秀綱陰の剣・第二章

著 : 中村 一朗

裏傀儡


 武州・甲府

 昼。雲の流れは疾い。時折吹く突風が砂塵と枯れ葉を舞い上げ、弄ぶ。

 紅蜘蛛のお久は裏口から屋敷に入った。どこにでもいるうら若い町娘に見えても、身のこなしは野生の獣のようにしなやかだ。庭木の陰で見回りの役人をやり過ごし、渡り廊下の先にある茶室に向かう。茶室とはいっても、お久の目にはただの離れに過ぎない。他の者の目にも同様だったが、屋敷の主だけが頑固に茶室であると言い張っていた。

 主が〃くぐり戸〃と称するただの引き戸を開け、中へ。狭い廊下にひざまずき、襖を開ける。床の間のある六畳間には、初老の男が座っていた。痩せてはいたが、ゆったりとした薄衣の下には筋金の力が潜んでいる。右目には刀の鍔の眼帯をしており、傷だらけの顔には皺も深い。それよりも目を引くのは、老人とは思えぬ強い生気だった。

 唯一の左目が、鋭く、それでいて涼やかにお久を見上げた。

「裏傀儡の元締、紅蜘蛛の久。ご報告に参りました」

 奇相の老人はにっこりとした。

「まあ、はいれ。その顔では良い知らせではないな」

 お久は老人の前に進み、座布団を引き寄せて座った。老人は武骨な手つきで茶道具を操り、萩の器を差し出した。お久はそれを受けて一口だけ含み、表情を変えぬように勤めて老人を見ながら器を置いた。

「何もお伝えせぬうちにこのような罰を頂いたのではかないませぬ」

 老人は弾けるように笑った。お久は不思議に、沈んだ気が消えてゆくのを感じた。茶の道は心を開いて語るための方便である、と屋敷の主は言っていた。その意味ではなるほどこの部屋は茶室なのかも知れない、と思った。そして、老人が立派な茶人かも知れない、と。

「茶をな。梅酒で割ってみたのだ。久には口に合わぬか…」

「少なくとも、信玄公にお薦めせぬ方がよろしいのでは、と」

「これは手厳しい」

「きっと、奇眼坊さまの軍略も疑われてしまいます」

 老人は幾つかの名を使い分けている。お久たちを使う時は奇眼坊と言った。

「梅を漬けた酒は越後の商人から求めたのだぞ。高かったのに…」

 老人は、心底残念そうに呟いた。お久が笑った。

「そのような欲深い者など、首をはねておしまいなさいませ」

 本音とも冗談とも取れるお久の口調に、顔をしかめた。この娘なら、本当にやり兼ねないことを知っている。老人は右掌をあげてほほえんだ。

「そうもゆかぬ。春日山の様子を知らせてくれる大事な間者でな」

「越後の虎にございますか」

 武田軍と長尾影虎との最初の戦いは川中島で起きた。二年前の天文二十二年八月。二度目の大きな戦いは今年の七月のことである。しかし、いずれも決着はついていない。

 川中島での二度の合戦以来、武田信玄の軍師である老人は越後を領する長尾影虎の動静に常に気を配っていた。戦場における影虎の読みの深さ、直感、それに加えて大軍を手足のように自在に操る力量が、無類の戦上手であることを証している。

「虎も腹を減らせば山から降りる。戦いが影虎殿の飢えを満たすのだ。やれ天意だ仏道だなどと綺麗事を言ったところで、所詮は方便だ。戦好きであることに変わらぬ」

 川中島の攻防はまだまだ長引くことになる。老人はそう予感していた。そこで、後北条をたきつけ、西上州の長野業政を揺さぶろうと考えた。業政に信頼の厚い秀綱の命を狙ったのも、その目的があってのことだった。

「御用を頂ければ、いつでも久が越後まで酒を買いに参りますものを」

「それには及ばぬ。あの者たちでもそれなりに役に立っているのでな」

 お久は沈黙した。似たような諜謀に携わるものとして昨日の無念の思いが蘇る。

「皮肉を言った訳ではないから気にするな。…やはり、簡単にはいかぬか。〃長野国一本槍〃殿は」

「一昨日、手練れの四人が返り討ちにあいました。秀綱ただ一人に」

「なに…」

 老人の目が急に険しくなる。だが、動揺は微塵もない。

 それまでの悠長な表情とは別の何かが老いた顔の裏側で静かに目を覚ました。好奇心を剥き出しにする子どもに似ている。

「一瞬のことだったそうにございます」

 お久は生きて戻った者の語った話をそのまま伝えた。周到な準備を進めて罠に誘い、武人としての力を封じて仕留める筈だったことを淡々と語った。老人は時折質問を交えながら話を続けさせた。やがて聞き終ると、茶をふたつ立て、ひとつをお久に差し出した。お久は一息で飲み干した。今度は常日頃の茶の味がした。苦かった。

 老人も同じように飲み干して、お久の目をひたと見据えた。

「聞く限りでは、策に誤りはなかったようだ。おまえの配下にも手抜かりはない。一本槍殿の力量がわしらの予想を大きく超えていたのだろうよ」

 老人の目から清涼感が消えた。細くなった隻眼の奥に鬼火が燃えている。信玄の片腕と謳われる天才的軍師の顔が表れてくる。老人はうっすらと笑った。

「久、わかるか。なぜ、一本槍殿が竹林で琉元の張った陣を破ることができたのか」

「…奇眼坊さま?」

「フフッ。恐らくな。弓を持つ者が必ずどこかに潜んでいると初めから読んでいたのであろうよ。だから槍の代わりにわざわざ鉄の扇子などを持って来たのだ」

「まさか、そんな筈は…」

 お久は異議を唱えようとした。隠れていることすら知らぬ弓手の位置が秀綱に判るはずがない。それに…

「それにもし仮に本当に読まれていましても、十間足らずの背後から射られた二本の矢を扇子ひとつで打ち払うなど、人にできる技ではありませぬ」

 そんなことはあり得ない。死んだ四人以上の体術を身につけているお久だからこそ、今でも信じられなかった。もしその場に自分がいられたら、と心底思う。少なくとも、四人もの配下を失わずに済んだ筈である。彼らは何らかの幻術に操られたのだ、とお久は考えていた。きっと風に幻覚薬を忍ばせたか、眠り香を炊くかして。琉元はそれを見抜けなかったに違いない。組頭の身でありながら二人の手下だけを先に帰しておいて自分はまだ戻らないでいる琉元に、お久は殺意に近い怒りを覚えていた。

「やってのけたのだ。あの一本槍殿は」

「…いえ。きっと幻術を」

「少なくとも同じことができるお方をひとり、知っておる。わしの剣の師匠だがな」

 お久の脳裏に名が閃いた。史上最強の剣豪と言われる塚原卜伝高幹。三十幾度の戦場で士卒級二百以上の首をあげた挙げ句、百を越す他流試合に全て打ち勝ち、七十近い身の今も武者修行の旅空の下にあるという伝説的な怪物である。

「それにな、久。裏傀儡が一本槍殿を囲んだ時に、四人の死は決まったのだ」

「なぜ?」

「竹林は平らだったと申したな。しかも夕暮れであった、と」

「はい」

 老人は懐紙に筆でその時の陣を描いた。秀綱を表す円を中心に記された歪な五角形。

「この布陣で」と老人は円を指で差す。

「一本槍殿を弓で狙うには背後からしかない。薄暗がりの中、竹の間隙を縫って矢を射るにはせいぜい十間以内の距離からだ。射手の位置を予測するのは容易い。さらに後ろのこの二人は、わざわざ矢の軌跡を妨げぬように立っておる」

 お久の目を覗き込み、丸の背後に書かれた二つの頂点を交互に指さした。

「でも、伊蔵と安助は地に伏して隠れておりました」

「それも予想していたのだ。それゆえ、射線が下から上に向かうと読んだのであろう。だから、このように」畳に置かれていた懐紙を下から上にひらりとすり上げながら、

「身を沈めて開いた鉄扇で受け流せば良い。矢が急所にさえ当たらねば良いのだからな。この地形なら、射手の腕が確かであるほど避け易くなる。暗がりでは当然、胴体を狙うであろうと考えるからだ」

 お久は言葉に詰まった。確かに毒矢は使うように指示した。が、半弓は致命傷を与えるために配置したのではない。目的は手傷を与える事。怯んだ隙に囲み手がとどめを刺す。武名に高い秀綱の死は、あくまで斬殺でなければならなかった。この謀殺の策を予め読まれていた。つまり、鉄扇を手にやって来た秀綱は初めからそれに備えていた、と奇眼坊は言うのである。そして囲い陣と地形から反撃の策をその場で考え、実行した、と…

「重座が斬られたのは腕の差だ。伊蔵はふいを突かれた。安助は弓を手放すのが遅れた。まさか唯一の武器である脇差しを投げるとは思わなかったのであろう。仲間を殺されて逆上した似吉は、一本槍殿が機転で作った罠に掛けられた。竹を切ったのは追撃を阻むためではなく、少なくとも一人を殺すためであったに違いあるまい」

 老人のキラキラと光る目が、虚空を彷徨っていた。四人が殺される幻を繰り返し見ているのだ、とお久は思った。冷たい笑みが頬に浮かぶ。戦狂いの軍師の顔だった。

「楽しそうでございますね、奇眼坊さま」

 老人はお久の方を向いた。顔相の険が消え、目に涼やかさが戻る。

「上泉秀綱か…。一度会ってみたい」

「首で良ければ、近々お持ちいたします」

「かまわぬ。だが無理はするな、久。もし本当に秀綱が塚原さま並みの力量なら、おまえでは勝てぬ。絶対にだ」

「侮って頂いては困ります。尋常な勝負などを挑むつもりはありませぬので」

 二人は静かな目で見つめ合った。お久が先に、くすっと笑って目を逸らした。老人が微笑み返す。笑顔に隠れた裏側に、他人には分からぬ駆け引きがあった。老人は、もう三十路も近いこの娘のしたたかさを好ましく思っている。加えて、しぶとい戦闘能力も。恐らくお久は、手段を選ばずに秀綱の命を狙う筈だ。火を放ち、毒を使い、一族の者を巻き添えにしてでも殺そうとするだろう。

「ところで、気になることがある。琉元が一本槍殿に言ったことだ」

「〃まさか…猿飛、陰流の技〃とか…」

「知っているか?」

「いえ。奇眼坊さまには、お心当たりがあるようで」

 こやつ。と、老人は目の奥で笑った。恐らく、先程説明を聞いていた時、ふいの言葉にわずかに揺れた心を見透かされたのでだろうと思った。

「噂程度のことしか知らぬ。猿の御膳とか言う道化が開祖であると聞くがな」

「もう少し詳しいお話を伺えれば、と存じますのに…」

「調べておく。それよりも、なぜ琉元がその名と技を知っていたのか。また、琉元はおまえのもとに戻らず、行方知れずだ。どういうことであろうな、お久?」

「調べておきまする」と微笑んだ。

「上泉秀綱の首を取る前にだ」

「承知いたしました」と明るい声で。

 場合によってはこの娘、琉元を殺すつもりでいると老人は直感した。琉元がお久の率いる裏傀儡に名を連ねたのは五年前。三番組の組頭になってから一年になる。琉元にはお久の知らぬ過去がある。そして、知らぬ〃陰〃の技も…

 庭が騒がしくなった。足音。二本差しの武士が三人、枯れ葉を踏みしめて近づく。

「それでは、わたしはこれで」

「ご苦労。手の者たちは気の毒だった」

 お久は目礼して立ち上がり、襖を開けた。

「たまには玄関から帰れ。おまえと密会をしておるようで、わしは気が咎める」

「立派な密会にございましょう。それに表から出入りしては、女子嫌いの山本さまの評判が落ちてしまいますので」

 老人が何かを言いかけたところを無視して、お久は襖を閉めた。ちょうどその時、庭先に跪く三人の気配がした。やがて野太い声が閉じた障子越しに響いてきた。

「山本勘助さま。お館さまが御呼びにござりまする」

 城からの呼び出しだった。お久は今ごろ彼らの後ろを音もなく通り過ぎているのであろう、思いながら。

「あい分かった。すぐに参上いたしますと、御伝えくだされ」

 武士たちは、ハッ!と答えて立ち去った。

 老人、山本勘助は梅酒の茶をたて、ぐいと飲み干して器の底をじっと見ながら考えた。さて、武田信玄晴信さまにはどう御伝えしたら良いものか、と。猿飛陰流の継承者が受け継ぐといわれる密書『飛龍六道』について。その中には、天下を手にする〃力〃が記されているというが…



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