短編集

著 : 会津 遊一

百物語 浅狸と五平


 五平は、走っていた。

 屯所から公務の知らせがあり、早急に辿り着かなければならなかった。

 もし間に合わなければ、職を失ってしまう。

 焦る五平は息が荒くなっても、我慢して畦道を通り抜ける。

 すると、なんとか日が落ちる前に役所で書を受け取る事が出来たのだった。


 その帰り道。

 日は完全に落ち込み、木々のすすり泣く声だけが耳元に届いていた。

 肌に染みこむような湿った空気が漂い、五平の額にも大粒の汗が滴り落ちている。

 書を濡らしてはいけないと懐から腰に差した。

 その所で、遠目に子供の姿が見えた。

 年の頃は十前後。

 こんな夜更けに、1人で前を歩いていた。

 五平は変だなと訝しむも、急いでいたので通り過ぎようとした。

 瞬間、刀を抜く。

 草履で砂利を踏みつけ、半身を返す。

 闇夜に蛍火のような光がきらめくと、重い刃が子供の肉を裂いた。

 平が返す刀でトドメを刺そうとするも、子供は藪に転げ落ちるように逃げた。

 赤い血を点々と垂らし、フラフラとした千鳥足だったが隠れようとしている。

「逃がすか」

 五平はその後を追いかける為、青々とした草が茂る中に身を潜らせたのだ。

 小枝が折れ、鋭利な木が突き刺さるも気にせず、執拗に追いかけた。

 そして、五平は目印が無くなった所で足を止めた。

 濃い藪の隙間をソーッと覗き込む。

 すると、そこには血だらけで倒れている狸がいたのだった。


 頼まれた書を別の屯所に届けた五平は、そのまま近所の酒屋に訪れていた。

 酒のつまみに、先程まで狸に化かされていたと亭主に教えてやった。

 だが亭主の爺は、怪訝な顔をしてこう尋ねてきた。

「それで、その骸はどうされました?」

「小便引っかけて野晒しよ。今頃、畜生共の餌になっておろう」

「そりゃ、勿体ねェですな。ただ、よく化け狸だと分かりましたね?」

「侍が歩いているのに、道端に寄らぬ餓鬼がおるか?

 そんな輩はおらん。いや、例え、いたとしても……」

 五平は酒を一献煽った。

 誰でも殺せばよい、そう呟いた気もした。

 少し怯えた爺は空いた杯にお粥のような濁酒を流しつつ、別の事を尋ねた。

「しかし、五平の旦那、化け狸なんて殺しちまって良かったんですかい?」

「何故だ」

「いや、ほら祟られるかも、しれないじゃないですか」

「阿呆が。そんな事があってたまるか」

「そうなんですかね。巷じゃ、祟り祟られなんて辞世の句を残したお侍様も居たような」

「それこそ馬鹿馬鹿しい話。人は死ねば皆同じよ」

 今一度、酒をグイッと飲み干した。

 すると何処かで風の音が鳴ったような気もした。


 五平は、ほろ酔い加減で帰路についていた。

 歩いていると腰の辺りに寒気が通り、催しそうな気もした。

 近くに生えている一本の木に近寄って、服の裾をまくり上げた所で五平は足音を耳にする。

 見ると、闇の中から1人の艶やかな女が駆け寄ってきた。

 提灯も持たず、フラフラと心許ない足取り。

 しかも、やけに青白い顔をしていたので、死んで間もない骸のようだった。

 骸の女は金切り声で、五平に助けを求めてきた。

「おさむらい様、後生です、後生ですから私の話を聞いて下さい」

「……どうなされた?」

 五平は骸の女の肩をゆっくりと撫でてあげた。

 その優しい物腰に諭されたのか、女は荒げた呼吸を落ち着かせた。

「ありがとうごさいます、おさむらい様。実はこの道を歩いていた所、物の怪に出くわしまして」

「物の怪ですと?

 それはどちらですか」

「彼方です」

 と、女が今来た道を指さした刹那、五平はスッと刀を抜いた。

 鞘の中から刃が走る。

 油で濡れたような刀身が光った。

 五平の肘先から半円を描く。

 そして音も立てず、女の腕を切り飛ばしたのである。

 黒い闇夜にぽっかりと浮かんでいる月に、吸い込まれるように跳ぶ。

 くるくる、と。

 やがて、天を舞っていた腕はボスッと茂みに落ちた。

 横目で確認すると、そこには狸の浅黒い毛の塊が合ったのだった。

 五平は邪に笑う。

「よう躱したな、この化け狸が。褒めてやる。しかし、それが畜生の限界よ。ワシはこの辺りじゃ、強請の五平と忌いみ嫌われておる。お侍様と呼ぶ輩はおらんわ!

 それに、例え……」

 五平は服の裾で血を拭うと、刀を鞘に戻す。

 間違いでも埋めればよい、そう呟いた様な気がした。

 腕が無くなった骸の女は出血を抑えつつ、茂みの中に逃げていったのであった。



 数日後。

 件の事など忘れかけていた五平の元に、狸から文が届いたのである。

 雅か獣から人伝で持ってこられるとは夢にも思っていなかっただけに、五平はうへぇと声を上げて驚いてしまう。

 だが確かに、話があるのでおいで下さい、とだけ人間の言葉で綴られていたのだ。

「面白い」

 2度も化けの皮を剥がされた狸共が、意地になって騙そうとでも言うのだろうか。

 五平は行っても銭はならないが、滑稽な姿を見に行くのも一興かもしれないと思った。

 それに驚かされた仕返しもしないといけない。

 邪な笑みを浮かべた五平は、刀片手に家を飛び出したのである。


 五平が呼び出された山中に辿り着くと、日は完全に沈んでしまった。

 周囲には粛々たる空気が流れ、獣達が動いている気配もない。

 普段なら鬱陶しい程まとわりついてくる虫達も、今日に限っては一匹も飛んでいない。

 まるで生き物は、歩き続けている自分1人だけの様だった。

「お、あれか」

 ふと、五平は足を止める。

 山の腹部の辺りに、轟々と燃える灯りが見えたのだ。

「待っておれ、狸共」

 五平が忍者にも似た歩法で一気に駆け上がると、そこには小屋があった。

 まるで離れに建てられた茶室のような広さ。

 他に目印なりそうなモノも無いので、五平は警戒しつつ戸を開け、中に入った。

 途端、刀を抜いて叫ぶ。

「何者ぞ!」

 五平は、中央に座しているモノに刃を突きつけた。

 外見は恰幅の良さそうな男にも見えるが、顔や肌が灰色の毛で覆われている。

 なら、物の怪の類かと思えば、そうでもない。

 高そうな着物を着込み、正座をして此方を穏やかな顔で見詰めているのだ。

 しかも、足の親指を重ねて座る、正式な作法を心得ていた。

 本当に何者なんだ。

 五平が混乱していると、そのモノが頭を下げた。

 そして刀の切っ先を突きつけられているというのに、涼しげにこう言った。

「私は、貴方様に斬り殺された息子の父で御座います」

 そのモノは、ソッと湯気が立つ茶と座布団を差し出してきた。

 だが、五平は要らぬとばかり、それを突き返した。

「ワシが斬り殺しただと?

 そんな覚えはない」

「いえいえ、確かに貴方様です。これに見覚えはございませんか?」

 と、そのモノは片腕を上げたのである。

 ただし、肘から先は無い。

 そこで五平は気が付いた。

「お主、女で化かそうとした狸か」

「左様で御座います。まあ、又の間に逸物が付いておりますが」

「とすると、呼び出しのも貴様か。始めから、そのような姿を晒しておるとは。ワシを化かすのが、目的ではないのか?」

「いやいや、違います。手前の目的は意趣返しにて御座います」

 それ聞いて五平は腹を抱えて笑い出した。

「わはははは、お前のような畜生がワシを殺すだと?

 片腹痛いわ」

「……その通りで御座います。私等は狐と違い、人様の命を取るなど出来ません。狸は人間を驚かせ、時には山から追い出し、時には食べ物を盗む。そのぐらいの事しか出来ませぬ」

「では、どうすると?

 息子共々、刀の錆となり、あの世からワシを呪い殺すとでも言うのか?」

「そんな事は出来ませぬ。人も獣も死ねば同じ、骸に返るだけで御座います」

 五平は刀の先を、浅狸の喉元に突きつけた。

「結局、何も出来ぬではないか。世迷い言を口にするだけなら、ワシが一思いに殺してくれる」

「……その前に一つ。おさむらい様は、座敷蛇という話をご存じですか?」

 その時、五平が開けっ放しにしていた戸が独りでに閉まった。

「何?」

「座敷蛇。蛇が脱皮した抜け殻が何十年か経つと動きだし、家に化けるという巷説で御座います」

「そ、そんな事は知らん」

 強がってはいるが、何か違和感を感じた五平は周囲を見渡している。

 浅狸は前口上のように、芝居かかった口調で話し続けた。

「ならば、可笑しいと思いませぬか?

 この辺りに獣がおらぬ事を。虫さえも寄りつかない事を」

「何を申して」

 五平の額から汗が滴り落ちた時、カタカタと小屋の揺れ動く。

「ま、まさか」

「その通り。

 ――この座敷蛇の小屋が、全て飲み干してしまったので御座います」

「そんな馬鹿な」

 慌てた五平は戸を開け、外に出ようとするも開かない。

 手にした刀で斬りつけるも、刃が弾かれてしまう。

 体当たりをして壊そうとするも、ヌメヌメとした油のようなもので滑ってしまった。

「なんという事だ」

 五平は顔面から血の気が引いていた。

 そして助かりたい一心で、再び浅狸に刃を突きつけたのである。

「このままではワシと一緒にお主も死ぬぞ!

 どうすれば出られるのだ!

 言わねば殺す」

「おさむらい様、私は始めから意趣返しだと申したではありませんか。私の力だけでは息子の敵は取れませんので、方法がこれしか無かったので御座います」

「そんな……」

 浅狸は床にらしきモノに頭を下げた。

「――これにて諸行奉り候」


 小屋がぞわりと蠢く。

 そして、辺りは静かになった。



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