深夜の山中。
若い男は擦り傷だらけの身体で、転落したと思われる急斜面を登り返していた。
数十メートル登るとガードレールが見えた。男はガードレールを跨ぎ道路に倒れこむ。ここは峠途中のチェーン着脱場のようだ。辺りを見回す。
闇の中、車のシルエットを確認できた。急いで乗り込むと、挿しっぱなしになっているキーを捻る。
「畜生!!」
ハンドルを叩きながら男は言った。短いクラクションが闇へ消える。車のバッテリーはあがっていた。
男は焦りと恐怖、その両方とも取れる状態で、親指の爪を小刻みに噛んでいる。そして、かぶりを振ると慌てて車から降り、外灯のない峠の道路を登って行った。
すぐに息切れを起こした男は、ジーンズの右ポケットから煙草を取り出した。疲れからか右手が震え、ライターをうまく使えていない。男は震えを止めるために左手を被せた。
瞬間。
「うわああああぁぁぁ!!」
突如大声を上げると、男はライターを投げ捨てその場にしりもちをついた。何かを右手で持ち、左手で二重に固定させる。その動作自体が大声の原因のようだ。
「思い出せ!!思い出せ!!思い出せ!!……」
頭を抱えながら男は唱える。爪が頭皮に刺さり、肉をえぐった。その時、男は伏せていた顔を上げた。男の眼は異常なほど見開かれている。
「俺は……刺したナイフで刺した……」
(両手で固定して刺して……えぐった……)
(殺した!?)
(誰を!?)
(誰を殺した!?)
男は気が付いたように後ろを振り返る。何者の気配もなかったが、うっそうとした闇と生暖かい風が不気味だった。男は生唾に喉を鳴らすと、登攀を再開した。
道中に何度も膝から崩れたが、男は一つの勾配を登り切った。その先は、多少だが両脇がひらけた、森林が続く直線だった。男は目を細く正面を見据える。遠くにオレンジ色の光が見えた。
(車!?)
男は左右を見比べると、木々が深い方に身を隠した。用心深く行方を見守る。しかし、光は向かっても去ってもいかない。
(停車?逢引?こんなところで?引き返す?あんなところに?もしかしたら……何かが追って……)
(いやだ!!)
男は茂みから出ると、少しだけ背を丸め光に向かった。
光の形が半球に見え始めた頃、男の肩の力が抜けた。
(トンネルか……)
深呼吸を数回繰り返す。どうやら無人の灯りは、男の心境をいくらか落ち着かせたようだ。チラリと後ろの気配を伺う。何もいない。男はトンネルを目指し始めた。
男はトンネルまでの間、俯きながらこめかみを掻き、何かを考えているようだった。
(あそこで、誰を、俺は、誰を?殺した?刺した、……転落……?転落…した?落とされた?落とした!!刺して落とした!!しかし、俺も、転落?一緒に?掴まれて?一緒に……転落?気絶……バッテリーが……上がるほどの時間……!!!!!)
徐々に鼻息が荒くなっていく。
(死体!?確認!?してない!!)
いきなり男は上半身全てで振り向いた。何もいない。前を向く。
「ひっ!!」
どうやら光の大きさに驚いたようだ。男はトンネルの入り口付近に到着していた。
(落ち着け……車はあった。あったじゃないか……落ち着け……)
車両の擦れ違いが精一杯程度のトンネル。排気ガスで外灯カバーが曇っているのか、トンネル内に設置された両側の外灯は思いのほか薄暗い。多少長いようだが数百メートル先に、出口らしい白い光が確認できる。男は何気なくトンネル入り口の上方を見た。口元が声を出さずに動いた。
「
(れっ……?ねっ…?れん?)」
トンネルの名称が刻まれたプレートが埋め込まれていたが、上方向に挿す灯りがないためよく見えない。男は読むのをあきらめたのか、トンネル内を疑るように注視する。どうも入るか迷っているようだ。
(車が来たら?いや、その前にどうやって家に……いやここから脱出……)
(トンネル?緊急……トンネル内……電話!?)
(違う!!)
男はどこか緊張した面持ちで左ポケットに手を入れた。抜き出された手には何かが握られている。男は左手で底を固定すると、右手で上部を開く。緑色の液晶画面が点灯した。今度は短く声が漏れた。
「やった……!!」
男は新たな光に目を輝かせた。しかしすぐに男は険しい顔つきになる。
(誰に?)
(誰に連絡すればいい?)
親指が一回動く。画面には履歴が表示された。
雛石 健二 発信応答
雛石 健二 発信応答
雛石 健二 発信応答
雛石 健二 発信応答
雛石 健二 発信応答
男は途端に、涙をボロボロと流し始めた。
「うっうぅ健二……健二健二!!うううっぅぅぅ!!」
男はしばらくの間、むせび泣いた。そして涙を拭い、ダイヤルボタンを強く押し込んだ。
三回ほど呼び出し音が鳴る。男は固唾を飲んだ。
「…………もしもし…………」
男の眼からは再び、涙があふれそうになった。
「………………もしもし?良彦か?」
「あっけっおっおれ刺し刺しなっナイフ!!」
「はっ?何?……」
「こっころ殺し殺したったた!!」
「…………えっ?」
「助け助けてけっ健二助けっ」
「落ち着けぇぇぇ!!!!」
鼓膜をつんざくような男の声に、良彦は硬直した。すぐにスピーカーからは諭すような声が聞こえる。
「いいか……落ち着け……落ち着くのさ。良彦……一体、何が、あった?」
「はぁはぁ……うん…うん…健二、健二わかった」
良彦は一部始終を健二に話した。時折、怖くなりキョロキョロ辺りを伺っていたが、健二がうまくなだめていた。
「そうか……誰を刺したかはわからないのか……」
「うっうん……どっどうすれば?俺捕まるのかな?」
「……大丈夫。大丈夫だよ。俺が匿ってやるから……」
「ほっほんとか!?よかったよかったよかった……」
良彦は今にも消えそうな声で、何度も何度も呟いた。それを聞いていた健二は慌てて良彦に話しかける。
「ほっほらまだ早いだろ!!とりあえず……さっ。峠を脱出しないとな」
「あっあぁ……そうだった……迎えに!!迎えに来てくれよ!!」
「迎えにって言ったって、どこにいるのかわかんねーよ。あっでもお前の車、カーナビついてたろ。一度戻ってそれで」
「いやだ!!……嫌だ嫌だ嫌だ!!」
今度はハッキリとした口調で連呼する。良彦は恐怖で顔がこわばっていた。
「だよな~……じゃとりあえず進んでみろよ」
「えっ?なっなんで?」
「だから場所がわからないからだよ。そこ抜けたら人里があるかもしれんし」
「でも……見られたら……」
「だーかーらー。電柱とか探せば番地が書いてあるかもしれないだろ」
「あっああそうか。そうか!!」
良彦は恐る恐るトンネル内に入って行った。鼓動が高鳴っている。所々しか灯っていない外灯が、トンネルの細部を隠していた。
「入った!!今入った!!わぁ!!」
「どうした!!良彦!!良彦!!」
良彦は自嘲するように笑い声をあげる。
「あっごめん。予想以上に声が反響して……ぷっはは」
「なんだよ……もう走りぬけちまえよ」
「馬鹿。結構暗いんだよここ……」
「ああそうか、悪い悪い」
健二はそう言うと大学のレポートの話や、自分たちが小さかった頃の話をし始めた。良彦もそれに相槌を打つ。良彦の口調は徐々に活気を取り戻していった。
トンネルの中盤に差し掛かり、出口が近づいてきた。その時、良彦は胸を押さえ、少し息苦しそうな仕草をとった。
「はぁはぁっなっなんか身体が熱い」
「気のせいだろ?でさー実は神社の駄菓子屋でさー」
「そっそれに息が詰まる感じが……」
「あ~」
一瞬の沈黙。
「多分さそのトンネル古いから空気の循環とかできてないんじゃね?だから熱がこもってるんだよ」
「はぁなるほど……ふぅふぅ」
「だから走りぬけちまえって」
「ふぅー……そうだな。わかった」
「よし!!いけ!!」
ピピッ!!
良彦が走りだそうとした瞬間。電子音が鳴った。良彦の動作が止まる。健二が説明口調に、早口で言った。
「あっあぁ。今充電器つなぐから。大丈夫」
「えっ?あっ俺も電池大丈夫かなぁ」
「見るな!!!!」
健二が大声で叫んだが、良彦は既に耳から電話を外していた。液晶画面の右上には電池の容量を示すマークが表示されている。未だ満タン近い。しかし、良彦の瞳孔は大きく開き、焦点はただ一カ所に奪われていた。良彦の身体からは一気に汗が引き、鳥肌が走る。
「良彦!!良彦!!聞け!!聞け!!」
スピーカーから漏れる声を無視して、良彦は手で口を覆う。
(馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿なっうっううううう)
「うあああああああああああああああああああああああ!!!!!」
良彦は携帯を投げ出すと、反転して来た道を駆けて行った。トンネルを出ても尚、駆けて行った。
煉獄トンネルはそれを見送った。
※※※
健二は両目を手で覆うと、もう片方の手で何度も机を叩いていた。
「すまない……すまない……」
隣で女がすすり泣きながら呟く。
「やっぱり……もう……」
健二は、怒りと悲しみを混ぜ込んだような表情で女を一瞥した後、手元に広げてある、古く黄ばんだ大学ノートに視線を落とした。ノートにはびっしりと箇条書きがされている。
・疑われないように口調は明るく。
・真実を告げてはいけない。
・まず話を聞く。
・怖がらせない。
・引き返す気を失くさせる。
・最後まで安堵させてはいけない。
・トンネルの向こうに希望を抱かせる。
・トンネルを歩いていることを忘れさせる。
・トンネル内部は温度が高く熱い。
(良彦が気にしたら)
・トンネル内部は空気が循環しないため息苦しい。
(良彦が気にしたら)
・殺人を連想させない話題。
・香の話はしてはいけない。
(女の話全般)
・携帯画面を見せてはいけない。
・トンネルの名称は読ませてはいけない。
・話題の変更は慎重に。
・現在の情報は言ってはいけない。
・小さいころの話が一番無難。
・日付を言ってはいけない。
(連想される恐れあり)
涙で滲む目をこすり、新しく一文を書き加える。
・充電器を刺したまま話すこと。
健二は脇腹を強く握りしめる。
「良彦……来年は必ず……必ず助けてやるから……」
健二は良彦の遺影に誓った。
今日は八月十五日。