正一肝取事件

著 : 五十嵐 アキヒコ

第二章:迷走


(3-1)

 今度の犯行も夜だった。

 被害者は村上キヨ、二十八歳。一歳六ヶ月の子供の夜泣きをあやすために家を出たとのことだった。

 キヨは死んだが子供は無事。放り出された子供の泣き声が、早い段階で現場に人を呼ぶことになった。これが村松の報告だった。

「明るくなるまで手が出せんな。このままここに張り付いて朝を待とう。使いを出して藤原先生を呼んでおいてくれ」

 簡単な指示を出すと、まだ血の臭いが漂う現場近くの石に腰を下ろした。

 夜が白み始める頃に藤原が到着し、準備万端で現場から闇が去った。


「こりゃ凄い」

 開口一番、藤原が言った。

 須藤の目には、過去四件の現場と変わらないように見える。

 頭を砕かれ、下腹部が切り裂かれている。

 しばらくの間、藤原は座り込んで調べている。

 須藤は何かを期待するような面持ちで、その姿を後ろからぼんやりと眺めていた。

「角袖さん。っと、須藤さんでしたね。この被害者の女性は妊娠していたようです。下腹部を切り裂かれ肝が取られているのは同じですが、肝を切り取る際に子供が出てきてしまったみたいですな。出てきた子供は腹の中に押し込んであります」

「強姦の形跡はありませんか?」

 須藤は自分の立てた犯人像に当てはまる質問をしてみた。

「さすがにこの状況だと解りませんね。時間を貰えれば調べようはありますが…。あまり期待はしないで下さい。中に入っていた胎児が落ちてきてしまうくらい裂かれていますから…」

 しばし考えると須藤は、

「解る範囲でいいので、よろしくお願いします」といい、検証が終わったら遺体を藤原の指示で運ぶように部下に命令をした。

 村松がやってきて敬礼をした。

「報告します。物取りは行われていないようです。というか、取る物が無かったというのがその理由だと思われます」

「だろうな」

「子供あやしに金は必要無いですからね」

 須藤は村松を一瞥すると、近くの石にどっかりと腰を下ろした。

 しばらくの間、現場はあわただしく動いていた。担架が運び込まれ、血まみれの遺体が運び出されるのを見ると、須藤は腰を上げ、村松を呼ぶわけでも無く現場を立ち去った。


 一週間ほどすると、藤原から連絡が来た。

 藤原自身が須藤の元に出向いてきたのだ。挨拶もそこそこに報告を促した。

 報告は簡潔にまとめられていた。幸運だった点は、第四の殺人で被害者となった遺体がホルマリンで保管されていたとのこと。おかげで二人の遺体を調べることが出来た。不運だったのは、少なくともこの二体は強姦された形跡が無いということ。

 この報告を受けた須藤の落胆は、誰が見ても解るくらい表情に表れていた。

 警察は、制度が立ち上がったばかりということもあり、ほとんどが同心時代と同じ程度の捜査能力しか持っていなかった。即ち、角袖の考察力と推理力に頼ったものとなっているのが実情だった。むしろ逆に、目明かしや岡っ引のような私的使用人も使うことができず、全体的な捜査力は低下していたことも事実といえる。

 明治維新によって警察が組織され、その立ち上げにはヨーロッパの警察が参考にされた。建前としては、司法と警察を明確に分け、近代的な法治国家の理論を実践しようとしていた。しかし、この建前が落とし穴とも言えた。司法がしっかりと機能し、奉行書のお裁きではなく、職業裁判官による裁判が行われるようになると、客観的な証拠が必要になる。証拠固めは捜査力が大切だったが、今回のような事件で、低下している捜査力を用いて証拠を得ることは難しい。立ち上がったばかりの制度と現場の経験が不足から、半端な従来の捜査と、新しい建前の両方を満足させなくてはならない。結果、捜査にあたる人物の洞察力と推理力という確実性に欠ける要素を中心に、証拠を固めて犯人を逮捕しなくてはならないのだった。

 須藤は自分の推理力に自信を持っていた訳では無かったが、ことごとく思いついたことが否定されるこの事件に対して、大きな悩みを持っていた。それらが表情となって顔に出ているのは、藤原にも読み取れた。

「遺体に共通する項目は一つだけ、肝が切り取られ持ち去られていることです」

 須藤はチラっと藤原を見ると、おおきなため息をついた。

「肝を取ってどうするんだ。すぐに腐るし、保管できるような物でもあるまいに…」

「それについて、面白い話を一つ聞いたんです」

 藤原はそう言ったが、須藤は顔を上げるでもなく、まるで興味が無さそうに下を向いたままだ。そんな須藤の態度は無視するように藤原は続けた。

「遺体を調べるのに蘭方医のところに出向いたのですが、人間の肝が労咳の特効薬として使われていて、その仕入れが大変だそうです。なんでも、清からしか入ってこないそうで、漢方師はそれで一儲けしていると言っていました」

「人の肝が…薬?」

「ええ、私は西洋医学が専門ですが、漢方薬はとんでもないものでも薬として扱いますからね。効果があるのかどうかは知りませんが、その蘭方医の所に労咳で診療に来る人でも肝を出してくれという者が多いそうで。それで仕方なしに仕入れているそうです」

「その話は医者の間だけで広まっている話なのか?」

「いやいや、宣伝しないと売れませんから。漢方師がどこかしこで声高に語っているそうですよ。まさかとは思うんですが、その話を信用しているが、買えない人間が犯人ということはないでしょうか」

「うーむ、可能性としては考えられるが…」

 須藤の表情は変わっていなかった。労咳は不治の病であることは有名だし、労咳患者は伝染を避けるため、人から離れた場所で死ぬまで隔離するのが一般的だった。

 さらに、労咳が治ったという話も聞いたことが無い以上、特効薬の話を信用する者がいると考えられるのだろうか。この疑問が、須藤の気持ちが晴れるのを阻んでいた。

「村松、付近の村で労咳患者がいるかを調べてくれ」

 村松は短く返事をすると、踵を返して出て行った。

「良い話をありがとう。また何かあれば電報ででも連絡してくれ。それと、引き続き遺体の調査を頼む」

 須藤の表情は変わっていなかったが、藤原の報告には感謝しているようだった。

「解りました。では、これで失礼します」

 藤原が出て行った後、部屋に一人残った須藤はつぶやいた。

「藁にもすがる思いとは、このことだな」

 ひょんなことから出てきた、にわかに信じがたい話について動こうとしている現実に、自嘲気味に須藤は言った。



(3-2)

 いつもどおりむしろの扉を上げると、千代が寝ている。

 ここに運び込んで看病を始めてから結構たつが、回復の兆しは見えない。

 体重は激減し、ほっぺたの肉まで落ちている。

 寝ている横の洗面器を見ると、赤々とした液体がなみなみと入っている。

 喀血の頻度が上がり量も増えている証拠だ。皿の上の食事には手を付けていないようだが、油紙に包まれた中身はちゃんと減っている。

 正一は洗面器の中身を外にぶちまけると、水桶から綺麗な水を汲んで手ぬぐいを濡らす。

 寝ている千代の首筋から汗を拭き取り、濡らした手ぬぐいを額に置く。

 すると千代が目を覚ました。

「ちゃんと食べてるわ」

 弱々しい声で、いきなり言う。

「あぁ、ちゃんと食べなきゃだめだ。薬なんだからな。少しは良くなってきたか?」

「うん、正一さんのおかげよ」

 それが嘘なことは一目見れば解る。しかし、労咳に効く薬の話を他に聞いたことは無い。今はこれを信じて続けるしか方法は無いのだ。

「そうか、それは良かった。でも、薬だけじゃだめだぞ。持ってきた飯は手を付けてないみたいじゃないか。一緒に食べて精を付けないとな」

 こくりとうなずく千代。

「そうだ、何か食べたいものは無いか。遠慮せずに言ってみろ。好物だったら、きっと食も進む」

「…鮎が食べたい。村のはずれにある川の鮎…。子供の頃からよく食べてたでしょ…」

 馬場家の下男である正一は、千代の出生を知っている。

 父親は湯山清で、馬場家の隣の湯山家の当主。母親は湯山家の女中で、千代が湯山の姓を名乗っていないことから、私生児であることは明白だった。

 正一がこの村に来たのは十一年前。

 十六の時に、父親、母親の順で亡くなった。

 正一の父親は実父で同居していたが、正一自身は私生児であったことを母親の口から聞いている。そんな状況でも父親は父親。亡くなった時の喪失感から抜け出せないまま、残った母親も後を追ってしまった。

 正一はそのまま失踪し、たまたま来たこの村で馬場家の下男として働き始めた。

 その隣に似た境遇の千代が居たのだ。

 当時、千代は十四で十二の時から湯山家の女中として、母子共々働いていると聞いた。

 身寄りのない正一は、隣の家ということもあり、十八になって女工になるまで、色々と足りない部分の世話をしてきたのだ。そんな中、村はずれの川で捕れる鮎をお裾分けに持って行った時に見せる、千代の笑顔は格別だったことが頭をよぎる。

「任せておけ。湯山の家の為にじゃなく、千代の為に捕ってきてやるぞ」

 そう言うと、正一はドンと胸を叩いて咳き込んだ。

 それを見た千代の笑顔は、正一の目にはどこか寂しげに写った。



(4-1)

 その夜は、月明かりはあるが雲で隠れがちな日だった。

 月明かりの方向を確認し、いつもの通り木の陰に身を潜めて静かに待つ。

 今回で六度目、大分慣れてきた。昨日は曇りで絶好の機会だったのだが、一晩待ち過ごしてしまっている。今日こそはという意気込みが、表情に浮かんでいる。

 しばらくすると、土を踏みならす音が聞こえてくる。

 口の中が酸っぱくなり、鼓動が高まってくるのがわかる。口に手ぬぐいをあてて、息づかいの音が少しでも出ないように注意する。

 音は木の前まで来た。音の移動速度から歩いているのを確認する。音が木を通り過ぎた瞬間、全身のばねを使って躍り出た。

 ドスっと鈍い音がすると同時に、人の倒れる音がした。

 はぁはぁという荒い息づかいと共に、二発目から水を帯びた音がし始める。五発、六発と音が続くと、音はビチャビチャという音に変化していった。八発打ち込んで音は止んだ。

 血まみれになった金槌を静かに地面に置くと、さきほど隠れていた木の陰から手ぬぐいを持ってくる。手ぬぐいをぱらぱらと広げると、中には小出刃が入っている。

 仰向けにさせると着物を払い、足を広げて下腹部に突き刺す。

 それからの作業は手慣れたもので、ものの3分程度で体の中から何かを取り出した。すると男は木にもたれかかって深呼吸を始めた。鼓動の早さは、心臓がどこにあるかわかるくらいに大きい。少しでも鎮めようと、ゆっくりと何回も深呼吸する。

 深呼吸を続けていると、月明かりがあたりを照らす。

 一瞬驚いて顔を手で隠したが、あたりを見回すと、ゆっくりと手を下ろす。

 月明かりを頼りに取り出した物を確認すると、小出刃といっしょに手ぬぐいに包む。

 金槌を手に持ち、死体のはだけている着物を左右からかけなおすと、道ではなく山の中に姿を消した。



(4-2)

 須藤は机に向かっていた。

 まだ夜は明けていないが目が覚めてしまったのだ。

 机の上の報告書を手に取ると、また読み始めた。

 村松の報告によると、近辺の村で労咳に罹っている者は全部で四名。全員が村はずれの小屋に居を移され、死ぬのを待っている状態だという。医者にかかっている者は無し。金が無いのもそうだろうが、不治の病だというのも理由の一つと思われる。

 患者は全員女性で年齢はバラバラ。下は二十から上は四十まで。一番新しい患者は、二十五の女工帰り。全員世話をしている者がいるとのこと。世話をしているのは、三人については身寄りだが、二十五の女工帰りは近くの家の下男が世話をしているらしい。

 その下男は、温厚、素直、誠実、真面目、律儀者として評判で、下男の仕事をしながらの看病で、村の人間も感心しているとのこと。

 簡単だが要点が書かれている報告を読み終えた須藤は大きなため息をついた。一人だったら良かったのだが四人も居ては絞りようが無い。しかも、肝が労咳の特効薬だという話を聞いていないと話にならない。どの村からも町は遠く、そんな話を知る手段が無いのだ。さらに、不治の病である労咳を治すために殺人をする。どうも、須藤にはそれが犯人の動機になっている点に納得がいかなかった。

 誰かを殺して身内を生かす。そんなことが出来るのだろうか。

 母親は子の為なら鬼にもなる。母親の深い愛情を表す意味でよく聞く言葉だが、本当に鬼になって、五人もの殺人を犯せるだろうか。

 この想像から言えば、間違いなく女工帰りは容疑から外れる。世話をしているのは肉親ではないし、評判から言っても、本当に人の良い親切なだけの男だろう。

 残りの三人についてはどうだろう。須藤の疑問に対する答えは出ている。無理だ。そのことを確信するためにも、聞き込みをする必要があると考えていた。

 それから一週間ほどかけて、四軒の労咳患者のもとに足を運び、気になる点を聞き込みしたが村松の話以上の情報は得られなかった。

 直接本人に話が聞けず、世話人とも会えなかったが、村人から話は聞けた。

 共通していたのは、諦めはついていて、最後まで看取ってやろうという気持ちだけじゃないのかということ。正に須藤の考えと合致する行動だ。だが、それは、現在唯一残っている犯人を予想する手がかりを否定することになる。

 何が動機なんだろうか。結局答えは出ない。

 近隣の村で連続した五件の殺人。

 被害者は全員女性。

 全員かは不明だが、下腹部を裂かれ肝を抜き取られている。

 性的異常者ならば、幼少の子供ばかり狙うはずだ。

 さらに、強姦が目的とは考えにくい。

 理由は簡単で、この近隣はまだまだ夜ばいの習慣があるからだ。都市部でも少なくなってはいるが、まだまだ夜ばいはある。しかもそれは犯罪では無い。

 夜ばいのルールは、まず相手の同意を得ること。さらに、こういった村では、若者組が一定のルールを設けて実行していることがほとんどだ。処女は若者組みでも年長者が優先され、順番を守る形で談合が行われる。談合の決め手は公平だ。

 順番を待てば、全員に等しく権利が回ってくる。我慢できずにそのルールを破れば制裁が待っている。小さな村では、それが家族ごと死につながることもあるような厳しい制裁だ。この習慣とルールを守っていれば、犯罪に走る必要は薄いというのが須藤の見解だった。家族全員の危険を犯してまで、強姦を行う必要は無いのだ。

 残る理由は肝…。

 しかしこちらに関しても、近隣の村の患者は死を待っている状態だということを確認している。自分自身の考えや予想と合致する話も村人から聞けている。そうなると、遠方からわざわざこの村を狙って来ているのだろうか。

 殺人の周期は、まばらながら十日前後。

 この村から十日の距離を含めたら、とてもじゃないが須藤一人では調べきれない。

 戻って広域捜査を願い出るのが得策なのだろうか。

 それともこのまま、犯人を突き止めるのが良いのだろうか。

 昔と違って、今は犯人を検挙すれば地位も給与も上がる。

 須藤の家は同心の家だった。同心は、抱え席と呼ばれる一代限りのお役目を原則としていたが、汚れ仕事である同心は、公募しても人が集まらず、代々受け継がれて世襲となっていた。犯人を捕まえても地位が向上することはほとんど無い。

 町奉行所の下に与力がおり、与力の下に同心が位置する。一人の与力は四、五人程度の同心を指揮し、治安活動や捜査活動を行っていた。地位や職業、身分が固定化された江戸時代では、同心が何百人と犯人を捕まえようが、それは有能な同心と言うだけで、与力になることは出来ない。同心の下に付いてた私的使用人の岡っ引き、手先、下っ引きも、公募された同心になることはできても、与力になることはできなかった。

 父親からそういう話を聞いている須藤は、明治政府の樹立で警察組織が作られたこと、同心が警察に組み入れられたことは歓迎していた。これからの自分自身の為にも、家族の為にも、犯人を検挙したいと考えていた。

 頑張れば得る物は大きい。逆に失敗すれば無能のレッテルと共に追いやられるかもしれない。新しく作られた組織は固まっておらず、どうなるかはわからない部分が多い。自分の手に余るからということで、広域捜査を願い出れば、それが無能のレッテルにつながらないとも限らない。

 そういった複雑な気持ちが、須藤を悩ませていた。

 机に向かっていると、薄曇りの中から朝日が差してきた。

 大きく伸びをすると、茶でも貰おうと台所の方へと歩き出した。



(4-3)

 六件目の現場も、いつもと同じだった。

 夜に殺害が行われ、朝になって明るくなると判明する。

 被害者は女性で、頭部が砕かれ、下腹部を切り裂いてある。

 藤原はいつもの通りの報告をした。

「頭部が砕かれ、下腹部から肝が取り出されています。前回と違う点は、今回は後頭部が砕かれています。なので、顔は比較的解りやすいということぐらい。下腹部の部分も性器を入り口にして、下から上へ切り上げているのは同じです。」

 すると、村松が現れた。

「身元が判明したので報告します。被害者は杉本文子、二十一歳です。顔がかなり残っておりましたので、知り合いを通じて肉親での確認です」

「そうか、わかった」

 須藤は、短く返事をすると、被害者を見ながら考え始めた。

 被害者が増えたことで情報が増えた訳では無い。

 犯行の方法は一貫している。

 むしろ新しい被害者の年齢が、それまで空白となっていた被害者の年齢層を埋めている感じすらある。幅広い年齢層で被害者が生まれ、殺害方法は同じ。

 須藤の顔には嫌気すら浮き出ていた。

「どうしましょう。また被害者について調べてみましょうか?」

 藤原がそろりという感じで話しかけてきた。

 須藤の表情から何かを読み取ったようだ。

「あぁ、よろしく頼む。それと、薬の件…。肝を売っているという漢方医に話が聞けないだろうか。もちろん、こちらから出向かせてもらう」

「わかりました。遺体は運び出して、また調べてみます。漢方医の方は、ちょっと時間がかかるかもしれません。知り合いの知り合いになってしまいますので…。ですが、そちらもあたってみます」

「万事よろしく頼む」

 というと、須藤は小さく頭を下げた。

 その後も、村松と須藤は現場を調べたが何もなく、昼過ぎには引き上げていった。



top