秀綱陰の剣・第一章

著 : 中村 一朗

暗殺陣


 門前の石畳を掃いていた兵助は人の気配に気づいて振り向いた。

 静かに微笑む屋敷の主を見つけ、慌てて頭を下げた。主の名は上泉伊勢守秀綱。その目尻の皺が一層くっきりと濃くなる。普段から細い目がさらに細められた。

「いや、すまぬ。あまり熱心に掃いておるので、声をかけそびれてな」

 その明るい声に

「はあっ」と、あやふやに答える口下手な兵助の傍らを流れるよな動作で通り過ぎる。齢五十近い者の身熟しではない。まるで人の姿をした猫のようだ、と兵助はいつものことながら感じた。先程はどれくらいの間、自分を見ていたのだろう。

「あの。どちらへ」

「ちと、そこの雑木林にな。すぐにもどるつもりだ。たぶん、大丈夫であろうよ」

 秀綱は、また目を細めて飄々と答える。

 秋口の夕釣瓶に向かい、長い影を従えてひとり去って行く後ろ姿。少し背を丸めたその姿は、三年前に病で死んだ兵助の父によく似ていた。年も父とあまり変わらない。ここ西上州の一帯を仕切る箕輪の城主長野業政から〃長野国一本槍〃の感状を受けた剣豪の威厳など微塵もなかった。人は見かけによらぬ、と兵助はしみじみと思う。

「先生。お腰のものは…」

 秀綱はちらっと振り返り、左手の鉄扇を優雅に軽く振って見せた。腰には脇差しがあるだけで、大太刀はない。散歩に出る時のいつものいでたちである。

 遠ざかってゆく背影を見ながら兵助はふと、きな臭い予感を覚えた。幾度か合戦に赴いた経験が不吉な警告を耳元でささやいていた。兵助はもとは農民の出だった。仕方なく金のために戦場に出て、今の主に仕えた事がこの奉公のきっかけになった。今でも自分は百姓だと思っているし、侍などにはなりたくはない。だが、主には恩がある。借料の義理があるからというだけではなく、命を助けられもている。特に大胡城からここ上泉の地にある下柴砦に脱出した時には、上州一とうたわれている神業のような槍さばきに命を救われた。お前たちを絶対に殺させぬと宣言して、幾重にも張られた敵陣の包囲網を主自ら先頭に立って突き破り、血路を開いた。あの時の感動は、決して忘れられない。合戦は今でも嫌いだった。しかし、それでも主に剣術を習う決心をしたのはその時だった。身を守るための兵法もあることをはじめて認めた。またそれ以上に、里に残してきた家族と同じくらいこの屋敷の主が好きだった。それと、ここに集う者たちも。

「おい。どうした、兵助」

 後ろから肩を叩かれて我に返った。

「意伯さま」と兵助。

 意伯と呼ばれる師範代の疋田文五郎が立っていた。年は二十才になったばかりの兵助よりも五つ上。主の甥にあたるという。一見華奢で端正な顔立ちながら、門人の中でも一二を争う使い手だった。見かけからは想像もつかぬほどの剛剣を使う。技は荒々しいが、一本気で気さくな質が他の門下生にも好かれていた。

「叔父上は中か?」

 兵助は驚いた。他の弟子の手前、普段の文五郎はけじめのつもりで秀綱を〃叔父上〃ではなく〃先生〃と呼んでいる。〃叔父上〃と言うのは合戦の時だけだった。

「いえ。先ほど…」

 兵助は主が外出したことを告げた。その背に不安の影を見たことも口添える。

『たぶん、大丈夫であろうよ』と言い、大太刀も持たずに外出したことを伝えると、意伯の目が一瞬細くなった。行き先は、雑木林だと言っていたが。

 兵助は意伯の目に自分と同じものを見て、不安に駆られた。

「意伯さま。…何か?」

 うむ、と意伯は喉の奥で低く呻いた。今日の昼過ぎに、以前から秀綱一門に心服している口入れ屋の羽黒屋仁右衛門がやって来たという。ここ数日前から、秀綱の事をつぶさに嗅ぎ回っている者たちがいた。彼らからは、荒くれ者集団で通っている口入れ屋の地回りが背筋を凍らせるほどの濃い血の匂いがしていたらしい。その連中の一人から、地回りの小者が秀綱に手紙を渡してくるように言われた。小者は昼前に秀綱にそれを渡した後、そのことを仁右衛門に告げた。仁右衛門は小者を思いきりぶん殴ってから文五郎のもとに駆けつけてきたのだ。

「手紙?先生は、そんなことは一言も…」

 文五郎は唇を尖らせて舌打ちをしながら、

「しょうがねえおやじだ」と吐き捨てるように呟いた。

 兵助は文五郎のその表情に見覚えがあった。三年前に、話し合いのために出向いた大胡の城を脱出しなければならないと、秀綱が兵たちに宣言した時。それは敵の策に乗せられた屈辱感からくるものではなく、これからの脱出に伴う仲間たちの危難を思ってのものであったことを兵助は知っていた。その同じ顔で今は秀綱を案じている。

「兵助、刀を取ってついてこい。叔父上のもだぞ」と命じる。

 兵助は返事もせずに屋敷の中に駆け込んだ。


 その頃、屋敷の主である上泉秀綱は雑木林から遠く離れた薄暗い竹林の中にいた。

 前には着流し姿の男が三人。後ろには二人。いずれも尋常ではない眼光の五人が、十分な間合いで囲んでいる。夕暮れが近かった。竹林の中はすでに薄暗い

「よくおいで下さった」

 町人姿にはそぐわない落ち着いた低い声で、頭領格とおぼしき坊主頭の大男が言った。その目の陰光から、隠しようのない殺意が流れ出している。

「仕方あるまい。夜這いなどに来られては、はたの者たちに迷惑かかかる。里に家族のいるものも多いのでな」

 秀綱は懐の誘い文を男たちの足下に投げ捨てた。その間も彼らは視線を逸らさない。

「うわさ通りの豪気なお方だ、大胡の秀綱殿」

「その氏名はとうに捨てたつもりでいる。勝行殿と同じだ」

 秀綱は相手の顔をじっと見つめた。大男の目の奥にある暗さは揺るがない。一瞬、不思議そうな表情が秀綱の顔に浮かんで消えた。

「大胡一族の氏名は消えて、土地の名だけが残ったわけだ。これも時勢でござろうよ」

「なるほど…」

 秀綱は心色のない声でひと言応じた。

 大男は秀綱の顔色を窺いながらいぶかしんだ。まだ過ちに気づかないのか、と。一族間の争いを治めるために余人を交えずに話したい旨の誘い文には、あえて差出人の名を記しておかなかった。理由があった。この呼び出しの目的が和議にしろ謀殺にしろ、彼らを動かしているのは牛込勝行だとそう思わせるためであった。勝行との話し合いなら、秀綱は必ず一人で来る。腕に自信があればなおさらのことだった。これまで調べた秀綱の振舞いから彼らはそう読み、秀綱はその通りに乗せられてここに来た。

 よほど愚かでない限り、秀綱はもうこちらの策に気づいたはずだ。

「槍をお持ちになると思っていた」

「それを封じるために、この場を選んだのだろう?」

 大男の陰険な目がニヤリと笑う。

 古来より、槍を止める剣はないという。常に戦場での成果がそれを証してきた。弧を描いて斬りおろされる刀の軌跡よりも、点に向かって最短距離でまっすぐ伸びてくる槍の方がかわすのは難しい。それゆえ、始めて武器を持つ農民あがりのやとわれ足軽にも槍が最も有効な武器になる。まして達人が操れば、一対多数の場合であっても容易に踏み込めない。その間境とて自在に変化する。自由に動く原点を中心に描かれる円の内側すべてが殺傷範囲となる。だが、それは広い地の利を生かすことができる場合の理である。足の動きを制限されて、さらに円を描いて振り回せなくなった槍は、文字通りただの木偶の棒になりさがる。そしてこの竹林の中は、槍を封じるには絶好の地だった。

「お覚悟を」

 大男は杖に仕込まれていた直刀を抜いた。他の者たちもそれにならって抜刀する。

 秀綱は無表情のまま首を少し傾げた。

「当てが外れたようだ。狙いは、どうやらわたしの命らしい。理由は金か恨みのいずれかであろうが、どちらでも良かろう。斬られてしまえば同じだからな」

 他人事のような調子であった。その声の節に何の気負いもない。恐らくもう了知しているであろう修羅の時を前にして、心に浮かぶ様をそのまま素直に口にしている。

 妙な男だ、と大男は思った。

「恨みはござらぬ。金のためでもない。だが、頼まれまして」

「御主、名は?」

「〃裏傀儡〃が組頭。無界峰琉元」

「…ほう。刺客を生業とするなら、粋な名だ。して、他の六人は?」

 琉元と名乗った大男の顔から表情がスッと消える。薄闇の中、左右に控える二人の顔色が変わった。背後でも動揺する気配に、琉元を見据える秀綱が頬を歪めた。なぜか気づかれたが、まあいい。そう思いながら琉元は剣を握り返して一歩身を乗り出した。それは、秀綱の後方十間ほどのところの落ち葉の中に潜んでいる二人の射手への合図でもあった。秀綱が次に僅かでも動けば、毒を塗った半弓の矢にその背を貫かせてやる。

 琉元は手練れた暗殺者だった。殺してきた相手は、誰もが名うての将官たちである。多くの軍師や英傑を、手段を選ばずに葬ってきた。相手を侮ったことはない。周到な準備を整えて事にあたることを常としてきた。結果、一度も仕損じなかった。どれほどの豪者であろうとも、戦場を離れれば群狼の敵ではない。今度もそう確信している。

「一介の将として世をしまうのは惜しい…。大胡殿」

「今は生まれ里のこの地を氏に名乗っている。上泉とな」

 左右の男たちが僅かに身を引いた。同じ動きを背後でも。琉元と秀綱が尋常な果たし合いをするかたちで対峙している。だが、秀綱は脇差しも抜かずに両手をだらりと下げたままだった。左手には鉄扇。腰を落とし、田に立つ百姓のように少し背を丸めた。

 風はない。それでも、後ろで笹の枯れ葉が擦れ合う微かな音。

 突然、秀綱は左後方に身を躍らせた。反転しながら扇子を開き、舞うような鮮やかさで旋回させる。最初の矢が一瞬前に秀綱がいた虚空を貫き、ほぼ同時に放たれた二本目の矢は小さな盾となった鉄の扇面に弾かれた。次の瞬間、秀綱は地を這うような低い姿勢のまま、落ち葉を振り払って身を起こした弓手の一人に向かって猛然と疾走した。横から斬りかかる男の顔に鉄扇を投げ、脇差しの抜き打ちでわき腹の動脈を断ち切る。即死だった。血しぶきが枯れ葉に落ちた時には一人目の弓手の首が飛んでいた。もう一人は弓を捨てて抜刀しようとしたが、秀綱の投げた脇差しに胸を貫かれた。これも即死。琉元を除く三人が背後から必死で迫った。だが、遅れた。次々に倒れかかる竹に行く手を阻まれた。彼らは夕闇と竹の葉で秀綱の姿を見失った。

 琉元は瞠目した。足の速さ、剣の腕、状況の判断に度胆を抜かれた。

 暗がりで秀綱の動きを正確に捉えたのは琉元だけだった。矢をかわした地点から、秀綱は一直線で射手に向かった。その間、脇差しを四度閃かせた。それでも秀綱は少しも足を緩めず全力で駆け抜けた。ひと太刀目で重座を殺し、後の太刀で三本の竹を斬った。それが背後から追った三人の足を止めさせたのだ。さらに弓手方の伊蔵と安助が殺された。長年ともに暗殺の生業に手を染めてきた腕ききの三人が、虫のようにあっさりと死んだ。

 待て。残った三人にそう告げようとした時、先頭の似吉が倒れた竹を飛び越えた。琉元の目の奥で、時間がひどくゆっくりと流れた。宙に浮き上がった似吉の体。地上から六尺以上のところにある。高く跳んだのは障害を越えながら見失った獲物の行方を確認するためだった。が、敵は真下に潜んでいた。竹の葉の中から伸びた手が蛇のような正確さで似吉の左足首に絡みついた。そのまま膝の逆関節をとり、一挙動で地に叩きつける。グシャッという鈍く湿った音。似吉は小さく呻き、ごぼりと血を吐いてこと切れた。斜めに鋭く斬られた竹の切り株が似吉の胴の中央から突き出ていた。四人目が死んだ。

 竹を薙ぎ払うように斬って、秀綱が現れた。右手には倒した者の剣がある。二人は慌てて身を引いた。彼らの顔には恐怖や憎悪よりも驚愕がくっきりと浮かんでいる。

「まさか…猿飛、陰流の技」

 掠れるような琉元の声に、振り向いた秀綱が鋭い視線を送る。

「もうすぐ、わたしの仲間たちがここに来る。まだ続けるつもりか?」

 他の者たちにはない動揺と恐怖が、そして何よりも憎悪が隠しようもなく大男の顔に浮かんでいる。ひと呼吸おいて、剣を収めた。遠方に近づきつつある足音を聞きながら。

「…引くぞ」

 残った二人もそれにならう。琉元を残して、先に森の方角に消えた。

 大男は秀綱を睨みつけた。四人の者を殺した後であるのに、秀綱の目には邪気がない。それが不快だった。やがて背後から人の気配が駆けてくるのを知った。

「秀綱殿。この四人、名を重座、伊蔵、安助、似吉という。勝手で済まぬが、始末をお頼み申す。皆、縁者はござらぬ」

「わかった」

「いずれ、また」

 琉元は踵を返した。逆方向から文五郎と兵助が枯れ葉を蹴散らして駆けてきた。

「先生!」と兵助。

「兵助、叔父上を!」

「はい」

 言い捨てて、暗がりに消えた影を追おうとする文五郎を秀綱が止めた。

「追わずともよい」と、おだやかに秀綱。

「なぜじゃ!」文五郎がキッと振り返る。

 文五郎の癇癪が破裂した。自分たちに何も言わずにここに来た秀綱を責めた。まして自分や兵助まで謀り、一旦は雑木林に走らせたりした。そのために到着が遅れた。御身を心配する者たちをそれほどまで邪険にするのかと、文五郎は目を潤ませて怒鳴った。剣の師で、叔父であることも忘れて。

「悪かったよ」叱られた子どものように、しんみりと詫びた。

 秀綱の素直な声に、文五郎は肩をすかされた。まくしたてようとしていた次の言葉が喉で、ぐっ、と詰まったところで、秀綱は四つの屍を指さした。

「ところで、この者たちを葬りたいのだがな。明日まで放っておけば、烏に啄まれてしまう。だから二人とも、手を貸してくれぬか」

 それだけ言うと、秀綱は背を向けてすたすたと歩き出した。

 唖然としてその後ろ姿を見ながら、文五郎は兵助と顔を見合わせて、ため息をついた。気をそがれて、もう腹も立たなかった。逆に、なるほどと感心すらした。人の気を逸らすとはこうしたことか、と。これが剣の試合なら、一方的に攻めていながら間を取られてひと太刀受けてしまったようなものだ。師の剣の奥義は人の心を映すことにあるという。やはりまだ当分かなわぬ。そう思うと、奇妙な苦笑いが自然に浮かんだ。

「…兵助。大八車を。縄も持ってきてくれ」

 兵助は屋敷に駆けていった。二人は黙々と屍を次々に竹林の外に運んだ。

 四半時ほどで兵助が戻ってきた。五、六人の若い衆を引き連れた羽黒屋仁右衛門も一緒だった。皆、提灯や鍬を手にしている。あたりはもうすっかり暗い。

「おっと。こいつぁ」死体に躓いた仁右衛門が笑った。

「仏さんに怒られちまう」くたびれた鳥のような顔が秀綱に向いた。ひょろ長いカマキリのような体を秀綱に向けて、

「先生、だめだよ。あんまり若旦那をこまらせちゃあ」と言った。

 秀綱は背を向けたまま、軽く手を振って見せた。仁右衛門の言う若旦那とは、文五郎のことである。侍嫌いの仁右衛門もなぜか秀綱一門だけには好意的だった。耳聡い口入れ屋だけに、さすがにこの場の事情もよく掴んでいる。

「仁右衛門。この者たちに見覚えは?」

 仁右衛門は文五郎の声に首をかしげた。

「三太、こい!」

 大八車に死体を乗せて縛りつけていた若い男が慌てて駆けてきた。犬のような目で仁右衛門を見上げた。背は三太の方が高いが、極端なガニ股と猫背でそんな姿勢になる。右目の下に暗がりでもわかるほどの青痣があった。昼に仁右衛門に殴られた跡である。秀綱に手紙を渡したのはこの男だった。

「面を拝め」

 三太は提灯を掲げながら場所を変えて三つの死体の顔をのぞき込んだ。四つめの死体には首がない。三太はしばらくしてオドオドと顔を上げ、

「わからねえよ、親分。こう暗くちゃあ…」と泣きそうな声で言った。

 仁右衛門は三太を睨みつけて、チッと舌打ちを鳴らした。また殴られると勘違いした三太は、ヒッと小さく息を飲んだ。秀綱よりも三つほど年が上の仁右衛門は不思議な技を身につけている。若い頃、琉球から流れてきた雲水に教わったという素手の拳法だった。人体の経絡上にある急所を狙い、相手の苦痛を自在に引き出すことができた。いつの時代も町場の荒くれ者たちは素手の強者に一目置く。仁右衛門が若い頃から口入れ屋として大成したのはその体術を抜きにして語れない。文五郎も以前、好奇心から幾つかの技を仁右衛門に教わったが、とても簡単に覚えられるものではないと気づいてやめてしまった。

「しょうがねえ。おまえは明日の朝、先生のお屋敷に行け。明るいところで見りゃあ、何かわかるかも知れねえ」

 三太は何度も頭を下げながら大八車の方に戻っていった。すれ違うようにして別の小者が寄り添う。死体は積み終えたが、首ひとつと先生の扇子が見つからない、と言った。

「こう暗くなっちまったらしょうがねえよ。大方、タヌキの穴にでも落っこっちまいやがったのさ」と、仁右衛門。

 間もなく一同は揃って秀綱の屋敷に引き上げた。死体は屋敷の蔵脇にある番小屋の前に筵を敷いて並べられた。屋敷の小間使いから仁右衛門たちに酒がふるまわれ、一時半ほどして赤い顔の仁右衛門たちが文五郎と連れだって屋敷を出た。

 兵助が門を閉め、長い一日の終わりに安堵した。

 明くる日の早朝、竹の子を取りに来た百姓夫婦が朝靄に霞む竹林から出てくる秀綱と出くわした。二人は秀綱を、竹の子取りの先客と思った。

「こりゃあ、先生」

 と、挨拶をしかけた二人の顔が凍りついた。秀綱は左手に鉄扇を持ち、右手には竹の子の代わりに人の首を下げていた。頬を痙らせる二人の横を

「やあ」と声をかけて通り過ぎた。二人は、悠々と遠ざかってゆくその後ろ姿と竹林の奥を交互に見て、顔を見合わせると逃げるように家に向かって走り出した。しばらくして町に、長引く戦国の〃たたり〃で竹の子の代わりに人の首が生えてきたと噂がたった。

 刺客による秀綱暗殺の企てについては、人の口にのぼることはなかった。死体を乗せた大八車が秀綱の屋敷に向かうところを多くの町人たちに見られたが、彼らはそれが近在を荒らす盗賊の屍であると聞かされた。室町末期のこの時代、地方の町には役人が常駐する番小屋などない。土豪たちは自力で身を守らねばならなかった。秀綱の屋敷が上泉の地の自警所を兼ねていたため、町人のみならず秀綱の門人たちも無条件に信じた。明くる日の昼頃には話を聞きつけた町の有力商人たちが謝礼の付け届を羽黒屋に送りつけてきたほどである。盗賊たちを退治したことになった仁右衛門一家は名を上げ、事実は巧みに隠された。竹林の〃生首のたたり〃の噂も含めて、どれも仁右衛門が手を回したことであった。



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