秀綱陰の剣・第三章

著 : 中村 一朗

騒動


 西上州・勢多群上泉。

 秀綱が襲撃を受けてから六日。過ぎる日々は以前のごとく平穏であった。

 先日の出来事を知るものは羽黒屋一派と屋敷内の者たちだけであり、彼らには箝口令が布かれていた。戦乱の予感に過敏な領民たちの不安を煽らぬための配慮である。

 西上州西の口の最前線であるにもかかわらず、下柴砦即ち上泉屋敷には家臣と呼べる者は七名と意外な程少ない。しかもそのほとんどが、ここ数年のうちに雇われた者たちであった。かつていた家臣たちの多くは十年前の砦奪還で命を落とし、生き残った者たちも間もなく、一子秀胤に従って屋敷を出ていた。一族間の争いから秀胤を遠ざけておくため、秀綱の意志で遠戚を頼ってこの地を去らせたのである。

 今いる家臣たちは皆、上泉の縁者同様に屋敷周囲の町中に家を構えていた。無論、屋敷内に住む家臣などいない。代わりに、内弟子たちが住み込んでいる。剣術指南のためと請われて近在の城主から預かった者たちであった。内弟子たちが屋敷に滞在しているのはせいぜい一年、長くても三年止まりである。長期の住込修行を終えると、彼らはそこそこの腕になって主のもとに帰って行く。ごく稀にとび抜けた剣才に覚醒する者もおり、彼らは上泉屋敷に残って修業を続けた。その技量を持つに至った数名の高弟たちは、疋田文五郎を除いて今は他国に武者修行の旅に出ている。彼らが戻ってくるのは年に数度、あるいは人物によっては数年に一度であった。秀綱が彼らに求めて課した修業である。

 それでも、屋敷は相変わらず賑やいでいた。厨への御用聞きや門人たちの出入りは常日頃と変わらない。屋敷には町の喧騒がそのまま持ち込まれていた。もっとも秀綱暗殺未遂の事実は殆どの者たちには知れていないのであるから当然ではあった。

 その一方で、慌ただしい側面もあった。秀綱の屋敷を取り巻く警護用人の数は三倍に増えている。元々住込みの内弟子六人に、総勢十二の羽黒屋の若い衆たちが加わったのだ。もう襲撃などないと考える秀綱は警護自体にも異を唱えたが、仁右衛門に押しきられてしまった。ただし、家臣たちは警護の任から外された。家族にも何も告げぬよう命じている都合上、極端に夜勤を増やすわけにも行かなかったからである。

 若い衆たちは四人ずつ三つの組に分かれ、うち二組が昼夜を問わず見回りに当たっている。中に、裏傀儡に利用された三太の顔もあった。若い衆たちは秀綱が外出する時にもついて来た。徒労を組むことを好まない秀綱は彼らに仁右衛門の寄せ場に戻るように言ったが、親分の命令だからと頑として受けつけない。三太に至っては、子どものように目に涙をためて無言で抗議した。それが三太なりの精一杯の償いのつもりらしい。三太の行為には何の科もないと聞かせても、本人の自責の念は消えなかった。秀綱は仕方なく、商談で大阪の堺に行っている仁右衛門が戻るまでと期限付きで彼らの警護を受け入れた。そんな荒くれ者たちの粋な気質を、内弟子たちや屋敷の者たちも快く受け止めた。警備の在り方について家臣や内弟子たちと羽黒屋一派の間で穏やかに論議が持たれ、基本的には屋敷の中は内弟子たちが、外を羽黒屋一派が当たることで落ち着いた。

 だがその物々しい警戒が、箕輪からの使者を迎えるこになろうとは誰も考えなかった。長野業政の側近中の側近である藤井豊後守友忠配下の精鋭五名が、使者として赴いてきたのである。業政は以前から大胡との国堺に神経を尖らせている。その上泉の地で、秀綱に某かの動きがあると知らせを耳にした。噂のみで事情を知らぬ業政にとり、秀綱の警戒網が大胡との新たな小競り合いの前触れではないかと勘繰ったのも無理からぬ事であった。一朝事が上泉で起きれば、すぐに厩橋から出陣する約定はあった。だがそれも秀綱の要請に基づいて発動する。大胡領内の角逐を知る上州同盟の側としても、迂闊に援軍を送るわけには行かない。その立場は北条氏に類じていた。

 小なりとは言え、上泉伊勢守秀綱は下柴砦という一城の主である。一応正規の肩書きは箕輪城外における躰術及剣術指南役。言わば、上泉流兵法を説く西上州同盟軍の軍師に近い。長野氏との同盟関係にはあっても、絶対主従の道理はなかった。振舞いの勝手で他人の顔色を伺う必要もない。それゆえ箕輪の側も、秀綱に気を遣ったつもりで見舞いと称して使者を送って来たのである。ところが、もともと筆無精の長野業政は使者に見舞いの文など携えさせはしなかった。また、実際に使者を送り出すように計らったのは藤井友忠であった。友忠は奇略に優れ、勇名を轟かせていた家老であった。ために、人や物の流れには耳聡くあろうとした。友忠にしてみれば、噂の真相を確かめるための派遣であり、兵たちもそのつもりでやって来た。友忠は万一の場合は下柴砦に助力させるつもりで、完全武装の出立ちで旗本たちを送り出した。剣槍に名高い上泉秀綱への助太刀ということで、旗本たちにはそれなりの気負いがあり、加えて直参意識に由来するそれなりの不遜な態度もあった。通常ならば何の問題にもならなかったであろうが、ちょっとした行き違いから些細ないざこざが起き、少々面倒な事件に発展していったのである。事の始まりの時、秀綱は不在であった。親族の寄り合いで、近在の寺に家臣一同を連れて参じていた。

 昼近く、箕輪の使者が突然馬で来訪した時、屋敷の門前では兵助と守りにつく四人の若い衆が談笑していた。もう一組は秀綱について外出しており、屋敷にはいなかった。物々しい姿の馬上の大仰な格好の侍たちが傍らまで来て、彼らは話を中断して警戒の目を向けた。白兵戦が主流の昨今では滅多に纏うことはなかったが、騎乗しているその大鎧姿は見る者を威嚇するに十分過ぎる程であった。居丈高に地上の兵助たちを睨み据える。身分の差が然程明確ではなかったこの戦国の世は、武家と庶民の立場に大きな隔たりはない。互いの嫌悪をあからさまにできる程度には平等だった。仁右衛門の侍嫌いは、以前から荒くれ者たちにも伝染していたのである。そして箕輪の使者は気さくな秀綱たちの気質とは異なり、箕輪城中で高禄を食む生粋の侍たちであった。武勲の誇り高い主家で骨の髄までたたき込まれた忠義の精神は後世の侍の見本となるような者たちである。

 どちらが先に何を言ったかは問題ではない。秀綱の在非を巡る押し問答はみるみる険悪になっていった。慌てた兵助は屋敷の中から内弟子たちを呼んだ。秀綱の門人は近在の百姓や町人たちも多かったが、住み込みで修業に来ている彼らは皆、長野氏各属城出身の若侍である。侍同士なら拗れた話も矯正してくれるものと兵助は思った。しかし、兵助の思惑は裏目に出た。駆けつけてきた内弟子たち四名はたまたま稽古中だったこともあり、眼光鋭く、手には木剣を携えていた。それが旗本たちの癇気に油を注いだ。

「この下郎ども、何を遊んでおる!」

 使者のひとりが激昂して叫んだ。槍の穂鞘で、内弟子のひとりを小突きながら。

 まだ若い内弟子たちと荒くれ者たちの顔色が変わった。屈辱感よりも使者たちの長野家直参旗本である選民意識が彼らに共通の憎悪を抱かせたのである。乱世に生きる者たちは激し易く、血の気も多い。訳も解らず成り行きのままいきなり怒鳴りつけられた内弟子たちは、この暗い共感によって、日頃から交流のある若い衆たちの側についた。小突かれた内弟子は物も言わずに、槍の柄を木剣で打ち払った。同時に若い衆たちの怒声がとぶ。

 それが喧嘩の合図になった。

 内弟子荒くれ者連合軍は九名。対する使者軍団は五名に加えて五頭の馬。双方とも逆上しても我を忘れたりせず、また真剣での殺し合いをするほど愚かではなかった。血を見慣れているだけに喧嘩の際でもある程度の理性の歯止めは利いた。内弟子たちにすれば、相手は盟主である長野家からの使者であることに間違いはない。下手をすれば一族のみならず主家にまで叱責が及ぶ。それが心に蟠りとなって、木剣の本来の冴えを曇らせた。

 その遠慮が使者軍団に有利に働いた。さらに決定的な要因となったのは馬である。戦場を駆ける馬は移動の道具として使われるだけではない。扱いは寧ろ、戦車に近い。乗り手の采配次第で敵を蹴散らし、踏み砕くよう調教されてもいた。長野家の旗本である彼らは手綱さばきに長けていた。そして馬は、旗本たちほどには加減を弁えてはいなかった。

 争いが始まるとすぐ馬の一頭が荒くれ者たちの前の進み出、前足を高く上げて嘶いた。激しく宙を掻く前足を真下から見上げる者には、馬はさながら凶獣である。戦場でも有効な威嚇効果はこの場合も覿面であった。連合軍の陣は大きく乱れた。そこにつけ込むように、別の二頭の馬が踊り込んだ。さらに残る二頭がその外周を悠然と回っている。友忠旗下の精鋭であるだけに、巧みな連携戦術である。内弟子たちは馬と槍の柄に追い散らされて逃げ惑った。羽黒屋の若い衆たちなどは馬に体当られ、蹴られさえした。混乱する九人を見下ろしながら、使者たちの怒りは嘲笑に変わっていった。

「何と無様な。お主たちは、それでも秀綱殿門下であるのか」

「この程度か、上泉殿の兵法は。これでは、納屋の雛も守れぬぞ」

「いやいや。秀綱殿もご高齢。このような若造たちに指南も出来ぬほど呆けられたに違いあるまい。こやつ等が秀綱殿の不在と我らを謀るも、それがためじゃ」

 五人は兵助たちを追いながら口々に哂う。頭上から降って来る悪口雑言は兵助たちの耳にも届いていたが、どうすることも出来なかった。反撃して使者の口を封じるどころか、馬の足をかわすだけで精一杯だった。やっと駆けつけてきた家中の者たちも、おろおろするばかりで止める手だてなど思い至らない。やがて、町のやじ馬たちも集まり出した。

 その時、疋田文五郎がそこに来合わせた。親族の寄合など無視して、すっかり日課になった昼前の竹藪での修行を終えて帰って来たところで、門前の騒ぎに遭遇したのである。長野家直参旗本の紋章を掲げた複数の騎馬兵に弄ばれて、もうもうと立つ埃の中を逃げ回り、転げ回っている見知った顔の男たちの姿に一瞬、唖然とした。

「意伯さま!」

 埃の中から誰かが叫んだ。或いは、名を呼ばれたような気がしただけであったのかも知れない。いずれにせよそれを合図に、切り替えたように精神が空白に変わる。何が起きているのかはわからなかったが、何をなすべきであるかはすぐに体が理解した。

 文五郎は腰に差していた剣を放り捨てた。生け垣に立てかけてあった一間ほどの長さの天秤棒を右腕一本で構え持ち、混乱の輪の中にとび込んだ。文五郎の目に、つい先程までの竹林の光景が重複して映る。馬たちの足は何故か竹のように止まって見え、それらの間隙を楽々と走り抜けることが出来た。その間、幾度か天秤棒を閃かせてそれぞれの馬の尻を力まかせに叩いた。馬は本来臆病な動物である。尻を叩かれたこともさる事ながら、新手の出現に驚いた騎手の動揺を敏感に感じ取った。

 突然、馬たちは恐慌状態に陥った。連携陣が瞬く間に崩壊する。それでも旗本たちは必死に馬を立て直すと、数間を取って再び内弟子たちと対峙した。

「ここは屋敷の門前である。この騒ぎは何だ!」

 文五郎が地をも断ち割るような烈迫の気合いで双方を一喝した。一同の目に、小柄な文五郎の丈が倍にも膨れ上がったように見えた。内弟子たちは馬に追い回されていたつい先程よりも顔色をなくした。馬さえも嘶きを止めた。荒くれ者たちのみ力なく地に転がったまま。痛めつけられたところを押さえて、小さく呻いている。

 旗本たちも残忍な陶酔から覚め、冷厳な顔に戻った。彼らにも元々悪気はない。行きがかり上、こうした事態になったことが不本意であることに変わりはなかった。

 使者のひとりが騎乗のまま、ゆるりと前に進み出る。

「お手前は、ご高名な疋田文五郎殿と心得る」

 西上州の武門にあって、意伯こと疋田文五郎の名を知らぬ者はいない。上泉門下の龍虎のひとりとして、その剛剣は既に師を超えているとさえ謳われていた。旗本たちも箕輪城での剣舞御前披露の際、文五郎の技を目の当たりにしていた。噂に違わぬ技量であると誰もが認めたその時の記憶が、使者に素直な態度をとらせていた。

 文五郎は沈黙のまま、使者の目をじっと睨みあげている。

「既にお気づきと思うが、我等は長野家直参旗本でござる。主命により罷り越した」

「知らぬ」

「何」

「知らぬと申した。御主等の正体が長野家の旗本であろうが、榛名山の狸であろうが俺や門番たちの知ったことではない。そう言ったのだ」

 馬上の男は口を半開きにして言葉を失った。その顔が見る見る朱に染まってゆく。背後から他の使者たちが横に来ていることにも気づかぬほど血気が上っていった。

「何をこの…下手に出ておれば」

「待て、酒井」

 隣の使者が、手綱を握り直そうとしていた酒井という旗本のその手を制す。

「内藤殿。なぜ止める」

 酒井は不満顔を内藤に向けた。内藤の目は文五郎に向いたまま。

「こちらの御仁の言うとおり、我らは確かに榛名山の狸かも知れぬ。つけ加えるなら、この御仁は赤城の狐やも知れぬぞ。つまりそういうことであろう、狐殿」

 文五郎は顔色ひとつ変えずに小さく頷いた。

 長野家の旗本と上泉の内弟子が争えば波紋は大きいが、狐狸が意地を張り合うぶんには誰も咎めだてたりは出来ない。文五郎は旗本たちにこの喧嘩に長野家の名を出さぬよう暗黙に持ちかけ、内藤という旗本はこの争いそのものを忘れようと答えた。

「では、上泉伊勢守秀綱様は屋敷内には居られないのだな」

 と内藤。文五郎はぐったりしている荒くれ者たちの様子にチラリと目をやって。

「先生は、夜半には戻る。急ぐ用であれば、この場にてお待ちなされ」

 和み始めていた旗本たちの顔から再び表情が消えた。屋敷の中には断じて入れない。文五郎は遠回しにそう宣言した。全てを水に流すつもりはない、と。

 旗本たちと文五郎が再び睨み合う。傷の浅い内弟子たちがその後ろに控えた。

「わかった。我等はもとより上泉様の御ためを思い、見舞いに参じた者。それを追い返すと申すのであれば、非礼はそのまま主に伝えるが、よろしいな」

「ご勝手になさいませ」

 内藤は硬い表情で頷くと、馬の向きを変えた。他の者たちもそれに従う。凱のような一声を上げて、五人は颯爽と馬を跳ばして厩橋方面に走り去った。

 その後ろ姿が見えなくなるまで、文五郎は怒気を抑えて睨んでいた。

「意伯さま…俺等、とんだことを」

 痛みを堪え、兵助が怯え顔で呟いた。他の者たちも似たような顔つきになっている。

「起きてしまったことは仕方がない。それより傷の手当てだ」

 内弟子たちは掠り傷程度ですんだが、旗本たちの差別を身に受けた荒くれ者たちは惨々たるものであった。骨折、裂傷のない者はいない。皆が、肋骨の二三本は折られた。顔を蹴られた者は、頬の肉がざっくり裂け、奥歯が無くなっていた。文五郎たちは周りにいた者たちの手を借りて、ひどい傷を負った荒くれ者たちを屋敷の中に運んだ。二三人で一人ずつ、ゆっくりと。少し動かすだけでも折れた骨が擦れ合い、苦痛に呻いた。どれも命に別状のある傷ではなかったが、完治には数か月を要する。日銭を稼いで生活をしている彼らに取り、身動きの出来ぬ養生を強いられることは死活問題になる。旗本たちには、深手を負った者たちの今後の生活についてまで想像は及んでいない。自分たちとは異なる者を見下して畜生のように扱う旗本侍どもの特権意識に、文五郎は吐き気にも似た嫌悪を覚えた。文五郎にとり、顔見知りの荒くれ者たちは酒席の飲み仲間でもあった。

 怪我人たちを運び終えて最後に、放り出しておいた大太刀を拾い上げる。文五郎はこれを使わなかったことに改めて安堵した。激情に駆られる前に、剣を手放したのは正解だった、とも思った。理由の如何を問わず、剣を抜けば殺し合うことを宣言した証しになる。その結果がもたらす事態は、想像に難くない。しかし…

(叔父上なら、どうしたろう)

 ふと考えてみた。もしあの場に居合わせたら、と。無論、秀綱の姿を認めれば、旗本たちはたちどころに馬を制したはずである。だがもし彼らが秀綱のことを知らなかったら。文五郎と同じ立場で、同じ状況に秀綱が遭遇したならば。

(恐らく、剣を抜いたろう)

 そして、逡巡なく馬か騎兵を斬った。心を消し、鬼神の技を振るった筈である。弟子たちや仲間たちのためにではない。ましてや、自分自身の意地や面目のためでもない。はっきりした理由は文五郎にも解らなかった。それでも絶対の確信を持てた。

 上泉秀綱なら不惑で斬ったであろう、と。


 秀綱が屋敷に戻ったのは暮六ツ半を過ぎた頃だった。

 すぐに文五郎は秀綱に事の子細に告げた。秀綱は一言も問わずに話を聞き終えると、奥の間で休む荒くれ者たち一人一人を見舞った。口数は少なかった。廊下で繰り返し詫びる内弟子たちにも、秀綱は小さく頷くだけだった。ただ通り過ぎざまに、

「申しおくが、間違っても腹を切ろうなどとはするな。かえって面倒になる」

 と、目を細めて厳然とした声で言い置く。その言葉に怪我をした二人がこそこそと身を竦めた。安易な覚悟を秀綱に見透かされた二人は恥じ入った。

 秀綱はそのまま自室に戻り、障子を閉ざした。廊下には弟子たちと文五郎が残った。

「意伯さま。我等はいったい、どうすれば」

 奥山と言う名の内弟子が泣き出しそうな声で問う。

 内弟子の中では一番腕の立つ奥山は秀綱に従って屋敷外に出ており、旗本たちとの小競り合いには巻き込まれていなかった。奥山には、それが余計心苦しかった。

「さあな。俺にも解らぬ」

 文五郎はさらりと言い、気落ちしている奥山に目をやる。

 奥山は歯を食いしばって、袴を握り締めていた。僅かに背を丸めたその姿が無形の構えに似ている。文五郎は、この事態にそんな場違いな事を連想した自分を不思議に思う。

「大変なことを…。先生のみならず、長野業政公にまでご迷惑を」

「成り行きでこうなったのだ。余り自分を責めるなと皆にも言っておけ」

 文五郎は内弟子たちに番小屋で待つように言い添えると、部屋に引き取らせた。

 厨で夕げの支度をさせ、いつも通りお町に皆の膳を運ばせた。暫くして下げられてきた膳の食菜は、秀綱の分だけが残らずたいらげてあった。文五郎は秀綱と自分の茶を入れて盆に載せると、秀綱の部屋前まで運んだ。立ったまま、障子越しに声をかける。

「叔父上。茶などいかがでござる」

「おう、良いな。入れ」

 文五郎は障子を開けて、中へ。

 秀綱は火鉢を前に座っていた。まだ炭を熾す季節ではない。左手に持った鉄の火箸をその中央に突き立てて、ずっと灰を掻き回していたらしい跡があった。

 盆を傍らに置き、火鉢を挟んで秀綱の正面に膝を崩して座した。茶を勧めながら。

「今宵は、茶よりも酒の方が良うございましたか」

「いや、これでいい。近頃は、意伯にもいろいろと気を遣わせてばかりおる」

「確かに、ここのところ何かと忙しゅうございます」

「忙 しい時は、こうして重なるものだ。良い修業になる」

 二人は黙して茶を飲んだ。一口飲む度に文五郎は師の顔色を窺ったが、常と変わりはない。細い目の奥で何を考えているのか解らない事も日頃のままである。

「して、一体どう為さいます」

 辛抱し切れずに文五郎が問う。さりげなく言うつもりが、声音が下がった。

「ああ、まあ…。とりあえず、明日の昼にでも箕輪まで行ってみよう。久しく業政殿にも会っておらんからなあ。後は、その場の話次第というところか」

 散歩にでも赴くような声であった。ぼんやりと天井に目を向けていた。

「悠長なことを。叔父上はいつもその調子じゃ」

「仕方あるまい。五十近くまでこうして生きてきたのだ。今更変えられぬよ」

 秀綱は残りの茶を飲み干した。物欲しげに碗の底を覗き込む。

「替わりを持って参ります」

 文五郎は、碗を盆に載せて立ち上がりながら。障子を開けて部屋を出ようとしたところで、秀綱がふいに声をかけた。

「いや、茶はもういい。今宵は早く休むとしよう。明日は厄介な駆け引きをせねばならぬやも知れぬ。あまり気は進まぬが、業政公から羽黒屋の若い衆たちに手土産ぐらい持って帰ってこねばならぬしな」

「えっ」

 愕然とした顔を秀綱に向ける。まさか本気ではあるまい、と思い直した。

 いくら秀綱でも、業政公にこの件の譴責を求めるなどするはずがない。業政公は秀綱の身を案じて旗本たちを遣したのだ。感謝こそすれ責を問うなど的はずれも甚だしい。それに、羽黒屋の若衆に重傷を負わせたのは旗本たちの独断である。責められるべきは彼らだった。だが彼らを責める事は、同時に喧嘩両成敗の原則で内弟子たちの振舞いを罰することにも繋がる。内弟子たちは西上州各地の城から修業に来ており、各城主から信頼の厚い若者たちである。その内弟子たちが腹を切るような事にでもなれば、今は一枚岩である西上州の結束に亀裂が入り兼ねない。さらにこれは、旗本たちの場合にも当てはまる。

 文五郎の不安など知らず、秀綱は一見呑気に鉄箸で火鉢の灰を掻き回している。

「意伯。悪いが今夜は屋敷に泊まってくれ。怪我をした者たちの世話をするには、人手が足らぬ。他の皆もだいぶ動揺しておるようだしな」

 文五郎はにべも無く頷いた。第一、気ままな寡暮らしである。仁右衛門の寄せ場で夜を明かす事も珍しくなかった。律儀に夜ごとに家に戻らねばならぬ故はない。

「もとより、そのつもりです。ところで明日箕輪へは、俺も付いていきますよ」

 秀綱は文五郎を見上げた。

「今宵のうちに鞍を用意しておいてくれぬか。二つだ。暫く使ってないので、埃も払っておいてくれ」

 文五郎は了解して障子を閉めた。厨に盆を置き、もう一度怪我人たちを見舞った。傷帯を取り替え、井戸から水を汲んで置いておく。それから厨に戻り、小ぶりの酒樽を肩に担いで夜警のために見回りが詰めている番小屋に向かった。一組が減った分を他の組で補うため、員数と見回り順の組み替えを打ち合わせるためであった。半時ほどで新しい組み合わせができ上がり、今夜からそれに従って見回りが行われる事が決まると、文五郎は酒樽を開けた。今日の騒ぎで気落ちしている者たちへのせめてもの気配りであった。

 丑三ツを過ぎた頃、文五郎は番小屋を抜け出して馬小屋に行った。脇の蔵の中から鞍を二つ出し、埃を払って馬小屋に持ち込む。真っ暗な中で四頭を確認すると、藁敷の上に身を横たえた。そのまま朝を待つつもりだった。ここで見張っていれば、先日の雑木林のように秀綱が文五郎を出し抜いてひとりで箕輪城に向かう事はない。

(上泉から箕輪まで道のりで約四里。馬を駆れば半時たらずか…)

 暗闇で藁の青くさい匂いを嗅いでいるうちに、重い疲労が骨の中から滲み出して急激に身の隅々にまでひろがってゆくのがわかった。小屋の闇から、さらに暗い闇へ。

(いくら叔父上でも、今度こそひとりで箕輪城に向かう事はしない筈だ…)

 不安の香りを微かに意識しながらも、泥の海に飲み込まれていくように、文五郎は深い眠りに落ちていった。そして夢の中でも、文五郎は竹林で剣を構えていた。

 明くる日、文五郎を起こしたのは秀綱ではなく、馬屋番の吾作だった。

 木戸が開く音に藁の中から飛び起きた文五郎に、吾作は腰を抜かすほど驚いた。

「あや、意伯さま。こんなとこで、何なさってるんじゃ」

 目を覚ますと、文五郎は戸の隙間から差し込む朝日に目を細めた。

「吾作、今は何時だ」

「そうさな。かれこれ五ツになります」

「先生はもう起きておられるか」

「今日はまだお見かけしてねえども、いつもの事じゃから」

 常には、秀綱の朝は遅い。だが、今朝に限ってはもう起きていなければならない。城に赴くのであれば、それなりの準備がある。起きがけで行く筈はなかった。

 顔を上げ、小屋中の馬の数を確認した。やはり、四頭いる。

 それでも苦い予感に、文五郎は馬小屋を跳び出した。庭を走り抜け、鞋も脱がずに縁側から外廊下へ走る。物も言わずに秀綱の部屋の障子を引き開けた。

 部屋の中央には主のいない布団が一組。いつもは床の間にある大小二刀が消えていた。長押に掛けてある筈の槍もない。そして枕元の檀には、脱ぎ捨てられた夜具。

 文五郎は布団の間に手を入れた。ぬくもりは残っていない。少なくとも一時半以上は過ぎている。恐らく秀綱は、払暁の前に屋敷を出たのだ。

「狸おやじめ!」

 文五郎は力一杯枕を蹴り飛ばした。苛立ちと焦りが同時に目の奥で弾ける。

 慌ただしい騒ぎに駆けつけて来た奥山たち内弟子が、廊下から茫然とした目を文五郎に向けた。庭には吾作が姿を見せ、不安そうに文五郎の顔色を伺っている。

「吾作、二頭に鞍だ」と文五郎。

 吾作が馬小屋に向かって走り出す姿を目で追う。さらに奥山に向き直って。

「奥山、箕輪城まで付き合え。すぐに出るぞ。刀と槍を忘れるな」

「はい!」

「他の者は屋敷で待て。箕輪で動きがあり次第、奥山を知らせに戻す」

 言い捨てると、文五郎は部屋からひと足で庭に跳び出した。

 駆け出しながら振り返る。内弟子たちの目が一様に輝き出していた。特に踵を返して支度のために奥へ向かう奥山は、その後ろ姿から炎さえ見えるようであった。秀綱が単身、箕輪城に乗り込んだことを彼らもすぐに悟ったのだ。誰の顔にも昨日のような惑いは微塵もない。皆、覚悟を決めた逞しい兵法者の顔であった。

 文五郎は、なぜか秀綱の身を案ずる気にはなれなかった。代わりに、頬が歪んでくるのが判る。それは、腹の底から込み上げてくる興奮が造りあげる笑みであった。



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