吸血鬼

著 : 秋山 恵

追跡



 遼二は、“鼻”に引っ張られるようにして歩いた。

 表情は少し陰っており、心の底では

「今日は見付かるな」と念じているようだった。

 関係の無い人間から見れば、やる気の無い飼い主が大型犬に良い様に引っ張られているように見える。

 一度、“鼻”が不自然な動きを見せた。遠くを歩く、若い男を目で追ったのだ。

 少し考えたが、

「あの女ではない」その事実が遼二を後押しし、足を動かした。

 ある一定の距離を保ちつつ、行動を見守る。

 “鼻”は、男をしっかりと追いはじめた。

 本来の標的ではなかったが、間違いなく吸血鬼だろう。それも、最近になったばかりの若い吸血鬼だ。視界に入る動くものに敏感に反応しているのが見て取れる。感覚に慣れていない証拠だ。

 男は繁華街を通り抜け、高架線を潜り抜けると、人通りの少ない住宅街に入って行く。

 全くの偶然だったが、この辺りは、遼二があの吸血鬼に出会った場所に近かった。

 もしかすると誘い込まれたのかも知れない。そう思い始めてしまい、遼二は男との距離を少しずつ開きはじめる。

 救いの神はその時、男を挟んで正面に現れた。遠くに数匹のシェパードを制しながら立っている。

「おい!女じゃなかったのか!?」

 相手を小バカにしたような口調で、浅野が大声を上げた。

「想定外だ!こんな奴は知らん!」

 この時点で初めて男が振り向いた。

 鋭い感覚を持ってしても遼二の尾行に気付いていなかったのだ。

 驚きの形相を見せつつ、今の状況を本能的に察知して身構える。逃げ道を探しながら壁際に移動して行った。

「何だ?オマエら」

 男の表情が凍っていく。

 相手が自分に害をもたらす存在だと瞬時に判断したようだった。

 ハンター二人は距離を詰め始めた。

 男に逃げ道はない。

 両サイドは建物な上に道幅も細い。

 片側がマンション、もう片方が塀の高い民家になっているので、逃げるとしたら突破する必要があるだろう。

 自分達の間合いにもうすぐ入る。遼二がそれを意識した瞬間だった、浅野の遥か後方の十字路に2つの影が見えた。

 遼二の背中に冷たい何かが走る。

 先日の記憶がフィードバックし、防刃チョッキを裂かれた瞬間が鮮明に浮かび上がった。

 真の標的が、偶然にもそこに立っていたのだ。

 既に表情に出てしまっており、浅野がそれに気付いた。黙り通す事も出来ず、躊躇いつつも、声を上げる。

「浅野、後ろだ!」

 浅野は遼二の表情を見て瞬時に判断していた。目の前にいる若い吸血鬼とは別の、もっと大きな脅威になる存在が現れた事を。

 遼二の視線は浅野の後ろに向いている。振動のようなごく小さな揺れと、無表情に針の先端程の恐怖が見え隠れしていた。戦闘に置いて絶対的な自信を持つ男の恐怖、それは単純に興味となった。

 小太りな身体が回転するように後ろを向く。勢いで顔の肉が震える。180度後ろを向いた時点で腰を落して仕込み杖に手をかけた。二人の女性が視界に入る。片方は髪の色がワインレッドだった。遼二の表現した通りの女だ。

 浅野はアスファルトを目一杯蹴り、駆け出した。

 標的は遼二の声に反応してこちらを見る。タイミングを僅かにズラして殺気を放った。

 浅野は、巨大な剣山かにでも飛び込むような錯覚に陥った。だが、この男の勇気は飛び込む速度を全く緩めない。

 遼二が浅野の後を追ったのはその直後だった。茫然とした若い吸血鬼の横をすり抜けて全力で走った。

 前方を走る仲間との距離が縮まらない事に焦りを感じる。相手の間合いに入ったら真っ二つになるかもしれない。

「浅野!間合いを意識しろ!」

 浅野は、飛び込む速度を変えない。自分の間合いに入ると同時に斬るつもりがあり、確実に倒す自信があったのだろう。

 浅野と標的、その距離五メートルに迫る。その後方二十五メートル程のところ、遼二が武器も構えずに追いかけていた。

 標的の隣に居るもう一人の方が、突然走ってくる浅野を見て悲鳴を上げ、夜の住宅街に金属でも擦るように響き渡る。

 最初の浅野の言葉から始まりこの悲鳴、近隣の住人に確実に不安を与えているだろう。

 悲鳴が止むよりも前に浅野は標的を間合いに入れて一太刀を閃めかせていた。だが、鞘から半分も抜かない内に標的は視界から消えている。

 あまりの動きの早さに、文字通り消えたようにすら感じられたが、気配は後ろに移っているのが感じられた。返す刀で背後を斬ろうと刃を反転したタイミングで、背後からの当身を食らって一メートル半突き飛ばされる。

 トラックにでも撥ねられたような威力だ。浅野はそのまま、潰れた蛙のように伸びた。

 遼二が構えを取ったのは、浅野が突き飛ばされた直後だった。

 標的との距離をかなり置いて慎重に歩み寄る。

 あまりの恐怖に、冬だというのに汗が頬を伝った。

 だが、恐怖よりも戦って生き残る事に意識が集中されている。逃げ出すよりも足が前に進んだ。

 しかし、どうするべきかが判断出来ない。

 次の行動を考えなければならないのに、悩みが心を支配した。下り螺旋階段を駆け下りるような、降りれば降りる程光が無くなっていく、そんな気分になる。

 この状態で殺気に中てられては心が持たない。

 その状態から脱する為、遼二は標的の吸血鬼の後方に居るもう一人を意識した。

 視線は標的に向いたままなので直視はしていないし暗い夜道だが、何となく分かる。日本人だが、色素が薄くなりかかっている。

 先程の男と同じく、若い吸血鬼だろう。

 恐怖に正常な判断が出来なくなりつつあったが、一旦意識を別に向けることで、遼二は自分の置かれている状況を把握し始めた。

 相手の出方を見たいため、後ろの気配に気を配りつつ、正面の二人に向けて殺気を放った。

 標的は怯む様子もない。喉元に剣を突きつけるような威圧感でそこに立ち、絶対的な優位を持ったまま見下ろすように存在している。

 残りの二人がどう出るかは分からないが、戦闘経験があるかどうかはこの状況では判断が難しい。何も考えずに見ると、標的の側に立っている若い女吸血鬼はとても戦えるようには見えない。

 どちらにしても、残り二人が戦えるとした場合、“鼻”は訓練された猟犬ではないから実質三対一である。

 さすがに三人相手に戦って勝つ自信はなかった。

 若い吸血鬼二人は同時に相手にしても勝てるとは思えるが、標的の女については数人がかりでも殺れるかどうか分からない。

 こう着状態が続いた。実際は数秒経った程度だろう。

 冷たい空気が拳を冷やす。

 視線を逸らすことが出来ず、まばたきもあまり出来ない。

 目が乾き始めた。

 標的の瞳は遼二の目を逃そうとはしてくれない。

 本来あるべき状態とは完全に逆の立場になってしまっている。遼二は自分が獲物になっている事を理解し始めた。

 このままでは確実に引き裂かれて終わるのではないだろうか。

 ゴクリと喉が鳴った。

 自分が死ぬかもしれない事よりも、戦う術すら思い付かない自分に口惜しさを感じる。

 時がゆっくり流れるような感覚が、次第に止まったように錯覚しだした。

 逃げ出したい気持ちが漏れ出しそうになる。だが、気圧されていつつも、遼二は殺気を強めて大きく一歩踏み込もうとした。その瞬間、浅野がうめき声をあげる。

 仲間の迂闊にも、遼二の視線が浅野に移ってしまう。

 死んでいてもおかしくないような大きな隙だった。だが、場の空気が一転した。

 殺気に埋め尽くされ、ピンと張り詰めていたものがサッと引いていく。

 遼二の隙をついて、標的の女吸血鬼が連れを担いだ。遼二を一瞥すると、振り向きもせずに、元歩いてきた方向とは逆へ向けて全力で走り出す。遼二は不覚にも、一瞥した時の相手の美しさに見とれてしまった。

 標的は、一人担いでいるにも関わらず、多分走って追いつく事が出来ないような速さだった。あっという間に姿を消す。

 そして、それを合図にして後方の男も逃げ出した。こちらも身体能力が上がっているためか、走って追いかける事が出来るかどうか分からない。

 本来の標的を追いかけるか小物を確実に仕留めるか、たった二つの選択肢を迷い、遼二はその場から動く事が出来なかった。

 マンションの窓が恐る恐る開く音がして、誰かがこちらを見下ろす。

 夜でも明けそうなくらい長く感じたが、ほんの数分の出来事だったらしい。

 遼二は、何もなかったように“鼻”を纏め上げ、背中を押さえて肩膝を付いていた浅野を引っ張り立たせた。突き飛ばされた時に顔面を打ったらしく、鼻血を流している。

 浅野は不満そうな顔をして“鼻”を全匹遼二から引き取った。

「山県、バカにしてすまなかった。俺が動きを追えないとはな・・・」

 とは言いつつも、遼二の方を見ようともしなかった。

「いや・・・」

 浅野が携帯を取り出す。

 支部へ初回失敗の報告をし、その後に里見へ電話した。

 状況の説明と作戦の立て直しを提案して電話を切る。

 ややあってから小さな声で、そして素早く遼二に問いかけた。

「奴は何故、俺達を殺さなかった?」

 浅野はようやく遼二の方を振り返った。

 納得のいかない、目一杯の不可解を表現したような表情をしている。

 今までは、お互いが敵同士で殺し合うものだと決め付けていた。だが、自分達が相手に取っている行動と相手が自分達に対する行動の違いを知ったからである。

 元々教え込まれた吸血鬼とは違う。今回の件でそこまで感じ取っていた。

「弄ぶつもりなのか、そもそも悪い奴じゃないのか。どうだろうな?」

 最初に男を追いかけていた時は罠かもしれないとすら考えていた。だが、罠ではなかった。もし罠だったのであれば、遼二達は死んでいただろう。

 標的が連れていたもう一人が浅野の行動を見て悲鳴を上げているし、もう一人の男の方も連携が取れていたようには見えなかった。

 教会から受けた教えは本当だったのか。

 過去、狩ってきた吸血鬼達は自分達を上回る事がなかったから気が付かなかったが、一方的な攻撃を続けてきた可能性がある。

 吸血鬼の存在が本当に邪悪なものであるかも、遼二には分からなくなってきていた。

「何故、俺達を殺さなかったんだ?」

 浅野は繰り返した。もしかすると、遼二と同じ事を考えているのかもしれない。

 腕を組み、鼻血が流れるのも構わず考え込んでいる。

「浅野、とりあえず戻ろう。通報されている可能性がある」

 遠くでサイレンの音が鳴っているような気がしていた。

 浅野は頷くと、“鼻”を強引に引っ張り歩き出す。遼二もそれに続いた。



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