秀綱陰の剣・第一章

著 : 中村 一朗

幻跡刃


 疋田文五郎はひとり竹林の中にいた。

 昨日、秀綱が七人の刺客に襲われた位置。流血の黒い跡と斬られた青竹に昨日起きた死闘の様がくっきりと残る。そよ風にも、死者の怨臭が生々しく匂った。

 文五郎は剣に手をかけたまま、もう半時以上も同じ姿勢でいる。その意識は同じ場所の過ぎ去った時の中、夕暮れに佇む秀綱に同化していた。周囲には抜刀した五人の敵。さらに文五郎の後方に十間の距離を置いて、落ち葉の中に潜む二人の弓手が背を狙う。

 顔のない幻影の男たちが脳裏で一歩ずつ動いた。四人が退き、ひとりが進み出る。文五郎の背が更に丸まった。キリキリと絞られた弓のように腹筋が弾ける瞬間を待っている。そして幻聴。枯れ葉が擦れるかすかな音。半弓が放たれた。

 今だ!斜め後方に跳びながら、剣を抜く。秀綱の場合とは異なり、脇差しではなく大刀だった。逆手に持ち、肘に剣の嶺を引きつけて反転する。師の動きと同じ。遅れはない。違いは、手にしている得物だけだった。

 第一の矢が虚空を貫く。かわせた。そして、文五郎の胸を狙って放たれた第二の矢。それを目ではなく、心眼で捉えた。閉じた瞼の裏に映るその一瞬の軌道に応じて、逆手の剣で払う。が、右足の腿に微かな幻痛。折れた矢が刺さった。無視して矢の飛来した方向に疾走する。剣を順手に持ち替えながら殺到する一人目を袈裟に斬った。足を止めることなく三本の竹を払い、弓手の首をはねる。首が胴から離れた瞬間、文五郎は勢いを残したままの剣を手放した。そのまま飛剣となり、もう一人の弓手の胸を指し貫いた。が、今度は胸に幻痛。死の直前に弓手が放った矢が文五郎の胸に刺さっていた。首のない死体から刀を奪い取って引き抜く。そして振り返った時、倒れた竹を越えて頭上高く跳んだ第四の刺客が剣を振り下ろしてきた。辛うじて受け止めたが、激しい斬撃に腕が痺れた。

 しまった!と思った時には遅かった。懐に飛び込んできた第五の刺客が文五郎の脇腹を切り裂いていた。文五郎の力がガックリと抜ける。そこを空かさず第六の刺客が、頭部に太刀を振り下ろした…

 そして、瞼の裏でもうひとつの闇が弾けた。二呼吸置いて、身を起こす。

 体を濡らす汗を意識しながら、ため息がもれた。

(…おれは、また死んだな)

 目を開けると、刺客たちの幻影と共に自身の屍は消えた。

 今朝、疋田文五郎は師の秀綱から昨日の刺客たちの動きを克明に聞いていた。師の言葉から、文五郎はその場面をありありと思い描くことができた。そしてここに立ち、幻影の彼らと試合ってみたのだ。結果、この半時で文五郎は五度死んだ。いずれの場合も三人までを倒しながら、第四、第五、第六の刺客に斬られてしまった。

(相手の動きがわかっていても、この様だ)

 目に流れ込む汗を拭おうともせず、文五郎は己の未熟さを自嘲するように呪った。

 力や、足と剣撃の疾さでは師に劣るものではない。二十才以上若い自分の方が上回っているのは当然のことである。だがそれでも、いや、それだからこそ余計に、技と読みの甘さを認めぬわけにはいかなかった。文五郎は五度死んでみて、秀綱の読みの深さを思い知らされた。しかも、慎重な熟慮の果てに辿り着いた読みではない。恐らくは、天才のみが聞くことのできる阿修羅の声に促されてのものであろうことは察しがついた。

 まずは弓だ。二本の矢をかわそうとすれば、第三の刺客に背を向けることになる。殺人に手熟れた相手の場合、確実に斬られる。刺客たちの布陣からも、それを意図していたことは明らかだった。これに対し、秀綱は開身するだけで初矢を無視して第二の矢が来ると予想される方向に跳んだ。かわすか、あるいは払うのはその矢だけで良い。そしてこの移動が敵の囲いを破ることに繋がる。矢の射線上に兵を置けぬ都合がその陣にとり弱点となった。秀綱の背後から複数で斬りつける手筈で配置されていた刺客のひとりは、斜め前方から立ち向かうことになった。しかも逆に秀綱が奇襲をかけたかたちになっている。

 ここで、脇差し。脇差しは大太刀を補うためでも腹を切るためのものでもない、と秀綱は常から口にしていた。狭いところを縦横に駆けながら闘わねばならぬ場合はもっとも有効な武器になるとも教わった。秀綱が昔から使っている脇差しは通常よりも反りが強く、肉厚の割りには切れ味が尋常ではない。以前秀綱がその脇差しで、刃を触れた状態から濡れた巻き藁を真横に切断するところを文五郎は見て度胆を抜かれたことがある。濡れた巻き藁は人の生胴と似るという。やや大袈裟な例えではあるが、それを勢いを全くつけずに引き手だけで両断した。その技ゆえに、鞘から抜く一挙動がそのまま必殺の斬人剣となることを可能にする。恐らく切っ先が鞘を離れる前に、最初の刺客は脇腹を裂かれた。

 触れてから斬る。人を超えたこの技の応用で、疾走しながら二人の人間と三本の竹をひと呼吸で斬り倒したらしい。さらにその疾さが、飛剣で三人目の刺客の胸を貫かせた。背後から殺到する者たちの足を止めさせたのだ。軽い脇差しと秀綱の天賦の才が竹林での白兵戦に勝機をもたらしたのである。

(だが、おれは)

 文五郎は大太刀を握り返した。白刃を視線で嘗め、ぐっと歯を食いしばる。

 脇差しに頼るつもりは毛頭なかった。技ではまだ及ばないものの剣撃の膂力が師に勝るなら、大太刀の技を極めることを自らに課するべきと信じた。脇差しの使いみちを磨くのはずっと後で良い。そう思うからこそ、大太刀で師と同じ状況をきり抜けて見せようとした。いや、きっといつかきり抜けられるようになって見せる。今日がだめなら、明日。明日がだめなら、ひと月後、あるいは一年後に。何十年かかっても、この大太刀一本で。

 剣を構え直し、再び目を閉じる。脳裏に刺客たちの幻影が鮮明に浮上した。

 そして疋田文五郎は、六度目の死に挑む。


 秀綱と羽黒屋仁右衛門は、屋敷の奥の部屋で向かい合っていた。

 茶を運んできた小女が仁右衛門の仏頂面をちらっと盗み見て、秀綱に戸惑うような目を向ける。秀綱が明るく頷くと、小女はぺこんと頭を下げてからそそくさと部屋を出た。

「あの娘、仁右衛門さんが怖いんだよ」

 小女は、名をお町と言った。もとは、仁右衛門の紹介で屋敷に置くようになった。賢くしたたかで、しかも浅黒い細やかな肌のこの娘はいい金になる筈だった。男の気を引く術を生まれながらに心得ている娘でもある。だから仁右衛門は、あえてお町を郭屋に身売りさせる代わりに、ここに送った。お町もそれなりに覚悟していた。多くの見知らぬ男たちの腹の下で生きるよりはましと思い、それを了承して三月前にここに入った。そしてこの三月でお町は仁右衛門の予想以上に、違う方向に変わった。目にあったギラつくような陰と険が消えてしまったのだ。色恋沙汰以外の理由でこういうふうに女が変わる時はろくなことにならない。仁右衛門の思惑通りにはならなかったことを意味する。

(並の女に成り下がりやがって…)

 仁右衛門は面白くなさそうに、ケッと吐き捨てた。

「へえ。じゃあ先生が早いとこ手込めになさったらどうですかい?」

 秀綱は笑っている。四年前に内儀を病で亡くしてから、仁右衛門たちがいくら良縁を持ちかけても取り合おうともしなかった。側目すら持たずにいる。本妻のほかに妾を三人囲っている仁右衛門には理解できない身持ちの固さである。別に死んだ者への儀を貫いている訳でも、修業のために女色を断っている訳でもないらしいのだが。

 お町を屋敷に送り込んだことに悪気はない。しかし、仁右衛門は秀綱の〃人間らしさ〃を見てみたかったのだ。自分よりも年下の秀綱が阿修羅神の生まれ変わりではないことが判れば、今までの畏敬の念は友情に変わる。仁右衛門はそれを望んでいた。

「機嫌が悪いね」

 秀綱は茶をひと口含んだ。仁右衛門はそっぽを向いたままだった。

「わかりますかい。そいつあ、良かったぜ」

 仁右衛門も茶をすする。美味いと思うと、余計に腹が立った。

「お町はすっかり娘らしくなった。茶の入れ方も加減が良かろう?」

「普通は逆だがね。生娘が女になるのさ」

「当人は、やはり今の方がいいらしいよ。良い娘だ。仁右衛門さんが嫁ぎ先を見つけてやったらどうだ。お町にはそういう暮らしが似合うと思うがな」

「いい娘は大勢いても、いい女になれるタマは少ないんですぜ。それを…」

「仁右衛門さんはそいつが気にいらないのか」

「ああ、そうですよ」

 仁右衛門は吐き捨てた。

「先生がお町に手を出さないから気にいらねえ。あの生意気なお静さんに一手指南したのが気にくわねえ。先生の命を狙って死んだ野郎どもの墓など作ってやるなんて言い出したこともね」

 秀綱は不思議そうに首を傾げた。穏やかな顔で、火を噴くような仁右衛門の目をのぞき込む。それでも仁右衛門の勢いは止まらなかった。

「生首をなで回す小娘の小太刀の腕が気にいらねえ。血膿に蛆をわかす蠅どもが気にいらねえ。昨日の酒がまだ残ってやがって頭がガンガンしてるのも、このクソ暑い陽気のことだって、何もかも片っ端から頭に来てますよ。先生の前で図々しく息してるあっしのこともさ。でもね。そんなこたあ、百歩譲ればどうだっていい」

 仁右衛門の鳥のような顔がさらに険しくなる。

「先生は野郎どもが命を狙っているのを知っておいでだった。それを承知の上で、若旦那を謀ってひとりで竹やぶにお行きなすった。若旦那が怒るのも無理はねえですぜ」

「ああ。あれは…」

「ちょい待ち、先生。あっしが言いたいのはそんなことじゃねえんだ。若旦那には悪いが先生のやったことは間違いじゃねえよ。兵助も連れて三人で行ってりゃあ、逆にやられてたろうってことは、あっしにもわかる。先生だって、怪我くらいしたかも知れねえ」

 暗殺はともかく、仁右衛門は闇討ちの蘊蓄には長けている。その仁右衛門の目から見ても、陣形が秀綱一人を狙っていたものであったことは確信できた。もしあの時、背後左右に文五郎と兵助がいれば、秀綱は斜め後方への動きを封じられていた。その場合、文五郎や兵助の技量は問題ではなくなる。仮に文五郎が秀綱並の達人であったとしても同じである。七人の刺客と魔神のような戦闘能力を持つ秀綱との戦いは、七対三の単純な合戦にすり変わってしまったであろう。死中に活路を見いだせねば、数において劣勢の側に属する弱者は確実に死ぬ。その弱者をかばえば、強者とて傷を被るか、あるいは…

「さすがに先生の一番弟子だけに、若旦那だってとっくにそのことは悟ってますぜ。だから余計歯痒くて、昨日は先生に食ってかかったんだろうがね。全く、心配のし甲斐がねえお方だよ」

 今度は仁右衛門が秀綱の目を覗き込んだ。穏やかな細い目に変化はない。逆に気まずい思いを感じ、視線を引いて湯飲みを手に取った。

「仁右衛門さんは事情に詳しいから、叶わぬ」

 なぜそこまで事情を知っているのかと、秀綱に無言で問いかけられているような気がした。思い過ごしであることは判っていても、自然に弁解するような口調になる。

「グチられたんですよ、若旦那に」

「悪いなあ。親戚一同で仁右衛門さんに迷惑をかけているらしい」

 仁右衛門は、先程までの火のような激昂が急速に冷めてゆくのを感じて、口の中で小さく舌を打った。苦笑いが後に続いた。すぐにそれを拭うように打ち消して。

「まじめな話だぜ、先生。横道に逸れちまったが、肝心なのは野郎どもの素姓さ。あっしが一番気にくわねえのは、先生がそいつに無頓着だってことなんだよ」

 水臭い。本当は仁右衛門はそう言いたかった。あのゲス野郎どもの素姓を調べてくれ、となぜそう言わないのか。不本意ながらわざわざ人体切り刻み大好き娘のお静を厩橋から連れてきたのも、それを秀綱に促すためだったのだ。羽黒屋仁右衛門がその気になれば、裏の事情を探る手だては幾らでもある。そして実際には仁右衛門は既に動き出していた。本音は、それが何よりも気にくわなかった。頼まれもしないのに〃上州の鬼殺し〃と異名を取るこの仁右衛門さんが、侍なんかのためにただ働きをしている。いくら古くからのつきあいとはいえ、そんな面倒な世話を勝手に焼いている自分に腹を立てていた。

「多少の頓着ぐらいはしておるよ」

 湯飲みを口に運びながら秀綱が呑気そうに呟いた。

 今日も天気だ、茶が美味い。仁右衛門の耳にはそう聞こえた。

「へえ、そうですかね。で、どうお考えなさるんで」

「裏傀儡とやらを使っているのは、牛込勝行殿ではない。そこまでは何となく確信しておるんだがなあ」

「頼りねえ。じゃあ、小田原の北条氏康あたりってことですかい」

 口入れ屋をしている仁右衛門は乱世の事情に詳しい。客の求めに応じて、仲間や足軽、人足から飯炊き女まで、場合によっては裏稼業の者たちでも手配する。雇われ先での噂話は彼らを通してやがていつの間にか仁右衛門の耳に届くのである。意図して望んだ訳ではなかったが、結果、仁右衛門は下手な軍師よりもずっと目端が利くようになった。

「さあ…」

「氏康は先生を目の敵にしている。それに、切れモノですぜ」

 天文十五年(一五四六)、河越城の攻防戦で関東の新旧両勢力が激突した。新勢力は後北条氏、旧勢力は上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏連合軍である。北条綱成の守備する河越城を攻める旧勢力連合軍の数約八万。この圧倒的な軍勢に対し、危急の知らせを聞いて駆けつけた北条氏康はわずか八千の軍勢で夜陰に乗じて奇襲をかけ、潰走させてしまった。以後、関東の覇は後北条氏に移り、氏康の武名は天下に轟いた。敗走した関東管領上杉憲政は西上州上野国に逃れ、暫く長野業政庇護下の平井城にいた。やがて憲政は、長尾影虎を頼って越後に安住の地を求めて去った。四年前、天文二十年のことである。

「それでも勝行殿の頭越しに、後北条家が直接手を下すかな」

「だから、裏傀儡どもを雇ったのさ」

「そうかも知れんが、後ろで糸を引いていても同じことだよ」

「臆病者の牛込の顔が潰れるってことですかい。先生に引導を渡すのは同じ一族の手じゃなきゃならねえ、とでもおっしゃりたい?」

「そう思う。少なくとも北条と益田行綱はそう考えているさ。今さら、ことを焦って藪蛇になるようなことはすまい」

「そのあたりのこたあ、わかりますがね」

 上泉の地にある下柴砦は、元々は大胡氏の大小合わせて四十を数える出城のひとつであった。一族は鎌倉幕府勃興以前から広大な上野大胡の地を領してきたが、先代領主大胡重行の頃から後北条氏との親交を持つようになった。信心深かった重行が天文十二年に他界して戦嫌いの勝行の代になると、西上州制圧をもくろむ戦上手の北条氏康の意を受けて、あろうことか幾百年も続いてきた『大胡』の氏名を放棄して下総掘切に居を移してしまったのだ。氏名は牛込と変えた。事実上は言わば、戦国世捨て人である。そして勝行に代わって、氏康の息のかかった益田四郎左衛門内尉行綱が領主として赴任してきた。これにより後北条氏は上野大胡の地を無血のまま手にすることとなるはずであった。

 ところが、一族の主流とは比較的疎遠であった上泉の一派はこれに憤慨した。秀綱の父憲綱は、北条氏康と敵対する長野業政に娘を正室として嫁がせていたこともあり、以前から一族と後北条氏との関係を快く思ってはいなかった。娘は不幸にして早世していたが、業政との親交は変わらない。また下柴砦が数ある大胡出城の中で、業政の構える箕輪城にもっとも近くに位置していたという地理的な事情もあった。一族の中で両者の対立は決定的となり、やがて内紛は内乱へと進展したのである。

 憲綱・秀綱親子が北条の側に組さないと悟った益田行綱は、下柴砦に奇襲をかけた。上泉派は業政を頼って一旦は箕輪に逃れたが、すぐに軍を整えて下柴砦を奪還した。

 そして憲綱の死後も、秀綱は北条氏と長野氏が睨み合う最前線で下柴砦に居を置いて一歩も引かずに現在に至った。その間も一族の様々な思惑が錯綜する中で幾度も話し合いが持たれ、無数の小競り合いが続いた。北条氏は大胡の大半を一応制してはいたものの、その内部と周辺に火種を抱えていることを認めぬ訳にはいかなかった。一族のことは一族で片をつけさせる。北条の軍勢が下手に力押しで圧力をかければ、火種は烈火となって逆に火傷を負わされることになり兼ねないと考えを改めた。

 下柴砦への最初の奇襲とは異なり、益田行綱は慎重になった。これには別の理由があったためである。この十年間、北条氏康は西上州を攻めあぐねていた。名将長野業政を中心に鉄壁の結束を誇る西上州の防衛陣に手を焼き、南東両方角からの侵攻を完全に妨げられていたのである。それ故に、氏康にとり自軍の手を汚さずに手に入れた大胡の地は貴重な足がかりであった。やがて時が来れば、大胡の利用価値は大きくなる。氏康が待っているのは、業政の影響力が落ちる時である。西上州同盟の要である業政が高齢であることが、唯一最大の弱点であると氏康は見抜いていた。弘治元年の今年で、業政はもう六十六才になった。業政が死ねば、西上州の結束は確実に崩れる。機会は遠からず訪れるものと北条側が予想している事は仁右衛門にもわかっている。

「でも、頭が知らねえうちに手足が勝手に動くってこともありますぜ」

「その手足が頭よりも賢い場合は迷惑だな」

 仁右衛門は顔を上げた。わずかだが、秀綱の目に変化があった。

「何か思いつきなすったね、先生」

 秀綱はくすりと笑った。目の周りの皺がいっそう濃くなる。

「全くかなわぬ。仁右衛門さんの手足と頭の話を聞いて、川中島がな。目に浮かんだ」

「…なるほど。武田ですかい」

 暫くの間、二人は押し黙った。

 秀綱はぼんやりと天井に視線を流し、仁右衛門は座を崩して襖絵の松葉の数を数え始めた。数字を追う目の中の算盤とは別に、仁右衛門はその奇才に相応しい特異な思考の糸を手繰っていた。二人は互いを気づかうことなく、ぼんやりと時をやり過ごした。

 やがて秀綱は、目を天井に遊ばせたまま口を開いた。

「仁右衛門さん。悪いが、少しそのあたりを気にかけておいてはくれぬか」

「ああ。いいですよ。聞き耳くらい立ててみるさ」

 そっけなく答える。しらけたその顔は仁右衛門らしい意地である。

 暫くすると、ふいに首を起こして据わった目で秀綱を見た。低い声で小さく問う。

「ところで、先生。あの刺客どもの頭のことだがね。本当に、先生の体さばきを見て陰流の技と見抜いたんですかい」

「或いは疑っただけかも知れないが、陰流の名を口にしたことは確かだった」

「じゃあ、あの野郎…愛洲の猿飛ってことかい。でも先生の事は知らずに、ただの城主と思って殺しに来たんだろう。よりによってよ…さぞ、驚いたろうね」

 仁右衛門が暗い笑みを見せた。秀綱は仁右衛門の目をまっすぐ見つめ返して頷いた。

「もし、そうなら。今頃、確かめようとしていることだろう」

「それにしても、猿飛が何で雇われ乱波なんかに身を落としたんだろうね」

 秀綱の瞳が僅かに揺れる。その一瞬、遠い過去が去来したように仁右衛門には思えた。

「そのうちに判るだろう。やはり、移香斉先生の遺言を思い出すことになるのかな」

 秀綱は天井の一点に視線を戻し、吐息のようにぽつりと呟いた。

 仁右衛門が床に目を逸らす。考え込むように目を細めた。

「そろそろ若旦那だけには教えといた方がいいんじゃありませんかね。先生が陰流の使い手だってことをさ。この辺りじゃあ誰もが先生の剣は上泉流兵法と思っていますぜ。まあ間違いじゃありませんがね。いや、そうしておいた方が正しいかも知れねえけどさ」

「時を見て、意伯には伝えておこう。しかし、まだ時期ではないと思う」

 仁右衛門が頷き返した。茶碗に手を伸ばし、空と気づいて舌を打った。


 それから程なく、庭先が騒がしくなり始めた。お静の腑分けが始まった。

 四半時ほどすると、番小屋の裏は仁右衛門が連れてきた若い衆の嘔吐で汚れた。昼に彼らが胃にたらふく詰め込んだ飯は、すぐに乾いて蟻と蠅の餌になった。

 お静の腑分けは一時程で終わった。



top