吸血鬼

著 : 秋山 恵

追跡




 山県遼二が扉を開けると、そこには二人の男が立っていた。

 一人は背が高く生真面目そうな顔付きをしている。もう一人は小太りでニヤニヤとしていた。

 背の高い方は、楽器が入りそうなケースを背負っていて、背の低い方は杖を手にしている。

「苦戦してるそうじゃないか」

 小太りな方がガムを噛みながら、いやらしく薄笑いを浮かべた。遼二は一瞬、眉をぴクリと動かして答えた。

「まだ一度遭遇しただけだ。まともに戦ってなんかいない」

 この小太りの男“浅野聡”は、遼二の苦手なハンターの一人だった。腕は確かだが、どうもいけ好かなく感じる。

「上がってくれ」

 遼二は部屋へ戻っていった。男二人も無言で後を付いて来る。

 酒臭い部屋だった。

 ゴミ箱に入りきらずに飛び出した酒の空瓶が、部屋のど真ん中に転がっている。遼二はそれを壁際に蹴り、革張りのソファに座った。

 あまり食事をした形跡が無く、ベッド脇にある小さなテーブルに食べかけのインスタントラーメンが置いてある。それも、今食べていたわけではなさそうだった。白い脂がスープに固まって浮いており、埃が浮いていた。

「食事はちゃんとした方が良い。足を引っ張るような事になるぞ」

 生真面目そうな顔付きをした男、“里見拓哉”が呆れたような顔をしてため息を吐く。

「誰に言ってるんだ?」

 遼二は苦笑いをしながら、先日遭遇した吸血鬼を思い出していた。

 思い出すだけで鳥肌が立った。

 誰が見ても感じられるであろう美しさ。それとは釣り合わない、人外の者の動き。遼二など相手はにもならないという自信に満ちた表情。

 目を閉じると、あの時の光景が浮かび上がるようだ。

 あの時、新型の搭載防刃チョッキが無ければ、胸部の肉が裂かれていただろう。

 無論、無事に済んだのは遼二の体術があってこそだった。防刃チョッキ自体に深く傷が入っており、避けずにまともに当たっていればどうなっていたかは分からない。

 遼二は、らしくもなく呟いた。

「初めて、死ぬかと思ったけどな」

 自信家のはずであった仲間を見ながら、歴戦のハンター二人は今回の敵の強さを感じ取った。

「どんな奴だった」

 浅野が腰を下ろしながら言った。表情は珍しく真面目だ。訪問時と空気が変わってしまった事に対する苛立ちが、多少感じられる。

 少し間を置いて、遼二は語りだした。内心、思い出すのだけで脅えるものの、口調は確りし、冷静に言葉にした。

「身長は俺より10センチ程低く細身だ。髪は赤茶でストレートのショート、外人だとは思うが彫りは浅い。奴らが好むような暗い色の服は着てなかった。鮮やかな赤色の服装で…」

 遼二の説明は延々と続いた。やがて日が落ちかかる頃になると、遭遇箇所や相手のイメージがメンバーに刻み込まれていた。

「…そろそろ夜が来るな」

 遼二の言葉に里見が頷き、ケースからライフルのパーツを取り出した。

 浅野は杖を手に取り、仕込まれた刀を確認する。

「新しい弾は効果があったのか?」

 遼二は、里見の問いに首を横に振った。

「分からない。命中はしたが、後を追う事すら出来なかった。効き目があれば何かしら変化があったろうが」

「そうか。あれは値が張る。残数も少ないから持ってきてはいないのだが・・・、使えない物に教会もよく金を出す」

 冷たく言い放ちながら、マガジンに銀の弾薬を詰める。手際が良かった。淀み無く、弾薬は流れるようにマガジンへ吸い込まれていった。

 組み立て終えたライフルにカモフラージュをし、そのまま玄関へ向かう。

「すぐそこの団地に給水塔があった。ターゲットをそこへ追い込んでくれ」

 一言残し、里見は外へ出た。

 それに続き、浅野も杖を手にして玄関へ向かった。

「山県、二手で良いな?鼻を一匹残しておく」

 振り向きもせずに伝えると、靴を引っ掛け、軽い足取りで出かけていった。

 仲間二人が出た後も、残された遼二は動かない。

 部屋の中を見回し、中身の入っている酒ビンを探した。一口で良い、出る前に強い酒が必要であった。シラフで外に出られる気は全くしなかった。




 血が滴り落ちた。

 夜のアスファルトに落ちる赤い体液には、遠く離れたところにある街灯の光さえ届かない。

 眼鏡をした若い男が、伸びきった犬歯に付いた血を拭った。頭に血が充満しているような気分になっているようだ。

 男は、抱えていた女を投げ棄てるように放り出す。女は道路わきの植木に向かって頭から倒れこみ、力無く呻いて動かなくなった。

 まだ息はある。

 女の首の根元には噛まれた後が残っていたが、次第に閉じて小さくなってゆき、最後には虫刺され程度になっていった。こうなると、酔って倒れただけのような状態にしか見えない。

 男は今の現状に大いに満足した。男は、新しい欲求と、それを満たす力を手に入れたのだ。

 力が身体全体にみなぎる。

 視界は別の次元を映したかのごとく美しく見えた。

 反射神経や、今まで感じた事もないような細かな動きが、全身の神経から入力されてくる。

 笑いが止まらなかった。

 男は、倒れて冷たくなりつつある女を一瞥し、闇に消えた。




 エレナは紗季と向かい合ったまま、長い時間をかけて話をした。

 自分が吸血鬼である事、数百年生きている事、過去の苦悩、奪われた仲間たち。

 伝説に登場するような吸血鬼は殆ど偽りで描かれ、日光も十字架もニンニクも、吸血鬼に害のあるものではない。

 血を飲む事はあるが、それが原因で“吸血鬼”が感染して広がる事もないし、血を奪われた人間も吸血鬼自身が気を付けていれば貧血程度で済む。相手の傷口は能力の一つで治るし、瞳には催眠術の能力があるから被害者自身も気付く事はない。

 吸血鬼が染るのは、吸血鬼自身の“血”を分け与えた場合のみ。“体液全般”ではない。

 ウィルスではない為、消毒は効かない。ただし、長い時間体外に出ている血からは“吸血鬼”は蒸発するように消えてしまう。

 また、“吸血鬼”は科学的に見えるものではなく、吸血鬼の血液を顕微鏡で覗いても、何かが存在している訳でもない。

 血に対する欲望と、その抑え方についても説明した。

 欲求が強ければ強い程、もしくは、吸血時の興奮状態になると犬歯が伸びる。口を閉じっぱなしと言う訳にはいかないから、対処する必要はあった。

 長寿である事。説明が困難であったが、これも、ほぼ隠さず話した。エレナが知りうる限りでは、寿命で死んでいった吸血鬼達は見た事が無い。

 もしかすると、未来永劫死ぬ事は無いのかもしれない。それについてだけは伏せた。

 非現実的な話は、紗季には未だに理解が出来ない様子で、呆気に取られた顔をしていた。

「どこで入り込んだのか、あなたには私の血を感じる。普通なら、ある程度以上の私の血が必要なのにも関わらず。なぜあなたの中にあるのか、今は分からない」

 小さなテーブルなのに、お互いがとても遠く感じた。それは、達観した者と受け入れられない者の距離だろうか。

 エレナは、紗季へ“吸血鬼”が渡った過程を調べる事にした。

 相手の血を使い、その過程を調査する事が出来るのだ。

「血の“渡り”を追う事が出来るので、…私の目を見てくれる?」

 エレナは紗季の目の前に座った。

 顔を優しく抑え、目を合わせる。

 とても優しげで、吸い込まれるような蒼い瞳だった。

 甘美な感覚と、全身が痺れたような気持ち良さに満たされていく。

 エレナは、沙希の意識を支配したのを確認すると、ゆっくりと首の根元へ舌を這わせた。

 血管を確認すると、牙をめり込ませる。

 紗季の身体がビクンと弓なりに反った。

 エレナは最初の何秒かの間、傷口から流れ出す血を喉を鳴らすようにして飲んでいたが、我に返ると血を口に含み、味わった。

 僅かなイメージが、まるで霧のように脳裏に浮かんだ。

 何か小さな生き物を感じる。

 浮遊していた。

 子孫を反映する為に血を求めていた。何人か分からないが血を吸っている。その内の一人が紗季である事は間違いないだろう。

 イメージが一転して水の中に落ちた。

 汚れた水の中だ。

 逃げ込んだ下水トンネルを思い出した。

 蚊だ。

 冬でも暖かな下水トンネルで、羽化した蚊が地下鉄の駅に飛んで出たのだろう。

 蚊はその身が幼虫である時、エレナが流した血の中を泳ぎ、その“吸血鬼”を宿していた。

 蚊を通して感染する等、エレナは聞いたことが無かった。

 噛んでも感染のしようがない程だ。それと同じで、蚊を媒介にした程度では染らないと考えられてきたし、前例も無い。

 通常、仲間を作る際には、必ずある程度以上の“吸血鬼の血”が必要なのだ。

 エレナは紗季の首筋からゆっくりと口を離した。

 紗季はうっとりとした顔で遠くを見ている。

「紗季。終わったよ」

 紗季はうな垂れるように首を縦に振りながら、崩れるようにして横になり、酔い潰れたように目を閉じた。

 少し血を抜き過ぎたようだ。

 この状態で支配が解けると、面倒な事になるかもしれない。

 エレナは自分の手首を食い千切り、紗季に自分の血を与えた。


 紗季が目覚めると、エレナが優しい笑顔で迎えてくれた。

「何があったの?私、気絶してた?」

 エレナは首を縦に振った。

「ごめんなさい。調べるのに血をもらったから、何か身体に違いは感じる?」

「いいえ、分からない。少し浮いてるような感じもするけど…、私に何かしたの?」

「調べる時にあなたの血を貰いすぎてしまって、それで私の血を少し分けたわ。いずれ変化が感じられると思うけど…。今はまだ何も分からないかもしれないわね。後、あなたへどうやって渡ったか。蚊を媒介したみたい。普通なら有り得ない事なんだけど、条件が完全に一致すれば可能性はゼロではないから」

 紗季は、ゆっくり頷いた。


 大体の話が済んだ後、エレナはハンターについて話すべきかどうかを悩んだ。

 吸血鬼は血を求める。それは、教会の人間からすれば

「人間は食事をする」事と同じであり、絶対に変えられようの無い事実として認識されていた。

 実際、旧世代の吸血鬼は自制心を持とうとせず、それに間違いはなかっただろう。

 教会は、当然吸血鬼を完全に邪悪なものとして扱い、排除しようとした。

 “吸血鬼も元は同じ人間である”、世代を増やすごとにそう考える者も出てきて、血と狩りの節制に努め始めた。

 当たり前の事だったが、吸血鬼達が節制をしても、教会からの扱いは変わらなかった。

 吸血鬼は一方的に狩られ続けた。

 いつ頃からだったか、吸血鬼の大きな血筋の者達が集まるようになり、反撃に出るようになった。

 戦いは十年以上の間続いた。

 終結したのは四十年前の事だ。

 その時、吸血鬼の大きな血筋は、そのほとんどが教会のハンターに駆逐された。

 運良く逃れたエレナは生き延び、今に至っている。

 その後、エレナは一人になり、人間に紛れて生活するようになった。

 人間の生活に入ってから、何度か恋に落ちた。

 その度に相手を“仲間”にしたが、必ず死んだ。

 どのように発見されたのかは見当も付かなかったが、彼らは全てハンターの餌食になっていった。

 近年ハンターは数が減りつつも、優秀な者が増えている。それだけが要因では無いはずだが、若い吸血鬼は必ず殺される。そう考えていた。

 エレナは紗季を見た。

 同性から見ても可愛らしい。しかも、自分の血を分けた、エレナから見れば娘のようなものだ。

 どうにかして護りたいと思い、決心する。

 先日遭遇したハンターは、エレナのやり方には反するが、殺さなくてはならない。

 だが、相手は手練れである。長い間平和に暮らしてきたエレナには、勝ち目があるかの判断は出来なかった。

 紗季が少し不安そうな顔でこちらを見ていた。

「大丈夫。まずは慣れて。普通に生活出来るから」

 笑顔を見せると、優しく抱きしめた。




 吸血鬼自身で気が付いている者は居ないが、血の欲求がある際、人間には識別出来ないような極微量の香りを出す。

 この香りには特殊な成分が含まれていて、人間の警戒心を弱める効果があった。

 教会は、四十年前にこの香りを発見し、犬を使った追跡、捜索を行い、多数の潜伏先に対して不意打ちに近い形で攻撃を仕方けるに至る。

 これが、四十年前の吸血鬼大敗に繋がった。

 現在も、捜索にこの手段が用いられ、これを担当する者はドッグと呼ばれた。

 浅野は、数匹のシェパード・・・、通称“鼻”を連れてこれをやる。過去に見つけ出した吸血鬼は二十を超えた。

 戦いに置いても敗走の経験がなく、自信に満たされている。足取りは非常に軽かった。

 浅野は今、かなり大きな団地の車道を歩いている。車はあまり通らず、時間帯の為かサラリーマン風の姿が数多く見られる。

 今、浅野が連れいる“鼻”は、大型犬が五匹である。

 道行く人々は距離を置いた。

 遠方に、夜の闇に染まり灰色となった給水塔が見える。

 給水塔が見えるイコール里見の構えるライフルからの射程範囲内と考えて良いだろう。

 練る様に歩き、人通りが無い箇所を探した。数箇所の誘い込みポイントを見付け、地理を頭に叩き込むと団地を後にした。

 捜索は、遼二がメモした情報を元に実施した。遭遇地点から数キロ四方、最大で2駅程度までに留める。

 吸血鬼が好む場所、というものは存在しない。普通の人間と同じで、一人一人が別々の好みを持っているから、捜索は難しかった。

 それに加え、吸血鬼が若ければ若いほど発見は早く、逆に高齢であれば高齢であるほど発見は難しい。若い吸血鬼は血の欲求を抑える事が出来ず、高齢の吸血鬼は血の欲求を抑えるのが早い。

 相手が若い吸血鬼であれば、遭遇の確立は大きく上がるが、そうでない場合、滅多なことでは見付ける事が出来ない。

 その為、参加するハンターがどんなに優秀であったとしても、下手をすると半年の間同じエリアに居る事もあった。

 今回遼二が出会った相手が若いのか高齢なのか、話からは推測が出来ない。若ければ早く見付ける事が出来ると思われるが、時間がかかる事を覚悟してかからなければならないだろう。

 まず、浅野は、人通りが少ない道を重点的に歩いた。

 闇にまぎれて行為に及ぶカップル達に混じり、堂々と獲物を堪能している場合も多い。

 定期的に“鼻”を休めながら、かなりの時間を歩いた。

 五回目の休憩の時点では、深夜になっていた。

 浅野は、駅周辺から円を描くようにして捜索をしていた。丁度、団地から正反対の場所を歩いている時だ。

 “鼻”が二匹、一瞬同じ反応をした。




 紗季は、エレナに付き添われながら歩いていた。

 冷たいはずの冬の深夜の空気が、いつもと比べて身に凍みない。吐息の白さは変わらないのに、感じる温度は室内と変わりがないようだった。

 視覚においては、かなり暗い夜道のはずなのに隅々まで見渡せる程の明るさを感じる。

 感覚は、周囲からの物理的情報に対する処理速度が考えられない程高い。風が吹いた時の枯葉の動きが全て把握できていた。

 エレナと会った時よりも、紗季の能力は研ぎ澄まされているようだ。

 紗季は、自分が変わってしまった事を実感していた。

 隣を歩くエレナの方を見たが、エレナは何も言わない。沈黙に耐えかね、声をかけた。

「寒くは、なくなるのですね・・・」

 エレナはそれに頷いた。

 エレナ自身は何か会話をしたい気持ちがあったが、今更ながら、自分のミスで同族を増やしてしまった事に対する申し訳なさが躊躇させた。

 精神的苦痛や苦労が増えるだろう。

 それが、新たに得られた良い部分と比較して、多いか少ないかは分からない。

 暫く歩くと、エレナと紗季が出会った駐車場に差し掛かった。

 猫は、出会った時に居た車の隣に止まっている車の下に居た。エンジンの冷える音がしているから、その車はまだ戻ってきたばかりなのだろう。

 紗季は足を止めて車の前にしゃがんだ。

 猫は、出てこない。

 その瞳には脅えの色が映り、警戒と逃走準備の気配を感じるようだった。一歩、二歩と後ろに下がっていき、構えを解かないまま紗季を見つめ返している。

 紗季の泣き出しそうな表情を見ながら、エレナは唇を噛み締める事だけしかできなかった。




 遼二は、“鼻”に引っ張られるようにして歩いた。

 表情は少し陰っており、心の底では

「今日は見付かるな」と念じているようだった。

 関係の無い人間から見れば、やる気の無い飼い主が大型犬に良い様に引っ張られているように見える。

 一度、“鼻”が不自然な動きを見せた。遠くを歩く、若い男を目で追ったのだ。

 少し考えたが、

「あの女ではない」その事実が遼二を後押しし、足を動かした。

 ある一定の距離を保ちつつ、行動を見守る。

 “鼻”は、男をしっかりと追いはじめた。

 本来の標的ではなかったが、間違いなく吸血鬼だろう。それも、最近になったばかりの若い吸血鬼だ。視界に入る動くものに敏感に反応しているのが見て取れる。感覚に慣れていない証拠だ。

 男は繁華街を通り抜け、高架線を潜り抜けると、人通りの少ない住宅街に入って行く。

 全くの偶然だったが、この辺りは、遼二があの吸血鬼に出会った場所に近かった。

 もしかすると誘い込まれたのかも知れない。そう思い始めてしまい、遼二は男との距離を少しずつ開きはじめる。

 救いの神はその時、男を挟んで正面に現れた。遠くに数匹のシェパードを制しながら立っている。

「おい!女じゃなかったのか!?」

 相手を小バカにしたような口調で、浅野が大声を上げた。

「想定外だ!こんな奴は知らん!」

 この時点で初めて男が振り向いた。

 鋭い感覚を持ってしても遼二の尾行に気付いていなかったのだ。

 驚きの形相を見せつつ、今の状況を本能的に察知して身構える。逃げ道を探しながら壁際に移動して行った。

「何だ?オマエら」

 男の表情が凍っていく。

 相手が自分に害をもたらす存在だと瞬時に判断したようだった。

 ハンター二人は距離を詰め始めた。

 男に逃げ道はない。

 両サイドは建物な上に道幅も細い。

 片側がマンション、もう片方が塀の高い民家になっているので、逃げるとしたら突破する必要があるだろう。

 自分達の間合いにもうすぐ入る。遼二がそれを意識した瞬間だった、浅野の遥か後方の十字路に2つの影が見えた。

 遼二の背中に冷たい何かが走る。

 先日の記憶がフィードバックし、防刃チョッキを裂かれた瞬間が鮮明に浮かび上がった。

 真の標的が、偶然にもそこに立っていたのだ。

 既に表情に出てしまっており、浅野がそれに気付いた。黙り通す事も出来ず、躊躇いつつも、声を上げる。

「浅野、後ろだ!」

 浅野は遼二の表情を見て瞬時に判断していた。目の前にいる若い吸血鬼とは別の、もっと大きな脅威になる存在が現れた事を。

 遼二の視線は浅野の後ろに向いている。振動のようなごく小さな揺れと、無表情に針の先端程の恐怖が見え隠れしていた。戦闘に置いて絶対的な自信を持つ男の恐怖、それは単純に興味となった。

 小太りな身体が回転するように後ろを向く。勢いで顔の肉が震える。180度後ろを向いた時点で腰を落して仕込み杖に手をかけた。二人の女性が視界に入る。片方は髪の色がワインレッドだった。遼二の表現した通りの女だ。

 浅野はアスファルトを目一杯蹴り、駆け出した。

 標的は遼二の声に反応してこちらを見る。タイミングを僅かにズラして殺気を放った。

 浅野は、巨大な剣山かにでも飛び込むような錯覚に陥った。だが、この男の勇気は飛び込む速度を全く緩めない。

 遼二が浅野の後を追ったのはその直後だった。茫然とした若い吸血鬼の横をすり抜けて全力で走った。

 前方を走る仲間との距離が縮まらない事に焦りを感じる。相手の間合いに入ったら真っ二つになるかもしれない。

「浅野!間合いを意識しろ!」

 浅野は、飛び込む速度を変えない。自分の間合いに入ると同時に斬るつもりがあり、確実に倒す自信があったのだろう。

 浅野と標的、その距離五メートルに迫る。その後方二十五メートル程のところ、遼二が武器も構えずに追いかけていた。

 標的の隣に居るもう一人の方が、突然走ってくる浅野を見て悲鳴を上げ、夜の住宅街に金属でも擦るように響き渡る。

 最初の浅野の言葉から始まりこの悲鳴、近隣の住人に確実に不安を与えているだろう。

 悲鳴が止むよりも前に浅野は標的を間合いに入れて一太刀を閃めかせていた。だが、鞘から半分も抜かない内に標的は視界から消えている。

 あまりの動きの早さに、文字通り消えたようにすら感じられたが、気配は後ろに移っているのが感じられた。返す刀で背後を斬ろうと刃を反転したタイミングで、背後からの当身を食らって一メートル半突き飛ばされる。

 トラックにでも撥ねられたような威力だ。浅野はそのまま、潰れた蛙のように伸びた。

 遼二が構えを取ったのは、浅野が突き飛ばされた直後だった。

 標的との距離をかなり置いて慎重に歩み寄る。

 あまりの恐怖に、冬だというのに汗が頬を伝った。

 だが、恐怖よりも戦って生き残る事に意識が集中されている。逃げ出すよりも足が前に進んだ。

 しかし、どうするべきかが判断出来ない。

 次の行動を考えなければならないのに、悩みが心を支配した。下り螺旋階段を駆け下りるような、降りれば降りる程光が無くなっていく、そんな気分になる。

 この状態で殺気に中てられては心が持たない。

 その状態から脱する為、遼二は標的の吸血鬼の後方に居るもう一人を意識した。

 視線は標的に向いたままなので直視はしていないし暗い夜道だが、何となく分かる。日本人だが、色素が薄くなりかかっている。

 先程の男と同じく、若い吸血鬼だろう。

 恐怖に正常な判断が出来なくなりつつあったが、一旦意識を別に向けることで、遼二は自分の置かれている状況を把握し始めた。

 相手の出方を見たいため、後ろの気配に気を配りつつ、正面の二人に向けて殺気を放った。

 標的は怯む様子もない。喉元に剣を突きつけるような威圧感でそこに立ち、絶対的な優位を持ったまま見下ろすように存在している。

 残りの二人がどう出るかは分からないが、戦闘経験があるかどうかはこの状況では判断が難しい。何も考えずに見ると、標的の側に立っている若い女吸血鬼はとても戦えるようには見えない。

 どちらにしても、残り二人が戦えるとした場合、“鼻”は訓練された猟犬ではないから実質三対一である。

 さすがに三人相手に戦って勝つ自信はなかった。

 若い吸血鬼二人は同時に相手にしても勝てるとは思えるが、標的の女については数人がかりでも殺れるかどうか分からない。

 こう着状態が続いた。実際は数秒経った程度だろう。

 冷たい空気が拳を冷やす。

 視線を逸らすことが出来ず、まばたきもあまり出来ない。

 目が乾き始めた。

 標的の瞳は遼二の目を逃そうとはしてくれない。

 本来あるべき状態とは完全に逆の立場になってしまっている。遼二は自分が獲物になっている事を理解し始めた。

 このままでは確実に引き裂かれて終わるのではないだろうか。

 ゴクリと喉が鳴った。

 自分が死ぬかもしれない事よりも、戦う術すら思い付かない自分に口惜しさを感じる。

 時がゆっくり流れるような感覚が、次第に止まったように錯覚しだした。

 逃げ出したい気持ちが漏れ出しそうになる。だが、気圧されていつつも、遼二は殺気を強めて大きく一歩踏み込もうとした。その瞬間、浅野がうめき声をあげる。

 仲間の迂闊にも、遼二の視線が浅野に移ってしまう。

 死んでいてもおかしくないような大きな隙だった。だが、場の空気が一転した。

 殺気に埋め尽くされ、ピンと張り詰めていたものがサッと引いていく。

 遼二の隙をついて、標的の女吸血鬼が連れを担いだ。遼二を一瞥すると、振り向きもせずに、元歩いてきた方向とは逆へ向けて全力で走り出す。遼二は不覚にも、一瞥した時の相手の美しさに見とれてしまった。

 標的は、一人担いでいるにも関わらず、多分走って追いつく事が出来ないような速さだった。あっという間に姿を消す。

 そして、それを合図にして後方の男も逃げ出した。こちらも身体能力が上がっているためか、走って追いかける事が出来るかどうか分からない。

 本来の標的を追いかけるか小物を確実に仕留めるか、たった二つの選択肢を迷い、遼二はその場から動く事が出来なかった。

 マンションの窓が恐る恐る開く音がして、誰かがこちらを見下ろす。

 夜でも明けそうなくらい長く感じたが、ほんの数分の出来事だったらしい。

 遼二は、何もなかったように“鼻”を纏め上げ、背中を押さえて肩膝を付いていた浅野を引っ張り立たせた。突き飛ばされた時に顔面を打ったらしく、鼻血を流している。

 浅野は不満そうな顔をして“鼻”を全匹遼二から引き取った。

「山県、バカにしてすまなかった。俺が動きを追えないとはな・・・」

 とは言いつつも、遼二の方を見ようともしなかった。

「いや・・・」

 浅野が携帯を取り出す。

 支部へ初回失敗の報告をし、その後に里見へ電話した。

 状況の説明と作戦の立て直しを提案して電話を切る。

 ややあってから小さな声で、そして素早く遼二に問いかけた。

「奴は何故、俺達を殺さなかった?」

 浅野はようやく遼二の方を振り返った。

 納得のいかない、目一杯の不可解を表現したような表情をしている。

 今までは、お互いが敵同士で殺し合うものだと決め付けていた。だが、自分達が相手に取っている行動と相手が自分達に対する行動の違いを知ったからである。

 元々教え込まれた吸血鬼とは違う。今回の件でそこまで感じ取っていた。

「弄ぶつもりなのか、そもそも悪い奴じゃないのか。どうだろうな?」

 最初に男を追いかけていた時は罠かもしれないとすら考えていた。だが、罠ではなかった。もし罠だったのであれば、遼二達は死んでいただろう。

 標的が連れていたもう一人が浅野の行動を見て悲鳴を上げているし、もう一人の男の方も連携が取れていたようには見えなかった。

 教会から受けた教えは本当だったのか。

 過去、狩ってきた吸血鬼達は自分達を上回る事がなかったから気が付かなかったが、一方的な攻撃を続けてきた可能性がある。

 吸血鬼の存在が本当に邪悪なものであるかも、遼二には分からなくなってきていた。

「何故、俺達を殺さなかったんだ?」

 浅野は繰り返した。もしかすると、遼二と同じ事を考えているのかもしれない。

 腕を組み、鼻血が流れるのも構わず考え込んでいる。

「浅野、とりあえず戻ろう。通報されている可能性がある」

 遠くでサイレンの音が鳴っているような気がしていた。

 浅野は頷くと、“鼻”を強引に引っ張り歩き出す。遼二もそれに続いた。



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