ある山中に、首転げという峠があったそうな。
その峠、急な勾配に剥き出しの岩肌が続くという難所。
昔から老人が1人で登ろうものなら、苔で足を滑らせ、転げ落ちてくる間に頭だけとなって戻ってくると言われていた。
近隣に住んでいる村人達も余程のことがない限り利用せず、既に荒れ果てた獣道とさえ見分けが付かなくなっていた。
ある酒屋で噂をつまみに、二人の男が献を酌み交わしていた。
始めは真っ当な色恋沙汰から、近所の夫婦が誰と懇ろしているのかという下世話な話題。
やがて話の種が尽きかけたのか、どちらからともなく近頃耳にする怪談話を口にし始めたのである。
「それで、どんな与太話だったかな」
「おいおい、まだ宵の口だってのに、もう惚けちまったのか。例の峠で本当に出たって話だろ、首転げが」
「誰の頭が落ちてきたっていうのかい?
どうせ酔っ払いの見間違いだろ」
「いやいや、どうやら見つけた村長が悪い噂が立たないように、とっとと埋めちまったらしいんだ。その姿を、隣村の奴が見たらしい」
「らしい、らしい、嫁にくるらしい、ってか」
「ああ、違ぇねぇ。彼奴に聞かせてやりたいねぇ」
二人が笑っていた所、今まで聞き耳を立ててた男が背後から近寄った。
名を五平という。
この辺りでは、ちょっと知られた暴れ者だった。
身の丈が6尺、腕は丸太のように太く、内蔵がひっくり返ったような面をしている。
五平は、少し知恵が遅れている事を大層気にしており、少しでも陰口を叩いた男がいれば、其奴を簀巻きにふんじばり、その隣で嫁を手籠めにするような男だった。
また、破落戸共がやっている賭場でも初めの内は大人しいのだが、負けが積もると全ての畳をひっくり返し柱を引き抜く暴れ出す。
面子が潰されては堪らないと破落戸者も刃物を持ち出すが、五平の迫力に恐れ戦き、てめぇの女が犯されてる姿を黙々と見ているしかなかったのだとか。
その上、村長の一人息子というのだから、もう誰も逆らう事が出来なくなっていた。
「おい、おめぇ等」
五平は、ぶすっとした顔で二人の対面に座る。
そして赤子の頭でも握りつぶせそうな大きな手で徳利を持ち上げると、一口で酒を飲み干してしまったのであった。
「ふー、うめぇ。時におめぇ等、その首転げの話は本当か?」
「へぇ」
勝手に酒を飲まれたというのに、二人は顔を青ざめ頷いていた。
「それじゃあ、俺の親父が埋めた頭は、何処にあるんだ?」
「……さぁ、そりゃ存知ねぇです。私も小耳に挟んだ程度の事ですから」
「その見たってのは誰だ?」
「すいやせん、そっちの方もとんと」
「なんだか、はっきりしねぇ話だな。それなのにおめぇ等、噂話に花を咲かせてたってのか」
そう五平が鬼瓦のように顔を一層に歪ませるので、二人は更に萎縮してしまった。
このままでは癇癪を起こし、店の中で暴れそうだと思った亭主が、暖簾をかき分け奥から出てきた。
「すいません、五平さん。今日の所はこれで」
五平は小銭を袖の下から渡され、少し気分を良くしたのか、店先に置いてあった酒壺を一つ担ぐと、大笑いで店を後にしたのだった。
残された三人は、その後ろ姿を神妙な顔で眺めていた。
五平には、お鴇と言う嫁がいた。
美しく気だても良く、旦那が帰宅すれば草鞋を脱ぎ捨て、土の上に座って出迎える心遣いの出来る女だった。
当然、こんな出来た嫁が荒くれ者の五平に嫁ぐなんて事はありえない無い話で、旅の道すがら、一人で歩いていたお鴇を掻っ攫い、何日もかけて手籠めにしてしまったのだとか。
しかも逃げ出さないよう足の健まで焼き切ってしまったという念の入れようだった。
「おぅ、けぇったぞ」
「はい、お帰りなさいませ」
お鴇が正座から頭を下げて出迎えるのを、五平はにやけた面で眺めた。
「漸く、しっくり気やがって。どこぞで、新しい間男でも引っかけてきたのか?」
「ご無体を。この様な体では、出歩くこともできません」
「おぅおぅ、そうだったな。だが、男を愛でるには、それでも事が足りる。どれ、ちょっと確認してやろう」
「ああ、今日はホトが冷えております。どうか後生ですから、加減してください」
「うるせぇ」
五平は正座していたお鴇の首根っこを掴むと、犬猫のように持ち上げて藁の寝床に引き込んでのであった。
何度か果てた後、五平はしっとりと汗をかいて抱きついているお鴇の顔を持ち上げた。
「もう少しで、てめぇもそんな気が無くなるだろうよ」
「そんな気、ですか?」
「惚けやがって。俺が間男の存在に気が付いて無いと、本当に思ってやがるのか?
夜な夜な、男が尋ねてきてるだろうが。俺は知恵が足らないかもしれんが、愚鈍な馬鹿じゃねぇぞ。だが、親父に首転げの話をして、金をせしめてきてやるからよ。そうすりゃ生活も楽になる」
「……お待ち下さい。首転げと言えば、あの怪しげなお話じゃありませんか。お止しになってください、祟られてしまいます」
「うるせぇ、情けなんかかけるんじゃねぇ。男が一度口にした事を飲み込めるかってんだ。それに、おめぇ程の女を手放して堪るかよ」
その晩、お鴇は朝日が昇る頃になって、やっと眠りにつけたのだった。
次の日、五平は村の一番高い所に立っている村長の小屋を訪れていた。
首転げで親父の姿を見た奴がいると、黙って欲しければ金を出せと脅迫しに行ったのである。
だが、今までだって働きもせず飲んでは打っての繰り返し、銭が無くなればこうやって顔を出してきた息子に小銭を包んできたのである。
村長は、もう金が無いと突っぱねた。
「よいか、考えても見ろ。お前を捕縛されないため、幾ら役人に積み上げていると思っておる」
「それじゃあ、バラされても良いってんだな?」
「ああ、構わん。だいたい、ワシがやったという証拠がない」
「証拠か、面白い。見つけてやろうじゃねーか」
五平が慌てて小屋を飛び出そうとしているので、父親は怒鳴り声を上げた。
「こんな時刻から山登りか!
与太話じゃないなら首転げが出るのは丑三つ時だろうが、この大馬鹿野郎!
とっとと出て行け!」
五平は夜まで酒を飲んで待ってから、首転げがある峠に向かっていた。
月も黒い雲で隠れてしまい、粛々たる風の音だけが耳に届いていた。
夜目が利く五平でも、手に持っている提灯の光が無ければ忽ち足を滑らせ、村本まで転げ落ちてしまうだろう。
草履の裏側にヌルリとした苔の感触が伝わるので、この所雨は降っていないのにな、と少しだけ訝しんだ。
五平は山男にも負けない早さで歩み、日が昇る前に頂きに辿り着いたのだった。
だが、そこは岩肌しかない、有り触れた山頂であった。
「糞、何もありゃしねぇ」
何か証拠をでっち上げられるような物でもあればと来たのだが、辺りに転がっているのは鹿の糞と雑草ばかり。
これでは草臥れ儲けというものだが、ここで惚けていても仕方ない。
五平はゆっくりと踵を返した。
その時である。
提灯の明かりが掻き消えたのは。
獣の皮を被った何者かに、水をかけられたのは。
「誰だ、お前っ!」
五平は追いかけようとするも、足下の苔が一層とぬるぬるしており、立っているのがやっとであった。
そうこうしている内に、あの人影は何処かに消えてしまったのだった。
五平は禍々しい鬼のように顔を歪めていた。
ここが往来であるのなら、彼奴を逃がさずに殺してやった。
だが、こんな足場の悪い所では歩くのすらままならない。
胃の中で燃え上がる怒りを噛み殺し、五平は這い蹲るように山を下ったのだった。
幾ら強靱の肉体を持っているとはいえ、目の前すら見えない闇夜に首転げを歩くのは危険だったのだ。
下山中、着ていた服は泥や草だらけになり、袂には小さな糞が幾つも入っていた。
やっとこさ村にたどり着いたと思った五平ではあったが、否やその瞬間足が止まる。
出迎えたのは幾重にも連なる篝火。
夜に輝く鬼火を手に村人達が待ちかまえていたのだ。
まるで祭りのような光景にも見えるが、唯一違うのは集まっている村人達が鍬や斧を持っている事だった。
五平が呆然としている中、誰からともなく襲いかかったのである。
幾ら腕っ節が強いとはいえ、寝ずにしこたま女を抱いた後、這うように山を上り下りして疲れていた。
その上、村中の人間に囲まれたのでは、五平と言えども一溜まりもなかった。
何人かを返り討ちに出来たのだが、最後は背後から竹槍でやられ、死に絶えてしまったのである。
事が終わり、静まりかえった現場で酒屋の亭主が口を開いた。
「ったく、手間をかけやがって。予定じゃ、こっちに死人は出ない筈だったのに。噂を聞かせたりとか、色々仕組んだ意味が消えちまったわ」
「まあ、仕方あるまい。その分、金は積む。五平を殺すのに、これだけの被害で済んだのだから御の字だろう」
五平の父である村長が答えた。
その背後から、肩を担がれたお鴇が鉈を持って近づいた。
「村長、それじゃ約束通り、首を切り落とすのは私の役目だよ」
「……無論。ただお鴇よ、呉々も此方の約束も忘れないで欲しい」
「ああ、分かってるよ。お腹の子が生まれたら村長に渡すよ。そしたら私はこの村に近づかないさ」
「それなら良い。さあ、皆も手を貸してやってくれ。私の孫に何かあったら大変だ」
その後、ある怪談話が再び広まった。
それは首転げの峠から、本当に頭が転がってきたのを旅の住職が見つけたらしく……。