秀綱陰の剣・第二章

著 : 中村 一朗

紅蜘蛛


 引き戸を割って外に飛び出した左門は、地を転げながら胸に刺さっている手裏剣を引き抜いた。満月のもと、そのまま十間ほどを一気に走り抜ける。同時に、やはりお久は追撃してこない事を確認した。手の内を互いに知り尽した者の同類意識が僅かに疼く。

 左門は楡の木陰の暗がりに飛び込んだ。反転して丘上の藁葺家を見上げた。

「佐助。配備は」

 顧みもせずに左門は問うた。

「怠りなく」

 左門の後ろの闇から声がした。そして、こそりと枯れ葉の擦れる音。人のかたちをした闇が、いつの間にか左門の傍らに寄り添っていた。男の名は佐助と言う。まだ二十歳になったばかりではあったが、左門配下では飛び抜けて腕が立つ。

「やはり元締は追っては来なさらなんだようで」

「当然だ。さもなくば、土蜘蛛の冶平が跡を譲ろうとなさりはしねえさ」

「組頭。今の言葉、さも嬉しそうに聞こえた。いいのか」

「いい。これを切り抜けられぬなら、それも定め。お嬢の力量がそれまでなら、ここで死ぬも仕方あるまい。せめておれの手で葬ろう。先代も許してくださる」

「しかし」

 切り抜けられる筈がない。佐助はそう言おうとした。左門と佐助の他に二番組の五人に加えて、伊賀から参じた六人。殺人を生業とする総勢十三の夜の魔物たちが完全な武装を整えて丘を取り囲んでいた。助けが来る当てはない。甲斐に残る裏傀儡は二番組だけである。三番組は既になく、一番組、四番組、五番組の者たちはお久の命を受けて領外に散っていた。加えて、この地形すら彼らを有利に導いている。

 小屋は丘の頂部に建つ。出入り口は正面のひとつだけ。裏に縁側もあるが、今は雨戸が閉まっている。しかもその雨戸は、左門が予めがっちりと釘付けにしてあった。以前は森に続く抜け穴もあった。しかし、これも左門の手で埋められていた。

 小屋は砦としては理想的であったが、脱出には不向きである。周囲五間四方は身を隠す叢さえない。中低木の茂る森までは約十間。さらに森を抜けてもその背後は断崖絶壁になっている。彼らなら下りることは出来るが、絶好の弓の的となることは避けられない。丘に続くのは獣道が一本のみである。伊賀者四人が万一に備えて一町ほど離れた麓を固めている。小屋の背後の森に三人。左右に二人ずつ。そして、正面には佐助と左門の二人。

「おれには無理だ」

 と、ぽつりと佐助が呟いた。左門はその緊張した若い横顔にちらりと目をやる。

「おれもだ。だから、元締とて仕留められぬ筈はない」

「まだこちらからは攻めぬのだな」

「無論。今のお嬢は手負いの獅子だ。無理に飛び込めば、少なくみても三人は死ぬ」

「確かに」

「半時待つ。それでもお嬢が動かねば、火をかけるぞ」

「わかっている」

 打ち合わせてあったことである。確かに現状は襲撃側に有利ではあったが、迂闊には接近できない。お久は常に一尺ほどの細い管を携帯している。吹矢だ。放たれる毒矢には、叢の切れ目までは必殺の距離であった。お久なら、板節の小穴からでも正確に狙うことができる。だが、あまり長引くのもまずい。守り手が知恵を絞り、策を実行する隙は与えぬに越したことはないからだ。まして相手は紅蜘蛛のお久である。左門の知る範囲で、お久以上に土壇場で手強い者はいない。静観はせいぜい半時と左門は踏んでいた。誰でも最初に考えることは、穴を掘って日の出まで時を稼ぎ、やり過ごすことだ。だがこの藁葺家は硬い土壌の上に建っている。森に抜け穴を通した時でも、三尺掘り進むのに三人がかりで半日かかった。半時では、せいぜい身を隠す程度の穴しか掘ることは出来ない。仮に床下に穴を掘り、身を隠したとしても、その状態で屋根に火をかければ、確実に蒸し焼きにすることができる。それに気づかぬほどお久は愚かではない。

 小屋の中からは怒鳴り声が聞こえてくる。殆どが浪人たちのものであった。途中、獣並みの聴力を持つ左門たちにも聞き取れぬほど小さな声でお久が笑った。やがて、男たちの叫び声。二人が同時にお久に斬りかかった事を告げていた。そして何かのぶつかり合う鈍い音。次いで、ビシャッと水を撒くような湿った音。

 ふいに断末魔の貉顔の小さな声が夜に流れた。死神を呼ぶ呪文のような、静寂。

 宙天の月は雲に隠れ、風が微かにそよぎ出した。だが、叢に隠れて奏でる虫たちの歌に変わりはない。冷え始めた夜の暗闇に淡々と響いてゆく。ゆっくりと。

「元締が二人を片付けた」

 と、佐助の言葉。

 だが予想は裏切られた。突然、若い屑の悲鳴があがった。かん高い声。訴えるように、すがるように怯えた声が聞こえた。よせ、やめろ、そんな…

 そして、血を吐くような絶叫が続く。凄じい恐怖がそこでのたうち回っている。その狂った叫びは、闇の住人である彼らの心胆をも寒からしめた。豪気な佐助さえ蒼白な顔で小屋をじっと見ている。左門とて例外ではなかった。お久の別の人格を知る左門は特に、小屋の中で繰り広げられているであろう地獄絵図をありありと思い描くことができた。しかし、あの叫喚がいかなる思惑の果てであるかまでは判らなかった。隙を見せているつもりかと疑ってもみる。だがこの間に距離を詰めようとするほど左門たちが愚かではないことも、お久は十分に知っている。窮地でのお久の読みの深さは、左門でも遠く及ばない。

 やがて再び、静寂。時はゆっくりと流れた。虫の声に小屋を囲む各自の鼓動が重なり、徐々に夜の呪術に飲まれてゆく。さらに、ゆっくりと。

 月が隠れ、現れ、また消えた。四半時近くが瞬く間に過ぎ去った。

「組頭。そろそろ」

 顔を小屋に向けたまま、少しだけ身じろぎながら佐助が促す。

「待て。動いた」

 ふいに、小屋の入口付近に灯りが現れた。小さな炎が揺らめき出す。螢にも似た火の粉がそのあたりからちらちらと舞い始めた。藁葺きの軒下から薄紫の煙が流れ出す。大気に微かな焦臭が漂い始めた。

「中から火をつけたぞ」と佐助。

「言うまでもない」と左門が答える。

 予想済みのことであった。今宵のような満月の光を殺すには、家に火を放って目を眩ませるしかない。燃え上がる家の大火を見た者の目には、周囲は真の闇に変わる。

 二人の背後に人の気配がした。佐助が振り返った。そこにいたのは、獣道を塞いでいた伊賀者の二人。異変が起これば、二人が麓に残り、二人がこちらに合流する手はずであった。これで燃え始めた小屋の正面を固めるのも四人になった。

「やっと裏傀儡の手なみを見られるな」

 白髪頭の伊賀者が言った。他の五人を連れてきた頭領の草薙陣内である。

「そうだ。心しておけ、陣内殿」

 左門が答える。小屋はみるみる火炎に包まれていった。小窓や出入り口のあちこちから飢えた生き物のように炎が噴きだす。すぐに屋根の藁にも燃え移った。

「出てくるぞ」

 と左門。他の三人も大きく見開いた目を小屋に向けている。

 直後、入口から炎に包まれた人影が飛び出した。文字通り火達磨であった。牛のような声で泣き叫びながら、左門たちの陣に向かって駆けてくる。お久ではない、と左門は直感した。火達磨は五間ほど走った辺りで、四本の矢に背を貫かれた。その場に倒れる。炎に喉を焼かれたためか、もう声も出ていない。それでも少しでも逃れようと最後の力でもがいている。佐助は剛弓に矢をつがえると肩口から心臓を狙ってとどめを刺した。火達磨の動きが止まった。それでもまだ燃えている。肉と髪の焼ける臭いに、佐助が顔を顰めた。だが、左門はその中に油の焼ける匂いを嗅ぎ取った。恐らく、浪人の一人であろう事は想像できた。お久に油を浴びせられ、火の中に放り出されたのだ。囮として。

 やがて小屋の側面の壁が燃え落ち、そこから別の人影が飛び出した。横顔と体の輪郭で誰か解った。貉顔の大柄な浪人であった。同様に火達磨だったが、先の者よりもずっと弱っている。声さえ出せぬまま蹣きながら、もがくように必死で走っていた。左門たちに対して横方向へ。それでもやはり五間ほど逃げた辺りで背後から矢に貫かれた。今度は、六本。その内の一本は頭蓋と首に突き刺さった。二番目の火達磨は叢に倒れ込んだ。炎に包まれながら、ぴくりとも動かない。首と頭に刺さった矢が致命傷である。

 その時、入口に第三の人影が現れた。家屋はまさに燃え落ちようとしていた。その轟々と燃え盛る炎と渦巻く火粉煙の中、見慣れた着物姿の女が立ち上がる。

 お久だった。蒼白の顔で佐助が合図の笛を吹いた。後方左右から素早く回り込んで来た者たちが、一斉に矢を射掛ける。八本の矢はことごとく女の体に命中した。女は一旦膝を折り、もう一度ゆらりと立ち上がる。そこに第二の矢群が放たれ、お久を針鼠に変えた。今度こそお久はそのまま土間に倒れた。その上に火の塊となった屋根が崩れ落ちてきた。直後、轟音とともに家屋は倒壊した。

「自害か。何とあっけない。これでは、わしらが出張るまでもなかった」

 陣内が罵る。無理もない、と左門は思った。身技の職能のみを尊ぶ伊賀乱波にとり、無抵抗のままの立ち往生など自害としか映らない。彼らに取り、潔い最後など嘲笑が相応しい。乱波の一派である裏傀儡にしても同様である。だが…

「いいや。まだ終わってはおらぬ」

 なぜそう確信したかは左門にも解らなかった。ただ左門には、このようなお久の死を納得できなかった。お久は絶対に自害などしない。例え手足を一本ずつもがれようとも、最後まで反撃の機会を窺おうとするはずである。それが左門の知るお久だった。

「買いかぶりだ、左門。所詮は女よ」

 陣内の言うように、確かに十三人の目を欺ける道理はない。

 左門は、焼け落ちて未だに燃え盛る藁葺家の残骸の傍らにふと目を向けた。叢の暗がりに転がる焼けた屍がひとつ。もうひとつは左門たちの目前にある。そして焼け跡に埋もれているであろうお久と三人目の浪人。さらに左門が手に掛けた与一と三郎太を加えると、六つになる。この丘の上にある六つの屍。うち四つは焼け跡の中に…

 その時、微風が吹いた。丘の下から上に向かって森を抜けてくる。ほぼ同時に、四人が目を見開いて風の来る方向に顔を向けた。陣内の目が素早く左門を見据える。

「聞いたな」

 左門は答える代わりに麓に向かって走り出した。三人も後に続く。ただし、残りの九人は焼け跡を取り囲んだまま。この事態に際しても警戒の陣は不動であった。

 麓に近づくにつれ、血の匂いが濃くなる。獣道の脇に死体が二つ転がっていた。非常に備えていた伊賀者である。二人とも正確に心臓と延髄を手裏剣で貫かれ、頸脈を断たれていた。恐らく、声をたてる間もなく即死。左門たちが風に乗って聞いた音は、二人が枯れ葉の上に倒れた時のものであった。二人を殺した者はまだこの近くにいる。

「紅蜘蛛の仕業か」

 左門に問う陣内の声に怒気がある。下忍を殺された事よりも、出し抜かれた事への屈辱によるものであった。それも、頭領である自分の目と鼻の先で。

「解らぬ。だが、これはお嬢が使う手裏剣だ。他の者には熟せぬ」

「十郎。合図だ」

 名を呼ばれたもう一人の伊賀者が、虫の音に似た呼子を吹いた。すぐに二人が獣道を駆け降りて来る。状況を察した二人と共に、伊賀者たちは無言で麓に向かった。

「佐助、おれたちも引くぞ。すぐに国を出る。お嬢のことはもういい」

 佐助は頷くと、笛を吹いた。三度。少し間を置いてもう一度。撤収の合図であった。

「組頭もこれが元締の仕業と思っているのか」

 左門はちらりと二つの骸に目をやった。口元が小さく歪む。

「いいや。頸脈を断ったのは匂いを辺りに振りまくためだ。血臭は人どもを足止める。針は後で刺したに違いあるまい。目的はこちらに皆の目を引くこと。お嬢に手を貸す誰かがやった。佐助。お嬢、いや元締は生きていると考えた方がよかろう。そんな気がする」

「あの火と囲みから、逃げおおせる筈はない」

「だから初代はおれではなく、お嬢に跡目を譲った。親の贔屓ではなかったのだ。おれには出来ぬが、お嬢には出来る技の才を見切っておられた」

 佐助はギクリとして思い当たった。人の目を眩ませ、死角をつく技。

「幻術。…しかし、どうやって」

「そのうちに判る。お嬢に聞く機会もやがてあろうさ」

 遠くで半鐘が鳴り始めた。里の者たちもようやく丘に揺れる火の手に気づいたらしい。佐助は左門の頬に一瞬の笑みを見たような気がした。

 左門と佐助は降りてきた五人と合流し、獣道に沿って丘を下った。彼らは城下を抜けて街道に沿う山道を真っ直ぐ西に向かい、日の出前には甲斐の国境を越えていた。


 左門たちが去ったことを確認すると、三人は封じていた自らの気配を梢の暗闇に解き放った。静止していた姿勢から一挙動で虚空に身を躍らせた。夜行獣のしなやかさで、音もなく地上に降り立つ。その引き締まった装束姿は枯れ葉のように森に同化していた。

 いずれも皆、若い。年の頃は、十五、六。うち一人は女であった。

「お蝶。お久さまを迎えに行け。おれと時雨は左門たちを追う」

 桐生が命じた。お蝶は無言。二人は風の疾さで麓に向かって消えた。

 残されたのはお蝶と二つの骸。死臭。それと風呂敷包みがひとつ。

 伊賀者を殺したのは彼らである。血を周囲に撒いたのは左門たちを引きつけるためだけではなく、三人の若気の残り香を消すためでもあった。気配はともかく、若者たちの臭気だけは消しようがない。常人には気づかれずとも、左門たち乱波なら嗅ぎ分ける。

 三人はお久に命じられてここに来た。常よりこのような事態を想定して、四半時遅れてお久の後を追うように指示されていた。ある程度の独断行動も認められている。お久が不覚をとるような万一の場合は、彼らが血路を開く手筈であった。先行してお蝶がここにやって来た時、麓には四人の伊賀者が闇に陣取っていた。やがて男の叫び声と共に丘に火の手が上がると、二人が獣道を上に向かった。丘上の家屋で起きている事を悟ったお蝶は、後から来た桐生と時雨にそれを知らせた。二人は、すぐに残っていた伊賀者二人に音もなく背後から忍び寄り、同時に頸脈を断ち切って殺した。そして遺体にお久の使う針を突き刺し、頃合いを見計らって遺体を枯れ葉の上に放り出したのである。

 裏傀儡の中でも三人の存在を知るのはお久と一番組の組頭だけだった。どの組にも属さない元締直属の下忍であり、お久に直に仕込まれただけに技の冴えだけであれば各組長にもひけは取らなかった。森に転がる伊賀者の屍がその証しである。もっとも殺したのは桐生と時雨で、見張っていただけのお蝶にはまだ殺人の経験はない。

 風呂敷包みを背にすると、お蝶は踵を返して獣道を走った。一度森の中で立ち止まり、様子を窺った。森や丘に人の気配はないことを確認する。焼け焦げた浪人の死体に一瞥を投げ、小屋の焼け跡に向かう。勢いこそ失いつつあったが、残り火とて油断はならない。舞い飛ぶ火の粉が周囲の枯れ草を焦がし始めていた。遠方の半鐘は今もなり続けている。間もなく手に斧や水桶などを持った町人たちがここまで押しかけてくるだろう。

「お久さま。どこ」

 と、お蝶。どこかに隠れているであろうお久の姿を求めて叫んだ。返事はない。あるいはすぐに動けぬところに身を隠しているのかも知れない、と思った。例えば、燃え落ちた家の下に深く穴を掘って。また、左門たちを出し抜いて森を抜け、上手く崖へと…

 その時お蝶は、もうひとつの焼け爛れた男の死骸が叢でむくりと動き出すところを見逃さなかった。斜め前方、僅か三間先の距離である。転身しながら反射的に腰を落として忍刀に右手をかける。臨戦態勢で半歩踏み込んだ。

 後にお蝶は、その光景に幾晩も魘されることになる。生涯忘れることができない悪夢となることを、今のお蝶にはまだ知る由もなかった。ただ身の危険を感じただけであった。あるいは、危難に遭遇した方が良かったのかも知れない。

 大柄な死骸がお蝶に背を向けて立ち上がった。その背には無数の矢が刺さっている。矢羽はどれも焼け落ちていた。頭と首にも一本ずつ。それだけでも致命傷の筈である。さらに全身を赤黒く覆う火傷の跡。衣類はおろか上半身の皮膚も殆ど残ってはいない。露出した背中の筋肉さえ高熱に炙られて過半が炭と化している。それでも男は動いていた。

 ゆっくりと向き直る。顔は消失していた。ただの黒い塊となった頭蓋骨。眼球を失った両の眼窩がお蝶を見下ろす。つっ伏していたためか、胸の廻りだけは皮膚らしいものが残っていた。だがそこにも、腹や下腹部に至るまで縦に割られた生々しい刀傷がある。胸の前の傷廻りが深呼吸するように隆起する。そしてビシャリと湿った音を立てて、胸の傷が内側から押し開かれた。そこから三本目の腕が生えてきた。さらに四本目の腕。

 その姿を小屋の残り火がギラギラと照らしだした。お蝶は喉の奥から突き上げてくる悲鳴を必死に噛み殺した。空白に逃げ込もうとする少女の脆弱な意識を、裏傀儡の自覚が懸命に繋ぎ止めていた。こんなことが起こる訳はない。これには何か理に適う説明がある筈だと、怯える自分にもう一人の自分が言い聞かせようとしている。しかし、どう説明をつけるというのだ。生きている筈のない破壊された死体が動いている。さらにそこから、二本の腕が生え始めたなどと言う途方もない怪談にどう理屈をつけると言うのか。

 精神が狂気に侵される直前、お蝶はやっと現実へ回帰する糸口を探り当てた。

 やがて男の胸から血みどろの人の頭が現れた。短く刈られた髪の間に顔がある。そこにお久の顔を認めたことがお蝶を救った。ズルッ、ビシャッと血脂を滴らせながら裸の肩と乳房が現れる。やがて身悶えるように上体を揺すって、男の肉体を脱ぎ捨てた。

 グシャリ。人で作った肉の羽織が地に転がる。羽織には浪人の首がついていた。

 血に染まった女の裸身が丘に立つ。両足にのみ長い布を幾重にも巻きつけたその姿は、さながら月光を受ける弥勒菩薩像をお蝶に連想させた。

「お久さま…」

 吐き気に耐えて、お蝶が呟く。答えずにお久は右肩に左手を置き、逆方向に捻じった。ゴキッ。外れていた関節が元に戻る。さらに左肩。ゴキッ。

 嫌悪と恐怖を押して、お蝶は男の体で造られた肉の〃羽織〃を見た。

 一見、両足を切断されただけの死体であった。だがそれが、肉体の大半を失ったものであることはすぐに解った。首下から下腹部にかけて胴が縦に割られ、五臓六腑がことごとく取り払われていた。さらに首から下の骨も全てなくなっていた。代わりに、背中の内側にお久が着ていた革帷子が貼りつけられている。矢を射かけられても、死んだ筋肉と革帷子の二重の鎧で防げたのであろうと推測できた。お久は羽織の外に出ることになる両足に濡れた布をしっかりと巻きつけたのだ。両肩を小さく曲げるために自ら関節を外し、この肉で出来た羽織を頭からすっぽり被った。さらにその上には恐らく二重三重に着物を纏った筈である。油をたっぷりしみ込ませ、すぐに燃え上がるように細工まで施して。そして最後に、内側から縫い止めたのだろう。少しぐらい走ってもが脱げないように。

 お久の上半身を隠す空間は、そうして造られたのである。

 お蝶は死体の下腹部から出ている赤黒い糸に気づいた。膝をつき、糸を手にしてみる。糸の先は丘上の焼け跡の中に消えていた。硬く靱な糸で、鋼を縒り込んであった。

「傀儡糸だよ、お蝶」

 声にお蝶は我に返って振り返る。お久は荒い呼吸を静めようとしていた。顔を上げ、お蝶を見た。いつも技を教わる時の穏やかな表情がお久に戻り始めていた。

「傀儡糸…」

「そう。死人を操る時に使う。最初に殺した浪人にあたしの着物を着せて、あたしの髪をかぶせて。その糸で操ったのさ。梁から吊り上げて…人形みたいに…」

 お久が咳込む。お蝶は慌てて風呂敷をほどき、竹の水筒を手渡した。浴衣をお久の肩にかけた。竹筒を口に運びながら、礼を告げるようにお久が微笑んだ。が、右肩が痛んだのか、途端に頬を歪めて左手で押さえた。軽く舌を打った。

「畜生。髪を切ることになるなんて思わなかった」

「いいえ。髪などまた生える。お久さまがご無事で何より」

「命あっての黒髪、とでも言うのかい」

 お蝶は無言で応じた。暫くの沈黙。お久は浴衣の帯を締めながら、

「そうかも知れないね」と苦い笑みを浮かべた。続けて、

「ところで左門たちはどこ」と問う。

 お蝶は、既に桐生と時雨が左門たちの後を追っていったことを告げた。さらにここに来た過程を報告する。桐生たちが伊賀者二人を殺害したこともつけ加えた。

「それでいい。あの二人なら、下手な手出しはしないだろうからね」

 お蝶が頷く。桐生と時雨は十町以上離れて、猟犬のように正確に険しい道を選んで逃げる左門たちを何処までも追跡するだろう。彼らが目的地に辿り着くまで。

 お久は無残な男の屍を一瞥した。

「きっと、男の体から生まれた女はあたしくらいだろうね。この広い天下でもさ」

 お久は冷たく笑い、お蝶は蒼白い顔を伏せた。お蝶はお久が好きである。でも、全てがではない。こういうふうに笑うお久は、特に嫌だった。

「お久さま。一本松の館に先に戻る。湯を沸かしておくから」

 風呂敷包みをお久に手渡す。中は手拭いと髪油、懐刀と手裏剣が五本、毒紅と針。

「うれしい。いい子だね、お蝶」

「お久さまも急いで。今ごろ町人たちもここに向かっているかも知れない」

 返事も待たずに、お蝶は駆け出した。

 獣道の傍らに倒れている別の焼死体にちらりと目をやる。月明かりに、爛れた死顔が見えた。この男は自分の死よりももっと恐ろしい光景を見たに違いない、とお蝶は思った。仲間の体が切り開かれ、解体されてゆく様を。両足が切り取られ、臓腑や骨が悉く取り出されて、体の中に革の帷子が貼りつけられてゆく様を。例えどれほどの悪人でも、一緒に笑い合い語り合ってきた仲間であったことにかわりはあるまい。それが人間羽織になってゆく様を、この男は震えながら見ていなければならなかった。その時の恐怖と狂気が伝染して、左門たち襲撃者の目を眩ませることとなったのである。

 お久は好んで人間羽織を被ったのではない。生きのびるためには仕方のないことだったとは思う。囮の浪人を怯えさせる必要があった事も理解できる。だが、自分には出来ないとお蝶は確信していた。桐生や時雨も、いやお久以外には誰にも出来やしない。きっと思いつきさえしないだろう。だからお久は女の身でありながら裏傀儡の元締になれたのだ、と思った。お蝶は、この男の泣き叫んでいた声を遠くから聞いた。あれは、炎に包まれた恐怖よりも、小屋の地獄絵から解放された喜びの声であったのかも知れない。狂気に取り憑かれるよりも、死ぬことができる喜びの泣き声ではなかったのか、と。それが普通なのだ。だから、この男は人並みに死ぬことが出来たのだ。

 お蝶は獣道を懸命に駆けた。今は一本松の館に戻り、湯を沸かすことが何よりの大事のように感じていた。左門たちを追い、行先を突き止めるよりもずっと。

 血の匂いが消えれば、きっといつもの優しいお久さまに戻る。大嫌いなあんな冷たい笑顔は、血脂と泥と一緒に流れ去ることだろう。そして、あの人間羽織のおぞましい思い出も、暖かい湯が奇麗に忘れさせてくれる、とお蝶は信じたかった。



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