ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

B.染谷流・空手道場


 瞑目し、脳裏に想起するのは水面の静けさ。

 肺の空気を七分に保ちながら、その水面から緩やかに広がる一つの波紋を意識する。

 凝集と、拡散。

 烈しい業火と、氷河の凍気。

 精神の津波はその狭間で荒れ狂う。

 脳裏からあふれ出した波紋は大きな波になり、首から肺へと流れ落ちて胸の空気と融合した。さらに鳩尾から丹田へと。そこで一点に凝集していく“力”。

 僕はゆっくりと目を開き、正面に立つ空手着姿の小柄な“老人”を視界に捉えた。

 その姿は、春の田に立つ農民の姿に似ると言われる“無形の型”。

 染谷流空手の開祖・染谷大悟先生。

 僕の大学の、空手部の師範。

“老人”の皮をかぶってはいても、正真正銘の武道家だ。

 僕は、その目を見たりはしない。視線を合わせれば、飲み込まれ、惑わされるだけだ。

“老人”の姿を輪郭として捉え、僅かな変化にも備えて左中段に構える。

 心の波がわずかに揺らいだ。

 その揺らぎの正体が、ためらいによるものと自覚する前に、僕は踏み込んだ。

「破っ!」

 裂迫の合気が、三年の歳月を超えて喉の奥からほとばしる。

 同時に、右の前蹴り。

 瞬時に右に転身した“老人”の顔面に、右の裏拳を放った。

“老人”の上体が、流れるような動作で這うように沈み込む。

 ふいに、“老人”の姿が真っ黒い影に変貌したような錯覚。

 その幻影の中心から、黄金色の双眸が僕の全挙動を凝視する。

 蹴り上げた僕の右足が接地する刹那、“老人”は低い姿勢から身体ごとぶつかってきた。

 軸足だった左の内膝に激痛が走る。恐らく、掌低での関節への打撃。

 その正体を把握する前に、僕は逆方向に跳んだ。

 追撃してきた中段左回し蹴りを裏拳突きの引き腕で打ち払い、左の手刀突きを相手の首筋に叩き込もうとした。と、交叉して放たれた左貫手が、僕の眼球に真っ直ぐ伸びてきた。

 無論、フェイント!

 だが次の瞬間、その貫手は蛇の鎌首ように鮮やかな弧を描いて僕の首に巻きついてきた。

 五本の指は、獲物の喉笛を食い破る肉食獣の顎だ。

 狙いは、頚動脈。

“老人”の技の結界を破るには、再び大きく跳ぶか、或いは!

 僕はその腕を掴んで“老人”を力任せに引き寄せ、強引な態勢から左の膝蹴りを胴体の中央部に打ち上げた。年齢の違い。筋力だけは、僕の方に分がある。

 しかし、再び左腿の内側に激痛!

“老人”が僕の膝蹴りを右肘で受けたのだ。

 それも、正確に急所の点穴に。

 僕は“老人”を突き放し、十分に間合いを取って対峙する。

 その直前、幻の正拳突きが僕の人中を貫き、破壊していたのを意識した。

 これが、本当の“寸止め”の極意…。

「まいりました」と、ぼく。

“老人”・染谷先生は無形の型のまま、ニコリと笑った。

「いやいや。ブランクの割には、なかなかだったよ、水谷君」

 わずか十秒足らずの攻防で、僕の全身は冷や汗でぐっしょりと濡れた。

 当然だった。今の僕が出来る、本当に全身全霊の戦い。

 呼吸を整えるだけでも一苦労。

 それでも、なんとか呼吸を止めて一礼した。

「ありがとうございました。おかげで、ずっと気になっていたことを確かめることが出来ました」

「おや?」

 染谷先生は返礼しながら、小首をかしげて道場から出て行った。

 夜の帳が迫る夕暮れの中、僕はさっさと着替えを済ませた。

 いつの間にか、天井の蛍光灯が灯っている。

 手に缶コーラを二つぶら下げた先生が戻ってきたときには、空手着をたたみ終えていた。

 目が合い、僕がまた一礼すると、先生はニッと笑った。

「で、何がたしかめられたんだ?」

 おもむろに放り投げられた缶コーラを、僕は顔の前で受け止めた。

「はい。実は、ラリーを始めました。自動車競技のラリーです」

「おや?」

 それから15分ほど、僕はラリー体験についてしゃべり続けた。

 出来る限り、理路整然と。

 記憶にある限り、色とりどりの感情の起伏を交えつつ。

 服部に誘われた経緯から始めて、四谷先輩との練習走行やキャッシュラリーでの実際の計算ラリーについて。特に、奇人怪人としか言いようがないラリー関係者の人間関係は詳しく解説した。もちろん、鳥小屋事件の顛末や、歩きウンコ事件のことも。

 そして来週の土曜から日曜にかけて、気が変わった服部のせいで“クォーター7スポーツラリー”に参戦することになったことまでの経緯を。

 その間、染谷先生はにこやかな顔つきで、静かに聞き耳を立ててくれていた。

 話し終えたとき、口に運んだコーラの缶は知らないうちに空っぽになっていた。

「つまり水谷君は…」

 染谷先生は微笑みながら口を開いた。

「自動車の運転と、武道の立会いの類似性に興味を持ったということなんだね」

 取り止めのないような僕の長い話の中から、本質の部分を的確に捉えてくれた。

「はい」

「でも、その類似性の正体がよくつかめない。だから、私と立ち会ってみようと思った…ってわけだったのか。真剣勝負のつもりで」

 僕は無表情を気取りながらも、この洞察力に、深い敬意を感じずに入られなかった。

「はい。失礼を承知で」

「そうだね。実に失礼だ。でも、水谷君はやっぱり学者だなあ。で、この実験の成果は?」

「正直、まだよくわかりません。でも、やはり似ていることだけは確信できました」

「それに、どこかの年寄りの底力の可能性も…かな?」

 僕は一瞬、言葉に詰まった。

「…何をおっしゃっているのか…」

「その年配のラリードライバーとやらが、本当に速く走れるのか気になっているんだろう?自動車競技といえば、若者のスポーツだと私も思っていたからね。水谷君がそう思うのも無理はないよ。だから、私にも勝負を申し込んだんじゃないのかな。本気の年寄りの実力を測りたい、と。いや、勝負というよりは、喧嘩のつもりだったのかもしれないな。痛いことが嫌いな水谷君が、ブランクをかえりみずに、全力で私に向かってきた。ジジイの底力を身体で確認したかったとしか思えない」

 昔から時々、この先生は本当に人の心が読めるんじゃないかと思うときがある。

 そして僕自身気づいていなかった心の影にある動機のひとつを、正確に洞察する。

「先生の胆力は、僕の力などでは測れません。買い被りです」

 本音だった。初老期とはいえ、知る限り最強の武道家“染谷大悟”の本当の力を、僕ごときの技を物差しにして推し量ろうなどという不遜な意図は毛頭なかった。

「技が未熟なのは仕方ないさ。だが、今日の気迫は現役当時よりも上だったよ」

 僕は仏頂面の仮面で、内心の動揺を隠そうとしていた。

「それって、誉められているんですか?昔だって、僕なりに真剣でした」

「そりゃ、そうだ。でも、やはり違うと思うよ。水谷君は、自分で思っている以上にラリーとかいう自動車競技に興味を持っているんだろうな。だから真剣に、ベテランのドライバーたちと競ってみたいんじゃないのかな。“チーム野良猫”として、さ。でも同時に、学者としての水谷君は、それが無謀な勝負だとも考えている。服部君とやらが、未熟なドライバーだと君が思っているからだ。私には、さっきの話はそんなふうに聞こえたよ」

「そんな風に言ったつもりはないんですけど…」

 そう言い切る自信はなかった。

 実際、僕はナビゲーターとしての経験もたったの一戦だけ。

 ましてや速いもの勝ちのラリーで、服部を速く走らせる手立てなど全く知らないのだ。

 服部を未熟なドライバーというなら、僕は、そんな服部の足すら引っ張りかねない無知蒙昧なナビゲーターなのだ。

「早い話が、年配ドライバーさんたちと服部君とやらの関係は、私と水谷君の関係に近い、…といっているだけのことだよ。もうひと言、付け加えるなら、武道家にとって試合と勝負は違うということ。試合は修練してきた技を競い合うが、勝負では技よりも覚悟が優先される。すなわち、“肉を切らせて骨を絶つ”の心境だね。どこまで肉を切らせるかが、覚悟の深さだ。そして本当の真剣勝負なら、命がけになる」

 なるほどと思い、コーラの空き缶をバッグのポケットにしまいながら僕は立ち上がった。

「先生、いろいろとありがとうございました。まだ釈然としませんが、まあ、それなりに腑に落ちたような気もします」

 僕のごにょごにょとした口調に、先生は笑った。

「学者らしくもあり、学者らしくなくもある、妙な言い回しだね。十年ぐらいして助教授になれなかったら、ここにおいで。染谷道場を君に譲ろう。ウチの娘も、君を気に入っているしね。もしそうなったら、私は君のパパだね」

 最初、先生が何を言っているのか理解できなかった。

「先生、今は助教授のことを准教授って言うんです」

 僕はぺこりと頭を下げて、逃げるように夜の街路へ駆け出した。

 玄関から出て行くまでずっと、先生の高笑いが僕の背中をどやし続けていた。



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