(4-4)
日が傾き、夕焼けがあたりを照らす頃、正一は千代の小屋に向かっていた。
今日は一日暇を貰っていたので、千代の為に鮎採りをしていた。
採れたのは7匹ほどだったが、病気で弱っている女の腹を満たすにはちょうど良い数だと思った。
右手に鮎が生きたまま入っている水桶を下げ、足取りは軽く、上機嫌で千代の元へ急いだ。
「千代、入るぞ」
一声掛けて、扉代わりのむしろを上げると、その室内は妙に静かだった。
正一は一瞬不思議に思ったが、寝ている横の洗面器を見ると、いつもより水が赤くない。薬が効いてきて、千代は小康状態になっていると思い、顔がほころんだ。
「今日は約束通り鮎を捕ってきたぞ。まだ生きてるから、これから塩焼きにしてやる」
水桶を置き、懐から油紙の包みを出すと
「それと、いつもの薬だ。今日朝一番で新鮮なのを手に入れてきた。燻製にしてあるから、またちゃんと食べるんだぞ。ちょっと水を取り替えてくるな」
そういうと洗面器を持って、正一は外に出て行った。
しばらくして戻ってくると、やはり、むしろをくぐった瞬間に何か違和感を感じる。
この静かすぎる感じは何かわからなかった。
「千代?」
正一は声をかけてみた。しかし千代は反応しない。
洗面器を置いて、千代の顔に自分の顔を近づけてみた。
その瞬間、正一は愕然とした。
千代は息をしていないのだ。
正一は素早く手を取ってみるが、固まっているようにすんなりと手は動かない。
着物の襟から手を入れ胸を触ってみるが、冷たい感触があるだけで、心臓の動きは手に伝わってこなかった。
そのまま日が暮れるまで、千代の横に座り、正一は放心状態だった。
鮎が水桶で一跳ねし、水が正一の顔にかかった瞬間に、切れていた電気が戻ったように顔を上げるとゆっくりと立ち上がり、むしろをくぐって力無く外に出て行った。
そのまま道を村まで歩いて行く。
千代の小屋から離れていくと、次第に涙が出てきた。
横にいるときは出なかったのに、小屋から離れていくたびに、千代が死んだという実感が湧いてくる。
拭いても拭いてもとめどなく流れてくる涙。
正一が涙を拭きながら道を歩いていく様は、遠目から見ると子供がいじめられて帰るような光景に見えた。
湯山の家の前に着いた。湯山の家が近づくにつれて涙の量は減り、家の前では泣き痕は残るものの、涙は止まっていた。
家の前に立って屋根の方へ視線をやると、不思議な感覚だった。
千代が居るときも、女工に出ている最中も、労咳で追いやられたあとも、生きている時には身近に感じられた家のたたずまいが、なんだか凄く他人行儀に見えた。そうやってぼんやりと立っていると、家の中から女中が声を掛けてきた。
千代の母親、ヨシだった。
「今日もありがとねぇ。千代の様子はどうだった?」
正一はそのヨシの言葉が、凄く空虚な声に聞こえた。
この母親は、労咳で倒れて村はずれに千代が移されてから、一回も小屋を訪ねてはいない。十六で母親と死別している正一は、自分が大人になると親との関係もこんな空疎なものになってしまうのだろうかと思った。それとも、親子の情というのは労咳程度のことで崩れてしまう、不治の病で死別することが確定すると、それで納得し整理してしまう程度のものなのだろうか。正一には答えはわからなかった。
しかし、かけられた言葉に対して、確実に不快感があった事実だけが残った。
その不快感が、正一を冷静にした。
「ヨシさん、千代は死んだ。今見てきたら、もう死んでた」
「そうか…。最後まで正一に看病してもらって、千代も喜んでたと思うよ…。長患いしなかったのは良かったのかもしれないねぇ…」
ヨシの返した言葉は、不快を通り越して怒りを感じる言葉だった。
実の娘が死んだのに、そんなに簡単に自分の中で処理できるものだろうか。
思いたくは無かったので今までは考えないようにしてきた。
実は、千代が労咳だったと白状したのは、この母親なんじゃないか。
あのまま自分が看病していたら、一緒に暮らす母親は真っ先に労咳に感染しただろう。それを回避するために…。
しばらくの間、沈黙が流れる。
正一は、懐からハンカチを出した。
ハンカチは綺麗に折りたたまれており、手のひらで折りたたみを返していくと、中からちり紙に包まれた細長いものが入っていた。
ちり紙を開くと中にはお金が入ってる。
「この金で千代の葬式を出して、墓を建ててやってくれ…」
中から出てきたのは百五十円。特に百円札を見たヨシは驚いた。
「正一、この金はどうした?」
「千代が、袖に入れて持って帰ってきた女工の給金だ。千代の金だから、これはヨシさんのものだ。そして、これは俺からのお願いだ。葬式と墓をちゃんと建ててやってくれ」
そう言うと、金をヨシの手に渡し、手を握らせた。そのヨシの手を両手で握り潰さんばかりに掴んで、正一は言った。
「必ず、必ず頼む。俺はこれからすることがあって、俺が始末をつけることはできない。必ず千代の為にこの金を使ってくれ。」
その顔があまりに鬼気迫っていることもあり、ヨシは無言で何度もうなずいた。
ヨシの顔を見ると、そのまま正一は馬場家に向かって歩いて行った。
次の日、千代が死んだことと、正一がいなくなったという知らせは村中に伝わっていた。
(5)
須藤は明かり取りの窓から外を眺めていた。
鉄格子が張られていて、ガラス窓は無い。
冬は戸板を打ち付けて閉じてしまうので、あまり役目を果たさない窓だ。
手に持っているタバコを一服すると、部屋の中に向き返った。
部屋の大きさは三畳程度。
机が置かれ、椅子が三脚ある。一つは村松が座り、もう一つには正一が座っている。正一の向かいにある空いている椅子に腰掛けると、須藤は話しかけた。
「動機はなんだ。言ってくれないか」
須藤の顔に疲れの表情は無い。
むしろ、村松の家にいたときの不安な表情は消え、機嫌が良さそうに見えるくらいだ。
タバコの煙を一吐きすると、灰皿でもみ消す。
「自首してきたのは良いが、理由を言わないんじゃ困るんだ。六人も殺してるんだぞ。何か理由があるはずだろう」
やはり、沈黙が流れる。
「労咳の薬か…」
須藤が言うと、正一はゆっくりと顔を上げた。
「国が変わって、将軍様の時代じゃなくなった。昔は無かった女工なんてのが生まれて、命をかけて働いている。それがなんだっていうんでしょうね」
「そういえば、お前が面倒を見ていた患者は女工帰りだったな」
「ええ、体を壊して帰ってくれば、そのまま死ぬまで小屋でほったらかし。百円工女ともてはやされた女がですよ、村の自慢がですよ!牛馬と同じ、駄目なら殺しちまう。そんなもんなんですかね」
「労咳は流行病だ。村一つ全員死ぬわけにもいかないだろう。みんなつらかったんじゃないのかと思うがね」
正一は、須藤が言った言葉に何かを返そうとしたが、何も言わなかった。
しばらくの間沈黙が流れると、正一がしゃべり出した。
「悪いとは思ってません。反省もしてません。千代を助けたかっただけです」
聞いている須藤の表情に変化は無い。
「正直、新しい国になる前だったら。千代が治っていたら。俺はここにいないでしょう。あなたが同心だったら逃げ切れました」
その言葉に須藤を侮蔑するような臭いは無かった。
「町から離れた村なんてそんなもんなんですよ。人死になんて起きても、同心なんて来やしない。あんたも角袖だから来たんであって、上から言われなければ来なかったでしょう。そうなったら、村の中でひっそり片付けられて終わりです。そういうのは、お咎め無しで長いことやってきたんです。いきなり国が変わったと言って、すぐに変わる訳無いでしょう」
「結局、お前は何が言いたいんだ。国が変わったからといって、人殺しは人殺しだろう。自分を正当化しようとでもしてるのか」
「言いたいのは、世の中変わったってだけですよ。口減らしだって、命懸けじゃない。だけどお上が変わったら、口減らしが女工に変わって命懸け。それを助けようとしただけです」
「六人も殺しておいてか!六人殺して一人助けて、勘定が合うと思っているのか!」
須藤の顔が一気に赤くなる。
「情があるのは良いことだ。しかし、自分の情をかけた人間のために、他の人を殺して良いってことは無いだろう!何か?町から離れた村ってのは、自分の為に他人を殺して良い所なのか?お前の村は獣の集まりなのか?これで女工が助かったとしても、殺された六人の家族はどうなるんだ!」
「損得勘定の話じゃないですよ。俺にとっては六人より一人の方が大事だった。それだけです。だから、反省も後悔もしてないだけです」
「お前は本当に人間か!頭を潰して、腹をぶっ裂いて、その肝を食べさせてたんだろう!」
須藤の真っ赤な顔には、苛立ちと怒りが表れていた。
正一と須藤の間にいる村松の静かさが不思議なくらいだ。
正一が村松の家を訪ねたのは、千代が亡くなった翌日の朝一番だった。そこで犯行を自白して、須藤に取り次いで欲しいと言ったときも、対応していた村松は冷静だった。
逆に、その取り次ぎ連絡を受けて須藤は飛び上がって喜んだ。
実際、捜査に行き詰まっていた須藤は、翌日には屯所(現在の警察署)に戻り、広域捜査の願い届けを出すつもりだったのだ。自首とはいえ、犯人を連れて戻れるのは、加点にならずとも減点になることは無い。つまり手柄を立てたのと同じ事だった。
対して村松は、警官として採用されたのは良いが、交番所勤務と違い、駐在勤務は出世が無い。駐在所に住居し、基本的には二十四時間勤務をする代わりに、官舎として住居が与えられるという特典がある。つまりは、犯人を捕まえても捕まえなくても同じ事なのだ。
地域に密着して安全の確保を図る。本来は決められた法律にのっとって活動しなければいけないのだが、発表された法律を翌日にそらんじて言える人はいない。世の中が大きく変わったのは少し前で、まだまだ江戸時代の風潮が色濃く残っている。特に都市部から離れた村はなおさらだった。村の有力者と結託して全てを隠してしまえば、殺人が起きようが、強盗が起ころうが、屯所に伝わらなければ問題ない。
今までもそうやって、違う意味で近隣の村々と密着して安全を確保してきたのだ。むしろ、須藤が捜査のために泊まり込むようになってからは、以前のようにのんびりとできない部分も多く、これで須藤がいなくなることを考えれば、別の意味で嬉しかったくらいだ。
須藤が正一に詰め寄ると、正一は激昂する訳でも無く、今まで通り淡々と喋った。
「死刑にして下さい。それが一番良い」
「そんなこと、お前が言うまでもなく決定しているから安心しろ!上に言われて今後のために動機を聞いているだけだ!」
険悪な空気が流れる中、村松が口を開いた。
「正一さん、あんたの言うことは俺にはわかる。死んじまった者は生き返らないし、殺人が続かない限り時間が解決してくれる。村っていうのはそういう場所だ」
正一を弁護するような内容を話し始めた村松を、須藤は鋭くにらみつけた。
その視線を意に介さず村松は続ける。
「だけど、あんた白状しちまったんだ。俺が犯人ですってな。幕府の時代なら市中引き回しが当然だ。あんたが世話してた女工は気の毒だと俺も思う。村の人間の手のひら返しが気にくわないのもわかる。そんな世の中に変わったことが気に入らないのもわかる。狭いわりには、あの家はああだ、この家はこうだと小うるさい場所だからな、村は。しかも、昔と違って金が世の中を動かすようになってから、一緒に豊作を喜べた人達も、なんかこう、俺でもわかるくらい変わってきてる。だけどな、そんな気にくわない世の中でも、一つだけお前を助けてくれる。いや、死んだ女工を助けるといった方がいいかな」
「助ける?後は死ぬだけの俺の、何を助けてくれるって言うんだ?」
「あんた、女工の葬式は誰に頼んだんだ」
「千代の母親だ」
「お前さんが連続殺人の犯人として市中引き回しを受ければ、村の人間にもお前が犯人だといやでもわかる。耳年増な奴がいれば、薬として、殺した人の肝を女工に食べさせていたことも伝わるかもしれない。そうなったら、まともに葬式が出ると思うか?」
正一は、「あっ」という顔をした。
「考えてなかっただろう。下手をすれば、女工の遺体はなます切りにされても、簀巻きにされて川に捨てられても、文句は言えないぞ。犯人のお前に手を出せないんだから、代わりに何をされるかわからん」
正一は下を向いて、ぶるぶると震えだした。
「新律網領ってのがあってな、知ってるか?」
正一は首を横に振った。
「お上が変わって決まり事も変わったんだ。新律網領ってのは…、新しい刑法。簡単に言えば悪いことをした奴への罰を決めたもんだ。この中で市中引き回しは無しってことに決まったんだ。お前はこのまま拘禁されて、裁判を受ける。裁判ってのは、裁判官って名前を変えた代官に、お前の刑罰を決めて貰う場所だ。判決が死刑なら…、恐らく確定だと思うが、死刑執行を受ける。俺の家に来るとき、誰にも何も言ってないよな」
「言っていない」
「だったら、俺はこの件は帰っても村の人間に言わないことを約束してやる。そうすれば、お前は蒸発しただけで済むだろう。顔晒しが無くなって、女工の葬式も出して貰える。これが新しく生まれ変わった国が、お前にしてくれる最大の助けだ」
正一は、下を向きながらぼろぼろと涙を流していた。
「後は何もしないで死んでこい。女工と同じ場所には行けないが、それはお前の責任だ」
涙を流しながら、正一は何度もうなずいていた。
須藤は、村松の方を見ながら驚きの表情が隠せない。
「須藤さん、こんなやり方で申し訳ありません。ですけど、国が変わったって言われて、はいそうですかと切り替えられる奴は少ないんですよ。土地には土地のやり方がある。世の中が変わりきるまで大目に見てやって下さい」
「うむ…、しかし…」
「動機は本人が話さないために不明で良いじゃないですか。まだまだ先、点数を稼ぐ機会はありますよ。犯罪者ではあっても大目に見て、このまま手続きをお願いします。こっから先は、貴方の考えているとおりに進みますよ」
「…わかった」
手続きを終え、屯所から移送される正一を見守ったあと、村松は須藤に挨拶に行った。
「んじゃあ、私は駐在所に戻ります。お世話になりました」
簡単な挨拶を受けると、須藤は一枚の書類を出した。
「交番所勤務になるつもりは無いか?俺が推薦状を出すつもりだ」
書類を流し読みした村松は、笑顔で答えた。
「私は今の駐在が良いんです。目をかけていただいたのは嬉しいのですが、狭い村の中が気楽なんですわ」
須藤は少し驚きの表情を見せた。駐在より上が狙える交番所勤務の方が良いと信じているからだ。それを考えもせずに断るのは理解しがたかった。
そのまま村松は続ける。
「土地には土地の習わしがあります。あの村に新しい駐在が行っても上手くいかないでしょう。このままで居るのが一番です。もうお会いすることは無いと思いますが、お体に気をつけて下さい」
一礼すると、そのまま部屋を出ようと背を向ける。
「あ、そうだ。奴の動機なんですがね、私の話を聞いてくれますか」
村松は言うと、体を向け直した。
須藤は微笑みながら
「教えてくれ」
と言った。
「一緒に死んでやりたかったんじゃないですかね。多分、それだけですよ。本当は母親がそうしてやるべきだったと考えていたんでしょうが、そうはならなかった。聞けば、若い時分に両親を亡くした男だそうで。本当はもっと一緒に居たかった。そんな両親への憧憬の念や、血のつながりへの偏執って奴があったのかもしれません。寒村に育った人間なら、肉親ではあっても、別れにゃ慣れてしまうもんです。そうしないと死んじまいますからね。奴は意外と良い村の出で、そこそこの家で育ったのか、そういう現実にあの年で出くわしたのかもしれないですな。助けられるなら助けたい。助けられないときは、母親の代わりに自分がって考えたんじゃないですかね。自分勝手だと思いますよ。でも、奴が言った女工を助けたかっただけってのが、真実だと思います。その動機に至る部分が今の話です。私の勝手な予想の域を出ませんがね」
村松は自嘲気味に言うと、挨拶をして出て行った。
須藤は腕を組んで考えた。
今は一体どういう時代なんだろうと。
世の中が一気に変わって、新旧が混ざり合う時はこんなもんなんだろうか。
世の中は確実に変わってきている。今回の事件が幕府の時代だったら、こんなにも犯人のことを知る必要も、考える必要も無い。自白したら引き回してバッサリあの世行きだ。
でも、今はそうできない。
須藤は初めて世の中が変わったと実感できる現実に触れることができたと感じていた。
世の中が変わってきてるとか、騒がしく感じるのは、人が多い町中にいればこそ感じられることだと考えていた。しかし現実には、変わる前の世の中を引きずっている土地が多くあり、その古さに触れることで新しさを感じることができるのかもしれない。
世の中の流れ。それは目に見えない変化だが、確実に起こっている現実だ。しかも、早い場所と遅い場所があり、現実を複雑にしている。場所によって時間の流れに緩急がある、まだらな世の中の騒がしさは、まだ当面終わりそうに無い。