吸血鬼

著 : 秋山 恵

挑発



 銀髪のハンターは、拠点にしているアパートに入った。

 隣は、以前エレナが住んでいた部屋だ。

 夕方、赤い光が差し込む。明かりは点けずに居た。

 ゴロリと横になり、窓を開け放って嗅覚に集中している。エレナが近くに来れば察知して武器を取り出すのだろう。手元に口を開けたスポーツバッグが無造作に放り置かれている。

 銀髪が今出来る事はこれだけだった。

 いや、これをする事に力を入れていた。

 例え他の吸血鬼が近くにきても、銀髪が動くことはないだろう。獲物はもう、エレナ以外には存在していない。

 この狩りが終わり、相棒のシェーラの弔いが終わったなら、この銀髪は何時も通りの突発的な後始末に従事するような血生臭い日々に戻るのであろう。

 銀髪は思う。

 都会は不自然な臭いが多過ぎると。

 この時間帯にもなれば、近隣の各家庭では夕食を作り出す。近くの大通りからは排気ガスの臭いが流れてきており、少し離れたところにあるドブ川からは腐臭が漂ってくる。

 日本の部屋は畳のニオイが強い。取り替えたばかりだろう、窓を開けて空気を通しておかなければならなかった。

 悪いニオイではないが、現状ではただの邪魔にしかならない。

 そう、都会では銀髪に取っての邪魔が多い。こんな状態では、余程近くまで来なければエレナを識別するのは難しいだろう。

 集中力を高めるために銀髪は目を閉じた。

 五感の他のものの干渉を減らすため、耳栓もする。それでも、通りを走る車の音は耳に入ってきた。近所の子供の帰宅を知らせる声が聞こえる。若い学生の黄色い声も。

 銀髪は、日中に遭遇した若い吸血鬼の事を思い出す。

 あの女は、ターゲットと同じようなニオイがした。

 強い吸血鬼のニオイだ。

 香水のニオイに紛れていたが、人間離れした銀髪の嗅覚には隠す事は出来ない。

 PCルームで会った男が

「自分の獲物だ」と言っていた。が、女に対する殺意は全く持っていない。

 むしろ、仲間である銀髪に対しての殺気が感じられた。

 あの男が居なければ、あの女を餌にして標的を呼び寄せられたかもしれない。

 惜しい事をした。

 しかし、戦えるのも時間の問題だろう。ここに居れば、いずれは向こうからやってくるはずだ。それがいつだかは分からないが、時は近い。

 そして、もうすぐ満月だ。今は心身共に力が上がっている。

(早く来い)

 銀髪は、祭りが始まるのを待つ子供のような笑顔をした。




「お前、何であんなところに居た」

 沙季を見る遼二の目は険しい。が、いつもとは違い、敵を殺しに行く時のようなナイフの形はしていない。怒りや殺気の類ではなく、どちらかと言うと不貞腐れている顔にも見える。

 こんな表情は仲間にも見せたことはないのではないか。反対側に座る沙季は、マジマジと遼二の顔を見ていた。

「調べ物してたの」

 とぼけた様な返事をした。

「ああ、そうだな、俺に調べさせた。あれは意図的か」

 沙季はニコリとしてからティーカップを口元に運ぶ。食えない女だな、と思われたい気持ちもあった。

 それはともかく。

 今回の行動で、予定していなかった形ではあったが、奇跡的かつ最大の収穫を得た。

 予想の中にしか居なかった“敵”を間近に見たのだ。

 そして、力量もそれとなく測れたつもりであった。

 エレナの力になろうと考えていたがとんでもない、相手は狩りをするためだけに作られた殺人マシーンのようなものだ。

 戦いに参加すればあっさりと足を引っ張るだろう。

 沙季は、表には出していなかったが、何も出来ない自分にガッカリしている。

「目的果たせたもの。あれで大正解」

 銀髪の血生臭い口臭を思い出し、ダージリンの香りを嗅いだ。心は落ち着かない。

 吸血鬼になってからは血生臭い臭いがむしろ好きになったが、あの銀髪のそれは吐き気を催す。生理的にダメなのだろうか。口元をヘの字に曲げて目を閉じた。

 沙季の言う大正解がよく分からない遼二だったが、そちらにはあまり興味がなかったようだ。とにかく沙季の行動を咎め続ける。

「あの時後から出てきたのが、俺じゃなくて別の奴だったらどうするつもりだった」

 自分が吸血鬼の心配をしているという自覚がなくなっている事に気が付いたのは、この後続く話が終わってからの事である。

「あなたには分からなかった?私に絡んだ銀髪の男の人」

 遼二の顔が無表情に固まった。

 銀髪のキーワードで、遼二の頭の中には相手と戦う事しか思い浮かばない。

「あの人、人間じゃないよ」

 沙季はまたティーカップを口元に運ぶ。

 遼二の表情は変わらない。

 確かにあの銀髪は人間離れしている。それは肌で実感していた。

 椅子に寄りかかって座っていた遼二が顔を近付けて来る。

「お前、何が言いたいんだ?」

 真面目な顔をしている。

 察しは悪い方だが、さすがに遼二も

『アイツがそうなのか』とは思っていた。だが、沙季の口から直接そうであると言う根拠を聞きたい。そうすれば、銀髪と戦う明確な理由を持てる。

 しかし、沙季自身は何か確実な証拠を元に判断した訳ではない。全ては直感であり、勘であった。だから、返答もこうなる。

「あの銀髪が人狼だってこと」

 沙季の答えはあまりにもストレートで、今度は笑顔を演じたりはしない。

 それでは信用に値するレベルの返答ではないと思いつつも、遼二は心のどこかで、目の前の女の事を信じていたのだろう。

(そういう事にしておくか)

 とだけ考えた。口には出さない。腹の底を読まれたくない気持ちがある。

「何で黙るのよ」

 そう言われるまで、自分が沈黙していた事に気が付かない。

 戦う理由をどう作るか、それを悩むことに没頭していた。

「・・・お前、あの銀髪が人狼だったとしてだ。どうしたいんだ?」

 期待した答えが欲しい。

(戦う理由を俺によこせ)

 心の中ではそれを反復する。

 戦う理由があれば、今すぐにでも準備をして挑みに行くつもりであった。

「んーと・・・、吸血鬼には主従関係みたいなものがあるんじゃないかと思うのね」

 遼二の求めた答えではない。

 だが、事実、吸血鬼は上位の存在に従うようになっている。血を与えた者が相手を支配し、支配された者は上位の存在を守る事が本能として植え付けられる。

 抗うことも出来るだろうが、それには強い精神力が必要とされるものだ。正常な人間が、親殺しをするのよりも重たいであろう。

 とは言え、普通であれば上位の者と同じ血が流れ、その中で自分の本質を同じ方向で確立していくから抗うと考えることはまずないと思われる。

「私の主は、きっとエレナさんなんだと思う。本人がそんなつもりがなかったとしても。だから・・・」

(邪魔は排除したいと願っている訳か)

 この時点で、遼二の心は半ば決まっていた。これから自室に戻って戦いの準備をしようと。

「出来る事なら、あの人狼を始末したいと願ってるよ」

 期待した答えを得て、遼二は伝票を手に取った。

『理由としては正当じゃないが、仕方ないな・・・』

 沙季を見る遼二の目は、やはりいつもとは違った。




「やはり居た・・・。隣の部屋で堂々と寝てますね」

 エレナは遥か遠くのビルの屋上からライフルのスコープ越しに自室の隣を覗き込んだ。部屋の中は暗いが、外からの光で壮介にも何とか見える。

 見覚えのある銀髪が部屋の中で転がっているのが見える。寝ているのか、それとも何か作戦があって待ち構えているのか。

「確かにアイツだ。遠くから狙撃されるって事は考えないのか。ただのバカなのか」

 どちらにしても、ここから狙う事は出来る。

 本職のスナイパーではないから、この距離で当たるかどうかは分からないが。

「誘っているのですよ。礼を持って戦うのであれば、あの場に行くべきなんでしょうね」

 と言いながらも、エレナはライフルを構えた。

 壮介が準備した英国製のライフルは、エレナの身体の一部のように馴染んだ。

 腕が伸びてその先に銃口があるような気分になり、照準を合わせると高揚感を感じられる。大昔、騎馬上から獲物を狙ったあの時の気分と似ている事に、エレナは懐かしさを感じた。

「当たらなければ、西に見える高層マンションに移るぞ」

「ええ」

 エレナは集中力を高める。

 呼吸を整え、自分の世界をスコープの中の小さな標的にのみ限定した。遠く下の世界から響く夜の蝉時雨が消える。

 この場所は、的の居る場所から2km程の距離がある。現時点で世界最長の狙撃記録は2.5kmだが、エレナは本職のスナイパーではない。

 現実的な話をすれば、特殊に開発されたこのライフルの公式に公開されている射程距離自体が1.4km程度である。現場の感覚ではそれ以降も正確に狙えているのだが、海抜の高さから考えて空気の密度は高く、弾丸が目標に届くまでに壁があるようなものだ。

 エレナにこの狙撃を成功させる自信は全くない。

 それでも良かった。逆に当てるつもりはない。倒す時は自分自身の手でやるつもりであった。

 これは挑発行為であり、いつもどこからか狙われていると思わせることによる精神的な疲弊を促すためだけの、確実に勝つ為の布石としての行為である。壮介がどう考えているか分からないが、エレナにしてみればそれで良い。自分が狙撃手を買って出たのにはそんな理由もある。

 この理由が無かったとしても、きっと壮介に銀髪は撃てないだろうと思った。普段から人の形をしていないものばかり相手していた壮介に、人と同じ形をした標的を撃ち抜けるとは思えない。例え内容が化け物だったとしても、人の形をしていれば人を殺すのと同じ感覚になる。引き金は引けないだろう。その為に引き金を引くのには資質が必要になる。

 殺人者と同じような資質が。

 壮介に殺人者になる勇気があるかどうか。心優しい彼には無理だろうと、エレナは考えた。

 エレナは風が止むのを待った。それまでの間に銀髪が動けば撃つつもりだ。

 隣でフィールドスコープを覗いている壮介が、付近の人通り等を監視している。夜も深けてきており、帰宅する人は疎らであったが、それでも何かの間違いで流れ弾が当たらないとも限らない。長く生きていて肝が据わっており、無感情に狙撃が出来るとはいえ、もしそうなれば面倒な事になる。

「・・・今!」

 壮介の合図と共に、エレナは呼吸を止めて引き金を引いた。乾いた火薬の破裂する音と共に弾丸が宙に撃ち出される。

 金属の弾は空気を裂いて飛行し、目標の足元に着弾した。フローリングの木材が砕けて少し飛び散るのを見て、壮介が舌打ちをする。

 銀髪は飛び上がるようにして起きると、手早くカーテンを閉めて死角に入った。

「移動しよう」

 その隣でまだスコープを覗いているエレナの頭をくしゃくしゃとする。

 スコープ越しにエレナはまだ部屋を見ていた。

 距離が遠く、その場に生命反応があるかどうかが分からない。だが、まだあの場所に留まっているだろうと思った。

「もう少し撃ちます」

 荷物を纏めている壮介に一言伝えると、カーテンに向けて何度か引き金を引いた。

 カーテンが撃ち抜かれて揺れる。

 銀髪は、動揺くらいはしているだろうか。

「スコープ貸してください」

 引き続き何発か撃つ前に壮介からフィールドスコープを借りて周囲を確認する。

 人は殆ど居ない。

 だが、見た事のある姿が二つあった。




「ここ、エレナさんの部屋じゃ・・・?」

 遼二は到着してから終始口元が緩んでいるように見える。

 遼二の準備は早かった。部屋に戻ってから出てくるまで5分と掛かっていない。一緒に上がりこんだ沙季がキッチンの片付けをしようと空き瓶をテーブルに並べていたら、武器の詰まったカバンを持って寝室から出てきた。

 比較的近い場所なので徒歩だったが、半ばジョギングに近い速度で移動した。

「隣に奴が居る」

 調べは付いてる。教会の関係を使ってこの部屋を借りたのは知っていた。

 戦う為には無茶な事をする男である。建物の前に着くと、遼二はその場で武器の準備をした。通りに面している訳ではないが、人通りが全くないわけでもないだろう。沙季は内心、誰かに見られて面倒になるだろうなと思った。

 大きなバッグから刀を取り出して抜き、

「ひゅん」と空を斬った。街灯の光を反射した刀身が、怪しく得たいの知れない武器のように見せる。遼二は格闘に長けているが、刀の扱いにも同じくらい長けている。

「正面からいきなり行くの?作戦立てた方が良いんじゃない?それより、そんな武器で良いの?銃の方が良いんじゃない?」

 困った顔を演じ、遼二に質問攻めをする。

 潜在的に、死なれてはイヤだと感じているのだ。死なれて寝覚めが悪いとか、そんな話ではない。心のどこかで別の何か分からない感情がある。

「とりあえず外に引っ張り出す。歩いてくる途中、窓が開いているのが見えた。こいつを下から投げ込んでくれ」

 そう言って、スタングレネードを手渡すと使い方を説明する。

 素人の沙季にはそれが手榴弾にしか見えなかった。

「これ投げて、私の方に出て来たらどうするのよ」

「俺の居る方へ逃げて来い」

 少し気が違っているようにも見えて、頼もしくは感じられなかった。

「辿り着く前に殺されるかもしれないじゃない。きっと私なんて一撃よ?」

「じゃぁ、投げたらすぐに走って来い。絶対に守ってやる」

 どこからこの自信が出てくるのかが全く理解出来ない。

「自分で投げ込めば良いじゃない」

「俺はドア蹴破って斬り込むんだよ」

 そう言うと、沙季の向きを強引に変え、背中を押した。




 外に二つのニオイが来ている。

 昼間会った吸血鬼の女と、PCルームで会った教会のハンターだ。それも、好戦的な気配を隠す事すらしない。このままここに居れば、戦いは避けられないだろう。

 いったい、自分がどれだけの相手に狙われているのかも分からず、どこからどれだけ狙われているかも分からない。外に飛び出せば狙撃されるかもしれないのだ。かと言って、このままここに留まっていても状況は変わらない。思ったよりも孤立して戦う事にストレスを感じていた。

 銀髪は自分の嗅覚から、狙撃手が近くに居ない事を予測する。単純に風下に居て近いのかも知れないが、そうであればますます死角は増えるだろう。近くに高い建物はない。

 フローリングにある傷跡を見る。角度から方向を見定めた。カーテンの隙間から外を見ると、信じられない程遠くにビルが建っているのが見える。

(まさか・・・)

 命中しなかったことを考えれば、それも有り得ない話ではない。

 狙撃手が単発であれば、普通に玄関から出れば良い。反対側にも居る可能性はあるが、そちら側は家が隣接していて、出てすぐに遠くから狙撃されることはないだろう。

 外に出るのは、PCルームの男とぶつかる事を意味する。この場に居たところでいつかは仕掛けてくるだろうが、面倒な相手と戦う気にはなれない。

 一対一の戦いでは負けない自信がある。それでも無駄な労力は使いたくない。この場はうまく逃走しておきたかった。

 女の方が動くのが感じられた。部屋の下に近付いてくる。

 男の方は階段を上ってくる。挟撃か、それとも別の作戦があるのか。とにかくこの部屋に留まるのは得策ではないだろう。

 銀髪は、胸ポケットから紙切れを出して床に放り出すと、カバンを閉じるて肩に担ぎ、玄関に走った。外の気配に動揺が走るのを確認すると、内側から蹴るようにして扉を開けた。重たい金属製の扉が勢いよく開き、外側の敵の顔面を強打する。

 部屋の前の廊下に出ると、そこで蹲って顔を抑えている男のこめかみ付近に膝蹴りを入れてなぎ倒す。相手が脳を揺らされてフラついたのを確認してから、1階まで飛び降りた。

「ズン」と重たい音がする。飛び降りた後の膝を曲げた状態で周囲を軽く見回してから、その膝を伸ばす勢いで走り出した。

 と、足元に何かが飛んでくる。瞬間、爆発か何か衝撃が有り、瞬時に目が眩む。耳栓をしたままなのが幸いした。視界が戻ると、それを投げた張本人が目を回して座り込んでいた。

 相手にしている余裕はない。どこからか狙撃手が狙っている可能性もある。

 銀髪はそのまま逃走した。




「銀髪は逃げました。あっちのビルに移る必要はないですね」

 フィールドスコープから目を離すと、エレナはそれを壮介に渡した。

 風が強く吹き始める。

 顔にまとわり付く髪を手で押さえながら、次の行動を考えた。

 相手はこちらと戦いたがっている。という事は、あの部屋に何かのメッセージを残してから去った筈だと考えた。

 現場には今、遼二と沙季が居る。この後どうするかは分からないが、もし部屋に何か残っていれば回収するはずだ。その情報をうまく入手出来れば、次に繋げることが出来るだろう。

「・・・すみません、やはりあっちのビルに。私は現場に行くので、援護をお願いします」

 あの二人と壮介が遭遇すると面倒になるのではないかと思ったエレナは、一人で行く事を決めた。

 壮介は肩眉を上げて、

「分かった」

 と一言だけ返す。細かい話は問いたださない。

 壮介の、エレナの企みに対する気持ちは異常なまでに寛容だ。老人が、自分の孫に対して甘やかすのとどこか似ている。

 エレナからライフルを受け取ると、そのままスポーツバッグに入れて肩に担ぎ、思い出したように付け足した。

「あの距離だと、俺も当てられないと思うよ」

 距離にすると今の位置よりは近いのだが、それでも壮介には難しいらしい。ライフルを扱う経験に関して言えばエレナよりも壮介の方が遥かに多いはずだったが・・・

「有事の際にけん制になれば良いですから」

「逆に、自分に当たるかもしれないとは思わないのかい」

 苦笑いしながら、エレナの頭をかき混ぜる。当のエレナは無反応だから、まだどうするかを考え続けているようだ。

 あの場に遼二が居ると言う事は、教会関係は動いていないと考えられる。だから、有事は起きることは無い。と言うところまでは辿り着く。

 二人は一つ下の階まで階段で降りると、エレベーターに乗る。この付近では二番目に大きいビルだが、エレベーター自体は古くてボロボロである。マージャン牌を丸くしたような突起状のボタンが整然と並べられている。押すとかなり深くまで押し込める。エレベーターが動き出すと、乗っている箱がミシミシと音を立てた。

「携帯にワンコール入れるから、そのタイミングでエリア内に入ってくれるかな?」

 エレナは壮介から目を逸らして少し考え、もう一度、下から見上げるようにして返事した。

「黙ってたのだけど、・・・現場に沙季ともう一人一緒に行動してる人が居るみたいなので、多分そのまま入って行っても大丈夫だと思います」

 タイミングがタイミングなので、もう一人が誰だかは言わない。

 壮介は少しポカンとした顔をした後、手のひらで目の周りを覆って斜め上を向いた。濁音の付いた“あー”を発する。

「さっき家に電話しても出なかったから、・・・そういうことか」

 と言い、携帯を取り出して沙季に電話をした。

 出るまでコールし続けると、9回程鳴ったところで出た。

『はーい。こんばんはー』

 沙季のとぼけた声が聞こえる。

「おい、なんでそこに居る?」

『何の話ー?』

 電話のボリュームが大きいので、隣に居るエレナの耳にも声は聞こえている。姿を隠した頃はまだ不安定で弱々しかったから、元気そうだという事に多少ホッとする。同時に、普段はこんなに明るい娘だったのかと関心した。

「遠くから見てたんだよ。今からそっちに行くから、そこで待ってろよ」

『ストーカーさんですか?』

 壮介の飽きれた表情。ため息が

「ふぅっ」と聞こえてくる。

「言われた通り武器持ってセーフハウス行ったらエレナと会ったよ。詳しい話は省くが、追っている人狼はエレナの敵でもあってな、共闘することになって・・・」

 エレナが手で遮るポーズを取る。

「代わってもらっても良い?」

「ちょっと待って。・・・ああ、構わない」

 そう言って、携帯を服でゴシゴシ拭いてからエレナに手渡した。受け取った携帯は温かく、耳に当てる部分から少し向こうの音が聞こえている。

「こんばんは、久しぶりね」

『おかえりなさい。やっと帰ってきましたね』

 声のトーンが明るい。喜びを感じているのを演出しているのだろう。エレナにしてみると、その演技染みた喋りに違和感を感じる。それは、周りの普通の人間に対する配慮なのだろうが、長年感情があまりないままで生きてきたエレナには、余計な労力にしか感じ取れない。探していて、心配もされていた筈だった今の状況を考えると、不自然な反応ではあったが。

「ごめんなさいね、まだ全ては片付いてなくて」

『分かります。私、エレナさんと血の繋がりがあるもの。理解出来るわ』

 エレベーターが1階に着き、小走りに道に出た。

 少し行ったところに車を止めてあるのが見える。

「ありがとう。ところで沙季、悪いのだけど、件の男が居た部屋を調べて連絡を貰える?追う為の手がかりが欲しいの。彼は多分、私と戦う為に必ずそこに何かを残してると思うの」

『分かりましたー。探してみますね。電話は今使ってる番号で良いですか?』

「うん、この番号でお願いね。後・・・、今一緒に居る人」

 声を潜めて壮介に聞こえないように

「私たちとは合流しない方が良いと思います。ややこしい事になるかもしれないので」

 壮介は少し先の方を歩いている。幸い、今の会話は聞こえてはいないようだ。

 壮介の、教会所属ハンターである遼二に対する感情はどんな風に発露するか分からない。同じく、遼二の戦闘欲の対象であるエレナに対する感情も、どんな風に発露するか分からない。面倒事の火種になる可能性があるので、今は避けていた方が良い。

『うん、分かりました。それでは、また電話しますね』

「お願いします。ではまた・・・」

 電話を切ると、そのまま壮介に手渡す。

 暫くは待機になる事を壮介に伝え、車に乗り込む。蒸された車内の熱気に壮介が顔を少し歪めた。



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