夢物語とは思えなくなってきたよ」

 お久が笑った。

「気が変わったかい。じゃあ、確かめてみな。寝たふりをしているその狸に聞いて御覧」

 お久が冷たい目で陣内を見下ろす。巳陰の目の色が変わった。

「てめえ…。起きてやがったのか」

 陣内は弱々しく目を開いた。濁った視線がお久を捉えた。が、口を開く気配はない。

 お蝶が無言で立ち上がり、囲炉裏に掛けてある鍋から椀に粥を注いで戻った。そのままからくり人形のような動きで陣内の口に粥を運ぶ。

「せいぜい精をつけておくれ。少しぐらいの拷問ですぐ死ぬことがないようにさ」

 陣内は粥を食い終ると、二三度瞬いて目を閉じた。

「こんなところに転がしておいて、逃げ出したりしないかい」

「大丈夫さ。どういう訳か左足の膝が折れているからね。当分、歩けやしないよ」

 巳陰の頬が歪む。死人のような陣内の灰色の顔に、お久はうっすらと微笑みかけた。



top