短編集

著 : 天野 光一

八月十五日



 深夜の山中。


 若い男は擦り傷だらけの身体で、転落したと思われる急斜面を登り返していた。


 数十メートル登るとガードレールが見えた。男はガードレールを跨ぎ道路に倒れこむ。ここは峠途中のチェーン着脱場のようだ。辺りを見回す。


 闇の中、車のシルエットを確認できた。急いで乗り込むと、挿しっぱなしになっているキーを捻る。


「畜生!!」


 ハンドルを叩きながら男は言った。短いクラクションが闇へ消える。車のバッテリーはあがっていた。


 男は焦りと恐怖、その両方とも取れる状態で、親指の爪を小刻みに噛んでいる。そして、かぶりを振ると慌てて車から降り、外灯のない峠の道路を登って行った。


 すぐに息切れを起こした男は、ジーンズの右ポケットから煙草を取り出した。疲れからか右手が震え、ライターをうまく使えていない。男は震えを止めるために左手を被せた。

 瞬間。


「うわああああぁぁぁ!!」


 突如大声を上げると、男はライターを投げ捨てその場にしりもちをついた。何かを右手で持ち、左手で二重に固定させる。その動作自体が大声の原因のようだ。


「思い出せ!!思い出せ!!思い出せ!!……」


 頭を抱えながら男は唱える。爪が頭皮に刺さり、肉をえぐった。その時、男は伏せていた顔を上げた。男の眼は異常なほど見開かれている。


「俺は……刺したナイフで刺した……」

(両手で固定して刺して……えぐった……)


(殺した!?)


(誰を!?)


(誰を殺した!?)


 男は気が付いたように後ろを振り返る。何者の気配もなかったが、うっそうとした闇と生暖かい風が不気味だった。男は生唾に喉を鳴らすと、登攀を再開した。


 道中に何度も膝から崩れたが、男は一つの勾配を登り切った。その先は、多少だが両脇がひらけた、森林が続く直線だった。男は目を細く正面を見据える。遠くにオレンジ色の光が見えた。


(車!?)


 男は左右を見比べると、木々が深い方に身を隠した。用心深く行方を見守る。しかし、光は向かっても去ってもいかない。


(停車?逢引?こんなところで?引き返す?あんなところに?もしかしたら……何かが追って……)


(いやだ!!)


 男は茂みから出ると、少しだけ背を丸め光に向かった。


 光の形が半球に見え始めた頃、男の肩の力が抜けた。


(トンネルか……)


 深呼吸を数回繰り返す。どうやら無人の灯りは、男の心境をいくらか落ち着かせたようだ。チラリと後ろの気配を伺う。何もいない。男はトンネルを目指し始めた。


 男はトンネルまでの間、俯きながらこめかみを掻き、何かを考えているようだった。


(あそこで、誰を、俺は、誰を?殺した?刺した、……転落……?転落…した?落とされた?落とした!!刺して落とした!!しかし、俺も、転落?一緒に?掴まれて?一緒に……転落?気絶……バッテリーが……上がるほどの時間……!!!!!)


 徐々に鼻息が荒くなっていく。


(死体!?確認!?してない!!)


 いきなり男は上半身全てで振り向いた。何もいない。前を向く。


「ひっ!!」


 どうやら光の大きさに驚いたようだ。男はトンネルの入り口付近に到着していた。


(落ち着け……車はあった。あったじゃないか……落ち着け……)


 車両の擦れ違いが精一杯程度のトンネル。排気ガスで外灯カバーが曇っているのか、トンネル内に設置された両側の外灯は思いのほか薄暗い。多少長いようだが数百メートル先に、出口らしい白い光が確認できる。男は何気なくトンネル入り口の上方を見た。口元が声を出さずに動いた。


(れっ……?ねっ…?れん?)」


 トンネルの名称が刻まれたプレートが埋め込まれていたが、上方向に挿す灯りがないためよく見えない。男は読むのをあきらめたのか、トンネル内を疑るように注視する。どうも入るか迷っているようだ。


(車が来たら?いや、その前にどうやって家に……いやここから脱出……)


(トンネル?緊急……トンネル内……電話!?)


(違う!!)


 男はどこか緊張した面持ちで左ポケットに手を入れた。抜き出された手には何かが握られている。男は左手で底を固定すると、右手で上部を開く。緑色の液晶画面が点灯した。今度は短く声が漏れた。


「やった……!!」


 男は新たな光に目を輝かせた。しかしすぐに男は険しい顔つきになる。


(誰に?)


(誰に連絡すればいい?)


 親指が一回動く。画面には履歴が表示された。


 雛石 健二 発信応答

 雛石 健二 発信応答

 雛石 健二 発信応答

 雛石 健二 発信応答

 雛石 健二 発信応答


 男は途端に、涙をボロボロと流し始めた。


「うっうぅ健二……健二健二!!うううっぅぅぅ!!」


 男はしばらくの間、むせび泣いた。そして涙を拭い、ダイヤルボタンを強く押し込んだ。


 三回ほど呼び出し音が鳴る。男は固唾を飲んだ。


「…………もしもし…………」


 男の眼からは再び、涙があふれそうになった。


「………………もしもし?良彦か?」

「あっけっおっおれ刺し刺しなっナイフ!!」

「はっ?何?……」

「こっころ殺し殺したったた!!」

「…………えっ?」

「助け助けてけっ健二助けっ」

「落ち着けぇぇぇ!!!!」


 鼓膜をつんざくような男の声に、良彦は硬直した。すぐにスピーカーからは諭すような声が聞こえる。


「いいか……落ち着け……落ち着くのさ。良彦……一体、何が、あった?」

「はぁはぁ……うん…うん…健二、健二わかった」


 良彦は一部始終を健二に話した。時折、怖くなりキョロキョロ辺りを伺っていたが、健二がうまくなだめていた。


「そうか……誰を刺したかはわからないのか……」

「うっうん……どっどうすれば?俺捕まるのかな?」

「……大丈夫。大丈夫だよ。俺が匿ってやるから……」

「ほっほんとか!?よかったよかったよかった……」


 良彦は今にも消えそうな声で、何度も何度も呟いた。それを聞いていた健二は慌てて良彦に話しかける。


「ほっほらまだ早いだろ!!とりあえず……さっ。峠を脱出しないとな」

「あっあぁ……そうだった……迎えに!!迎えに来てくれよ!!」

「迎えにって言ったって、どこにいるのかわかんねーよ。あっでもお前の車、カーナビついてたろ。一度戻ってそれで」

「いやだ!!……嫌だ嫌だ嫌だ!!」


 今度はハッキリとした口調で連呼する。良彦は恐怖で顔がこわばっていた。


「だよな~……じゃとりあえず進んでみろよ」

「えっ?なっなんで?」

「だから場所がわからないからだよ。そこ抜けたら人里があるかもしれんし」

「でも……見られたら……」

「だーかーらー。電柱とか探せば番地が書いてあるかもしれないだろ」

「あっああそうか。そうか!!」


 良彦は恐る恐るトンネル内に入って行った。鼓動が高鳴っている。所々しか灯っていない外灯が、トンネルの細部を隠していた。


「入った!!今入った!!わぁ!!」

「どうした!!良彦!!良彦!!」


 良彦は自嘲するように笑い声をあげる。


「あっごめん。予想以上に声が反響して……ぷっはは」

「なんだよ……もう走りぬけちまえよ」

「馬鹿。結構暗いんだよここ……」

「ああそうか、悪い悪い」


 健二はそう言うと大学のレポートの話や、自分たちが小さかった頃の話をし始めた。良彦もそれに相槌を打つ。良彦の口調は徐々に活気を取り戻していった。


 トンネルの中盤に差し掛かり、出口が近づいてきた。その時、良彦は胸を押さえ、少し息苦しそうな仕草をとった。


「はぁはぁっなっなんか身体が熱い」

「気のせいだろ?でさー実は神社の駄菓子屋でさー」

「そっそれに息が詰まる感じが……」

「あ~」


 一瞬の沈黙。


「多分さそのトンネル古いから空気の循環とかできてないんじゃね?だから熱がこもってるんだよ」

「はぁなるほど……ふぅふぅ」

「だから走りぬけちまえって」

「ふぅー……そうだな。わかった」

「よし!!いけ!!」


ピピッ!!


 良彦が走りだそうとした瞬間。電子音が鳴った。良彦の動作が止まる。健二が説明口調に、早口で言った。


「あっあぁ。今充電器つなぐから。大丈夫」

「えっ?あっ俺も電池大丈夫かなぁ」


「見るな!!!!」


 健二が大声で叫んだが、良彦は既に耳から電話を外していた。液晶画面の右上には電池の容量を示すマークが表示されている。未だ満タン近い。しかし、良彦の瞳孔は大きく開き、焦点はただ一カ所に奪われていた。良彦の身体からは一気に汗が引き、鳥肌が走る。


「良彦!!良彦!!聞け!!聞け!!」


 スピーカーから漏れる声を無視して、良彦は手で口を覆う。


(馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿なっうっううううう)


「うあああああああああああああああああああああああ!!!!!」


 良彦は携帯を投げ出すと、反転して来た道を駆けて行った。トンネルを出ても尚、駆けて行った。


 煉獄トンネルはそれを見送った。


※※※


 健二は両目を手で覆うと、もう片方の手で何度も机を叩いていた。


「すまない……すまない……」


 隣で女がすすり泣きながら呟く。


「やっぱり……もう……」


 健二は、怒りと悲しみを混ぜ込んだような表情で女を一瞥した後、手元に広げてある、古く黄ばんだ大学ノートに視線を落とした。ノートにはびっしりと箇条書きがされている。


・疑われないように口調は明るく。

・真実を告げてはいけない。

・まず話を聞く。

・怖がらせない。

・引き返す気を失くさせる。

・最後まで安堵させてはいけない。

・トンネルの向こうに希望を抱かせる。

・トンネルを歩いていることを忘れさせる。

・トンネル内部は温度が高く熱い。

(良彦が気にしたら)

・トンネル内部は空気が循環しないため息苦しい。

(良彦が気にしたら)

・殺人を連想させない話題。

・香の話はしてはいけない。

(女の話全般)

・携帯画面を見せてはいけない。

・トンネルの名称は読ませてはいけない。

・話題の変更は慎重に。

・現在の情報は言ってはいけない。

・小さいころの話が一番無難。

・日付を言ってはいけない。

(連想される恐れあり)


 涙で滲む目をこすり、新しく一文を書き加える。


・充電器を刺したまま話すこと。


 健二は脇腹を強く握りしめる。


「良彦……来年は必ず……必ず助けてやるから……」


 健二は良彦の遺影に誓った。


 今日は八月十五日。



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