『はぁ、撤退ですか』
少し寝惚けたような、鼻声のような声が発せられている。
『そうだ。司令官殿からの直々の命令だ。後は一任されているよ。辺境方面軍本隊は撤収し、我々の分隊はストーンブレッドに駐留しようと思う。後々の指示は、司令官殿が目覚めたらだ』
『では、そちらへ一人向かわせますので、バサラさんの引き渡し、よろしくおねがいします』
『わかった。廃教会で待ってる。早めに頼むよ』
肩に担いだ上官の耳に指を突っ込み、指をクルクル回しながら、ジンは真面目な声を出す。ラザールが笑いを堪え、口を塞いで震えた。
「例えばだけどさ、ふと思ったんだが、プレイしてて脳死状態とかになったらどうなるんだ?もしかしてこんな感じになるんじゃないのか?何しても起きないような昏睡状態」
ヴァンサンが、ジンと同じような真面目なトーンで呟く。ただの思い付きだったようだが、みんな納得したような顔をした。
と、少しずつ怯えたような顔になる。
「もしそうだとしたら、俺らもこうなるかもしれないってことだろ?あ、なんか怖くなってきた。変なこと言うなよ。ちょっと、誰かコイツ起こせよ。今のを否定してくれ」
ラザールは、意外に想像力豊かで怖がりである。こうなった原因を見ていないから、何が起きたか憶測でしか考えることができない。目に見えない、得体の知れないものに対する恐怖感は普通より強く感じているのだろう。
「大丈夫でしょ、そんな話あったらネット上でお祭りになってるさ。減ったって言っても、イザヴェルの人口はまだまだ多いんだし」
ヴァンサンが面倒そうに呟く。ラザールの耳には届いていないようで、本人はブツブツと何かを言っている。
木々の隙間から、廃教会が姿を覗かせた。
数人が残って魔道の明かりを灯しており、下からの青白い光が不気味に建物を浮かび上がらせている。
疎らに蔦が絡まった建物のところどころにヒビがあり、一部崩れた壁から室内が覗いていた。
何かが外を見ていたら・・・
そんなことを考えて不安そうな表情をするラザールに、ジンが意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「何か居そうだよな、あの廃教会。知ってるか?あそこは昔反乱軍の拠点になってて、最後の砦だったんだ。政府軍に呆気なく攻め落とされた時、何百人も死んだらしいぞ」
そう言いながら、ジンがヘラヘラと笑い声を上げた。ラザールは耳を塞いでいる。
勿論、仮想世界にそんな事実はないし、設定があるわけでもない。
「言われてみれば、ここって籠城できそうな造りですねー。連中、ここ直して立て籠れば良かったんじゃないですか?」
周囲を見渡せば、何層かに分かれた造りになっている。入り口になる箇所は少なく、一番下の層は二階建て程度の高さがある壁だ。前後左右に扉が付いているが、重たい鉄製の扉で小さいので塞ぎやすい。
正面の階段は比較的広いが、一番上まで横に入れない。直線なので、飛び道具を使われれば格好の的である。土嚢を大量に積めば、正面突破も難しいだろう。
「ま、城みたいなもんだよな。拠点化はできないが、システム上は直して使えそうだ。それをやるだけの資金力があれば、ここを囲むようにしてギルド拠点も建てられる。拠点侵入路を内側にしたら、この教会自体に防御力があるからメチャクチャ堅牢だわ。おい、ヴァンサン。この世界で同じような廃墟がある場所、できるだけ探してくれるか?場所によっては上に掛け合ってみるのも面白そうだ」
「朱雀が町を囲んだ拠点を所有してますね。面白そうなので調べてみます」
町を囲む形であると、ただの巨大な砦ができるだけである上に、広すぎるので費用が掛かりすぎる。
防御力を持ったフリーの建物側に、入り口を設けた拠点を建てるのとは訳が違うし、廃墟再生なら、サイズの面から考えると安価で建つ。
拠点はシステムに守られているから、強化したフリーの建物が入り口まで破壊されなければ、言ってみれば"無敵"である。
「ま、システムの穴ってとこか。誰か考えそうなもんだが、廃墟自体が少ないのかねー。見た事どころか聞いた事もないな」
「この世界、異常に広いですからね。この地域が発展したのだって、本当に偶々だと思いますよ」
「どうなのかな。ストーンブレッドは町と町を繋ぐ位置にあるだろ?この辺は地方都市としての想定が最初からあったんじゃないか?」
辺境とは言え、ストーンブレッドは大きな町だ。元は今よりも小さかったが、実装当時から大きめに作られていた。
バージョンアップと共に拡張され、イザヴェルに存在する最大級の都市、その半分近い広さへと変貌を遂げている。
拡張はバージョンアップの度にあり、周りの草原を侵食するように、布に垂らしたインクが広がるように拡大していた。
「バサラは撤退を指示したが、この地方は確保しておく必要があるような気がすんだ」
ジンは南の空を仰いだ。ストーンブレッドの灯りが見えた。
標高が高いのか、雲が低い。灯りにライトアップされ、その周りだけ円形に白い塊が浮いているようだ。
廃教会前に着くと、バサラを入り口近くの階段に寝かせた。
寝息を立て、ピクリとも動かない。
ストーンブレッドは朱雀の本拠地との中間地点にあり、軍事的な要所にも成りうる。
この場所から引き上げるのに何か意図があるのだろうか。ジンはバサラを見ながら、そう考えを巡らせた。
この男が独自の判断をすれば、軍は必ず駐留するはずだ。過去の行動から、絶対にそうするであろうと考えられた。
この場所に不都合があるか、更に良い場所が存在するか。
ストーンブレッドは、周りを守るような地形には置かれていない。小さな山があるが、距離もあるので壁にはならない。
巨大な全線基地のようなものを置くのには向いているかもしれないが、攻められると面倒が多くなるだろう。
目の前の廃教会のような砦向きの、例えば天然の要塞になる場所が、ここより青竜の拠点側にあるならばあるいは。
もしくは、上からの指示で強引に引き上げを決定されている可能性を考える。しかし、バサラであれば進言するだろう。この土地は押さえておくべきであると。
しかめっ面をしながら考えを巡らせていると、装束姿の男が歩いてきた。
「ジン、相手は何者だ?俺の部下は、青竜の一般兵なら一人で十人は相手にできるんだ」
「三人出したことに不満でもあったか?」
男は眉間に深くシワを刻んで、腕組みをして仁王立ちしている。黒目がなく、唇が黒い。巨大な三ツ股の槍を背負い、身長の高いジンよりも背丈がある。
居るだけで威圧感があり、立っているだけで場の空気が緊張に包まれた。
「三人とも殺られた。復活待ちと座標確認で待機すると報告を受けている」
キッとジンを睨み付ける。近くに居たラザールとヴァンサンが後退りした。重みのある声に強い力が篭っている。ゆるりと落ち着いたテンションで喋っているが、恐怖を感じるほどだ。
「内、二人は遊ばれたと言っていたぞ。もう一度問う。相手は何者だ?」
「さぁ?」
送り込んだ三人の強さは分からない。それでも、一人で十人を相手にできると聞けば、ジンは自分と同じくらいの実力を想像させた。
(バサラが逃げてきた場所と、三人を送り込んだ先は別。撤退と関係あるのか・・・?)
装束姿の巨漢が拳を握り締めている。怒りがオーラになって見えるようだ。実際に、周囲の何人かには見えている。補完された気迫がエフェクトとして表現されていた。
数人残っている一般兵が、多少怯えたような様子で距離を置く。
「落ち着けよ。お前んとこのボスには俺から言っとくから。少なくとも、二十数人相手に傷一つ付かなかった拳士が居た。三人の向かった先にはそいつが居たんだろ。・・・行くつもりか?もう逃げてると思うが」
「どちらにしても、部下を回収しなくてはならない。傷病状態は長いからな。それに、俺の脚ならすぐに着く」
怒りにへの字になっていた口が、逆向きに口角を上げていった。まぶたを半下ろしにし、眉は両端を吊り上げている。
「気味の悪い男だな。ま、好きにしてくれよ」
ジンは下を向き、追い払うように手の甲を上に向けてフラフラと前後に振る。顔を上げた時には、男の姿は既にその場にはなかった。
「ヴァンサン、あいつどこ行った?」
「すげー速さで西の方に」
「ティムが戻らないとここは離れられないよ。ログオフできるなら、全員落ちてほとぼり冷めるまでログインしないって方法も取れるし、ティム本人にもメールできるんだけど・・・」
カヤの右の目には倒れた刺客の姿が映っている。ホームに戻らないのは、助けが来るのが分かっているからだろう。
このままここに居れば、確実に青竜の兵と戦うハメになるはずだ。
サラハがメニューを出して、キーボードを叩くように両手で本を操作している。
メモを取ったり、イザヴェル内でのメッセージのやり取りができるが、普段はあまり使わない機能である。
「ネットとかに出てない情報だからここだけの秘密だけど、監視サーバーに接続して何が起きてるかコマンドラインで見ることができるんだ。で、今ステータスを見てみたんだけどさ、ロビーサーバーが落ちてるね。ログオフできない人がいるのも、ティムが戻って来れないのもこれが理由じゃないかな?・・・今やってるのは、誰にも言わないどいてね」
素人でも分かる。一般のプレイヤーがそんなことを知っている訳がない。カヤはサラハの、無表情で冷たく見える表情に不安を覚えた。
青竜のスパイとはまた違うような、別の雰囲気。霧のかかった向こうに居る人物を見るように、実体が本当にそこに居るのかどうかが分からないような、だが能力だけがチカチカと光って見えるような、奇妙な感じがする。
サラハの指は動き続けていた。
本に隠れて見えないが、何かを操作しているのだろう。
「あんた、ひょっとしてハッカーなの?」
エレノアが、珍しく気持ち悪そうな顔をする。
典型的なオタクを想像したのだろう。
「・・・詮索しないでやってよ」
顔を上げ、苦笑いを一つ。そしてまた無表情に戻る。
本を叩く指の動きは止まらない。
無作為に何かを叩いているわけではなさそうだ。
「いつ復旧するとか、そういうのは分かるの?」
「どうだろう?もしかすると、今ロビーサーバーが落ちてるのって、リブートしてる最中だからとかあるかもね。ハードウェアの交換するとかなら電源落とさないといけないわけだし。だから、もう少ししたら分かるかも。あ、でもリブートならこんな長時間ってことはないと思うから、やっぱり電源落としてるのかな。俺、ハードウェアの方は苦手でさ」
メンテナンスをしている可能性が高い。だが、その場合はシステムメッセージが流れるはずだから、今起きている状態はイレギュラーな状態なのかもしれない。
それこそ、外部からのハッキングで通常のネットワークからのシステムが全てダウンしてしまったとか・・・
ウェブ上には情報が出ているかもしれない。だが、この世界で無理矢理接続を切る方法はないので、何をどうしても戻ることができない。
「応答がないね。つまり、物理的に接続されてないってことだと思う。途中に挟まってるネットワーク機器は全て稼働中だから、ロビーサーバーだけ落ちてるんだよ。メンテナンスだって見て良いと思うな。かなり時間が掛かってるけど、これだけ複雑なシステムのメンテナンスだから、こんなもんなのかな」
「ヤケに詳しいじゃない。サラハ、気持ち悪いって」
「悪かったな」
わざとらしく眉を凹ませた形にし、下唇を突き出した。
「・・・ま、そういうわけだから、カヤちゃん。少なくとも今すぐティムが戻って来るってことはないよ。運が悪ければ、青竜きた時にログインしちゃうかもだけど、逃げても良いと思うな。どうする?」
パタンと本を閉じた。
窓から外を見ると、松明の明かりが一斉にこちらへ向かっている。まだ距離があるが、囲まれるのはすぐだろう。
『セシリー、タクヤたちとは会えた?一旦今居るところから離れるね、そっちで合流しようと思うんだけど』
ギルドメンバー全員向けに話し掛けるが、返事がない。何かが起きたのか。
メニューでメンバーの一覧を確認するが、ネームはホワイトのまま、特に何かがあった様子も見られない。
『・・・あ、あの、すみません。モンスターとか敵とかに遭遇して、・・・セシリーさんもタクヤさんも麻痺状態で、・・・み、身動き取れない状態です』
ミシェルから返事があった。
いつもの元気な声ではない。重々しく、疲れきったような喋り口調で、声もかすれている。
『私も、よく分からないんですが、・・・何だか眠い感じで、身体に力が入りません。視界も霞んでて、どうしたんだろう、変なアラームがさっきから鳴り続けてて・・・』
『今どこに居る?すぐそっち行く。山頂?』
返答はなかった。
三人の状態が分からない。少なくとも何かあったのは分かるし、倒された訳でもなさそうである。
「カヤちゃん、すぐ行こう。みんなが心配だ」
サラハの言葉にエレノアが先に反応する。階段のある場所へ走った。
カヤは一旦サラハを手で制して、ヒデマサに向けて発信する。
数回のコールの後、ヒデマサの声が返ってきた。
『どうかしたのか?』
冷静な応答に、ヒデマサがその場に居ないことをすぐに予想した。
何かあったのかすぐに分からないことを理解すると、苛立ちが声に出てしまい、語気が強まる。
『セシリーたち、どうなってるの?ヒデさん、セシリーと一緒だったよね?』
『山頂で竜の咆哮が聞こえて、置いてかれたよ。もうすぐ山頂なんだが、もう、物音がしていないから安心していたんだが・・・』
戦闘中ではないようだ。倒れてもいない。麻痺して動けないだけなのも把握している。
だが、ミシェルの状態が心配だった。
『戦闘で、セシリーとタクヤが麻痺状態らしいの。着いたら回復してあげて。それと、ミシェルの様子が気になるの』
ミシェルが言っていた変なアラームというのは、予備知識からするとワーニングかエマージェンシーのどちらかになるはずだ。
通常、いきなり発生するものではない。
カヤはそう認識している。
ミシェルの現実世界の肉体に何らかの影響があったと考える他はない。
見たことはないが、プレイ中に現実世界の肉体が死んでしまった場合、信号のやり取りがなくなって自動ログオフのような形になる。
今の状態でミシェルが自動的にログオフした場合は、最悪の場合を考えざるを得ないだろう。
『分かった。状況が分かったらすぐに連絡するよ』
そう言い、通信が一度途切れる。
カヤが一息吐く前に、金属同士のぶつかり合う音が聞こえてきた。予想以上に早く青竜の兵が辿り着いたのかと、外の様子を伺う。
エレノアが、何かを追いかけて建物の影に移動するのが見えた。次に見えたのは予想外の光景だ。左腕を押さえながらバックステップしてくるエレノアと、装束姿の大きな男が槍を繰り出しているのが、カヤの瞳に映りこむ。
距離を取りながら攻撃のタイミングを計っているが、敵の動きが鋭過ぎる。苦戦しているようだ。そんなエレノアは初めて見る。
『カヤ、行って。こいつは私がやるから』
『苦戦してるでしょ、加勢するから!』
抜刀して、窓枠に足を掛ける。
松明の光が、近くで固まり始めている。揃ったタイミングで一気に攻勢に変わるだろう。
『大丈夫。少し油断したけど。それに加勢しても、悪いけど足引っ張るから。二人とも行って。倒したらすぐ追い掛けるよ』
エレノアの構えが珍しくしっかりとしている。
右足に体重を掛けて横向きにし、左足を前にかかとを浮かせる。左手の手の甲を相手に向けて、右手を肩口に添えた。
久々に見る本気の構えである。
両者から闘気が発せられているように見えた。二つの、うねる様な紅い陽炎のが、互いに距離を測りながら横に移動する。
『・・・山頂で待ってます』
返事ではなく、旧拠点前の小さい広場から掛け声が発せられた。切れ味の鋭い刃のような夜の空に拡散される。
「サラハ、行こう」
「うん。信じてあげて。エレノアは強いよ。カヤちゃんは俺が守るし、大船に乗ったつもりで、ね」
先程見たサラハの無表情は、いつもの笑顔に戻っていた。
「ヒデマサさん、ありがとう。タクヤもお願い」
麻痺状態から回復したセシリーは、お礼も言い終わらない内にミシェルの元に走った。
横たわり、目の下を真っ黒にしたミシェルは、気持ち良さそうに寝息を立てている。優しく抱き起こすと、そっとひざに頭を乗せた。
「疲れてたのかな?」
ミシェルの額に手を乗せる。バサラに向けて実行された何か分からない、行使した力のことを思い出していた。
「ここで待つことになってる。このまま寝かせておいてやろう」
タクヤの麻痺を回復させたヒデマサが歩いてくる。
「そうね。戦いはまだ終わってないし」
麓の旧拠点がある辺りに松明に光が集まっていた。