吸血鬼

著 : 秋山 恵

伝染



 暗がりの中、ヒタヒタと足音が響いた。

 迂濶だった。まさか、真っ昼間の住宅街で撃ってこようとは。

 被弾した左脇腹を手で力一杯押さえながら、その吸血鬼、エレナは倒れ込んだ。

 肌は透き通るように白い。

 髪は赤茶色だが、染めているのだろう。根元をよく見ると、僅かにブロンドが覗いている。目は青く、とても色が薄い。

 全体的な容姿は美しく、見る者を魅了するようだった。顔つきが日本人に似ているので、どこかでアジア人の血が混ざっているのかもしれない。

 エレナはもうこれ以上前に進む事が出来なかった。

 出血のせいだけではない。体内に食い込んだ弾丸がその周囲の肉を焼くように痛みを激しく感じるのと、込められた呪術的な何かが発動しているからと考えられる。

 呪術的な何かと判断したのは、傷に対する出血の量が多い為だ。少しずつ出血量が増えているようにも思える。

 弾丸を中心に身体の機能が正常に働かなくなっているようで、患部に近いところは激痛が絶え間なく走り、そこから放射状に針のように痛みが突き刺さるような感覚がある。

 一度突き刺さる感覚があった箇所は痺れてしまい、少しずつエレナの身体を浸食していった。

 この感じだと、後一時間で全身に広がるだろうと思われた。

 エレナは倒れたまま辺りの様子を窺った。

 ここは、追っ手を振って切り逃げ込んだ下水道だ。

 人間の汚物や卵の腐ったような激しい悪臭を放つ汚水で満たされており、あまりの臭いに二度程吐いた。

 口で呼吸しても臭いが感じられている。

 エレナは、真冬で良かったと呟いた。

 エレナが居るのは下水管の中だが、足場がある。何とか座れる程度の幅だが、それで十分だった。

 少し先を見ると太い管に接続されているのが分かる。そちらは雨で多少増水していて、足場のすぐ近くまで汚水が届いていた。

 エレナが辿り着いたところは、接続している少し細めの管で、水の流れがほとんど無く、淀んでいる。

 少し離れた先の水が流れる音と、時折離れたところで響く地下鉄の走行音以外は何も聞こえない。

 照明等は一つも無く、普通の人間の目であれば何も見えないであろう。だからこそ、こんな場所に逃げ込んだのだ。

 時折、猫のように巨大なネズミが駆け、その度に身構えた。

 ハンターが追ってくる可能性はほぼ無いと確信してはいたが、それと同様の慢心が、この危機的状況を生み出したのだ。

 警戒を怠る事は出来なかった。

 この状態では戦う事は出来ないだろう。だが、事前に接近を察知する事が出来れば、目の前の汚水に飛び込んでやり過ごす事が出来るかも知れない。

 連中はエレナのように夜目がきく訳ではないから、余程念入りに捜索しなければ見付からない筈だ。

 エレナは苦痛に顔を歪めながら身体を起こすと、太ももに縛り付けて隠してあったダガーを手に取り、ライターを取りだし、熱した。

 体質上一般的な細菌には感染しない。得体の知れない何かが付着しているかもしれないと考えたからだったが、まず意味は無いだろうと思われた。

 念には念を…、といった気持ちがそうさせた。

 刀身が充分に熱されたあたりで火を止めた。

 少しの間見つめた。

 暫く決心がつかなかったが、左脇腹の痛みにも耐えられなかった。

 ダガーを傷口に当て、一呼吸を起き、意を決すると、歯を食いしばって挿し込んだ。

 激痛に一瞬後悔したが、そのまま気力でカバーし、異物がある箇所へ潜りこませた。

 金属と金属の当たる感触を確認すると、更に少し挿し込み、外側からも手で押さえ、ねじるようにして掘り起こそうとする。

 視界がブラックアウトし、痛みで意識が遠のいた。頭が大きく後ろに反り返り、コンクリの壁面に打ち付けられる。

 一瞬手の力が緩み、本能的に動きを止めたが、もう引き返すつもりはなかった。顔を歪め、声にならない悲鳴と共にえぐりだす。

 深くはない。内臓は全く無事なようだ。

 大量の血液と共に異物が転がり落ちた。

 銀で造られた弾丸だ。

 吸血鬼に対して銀の弾丸は効果等無い。それは人間の迷信だ。

 だが、弾丸には彫りこまれた呪術があり、それが効いた。

 どうやら教会発祥のものではなさそうだ。よく見ると東洋の文字に見える。付着物の正体を見て、エレナは安堵した。

 同時に痛みが退いていく。

 出血は続いていた。目の前の淀んだ汚水へと流れ込み、それは少しずつ面積を広げていった。

 先程までの痛みが緩和されたのは良かったが、今度は意識が薄れてはじめていた。

 エレナは着ていた上着を脱ぎ、傷口に被るようにして、袖を使ってキツく縛った。何でも良い、とにかく止血する必要があった。

 これ以上出血すると、傷が癒えた後に理性を失った行動を取ってしまうだろう。本能に従って行動するのはリスクが大き過ぎる。

 通常、吸血鬼は自制心を持っており、身体が血を求めても我慢が出来る。

 血を求めるのは性的欲求と直結している行動なのだが、そういった側面から見ると、通常は我慢出来るレベルのものである事が理解が出来るだろう。

 よく物語として語られる吸血鬼は、彼等から見れば所謂性犯罪者のようなものである。

 だが、本能的なものであった。

 大きな怪我をした場合等は、生き延びる為の手段として血を欲する。治癒に大きく力を使う為だった。そして、使いすぎた力は自然にはなかなか補充されない。

 力が減りすぎると、性的欲求で感じるよりも遥かに大きく血を求める。これは、飢餓状態に近い感覚と言えた。こうなってしまうと、獲物が死ぬまで貪る。

 獲物が死んでしまえば、後始末にかなり困る事になるだろう。

 後始末がうまく出来ない場合は痕跡を残す事になる為、ハンターに追跡の材料を与えてしまう。

 昔と違い、ハンターも力を持つものが多くなった。今日偶々遭遇したハンターもそうだ。力負けはしなかったが、隙がまるでなかった。

 武器の差でエレナが劣った。

 伝承で言われるようないくつかの迷信は、今の時代のハンターには常識として伝わっている。十字架、ニンニク、そんなものは効果が無い。

 強いて言えば太陽の光だが、灰になるなんていう面白い事には発展しない。

 元々吸血鬼は色素が薄い。これが太陽光に弱いと言われる理由の一つだが、日中でも外で行動する事に制限はない。

 ただ、日中は光が強すぎるので、眩し過ぎて目を開いているのが多少辛くなる。この為、そして後は目の色を周囲に見せない為、サングラスをかける事が多くなった。

 昔はこんな便利なものは無かった為、日中は寝て、夜に行動するのが常であった。

 エレナは血だまりを、表情も無く見続けた。

 あのハンター、ただのサラリーマンにしか見えなかった。帰宅途中の住宅街。偶然サングラスを外していた。

 目を見られたのだ。

 目が合ったあの瞬間、鋭いナイフのように変化した瞳、殺気、虎にでも会ってしまったような感覚。

 思い返すと背筋に冷たいものが走る。

 身体能力で勝っていたから逃げられたのだが、相手の射撃能力が高過ぎた。走って逃げる最中に背後から撃たれた一発が命中したのだ。

 普通ならそうそう当たらない距離だった。

 心臓、首、頭のどこかに当っていたら・・・、そう考えると、本当に運が良かったのだと思えた。

 汚水が血に染まっていた。水が淀んでいる。

 何か小さいものが蠢いているのが見えた。糸屑が水の流れに踊るようにも見える。エレナの血液が混じった汚水の中を、その小さな生物は踊り狂った。

 まるで、苦しみもがくように。

 エレナは、それを見ながら微睡み、次第に深い眠りへと落ちていった。




 静かな部屋の隅で、山県遼二は震えていた。

 細みな割に、筋肉質な男だ。

 恐らく、今日遭遇した吸血鬼は今までで一番強い。遼二はそれを確信していた。

 ヴァンパイアハンターとなり6匹を殺した。力の無い吸血鬼ばかりだったが、今日のは違う。

 異能の化け物相手に、体術においてでさえ負けた事が無かった遼二は、少しばかり自分を過信していたようだった。

 あらゆる判断においてほぼ完璧に動けていたつもりであったが、ただ一つ見誤った。

 あの場で行動を起こし、戦いを挑むべきではなかった。

 撃った一発は命中したが、致命傷にはなっていないだろう。新しいタイプの弾丸も効果があったかが分からない。


 不意に、机に置いてあった携帯が振動し、不快な音を鳴らした。

 遼二はビクリとして恐る恐る携帯の方を見る。

 不安な気持ちを押し殺し、遼二が携帯を開くと、メールが届いていた。

『赤毛の吸血鬼の情報はありません。以下2人を送りますので、対処下さい。浅野聡、里見拓哉』

 教会の東京支部からのものだ。

 増員2名。それでも、まともに戦えば負けるだろう。そう見積もった。

 遼二はゆっくりとキッチンへ行き、ウィスキーのビンを手に取った。

 中身はほとんど入っていない。

 残りの全てをゆっくりとグラスに、最後の一滴まで注ぐと、空のビンをグラスの上で数回振り、ゴミ箱に放り込んだ。

 ゴミ箱からは大量の空ビンが溢れている。

 この少ないウィスキーでは、もう酔えない。

 遼二の震えは止まらなかった。




 エレナが目を覚ましたのは、眠りについてから2日後だった。

 悪臭で顔をしかめつつ、身体を起こした。身体中に臭いが染み込んでいそうだ。洗っても暫くは残るだろう。

 傷口は塞がったようだ。痛みは残っているが、普通に歩くことも出来そうである。ただし服が血で汚れているので、時間によってはまだ潜伏していた方が良い。

 エレナが腕時計を見ると、短針が2時を指していた。アナログ時計の為、昼か夜かが分からない。

 傷痕を押さえながらゆっくり立った。

 傷口は完全に塞がっているが、まだ痛む。

 動く度に、被弾していた箇所に、釘でも打ち付けられたような感覚があった。完治していないだけで、弾丸の呪術によるものではないだろう。

 痺れは消えている。

 治癒にかなり血を使ったようで、激しく喉が渇いていた。

 まだ理性は保てると思われた。だが、炎天下の中、汗だくになって歩いた後のような状態だ。

 手近なところで補充するべきだろうかと、暫くの間悩んだ。

 エレナは外の様子を見る事にし、ゆっくり移動をはじめた。

 左足に体重がかかると、傷が痛んだ。必然的に、体重をかけないよう、左足を引きずるように歩いた。


 出口に辿り着くまでに何匹かネズミを見かけた。

 悪食な吸血鬼であれば、まずネズミに手を出すであろう。動きがある度に鋭く目が追っていたが、プライドが許さなかった。

 ネズミを喰らう事が、ではない。

 無闇に喰い散らかすのは、高貴な吸血鬼の血筋を引くエレナには恥ずかしい事という意識がある。

 節操のない行動は慎みたかった。

 エレナは、延々と続く下水トンネルを歩き、幾つかのハシゴを上った。

 真冬だと言うのに、下水の中は暖かかった。

 無音の世界、狭く閉鎖された筒の中、小さな生き物の気配で溢れていた。

 小さな気配達はエレナの気配を感じ、あるものは逃げ出し、あるものは寄ってきた。

 頬に小さな生き物が張り付き、エレナを品定めをする。相手が何者であるか気が付くと逃げ出した。

 人が出入りするようなエリアに入り、警戒しつつ出口の扉に移動した。

 数分程歩くと金属製の扉があった。

 手をかけると、心が落ち着くような深夜の気配が、ドアノブを通じて感じられた。

 内鍵を開けてゆっくりと扉を開くと、新鮮な外の空気が隙間から流れ込んでくる。顔いっぱいに外の空気を浴びた。清流の流れに沿って泳ぐ川魚のような気分である。

 扉を開けきると、やはり外は夜だった。住みかの近隣の駅の近くにある、下水への出入り口だ。

 この周辺数駅は住宅が多く、夜は特に静かだ。駅はどれも古く、住みかの最寄り駅はカビでも生えていそうな雰囲気があった。

 あまりにも駅が古く、ひび割れた箇所もいくらか見られる。下水の臭いがする場所もある。

 エレナは、周りを気にしながら住みかへと歩き始めた。

 この深夜に、傷を庇いながらおかしな歩き方で歩いている若い女性というのも不自然である。

 出来れば誰にも会わずに帰りたい。

 地上に出てから、ヨタヨタと三十分程歩いた。

 自分名義で借りている部屋ではなく、最寄り駅から反対方向へ数分離れた場所にある廃屋に向かう。

 自分の部屋は、周辺にハンターが張っている可能性が捨てきれなかった。


 廃屋の入り口は完全に塞がれていた。建物体全体にツタが絡まっており、冬なので葉は枯れているが、鬱蒼とした雰囲気があった。

 エレナは建物の裏手に回り込んだ。塀と建物の間に木箱が積み上げられている。表からは見えないので、木箱が比較的新しい事に気付く者はそうそういないだろう。

 木箱は一見無造作に積んであるようだったが、手前の幾つかは動かす事が出来るようになっている。

 エレナは箱を引きずり出すと、建物に張り付けてあるベニヤ板をずらして中に入った。

 中は小綺麗に片付けてある。物はほとんどない。スポーツバッグとジュラルミンのケースが一つ、後は小さな冷蔵庫が置いてあった。

 電気も、どこからか引き込んであった。

 足音も殆んど立てずに入り、エレナは着ている物を脱ぎ捨てて真っ直ぐ風呂場へ入っていった。

 風呂場は、水だけは出るようになっていた。ガスは通っていない。完全に真水だったが、エレナは頭からシャワーを浴びた。

 真冬の水は冷たかったが、あまり寒くはなかった。

 吸血鬼になってからは寒暖に強くなっていたから、このような無理はよくやってのけた。

 乾いた血を洗い流すと、鏡で被弾箇所を確認した。

 塞がった傷口の内部が赤いのが見て取れた。

 完治まではもう少しかかりそうだ。周辺を撫で回していたが、うっかり強めに触ってしまい、エレナはうめき声をあげ、膝を付く。

 暫く身動きが取れなくなった。

 俯き、痛みに耐えるエレナへ、冷たいシャワーの水が降り注いだ。




 地下鉄の構内は、雪の降るような季節でも暖かかった。そのせいか、場所によっては一年中蚊が飛んでいた。

 よく見ると、線路の辺りに数匹小さい黒い点が浮いているのが判る。

 悪臭が漂っているから、どこか下水と繋がっているような隙間があるのかもしれない。

 秋山紗季が超音波のような羽音を聞き、首筋付近にチクリと感じたのもその辺りだった。

 一瞬何事かと思いかけたが、元々蚊が飛んでいるのは知っていたから、素早く手でパシリと叩いた。

 やったかな?と掌を見て目を疑った。

 そこいらで見かけるようなサイズではない。あり得ない大きさではなかったが、都会でこのサイズは見たことがなかった。田舎の祖母の家の裏庭に居るような大きさの蚊だ。

 羽と脚が不様に折れている。腹が潰れ、掌には血が付いていた。それほど吸われてないはずなので、誰か別の人のものだろう。

 大きさのせいも手伝ってか、気持ちが悪くなった。

 首筋の辺りを触ると、指にも血が付いた。かなり吸っていたのだろう。電車が着いていたが、ティッシュを切らしている事を思い出し、指で何度か拭ってからトイレに向かい、手を洗った。

 誰の血だか分からない為、気持ちが悪い。

 早く洗いたいと感じた。

 紗季は、どちらかと言うと潔癖な方である。乗り物の吊革や試聴用のヘッドホンは触れなかった。

 勿論、誰のものか分からない血には大いに拒否反応を起こす。

 そもそも、他人の血が苦手だった。小学生の頃は同級生の鼻血にパニックを起こしたものだ。

 紗季は、いつまでも首筋が気になった。

 次の電車が着いて飛び乗った後も、首筋付近に違和感を感じていた。それは次第に、気になるといったレベルではなくなってきていた。

 特に痒いとか痛いとかでは無い。冷えていると言うか、少し感覚が鋭くなっているような感じがした。

 熱が上がる最中に身体が敏感になるような事があるが、そういった感覚とは違う。単純に感度が増しているようであった。

 その感覚は、帰宅後にシャワーを浴びても消えず、むしろ広がっていくようだった。だが、不思議と不安は感じなかったし、シャワーを浴びる頃には、さも当然の事のように気にしなくなっていた。

 ただ、確実に何か変化が起きていた。

 紗季がその事を意識したのは、それから数日先の事になる。




 エレナはシャワーを浴びた後、そのまま倒れるように眠り、ほぼ1日を費やして傷を回復させた。

 目を覚ました時は既に1日経っていて、また夜になっていた。

 埃の臭いがする。遠くを走る車の音が時々聞こえた。

 エレナは薄暗い部屋の中全く動きを取らずに傷口へ集中し、完治する頃には、完全に血が不足しはじめていた。

 渇きはより一層増し、意志を確りと保たなければ、本能に負けて暴走してしまう状態にまで進行していた。

 血を求める衝動を止めようとしたが、心は無意識に狩りの準備を進めている。

 若い男の首筋や手首を想像して官能的な気分になりかかり、エレナは大きく首を横に振った。

 本能を刺激しないようゆっくり体を起こすと、身体を引きずるようにして冷蔵庫へ向かい、中にパックされた血液が保存されているのを確認した。

 エレナはそれを2つ取り出し、一気に飲み干す。口中に鉄の味が広がった。しかしそれは、エレナにとっては甘い果実酒のようなものだった。

 赤い液体は、乾ききった砂に水をかけるように瞬時に身体中に染み渡っていき、暫くすると少し楽になってきた。だが、血の絶対量が足りていなかった。

 ただ、このレベルなら、エレナは堪える事が出来る。一月もすれば正常に戻るだろう。

 エレナは髪をかきあげながら鏡の前に立ち、傷のあった場所を確認した。

 見かけは白く綺麗な肌に戻っており、外側から触ると痛みも消えていた。

 血の使い過ぎか少し痩せたように見えた。少し力が落ちているようであったが、この状態なら、ハンターに遭遇しても何とかなりそうだ。

 エレナはスポーツバッグの中に詰めてあった服を着て、ジュラルミンの中に入っていた大型のグルカナイフとサイレンサー付きのハンドガンを取り出し、腰にぶら下げるた。それを隠すように上着を羽織ると、外に出た。

 とりあえず、ちゃんとした自分の部屋に戻りたかった。ちゃんとしたシャワーを浴びて、お湯をたっぷり張った浴槽に飛び込みたかった。寒暖の差に強いとは言え、そこはやはり女性であった。


 エレナは廃屋を後にした。

 夜空には満月が浮いている。

 血がざわめいていた。満月に呼応するように、肌が波打つ感覚があった。




 秋山紗季は自分の瞳の色素が薄くなっている事に気が付いていた。

 鏡に向かい、幾度も見詰めた。

 瞳の色もそうだが、肌も白い。元々白い方だが、この色は紗季自身も異常と感じる程だった。

 髪は染めているので分かりにくかったが、色が明るくなっているので、同様に色素が薄くなっているだろうと思われる。

 友人に電話で相談したが…

「気のせいじゃない?あなた昔から神経質なんだから。気にしない気にしない。体調は良いんでしょ?」

 と、一蹴された。

 鏡に映る自分とデジカメに写った自分を見比べてみたりもしたが、やはり色素が薄くなっているようにしか見えなかった。

 何かの病気かも知れないと感じる反面、体の調子は最高に良く、力に満ち溢れているようでもあった。その証拠に、買ってきたばかりのジャムの蓋が素手で軽々と開ける事ができた。

 非力だった紗季には、こんな事は生まれて初めてであった。

 他にも、夜が非常に明るく見え、寝るときに全ての照明を落としても、まるで昼間のように周りがよく見えたりした。

 逆に、昼間外に出ると、日差しが強い時は眩しくて目を開けているのすら辛い。

 動くものに敏感に反応するようになり、視界の端で何かが動くと、それを目で追った。

 元々視力は良い方であったが、更に良くなったようで、普段気にしないような細かいゴミが気になった。

 異変は身体だけではなった。

 肉食獣のような感情が、時折紗季の心を支配した。

 友人にその事を話すと…

「欲求不満なんじゃない?最近してないでしょ」

 と返ってきた。

 確かにご無沙汰ではあったが、そういったものでは無い事だけは、紗季自身よく分かっていた。

 純粋に獲物を狩り、切り裂き、血肉を味わいたいという本能が芽生えてしまっていた。

 その本能は、暫くは軽く心が動かされる程度の状況だったが、次第に欲求へと変貌していった。

 この欲求は、性欲ににも食欲にも繋がっているように感じられた。

 紗季自身が確実に自分が異常であると認識したのは、その日の夜の事。コンビニでスパークリングワインとツマミを買って帰る最中の事だった。


 駐車場の前を通った時、車の下に居る猫と目が合った。

 駐車場に入ってまだ間もないのか、車体に熱が残っているようで、猫はその下で体を温めていた。

 猫は黒く毛並みが良い。車の下に潜り込んで、尚且つこの色である、以前の紗季であれば気が付かなかったであろう。

 紗季は、コンビニの袋から猫が食べれそうなツマミを取り出すと、猫に差し出した。

「お裾分けね」

 優しい声をかけた。

 人懐っこいらしく、猫はすんなりと出てきてそれを食べ始めた。

 子供の頃の話だが、紗季は猫を飼っていた。もう死んでしまったが、毛並みの良い黒猫だった。

 似たような猫を見ると、つい思い出してしまい、胸が締め付けられるような気持ちになる。

 味をしめたのか、猫は密着する位置までやってきて、おねだりするように紗季に体を擦り付けた。

 紗季は体を撫でてやりつつ、おかわりを渡す。

 徐々に感情に異変が起きはじめていた。

 猫の柔らかそうな部分に視線が移動する。

 ゴクリと喉がなった。

 吐息が多少荒くなり始め、切り裂き、食い千切りたい衝動に駆られた。

 考えている事の内容がおかしく、気が動転しはじめる。

『血肉を啜れ』

 本能が狂ったように叫び、理性が消えかかった。

 身体が震えていた。

 異変に気付いた猫が車の下に飛び込んで行くのを見ながら、紗季は涙を流した。

 子供の頃に飼っていた猫の轢死体がフィードバックする。

 玄関のドアを開けると同時に飛び出す猫。車のブレーキ音。一瞬止まった車が走り出す瞬間。後に残った小さな黒い毛皮と肉塊。血だまりが家の前の道路に模様を描き始めていた。

 悲しい場面、それとは裏腹に、血に対する欲求が爆発しそうになっていた。激しい鼓動と興奮。

 紗季はゆらゆらと立ち上がった。

 そして、そこで彼女と出会った。




 吸血鬼同士は、お互いが吸血鬼である事を認識出来る。

 人間と吸血鬼は、吸血鬼から見れば人種の違い程度のもので、例にあげるとアジア人と白人のようなものである。

 だが、それくらい容易く認識出来る事になる。

 住みかに帰ろうとしたエレナが偶然見付けた女も、人間ではない事がすぐに分かった。

 エレナは、目の前の同族を見つめた。生まれて間もないような若さだ。力があまり感じられない。そして何か不安定であった。

 若い吸血鬼はハンターの標的になりやすい。このまま放っておくなんて事は、エレナの性格上出来なかった。

 女は自分の感情に困惑しているようだ。手に取るように分かる。エレナ自身の時にそっくりだ。

 血に対する欲求の意味が分からない。

 エレナ自身も困惑していた。

 この近辺に自分以外の吸血鬼はいないはずだったし、付近で活動すれば何となく分かる。目の前の女がどこからわいて出たのか不思議だった。

 若いという事は、何らかの原因で感染したとしか考えられない。

 別の吸血鬼の存在が感じられないとしたら、エレナしかいないだろう。

「こんばんは」

 警戒させないよう努めて笑顔を作り、エレナは日本語で話しかけた。日本には四十年以上住んでいる為、下手な地方出身者よりも綺麗に喋れる。

 相手は硬直していた。

 自分に起きている異変、見知らぬ女。

 女は暫くしてから応えた。

「何が起きているの?」

 女は涙が止まらないようだった。

 その女にも、もう既に分かっていた。エレナが人間ではないであろう事、自分も恐らく同じになった事を。

「あなた、名前は?」

 エレナは笑顔を絶やさない。

 警戒させない程度にゆっくり女の目の前まで移動する。

「大丈夫、安心して。全て話してあげる。だから、まず名前を教えて欲しい」

 女は答えた。

 かすれたような震えた声だった。

「秋山…、紗季…です」

 街灯がスポットライトのように、二人を煌々と照らしていた。



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