秀綱陰の剣・第一章

著 : 中村 一朗

お静


 死体の実検は昼近くから始まった。

 秀綱の他に立ち会ったのは、兵助、仁右衛門とその手下が三人。検分は厩橋から来た女医のお静が中心になって行った。お静は二十六になっていたが、年よりも若くずっと見える。その医術と学問は、欄学者である父の阿部香庵に仕込まれており、腕と知識は確かだった。阿部家は代々医者の系で、加羅天竺から伝わったとされる独特の療法を受け継いでいた。香庵の代になるとさらに蘭学を取り入れ、さらに新しい医術へと発展させた。香庵は今も健在で、厩橋の城下で開業している。お静はその助手だった。もっとも、後に東洋医学と呼ばれる医術大系はこの頃、西洋のそれより遥かに進んでいた。西洋医学がまだ錬金術の域を出ない頃、東洋ではすでに人体の解剖のみならず、経絡と呼ぶ神経叢作用についての解析が確立していた。一千年以上前、既に脳外科手術が行われたらしい記録が香庵のところにある古い文献に記されている。

 好奇心の旺盛な香庵の血を引くお静は、ほっそりした美貌の明るい娘である。にもかかわらず、幸か不幸か身につけてしまった並みはずれた教養と中條の流れをくむ小太刀の腕が、男たちからの誘いを遠ざけさせていた。お静もそのほうが良いと思っている。彼女を知る周囲の者たちからは変わり者扱いされていたが、気にしなかった。事実そうであったのだから、仕方がない。十代の半ばで既に父の行う死人の腑分けの助手を務めていた。初めのうちは腐った血膿と内蔵の匂いに何度も吐いたが、そのうちに慣れた。二十才を過ぎた時、父が見守る前でただ一人でそれをやってのけた。それが、医術の系である阿倍の家督を継ぐ試験であったことを後になって知らされた。

 仁右衛門は

「おい」と手下たちに合図をして、死体から衣類をはぎ取らせた。腐臭と汚物臭がムッと強まる。お静は医者の冷めた目でそれを見つめていた。

「秀綱さま。意伯さまは?」と、お静。

「ああ。先ほどまで、屋敷におったのだがなあ」

 半時前、朝稽古の後に文五郎が井戸の水をかぶっているところを皆が見ていた。秀綱は兵助と仁右衛門に目で問いかけた。兵助は困ったように首を傾げ、仁右衛門は笑った。

「おおかた、お静さんがおっかなくて逃げちまったんだよ」

 キッと仁右衛門を睨んで、お静は検分にかかった。死んだ四人の中に数日前から秀綱の様子を探っていた者がいたことは、すでに三太が確認していた。検分は彼らの素姓を探る手がかりを求めて行われる。今朝、そのために仁右衛門がわざわざお静を呼んできた。

 お静は、予め半紙に描いてあった簡単な人型に次々に印や文字を書き込んでいった。それが終わると、死体に触れた。最初は、今朝秀綱が拾ってきた生首から始めた。一見か細く見える白い手が、三貫近くある男の大首をひょいと拾い上げた。手鞠でも見るようにそのまま顔の前にかざして様々な角度から検討している。目が据わっていた。

 最初、無言で立ち働くお静の後ろ姿を好色そうな目で見ていた仁五郎の手下たちも、生首を扱う手際を見ているうちに表情が消えた。女医は、血が乾いて腐り始めている首と胴の切断面を、頬を僅かに紅潮させて撫で回している。荒くれ者たちはやがて、その女医を人とは異なる不気味な化生を見る目で追うようになった。

 彼らの思惑など気にもとめずに、お静は死体の検分に夢中になっていた。

(凄い…)

 首の切断面を見た時、そう思った。筋は言うに及ばず、健、脛骨や仏骨までもがまるで豆腐のように綺麗に斬られている。普通、斬られた筋や健は収縮するために断面は掻き毟られたようになってしまう。刀で斬るとは言っても、実際には叩き折られたものが千切れるのだ。が、この首の断面は違った。健や骨は、まるで自分の主である首が斬られたことに気づかぬまま死んだように、切断された瞬間の形状をとどめている。

 二つめの死体。脇差しで心の臓を貫かれた男。乳首のやや内側に横長の刺し傷がある。その傷が正確に心臓の中央を貫いて、背中にまで抜けていた。小太刀を扱えるお静には、脇差しを投げた時の様が想像できた。横に広がり、内側はさらに狭くなる肋骨の間隙を縫って飛剣を心臓に埋めるのは思いのほか至難である。刃を横にして投げなければ、肋骨にあたって軌道がそれるからだ。さらに心臓は休みなく動き続ける筋肉の塊であるだけに、筋組織が固い。槍のように先の尖った得物でも、容易に刺し貫けるものではない。

 三つ目の死体は脇腹に傷が開いていた。腰骨の上を、ちょうど真横に六寸ほど切り裂かれている。ひと目見て、致命傷であることがわかった。人体で一番太い動脈が切断されていた。臆病な兵法者が切腹する時の裏技に、この動脈断ちがある。腸を斬るふりをして、初太刀で動脈を断ち切るのだ。すると脳への血流が止まり、意識はすぐに途絶する。そこをすかさず介錯してもらう。数ある切腹の方法の中で、最も楽な逝き方である。文字通り〃断腸の思い〃などという苦痛を知ることもなく、切腹の誉れを世に残せる。秀綱はこれを殺人技に用いた。懐へ飛び込み様に、脇差しの抜き打ちでこれを斬った。恐らく、逆手で。鍔元の刃を男の体に当て、切っ先に向かって肉を切り裂いたのだろう。

 そして四つ目。最後の死体だけは無残だった。胴体の中央に丸い大きな裂傷がある。両眼こそ閉じていたが、死顔に苦痛の表情が残っていた。背中から地上に生えた竹やりで刺し貫かれた傷口。斜めに鋭く斬られた竹の切り株が、男の背骨を砕き、そのまま鳩尾を突き破ったためにできたものである。因みに、鳩尾は胃ではない。一般に水月、正確には経絡で言う太陽叢と呼ばれる上半身の自律神経を司る中枢が破壊されていた。背骨も粉砕されていたから、肉体の苦痛は余り感じなかったはずである。が、死を迎えるまで十を数えるほどの時の長さはあったのであろう。死顔の歪みは、間もなく訪れるであろう自らの最後と向かい合わねばならなくなった絶望を映し出していたのかも知れない。

 お静は身を起こした。以前から秀綱とは面識もあり、業政公が無双の達人として感状をしたためたという噂も聞いてはいた。しかし、その技が斬殺した骸を見たのは、これが初めてだった。

 胸の奥に広がってくる親譲りの好奇の念を確かめるようにため息をつく。四人を、恐らく人を殺すために長年に渡って厳しい修業を重ねてきたこの者たちを、からくり仕掛けのような正確さで瞬く間に死に至らしめた秀綱の剣技…。

 見てみたい。そう思った。女医ではなく、武人としての血が疼いた。

「秀綱さま。番小屋を一日お借りできますか?」

 秀綱よりも仁右衛門が顔を顰めた。お静が腑分けをするつもりだと感じたからである。何もそこまでする必要はない。そう言おうとした時、

「別にかまわぬよ」と秀綱があっさり許してしまった。

「先生…」と、仁右衛門が渋い顔になる。

 秀綱は仁右衛門を見て、すまなそうに微笑んだ。腑分けなどここでやられたら、小屋は血で汚れる程度では済まなくなる。後始末をするのは仁右衛門の手下たちであろうことは想像がついた。仁右衛門は以前、香庵の腑分けの後始末に若い衆を送ったことがあった。常には香庵の弟子たちが行うが、箕輪に広まった流行り病に応じて皆出払っていた。腑分けも、その時の疫病対策のために行われた。戦場の後始末で死体を見慣れているはずの若い衆は、香庵のところから帰ってからまる三日間、物を食えずに寝て過ごした。例え屍とはいえ、人が人を切り刻むところを見続ける神経は尋常な沙汰ではない。仁右衛門は後悔した。もう二度と腑分けの後始末は引き受けないと決めた。あの五年前の決心を今日は破らねばならなくなりそうなのだ。香庵ならケツを捲るが、秀綱の頼みでは断れない。

「大丈夫。大げさな腑分けではありませんよ、仁右衛門さん」

 お静は仁右衛門の苦い顔を見て、ケラケラと笑った。

「少しだけ。ほんの少しだけですから」

 仁右衛門は諦めて、手下たちに命じて死体を小屋の中に運ばせた。

「目張りをして蠅を入れるな。後で面倒になる」

 腐った血の匂いで蠅が群がってくる。腑分けの邪魔になるし、一日すれば蛆が湧く。

「気を遣って貰って、どうも」と、明るい声で仁右衛門にちょこんと頭を下げながら、

「ところで、秀綱さま?」と小首を傾げて問いかけた。

「何かな」

「剣の技を一手、ご教授を頂けませぬか?番小屋に入る前に」

 今度は秀綱が笑い、仁右衛門はまた渋い顔で口を噤んだ。

 固く閉じた仁右衛門の口元にうっすらとした怒気がある。

 身の程知らずの小娘が。仁右衛門はそんな言葉を飲み込んだ。婦女子に対する偏見ではない。医術に対する造詣を己の小太刀技の熟練度と取り違えるお静の不遜さが小面憎かった。お静の無邪気な好奇心など、血染めの修羅場をくぐって生きてきた仁右衛門には無縁である。世の裏を泥まみれで歩いてきたこの男には、力相応の立場を弁えることが何よりの徳であった。医師としてのお静には今後も敬意を払うつもりだし、好意も感じている。だが、兵法者としては犬にも劣る。そう断じた。

 秀綱は仁右衛門の肩に軽く手を置くと、前に進み出る。

「誰か、小太刀を」と屋敷の奥に声をかけた。

「あ、いえ。その鉄扇をお借りできれば」

 秀綱はそれを差し出し、お静は無造作に受け取った。鉄扇の長さは、約一尺七寸。近在の鍛冶屋に特別に誂えたものである。通常の竹と紙でできている扇に比べるとだいぶ大きい。お静は両手の中でその重さを量った。

「丁度」と、ひとり微笑む。

 秀綱は脇差しをスラリと抜いた。屋敷の小間使いと荒くれ者たちがどよめく。まさか斬るつもりでは、と兵助までもが緊張した。仁右衛門ほどではないにせよ、彼らも一応にお静の態度を快く感じてはいなかった。まして荒くれ者たちは、お静にある種の怯えを催させられた。叩きのめされてしまえ。腹の底でそう思っていた矢先に、秀綱が剣を抜いたのだ。秀綱は武人である。剣を極めるためには、いかなる場合でも斬人を躊躇わない。

 が、秀綱は抜き身の脇差しを仁右衛門に手渡した。

「持っていてくれ」

 腰から鞘を抜き、左手に持ち替えてお静に向かう。その長さは二尺足らず。

「よしなに」と、お静。

 秀綱が微笑み返して、試合が始まった。

 間合いは二間半。お静は両の手で鉄扇の要あたりを持っていた。やや腰を落とし、扇子の先を秀綱の足先に。それがスッと秀綱の顔に向いた。滑るようなすり足で間合いを詰める。が、鞘の間境の寸前で止まり、右方向に二歩だけ転身した。その額に、先程の死体検分では見られなかった汗が浮かび出した。その間、秀綱はやや背を丸めて佇んだまま。

(ほう…)

 と、仁右衛門は感心した。呼吸、足さばき、間合いの見切り。この娘、思った以上にやる。町場でも流行りのお嬢様剣法の域を遥かに越えている。

(だが…)

 同時に直感した。お静はまだ生きた人間を斬ったことはないのだ、と。どうやら、切り刻んだことがあるのは死体だけらしい。仁右衛門の頬に奇妙な笑みが浮かんだ。そんなことに一瞬でも優越感を覚えた自分の滑稽さに呆れもした。

 秀綱の真横に移動した直後、お静はふいに間境を越えて踏み込んだ。疾い。一間以上あった間合いが一気に詰まる。鞘ですり上げられるのを防ぐように、お静は扇子を下段に構え直している。その不自由な体勢から、秀綱の左手首に斬りつけてきた。秀綱が鞘で払おうとした時、お静の扇子が飛燕のような動きを見せた。軌跡が鋭角に曲がり、胴体への滑らかな二段突きに転じた。秀綱は一撃目を鞘で受け流し、二撃目の切っ先が衣に触れる直前に踏み込んで右手の掌底で扇の柄元を打ち飛ばす。お静は扇子を手放さずに後方に二間以上跳んだ。四つん這いになりながらそこで踏みとどまり、懐に右手を忍ばせた。動きには一瞬の遅滞もない。引き抜きながら、手に掴んでいたものを秀綱に投げる。鞘の間境で紙吹雪が散った。秀綱が払ったのだ。同時にお静の左手が閃く。宙を舞う紙の目隠しを縫って、鉄扇が秀綱の胸板に向かって飛んでいた。最後の隠し技に、仁右衛門は目を見張った。鉄の扇子が自分の胸に向かってくるような錯覚を見た。かわせぬ。そう思った。

 秀綱は斜め後方に開身しながら、右腕を素早く打ち払った。その動きが止まった時、いつの間にか秀綱の右掌に鉄扇が握られていた。五つ数えるほどの間を置いて、紙吹雪は地に落ちた。続いてお静が地に腰を落とす。汗にまみれた顔を秀綱に向け、

「まいりました」と荒い息をつきながら呟くように言った。

 秀綱は細い目をさらに細めた。

「いや。なかなかのものであったよ」

 秀綱に腕を掴まれて、立ち上がる。お静は、やっと何とか、ありがとうとだけ言うことができた。静かに微笑むその細い目の奥をのぞき込む。

(強い…)

 好奇心はいつの間にか感動に変わっていた。人は、ここまで強くなることができるものなのか。ただ強いというだけのことが、ここまで心を震わせることができるものなのか。こみあげてくるものを飲み込みながら思った。お静は仁右衛門を見た。冷めた目で自分を見下ろしている。しかし、先程までの自分に対する不快感は既に消えていた。今になってみて、なぜ仁右衛門がお静の申し出を嫌ったのか少しだけわかったような気がした。

「意伯さまもこんなにお強いのですか?」

「お静さんよりは強いぞ。だが、それでもまだ遠い」

 秀綱の域に遠いのか、あるいは意伯に眠る剣の才がまだ開花していないのか、どちらの意味で語ったのかはその場に居合わせた誰にもわからなかった。

 お静は目を伏せた。知らぬ間に、なぜか羞らうように薄い笑みが浮かんできた。

「投げ入れようとする石を見ずに、相手を包む器の水面を観ることだ。それが解るようになったら、意伯と立ち会ってみるといい。きっと良い試合になる」

 お静は地に目を落としたまま。今の言葉を耳の奥で反芻する。一方、口は勝手に違うことを医者の声で呟いた。

「すぐに検分にかかります」

 一瞬を置いて、秀綱は吹き出した。仁右衛門からも、烏のような高笑いが弾けた。

 お静は驚いたように顔を上げた。

「後でいいよ。膳を用意しておいた」

 そう言い残すと、秀綱と仁右衛門は屋敷の中に入った。

 お静は縁側にひとりぽつんと座って、先程の打ち手の記憶を幾度も再生した。そうしている内に、いつの間にか傍らに膳が運ばれていた。握り飯と椀の汁を口に運びながら、お静は頭の中で同じことを繰り返していた。

 気がつけば、膳の上にはもう何も残ってはいなかった。お静は自分が食べた握り飯の数さえわからないでいることを知り、童女のようにクスッと笑う。

 茶を飲みながら何となく空を見上げ、蒼々としたその広さに思いを馳せた。



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