秀綱陰の剣・最終章

著 : 中村 一朗

決意


 甲州、甲斐・甲府。夜半、武田館。

 板張りの広間を照らす百目蝋燭は六本。丸茣蓙に座る二人を囲むように置かれている。上座にいるのは館の主武田信玄晴信。もう一人は山本勘助入道道鬼であった。勘助は諏訪に赴いていた信玄を待ち伏せていたように、帰宅直後に突然訪ねて来た。信玄は不機嫌に勘助を迎えた。用向きの主旨を聞いても、仏頂面は変わらない。

 既に半時近く。まくしたてる勘助の話を聞きながら、信玄は投げ出した足の指先で悪戯小僧のように酒を飲み干した椀の縁を弄んでいる。途中で待女が代わりの大徳利を運んでくると、それを機に勘助は一旦口を閉ざして信玄の様子を窺った。見かけとは裏腹に、信玄は頭の中で今の話を様々な角度から吟味しているものとを勘助は確信している。待女が去っても勘助は口を閉ざしたまま。その沈黙を楽しむように。

 二人の傍らには大ぶりの火鉢がひとつ。その中で真っ赤に焼けた炭が火を噴き出さんばかりに熾っている。鉢が溶けてしまうのではないかと、思わせるほど。

 十分に時が熟した頃、勘助が口を開いた。

「それにしてもこのような大火鉢を。お館さまは、刀鍛冶にでもなるおつもりか」

 額に汗する勘助は、荒削りの木人形のような傷だらけの顔をしかめながら。信玄の足の動きが止まり、その指先で椀を勘助の方に弾き飛ばした。勘助はそれを受け取って徳利から酒をついで信玄の前に差し出すと、ようやく信玄が背を丸めて身を乗り出した。

「それで、じい。話の続きだ。裏傀儡は何人残った」

「奥州に赴いた十一人のうち、生き残った者は三人。ひとりは、二日前に甲斐に戻りましてござる。ふたりはまだ平泉山中の古寺で養生を。怪我をした者がまだろくに動けませぬので、もうひとりが介抱しているとのことでして」

 怪我人はお蝶。まだ身動きの取れぬお蝶の看護に残ったのは桐生であった。密書の運搬を最優先にするため、二人を置いて巳陰だけが先に甲斐に戻った。

 密書〃飛龍六道〃の巻物は、今は山本勘助の膝元に置かれている。

「相手の猿飛もひとり生きておると言ったな。なぜ、女を殺さずに助けた」

 二日前、勘助は同じ問いの答をお久に求めた。お久はうっすらと笑みを浮かべて首を横に振った。猿飛伸介が助けたのはお蝶だけではない。廃人のように森を徘徊していた桐生さえも見逃したことになるという。一度は本気で殺そうと仕掛けてきたにもかかわらず。

「さあ。気紛れな忍びの心など判りませぬわい。ただ、もし上泉秀綱が下柴に戻らねば、甲斐に忍んで参るやも知れませぬな。わしの手にこれがあるものと思うでござろう故」

 勘助は膝元の巻物を信玄の方に滑らせた。二日前、それをお久が届けた時の驚愕を勘助は生涯忘れないと信じている。話が進むにつれ、徐々に火勢をあげながらやがては天空をも焦がす業火と燃え上がった己の野心。信玄を天下人にするという夢ともども。

 信玄は苦い表情で暫くじっと見ていた後、重さを確かめるように掌で弄んだ。

「仮にだが…、これがじいの言うような毒の製法であったなら、戦でどう役立てる」

 勘助はゆっくりと間を置いて、胸を張るように大きく息を吸い込んだ。

「限りなく、でござる。今迄の戦の在り様が一変いたしましょう。風向きを測るだけで、数十万の大軍とて恐れるに足らず。もう、農民たちに剣や槍を持たせずとも良い」

「それでは、甲斐の民を失わずして天下を狙えるか」

「御意」

 勘助の隻眼が蝋燭の揺らめきにギラギラと輝く。信玄の頬が初めて緩んだ。飛龍六道の密書を開いて、中に記されている異国の古い文字を目で追う。

「なるほど。これは、天下の覇を求める武将の夢よな」

「御意」

「しかし、異国の文字だ。訳して製法を知るには時が居る」

「左様。既に愛洲の裔どもが一度訳してござる。二年、いや一年もあれば、恐らくは」

 信玄は頷き、細かい字がびっしりと書き込まれている密書を蝋燭の灯に翳してもう一度端から端まで開いて見た。そして徐に、その巻物を大火鉢の中に放り込んだ。

「な!何をなさいます!御乱心召されたか!」

 勘助が慌てた様子で身を乗り出す。信玄の燃え上がるような双眸がひと睨みでそれを制した。眼光には狂気ではなく決然たる意志が覗いている。

「白々しい芝居をするな、山本勘助。この、入道道鬼め!」

 信玄の一括に、勘助の表情から狼狽が拭ったように消える。後には、常のふてぶてしい面構えが残った。ゆっくりと苦い笑みさえ浮かび始めた。

「べつに、芝居などではございませぬ。ただ、晴信さまのことじゃ。そうなさるかも知れぬとは思っておりましたわい。それにしても、勿体無いことを…」

 大火鉢の上では油紙の表紙に火がつき、徐々に密書全体に炎が回り始めた。

「この密書を求めて何百年もの間、多くの者たちが野心を燃やしたことでござろうに」

「では、おれが積年の悪い夢にとどめを刺したことになる。良い事をした」

 信玄が笑う。が、冷めた目で白く変わってゆく灰を見つめながら。

「長尾影虎が関東管領職を引き受けたのは、世の愚か者どもが言うような幕府や公家どもへの忠義などではないぞ。足利の天下が気にいっておるからだ。この、崩れそうで脆い足利の治世であるからこそ、影虎めは好きに生きることができる。だから天下統一など求める筈がない。おれも同じだ」

「また、そのようなことを。お館さまには天下を治める器がござる。それを…」

「まあ、聞け。じいも知っておる通り、おれは種子島が嫌いだ。嫌いだが、周りの馬鹿どもが鉄砲を手に入れれば甲斐とて持たぬ訳にはゆかぬ。じいが以前から言っておるようにこれからの戦は、種子島で決まる。言い換えれば、種子島が何百年も続いていたこの国の戦のかたちを変える。だからおれは種子島が嫌いだし、越後の虎もそうらしい」

「鉄砲が嫌いだから天下を求めぬ、とお館さまは仰せか」

 床の一点を見据えたまま、勘助は淡々と呟く。信玄が生真面目に頷いた。

「そうだ。天下取りには、少なくとも千丁の種子島がいる。だが、おれが種子島を揃えれば、影虎や今川、北条もやがては揃えるぞ。この国の鉄砲は日に日に増えてゆく」

 勘助が乾いた笑い声を立てた。

「では、武士の嗜みが鉄砲の腕に寄るようになりますな。刀の代わりに腰に鉄砲を差すようになるかも知れませぬぞ」

「笑うな、じい。おれは本気だ。種子島が増えるのはこの時勢故、必然であろう。だが、種子島などに頼って天下の覇を求める者をおれは許さん。地の果てまでも追いつめて、この剣で成敗してくれる。武田騎馬軍と、其奴と同じ数の種子島を揃えてだ」

「なるほど、なるほど。それでこそ晴信さまじゃ。不心得者どもを成敗した暁には、武田幕府が天下に号令をかけるという訳でござるな」

 しぶとい顔で言い放つ勘助に、今度は信玄が笑いだした。

「好きに考えろ。それがおれの縁なら、腐れ天下のひとつぐらい貰ってやる」

「今のお言葉、しかと聞き申した。勘助めは、忘れませぬぞ」

「せいぜい長生きせい。ただし、こいつの写しも早めに処分せい」

 信玄は、大火鉢の中で白い灰に変わりつつある密書の焼け残りを顎で指して言った。勘助は一瞬の間を置いて、惚けたような表情で首を傾げた。

「はて。何を仰せかと思えば、またこの勘助ごときには訳の判らぬことを」

「とぼけても聞かぬぞ。どうせじいの事だから、おれが甲斐に戻る前に飛龍六道とやらの中味を書き写しておろうが。じいが明日にでもぽっくり死ねば、その密書の写しは誰かの手に渡らぬとも限らぬ。だから焼き捨てたくなくば、長生きせいと言ったのだ」

 信玄が巨体を揺すって立ち上がる。それでも妙に靱な身熟しだった。両手をついて深々と頭を下げる山本勘助の傍らを通り過ぎ、障子に手をかけて振り返った。

「じい。此度のこと、大儀であった。そちたちのお陰で天下を覆す悪しき根をひとつ断つことが出来たのだ。飛龍六道など、この世にはいらぬ。また、裏傀儡どもの労を犒ってやれ。褒美をはずみ、これからも贔屓にせい。勘定方にはおれから話しておく」

 言い捨てると、信玄晴信は乾いた音を響かせて障子を閉め、ゆっくりとした重い足音が遠ざかっていった。信玄の機嫌が良い時の足取りである。

 それから間もなく、勘助は武田館を後にした。大火鉢の熱に当てられたためか、緩やかな寒風が妙に心地よい。ぼんやりと歩きながら先程の信玄の姿を思い返した。信玄が飛龍六道を破棄する態度に出るとは予想していた。だが、まさかあのように僅かな逡巡もなく密書を灰にしてしまうとは思わなかった。うまく使えば天下が取れる筈のものであった。武士ではなくとも一介の学者や町人、或いは忍びでも不可能ではなかったろう。もしかしたら、山本勘助ただ一人の力でも並みいる列強の武将たちを制圧出来たかも知れない。

 それなのに、いや、だからこそ信玄は密書を処分したのだ。

 天下を取り、新しい秩序を築く事に信玄の関心はない。寧ろ、混乱している乱世のこの秩序を守りたいのだ。武士たちの野心、気質、軍法などのすべてで彩られた剣と槍の戦場を今のままに。出来れば鉄砲さえも放逐して。

(やはり、器量が違う)

 蒼紺の天空にさん然と輝く月を見上げて、目の覚める思いにしみじみと感じ入った。

 出来る出来ないは兎も角、武田信玄晴信という稀代の豪傑にとっては天下を取るなど些細なことなのであった。戦国を逞しく戦い抜く最強の武将である事が何よりも大切なのである。思えば自分は信玄のそんなところに魅かれて軍師の役目を引き受けたのではなかったのか。理想の武将であるが故に天下人の夢を託そうとしたのではなかったのか。

 勘助はふと立ち止まった。そこから右手の路地奥に幾つもの行灯が並んで見えた。行灯は町外れまで続いている。ついひと月前に、勘助が見回り役人に言いつけて作らせた夜灯であった。その町外れには地蔵が立っている。ひと月半前に塚原卜伝が勘助を脅かそうと悪戯を仕掛けた場所であった。その方向を暫く見つめて、小さく吐息をついた。

〃武士らしくなったな、勘助〃と揶う卜伝の声が脳裏に蘇る。

「そうじゃ」と勘助は声に出して肯定した。武田信玄晴信に仕える武将の身であることを今ほど誇らしく実感した事はなかった。それ故に、自分は武士であるのだ、と。

(悪たれお師匠…。今ごろ、どこでどうしておるのやら)

 夜空を仰ぐ勘助の荒削りな皺深い顔が、くしゃりと歪んだ。

 それでも不思議と、少年のように清々しい笑みであった。



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