秀綱陰の剣・第二章

著 : 中村 一朗

裏切り


 明くる日の夜半。

 町はずれの小高い丘に建つ一軒家。二代目元締である紅蜘蛛のお久率いる裏傀儡が、緊急の会合を持つ時に用いる隠れ宿のひとつだった。十坪ほどの土間があり、その奥には同じくらいの広さを持つ板敷きの部屋になっている。中央には囲炉裏があった。

 暗い灯りのともる家の中には六人の男たちがいた。その内の二人は死人である。昨日、秀綱襲撃に加わっていた琉元配下の生き残りだった。それで二人は、仲間たちよりも二日だけ長く生きることができた。殺したのは他の四人の内のひとり、黒夜叉の左門と言う。裏傀儡二番組の組頭で、先代冶平に仕えていた最古参の巧者であった。ひょろ長い体つきで、骸骨に皮を貼りつけたような浅黒い顔。深い眼窩の奥には、暗い海に映る朧月のような鈍い光がある。三十年以上にわたり、暗殺を生業としてきていた。歳は四十代半ば。正確な年齢は本人にも判らない。まだ物心のつく前に、野盗に襲われた百姓家の焼け跡から冶平が拾って育てたのだ。左門の親兄弟は皆その時、殺されてしまっていたという。初めのうち冶平は、自分の跡を継がせようと左門にあらゆる技を仕込んだ。また不幸にして左門も、それを学び取る才に恵まれていた。そして十年後、まだ子どもだった左門は最初の殺しを手がけるまでになっていた。お久が生まれるずっと前の話である。だが結局、先代の遺言で裏傀儡は娘のお久が元締として跡を継いだ。左門は一言の不満も口にはしなかった。それでも自分を暗殺者に育て上げた先代に対して感じる恩義は揺るがなかった。

 死んだ二人は、お久の指示で今日から左門の配下に回されてきた。しかし、左門は独断で始末をつけた。心を鬼にして、やらねばならないと思ったから二人を殺した。理由は琉元の裏切りであった。秀綱の謀殺をしくじったからではない。裏切ったのは琉元であり、二人に罪はないことはわかっている。だが、彼らは一年以上琉元の下にいた。知らぬ間に琉元の毒気に影響を受けている。組の者たちはその長と一蓮托生である。腐った患部は周囲の生肉諸共えぐり取らねばならない。それが土蜘蛛の冶平のやり方であった。

 苦しませたくはなかった。せめて、何も知らぬ間に死なせてやろうとした。酒に眠り薬を混ぜ、寝入ったところで息の根を止めた。二人とも目を覚ます前に死を迎え入れた。先に与一を殺し、次に三郎太の心臓を刺した。匕首を抜いた時、左門は溢れてきた哀れみの涙を止めることができなかった。つい先ほど寄せ場で雇った浪人たち三人は、酒に濁った目で薄笑いを浮かべたままじっと屍を見ている。三人とも身寄りはなく、腕はそこそこに達つ。喧嘩場や戦場で人を斬った経験も豊富であると以前から吹聴していた。恐らく嘘ではない。少なくとも、畜生にも劣る人間の屑であることは確かである。三人の外道は酒をあおり、強がって剛気な悪を演じていた。そんな風に粋がる浪人どもに対して、左門はむらむらと沸き上がってくるどす黒く熱い溶岩のような憎悪を意識した。

 左門は彼らに背を向けて立ち上がり、涙を見せぬようにした。土間に下り、手ぬぐいを瓶の水で濡らして幾度も繰り返し絞り続けた。やがて音もなく引き戸が開き、お久が家の中に入って来た時も、左門の頬はまだ濡れていた。左門はお久の顔をちらりと見て、また手ぬぐいを絞った。今度はそれで目をこすり、骨張った顔をゆっくり拭う。

 涙とその跡は、顔に付いた埃のようにあっさりと消え去った。

 お久は左門の呼び出しに応じてここに来た。猿飛陰流について知らせることがあると繋ぎの者から連絡を受けたのはほんの一時前である。入口に佇むお久は左門の様子をじっと見つめた。無表情のまま。それでも顔色は常よりも心なしか蒼い。家の中に強烈に匂う死臭にはすぐに気づいた。同時に、犠牲者と加害者が目前にいることも。直後に意識がそれを認めようとしなかったのは、お久の若さの所以であった。

「左門、おまえ…」

 お久は掠れた声で呟いた。土間を通り、奥の部屋をのぞき込んで確認した。血に染まった屍が二つ。その傍らで、三人の外道が獣のような顔を上げる。六つの濁り目が欲望の期待にギラついていた。が、浪人どもなどお久の眼中に入らない。左門に振り返った。

「どういうつもり」

 落ち着いた声で、いつの間にか土間の中央に進み出ていた左門に問う。

「お嬢の見てのとおり」

 干からびた老人のような声が答える。目を伏せて、うつむいたまま。

「なぜ与一と三郎太を殺したのかと聞いているんだよ」

「お嬢が考えているとおり」

 淡々と答える左門の様子がお久の怒りに油を注ぐ。それでも理由は推察できた。

「殺さなくてもよかった。土蜘蛛の冶平の代とは違う。今の元締はあたしだ」

 外道たちが烏のようなけたたましい笑い声を立てた。それが堪に触わった。お久は懐から蒼い貝殻を出すと、中に納められていた血のように赤い紅を指で唇に塗る。

「その二人」ぽつりと左門が呟いた。少し間を置いて続ける。

「さっき酒を酌み交わした時、もし琉元の色に濃く染まっていなければ、見逃そうと思っていた。おれの手下にしようと。でもやつら、自分でも知らぬ間に琉元の手足になり果てていた。組の者たちと組頭はそうしたもの。だから、殺した」

「それでこの蛆虫どもを雇ったのだね」

 左門は目を伏せたまま小さく頷く。

 浪人たちは、お久の言葉の意味も解らずにまた耳障りな声で笑った。彼らは誤解をしていた。二人を斬るために金をもらったのだと信じている。左門にはそう言われて引き受けたのだから当然ではあった。金を貰いながら酒が飲め、後から来るという女も抱けるものとさえ思っていた。ところが左門は自力だけで二人をあっさりと片付けてしまった。手を汚さずに済めばそれに越したことはない。自分たちはツイているとさえ考えた。しかし、本当は左門は三人を殺すつもりでいた。そうなることを深く望んだ。与一と三郎太を左門の配下に出来れば、身内の絆をかためるための『血の宴』を行うつもりでいた。即ち、三人の浪人を左門たち三人で殺すのだ。左門は三人を雇ったのではなく、三つの生きた死体を買っていたのである。だが、望ましい展開にはならなかった。

「左門…。この女が欲しい」

 貉のような顔をした大柄の浪人が、下卑た声で唸った。他の二人も左門に同意を求めてヘラヘラと笑いかける。左門は屑どもへの嫌悪に顔を顰めた。

「勝手にしな」

 そう吐き捨てる。言葉よりもその雰囲気にお久は眉をひそめた。

 ふいに貉顔の浪人が床を蹴って、意外な疾さでお久に抱きついてきた。

 お久は無造作に身を屈めながら男のわき腹に肘を当てた。軽く突き上げただけであったが、貉顔の胴がくの字に曲がった。

「ヒッ」と喉の奥で息を飲む。そのまま囲炉裏の縁に足をぶつけて、下帯を解いて腰を浮かしかけていた一番若い屑の上に倒れ込んだ。舞い上がった灰が宙を煙らせる。

「この女!」

 囲炉裏の反対側にいた三人目の男がいきりたって立ち上がろうとしていた。その方を向いたお久の口元が微笑むように窄められる。次の瞬間、唇から短く鋭い音とともに含み針が飛んだ。男は首を押さえて、どうっと尻もちをついた。

「痛え…」

 そこに刺さった二寸ほどの針を引き抜いて、茫然とお久を見上げる。また立ち上がろうとしたが、お久の眼光に射すくめられて体が凍りついた。虚無の形相の中央に、死人を見据える鬼女の目がゆらゆらと燃えていた。男の右手から針が落ちた。

 その針。先端から中央部にかけて螺旋状に細い刻み目があった。男がよく見ていれば、それに沿って付着しているお久の口紅に気づいたかも知れない。それは紅色の猛毒素であった。蝮の毒によく似ている。口に含んでも無害だが、血脈に直接入れば死を招く。頸動脈に刺さった毒針の効果はすぐに現れた。男の舌先が痺れ始めていた。

「お嬢。先代には悪いが、二番組は裏傀儡から抜ける」

 蛆虫たちを無視して、お久は土間の左門を見下ろした。

「わたしを騙したんだね」

「いいや。猿飛陰流のことで話があると言ったはず。これが、その話」

「理由は」

 お久の背後で二人の男たちが騒々しく動いた。部屋の奥に置いていた刀を手にしようとしていた。が、もう一人は両手を床について、大人しくしていた。半開きの口から次々に涎が滴る。やがて白目を剥いて泡を吹き出しても、仲間の二人はまだ気づかない。

「裏傀儡の元締なら、調べればいい。猿飛のこと、陰流のこと」

 ふいに、お久の脳裏に黄色い菜の花を飾った夕げの光景が浮かんだ。何も知らなかった幼い頃の遠い記憶。まだ若い左門が月見団子を差し出して笑いかける。あれは二十年以上前の今ごろの季節。確か、十五夜だった。何があったわけでもない。ただ二人で父の帰りを待っていただけのさりげない夜の思い出のひとつ。早世した母と留守がちな父に代わってお久を育てたのは左門であった。下人というよりも、いつも互いに家族のように接してきた。またお久も一時は兄のように慕い、幾つもの技を教わりもした。だがやがて、菜の花の飾りはいつの頃からか毒薬の使い方に変わってしまった。

 一瞬の後、淡い幻は消え去った。恐らく永遠に。またお久の人らしい心のひとかけらが死んだ。

「どう落とし前をつけてくれよう」

 お久の虚ろな声。裏傀儡の元締の精神が、顔の表裏に戻った。

「おれと組の者の命を狙うこと。先代ならそうする。でも今日だけは…」

 浪人たちが刀の鯉口をきった。殺意と淫欲が暗い情熱となって立ちのぼった。その時、泡を吹いていた男の腕から力が抜けた。囲炉裏の灰に頭から突っ込み、手足を激しく痙攣させた。ようやく仲間の異状を知った二人が、剣を抜きかけたまま息をのむ。どうした、榊!と貉顔が呼びかけた時には、哀れな榊はもう死んでいた。

「あたしを殺す?おまえにあたしが殺せると思うのかい」

 目を合わせることなく左門が頷く。擦り足でゆっくりと身を引きながら。

「…お嬢が死ねば、琉元への落とし前はおれが必ずつける。約束する。上泉秀綱も」

「つけあがるな、黒夜叉!」

 お久の全身から憎悪と激怒が業火となって迸った。鞭のように右手が撓った。閃光の疾さで畳針に似た手裏剣が左門に飛ぶ。左門の反応も素早かったが、避けられたのは一本だけだった。もう一本はかわしきれずに左胸で受けた。ぶ厚い革帷子を貫き、尖先が浅く肉に食い込む。左門は痛みを無視して引き戸に体ごとぶつかった。戸がへし折れ、左門の体は外の闇に溶けた。すぐに左門の後を追おうとしたが、裏傀儡の本能がお久の足を止めさせた。ぼっかりと開いた入口の暗がりから、不吉な冷気が屋内に流れてくる。

「貴様…」

 背後で、気を取り直した浪人たちが剣を抜いた。お久はゆらりと頭を廻らせる。左門に手裏剣を放った先程の激情は鮮やかに払拭されていた。

 浪人たちからも色情が消えていた。恐怖と殺意を双眼に宿して剣を構える。尋常なものではない気迫が白刃に映った。お久を女と侮る気配は微塵もない。

「女、何者だ」

 朱に染まった貉顔が問いかける。初めてお久の口元に、見る者をゾッとさせる冷笑が浮かんだ。それでもお久の瞳に光はない。背後の入口に穿たれた闇に似ていた。

「裏傀儡の元締。紅蜘蛛のお久」

 お久は平然と答えた。潰れた蛙を見下ろすような目で二人を見ながら。

「やくざの内輪もめか。おれたちを巻き込みやがって」

 と、貉顔はオドオドと首を左右に振りながら、板壁越しに家の外の様子を伺う。彼らに聞こえるのは蟋蟀たちの虫音だけ。以外の静寂が耳から心根に染み入ってくる。

「お前たちは逃げられない」

 ぽつりと呟いた。うっすらと目を細め、少女のように小首を微かに傾げながら。

「何を言ってやがるんだ」

 若い方の浪人が声を震わせて怒鳴った。

「あの男、乱波だ。下忍たちがすでにこの家を囲んでいる。狙っているのはあたしの命。彼らは夜目が利く。お前たちも、外に出ればナマスに斬られるさ」

 二人の顔から血の気が引いた。お久が真実を語っていることを理解したのだ。幾つかの修羅場をくぐった二人だから、闇に潜む忍びの怖さが肌で解る。

「畜生。どうする、緒方さん」

 若い屑が貉顔にすがる。貉顔はお久を見据えたまま、唾を床に吐き捨てた。

「一か八かだ。この女を殺して奴等と取り引きをしてやる。運が良けりゃあ、もうひと稼ぎ出来るかも知れんぞ」

 若い屑は貉顔の悪知恵に、翡翠のようなかん高い笑い声を立てて肯定した。納得したふりを自分に示すために、汗を飛び散らせて何度も頷いた。

 二人は青眼に剣を構えたまま、囲炉裏の左右からジリジリとお久に接近してきた。素手で立っているほっそりとした美貌の女に対し、さながら狼に挑むごとく警戒をしながら。二間の距離に詰め寄った時、貉顔は上段に、若い屑は下段に構え直す。左右、上下から同時に仕掛けるつもりでいた。殺しに慣れた者の鮮やかな連携である。

「山城、毒針に気をつけろ。榊の二の舞になるぞ」

「わかってる」

 二人の生々しい殺気に、お久がまた笑った。赤い舌がチロリと唇の毒紅をなめる。お久の中の羅刹が、血を求めて黄金色の目を開いた。

 その刹那、烈迫の気合いとともに、二人が斬りつけてきた。



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