秀綱陰の剣・第十章

著 : 中村 一朗

残党


 伸介は上泉秀綱の一時後れで鋸引山に着いた。どの村にも寄らずにまっすぐ森の奥に向かった。赤目の結界の外側にある小さな祠の前には、数人の男たちが伸介を待っている。〃白面樹〃と名乗る山伏崩れである。この奥州を根城に、諜報活動や戦時の攪乱、暗殺などを主な生業とする乱波衆だった。伸介は彼らを今市に身を置くようになった頃から使っている。それによって、各地における裏事情を戦国大名たち以上に的確に掌握することが出来た。ただし彼らと愛洲との関わりは一切ない。金で雇っているだけだった。愛洲一族の残した軍資金は存分にあった。それこそ、一国を数年賄えるほどの財である。白面樹の方でも伸介が猿飛という乱波に属していたことは伸介自身から聞いていもそれ以上のことは知らない。下手に探れば自分たちの立場が危うくなることは十分に承知している。伸介の忍びとしての力量は、個別においては自分たちに勝ることも認めていた。そしてそれ以上に、貴重な資金源であることも。この十年間、彼らは伸介から小国の大名に仕えている程の報酬をずっと受けて来た。それでいて、荒仕事は少ない。伸介の正体についてはそれなりに憶測こそしている。が、そこから先に踏み込もうとはしなかった。

 伸介が到着すると、長の甲羽と四人の組頭が姿を見せた。他に甲羽直属の護衛が二人。甲羽は四十近いが、他は伸介より若い。戦闘集団である各組にはそれぞれ四人の下忍がいる。彼らは近くの木陰から周囲を見張っている。伸介の振舞いに対しても。

「遅かったな」と白面樹の長が言った。

「上泉秀綱はもう庄屋藤兵衛の屋敷に入ったぞ。月影と名乗っているそうだ」

 伸介は小さく頷いた。到着の遅れを詰るような甲羽の言い方が堪にさわった。

「お前等が草薙と裏傀儡の件を早くおれに知らせていれば、少しは手間が省けた」

 伸介は白面樹を使って以前から草薙の動きを逐次探らせており、それによって草薙の弱体化には気づいていた。琉元すなわち作助が草薙の現状を理解していたのも彼らからの連絡によるものだった。此度の繋ぎの任も白面樹が当たっていた。

「作助の言うとおりにしていただけだ。文句なら勝手に斬られた奴に言いなよ」

 平然と言い返した甲羽を睨みつけて、伸介が苦い顔で舌を打つ。腹の中で不運に毒づきながら。草薙と裏傀儡の間に争いが起きた頃、伸介はひと月近くを鋸引山の麓で過ごしていた。余程のことがない限り繋ぎをつけるな、と白面樹には言い残してあったのだ。よりによってその時に、これほどの大事が起こるとは予想さえしなかった。

「それで、奴等の先乗りは」

 伸介は裏傀儡の〃聞き耳〃について、動向を問うた。もし平泉に彼らが来るつもりがあるならば、先発の者が情報収集のために既に各村を訪ね回っている頃である。

「二人。或いは三人。もうすぐ後の奴等も到着するぞ。街道から七人だ」

 やはり、来た。まさかとは思ったが、残してきた伝言を聞き分けたのだ。

 伸介は込み上げてくる暗い衝動を肌の下に感じた。鼓動に呼応する黒い幻影。その闇の中に、血走った目を開こうとする誰かがいる。自身の裏に潜む猿飛の性。

「その七人だ。月山でおれを見張っていた奴等だろうよ」

 言いながらも、己の言葉を疑った。月山に到着してから、常に伸介の背に張りついていた七つの視線。だが果たして、同じ七人の者であろうか。或いはそれ以上の人数がいたのかも知れない。自分が指揮をしていれば、その位の策は労する。七つの視線を露にした後に七人に表街道を歩ませれば、それが相手の員数と判断させる。

 考え過ぎであれば良い、と伸介は思う。だが敵は裏傀儡だった。事実、どういう手段を採ったかは判らないが、彼らは自分と秀綱との会話の盗聴をやってのけている。

「相手はせいぜい十人だ。こっちは四組におれとこの二人を加えて十九人。あんたを入れれば二十になるが、どうする。今度も高みの見物としゃれ込むかい」

 面白がるような口調で甲羽が言った。が、伸介は目を細めたまま。

「いや。今度ばかりは、やる」

 伸介は初めて人を殺す決意を固めた。己が変わりつつある事を意識する。愛洲の遺言を果たすため、裏傀儡を壊滅させる事。それが伸介の為すべき事であった。陰流と猿飛陰流の因縁はあの二人に任せれば良い。今は、知り過ぎた裏傀儡を倒す事が先決だった。

「へえ。そいつは助かる。数からして負けるとは思えねえが、あんたがいた方がこっちの被害も少なくて済む。裏傀儡は嘗めて掛れる相手じゃねえ。たったの四人で草薙を葬っちまったくらいだからよ。同じ奴があの中にいるとは限らねえが、侮れねえからな」

 いかに草薙の実戦経験が不足していたとはいえ、裏傀儡が正規乱波の奇襲を無傷で返り討ちにしたと知った時には白面樹も驚愕した。これまでの探索で以前から裏傀儡の実力は自分たちと互角と見ていたが、今の評価は更に上がっている。各個の戦力は互角以上。恐らく自分並みの技量の者が、迫り来る者の中に複数いると甲羽は踏んでいた。

 その時、森の先から乱波がひとり駆けて来た。甲羽の前で足を止める。

「月影は今夜は庄屋の屋敷に泊まるそうだ。裏傀儡の先乗りは、西の森に陣を張った」

 甲羽が頷くと、男は来た道を同じ足取りで戻っていった。

「先乗りだけでも潰しておくか。少しでも相手の戦力を剃いでおきたい」と、甲羽。

「弓で狙えるか」

「梢が邪魔だ。十間までは近づかねえとな。斬り込むが上策だ」

「相手が二人だけで、確実に仕留められるならそれで良い。だがしくじれば、手の内を読まれる。伏兵の反撃を背後から受ければ、挟み撃ちだ」

「陣を張っている奴等、囮だとでも言うのか」

「それを読むのもお前等の仕事だ。そのために高い金を払っている」

 甲羽の頬が僅かに紅潮した。

「よし、判った。じゃあ、奴等が来るまで待つ。それでいいな」

「好きにしろと言っている」

 伸介はほの暗い怒りに顔を顰める甲羽の心情などまるで斟酌しなかった。日頃の明るさは完全に払拭されている。斬人の覚悟が、伸介に潜むもうひとつの本性を覚醒させつつある。天才的な技の切れを習得させた本質、即ち闘鬼の本能であった。

 伸介は彼らからひとり離れ、置石に腰を下ろして沈黙を守った。甲羽は剣のある目で信介を睨んでいたが、やがて組頭たちを引き連れて森の奥に消えた。その後ろ姿を盗み見ながら、伸介は不快な予感を覚えた。だだし、その意味も判らぬままに。

 二時後、日の暮れ始める頃。下忍が伸介の前に現れた。

「奴等が陣に着いた。女と男の二人増えて、九人。先乗りを入れて、裏傀儡は十一人」

 やはり。隠れていた二人が姿を見せたという事は、手の内を晒した宣言なのか。あるいはまた、別の仕掛けの伏線であるのか。寸考の後、伸介は後者を選んだ。

「甲羽に伝えろ。敵は十二人以上いる。陣の外にも、必ず見張りを置いている筈だ。まだ手を出すなと言え」

 自分ならそういう配置をする。それも、もっとも腕の立つ者を。

「承知」と一言答えると、下忍は森に消えた。

 伸介は火を熾し、夜の寒気に備えた。敵が陣を張っており、白面樹がそれを見張っている限り今宵の争いはないと踏んだ。また、この焚火の明かりによりこちらの位置を知られたとしても、睨み合いには大した影響は及ぼさない。

 半時後、不満顔の甲羽が二人の護衛を従えてやって来た。

「呑気に焚火などにあたってやがって」

「お前等も交代で身を休めておけ。決戦は明日だ。上泉秀綱が赤目の森に入った後だ」

「なぜ、そう思う」

「奴等の狙いが飛龍六道だからさ。秀綱が赤目を倒す時を待つ筈だ。二人の邪魔をしたりはしねえよ。そのあたりの立場はおれも同じだから解る」

 フン、と甲羽は鼻を鳴らした。それでもその場にどっかりと腰を下ろす。目で二人に合図を送り、それぞれ交代で身を休めるように促した。それを皆に伝えるために二人が森に消えると甲羽が口を開いた。吐息のような声で呟く。

「あんた、いったいどうしちまったんだ」

 伸介は焚火にぼんやりと視線を置いたまま、小さく首を横に振った。

「おれにも判らん。…いよいよ死ぬ番が回って来たのかもなあ」

 戯言とも本音ともとれる皮肉な笑みが伸介の頬に浮かぶ。少しの間、甲羽は沈黙した。言葉よりも暗いその微笑に、甲羽は不吉な匂いを嗅いだ。

「あんたがやられたら、おれ等は引き上げる。死体に義理を通すつもりはねえぜ」

「ああ。好きにするさ」

 二人は黙って炎を見ていたが、やがて甲羽は目を閉じた。一時ごとに一組が交代して焚火の前に来た。最初の組に代わって甲羽は去り、そのまま朝まで戻らなかった。伸介はずっと炎の傍らに留まって炎を見つめる。それでも一睡もせずに朝を迎えた。

 朝日が森の霜を溶かし始めた頃、下忍が知らせを持って来た。上泉秀綱が赤目の森に向かった事を告げた。焚火を囲んでいた組の四人がすぐに森に向かう。が、伸介は動かずにじっと時を数えた。やがて来る戦いの開始に備えて。

 その四半時後、甲羽たちが駆けて来た。

「あんたの言う通りだったぞ。一人、藪の中に隠れてやがった。やるぜ」

 興奮気味にまくしたてた。戦闘開始の宣言である。

 一瞬、伸介の眉間に皺が寄る。が、すぐに消えた。直感が雷の疾さで裏傀儡の仕掛けを悟らせた。刺すような鋭い眼光が甲羽を睨みあげる。

「いや。それは恐らく傀儡だ。人形だよ。手を出せば、後ろから白刃が来る」

 その断言に甲羽が動揺を見せた。二人の護衛にも伝染した。三つの蒼白の顔が伸介を見下ろす。凍りつくような不安に抗して甲羽が口を開いた。

「なぜだ」と、掠れる声で。

「朝なんだぞ。すぐに見つかるような藪などに身を隠している筈はない。気配を消そうとすれば、土の中だ。…まさか、もう仕掛けさせたのではあるまいな」

 答える代わりに甲羽たちは踵を返した。伸介もすぐにその後を追う。不眠にもかかわらず、伸介の全神経は瞬時に覚醒した。研ぎ澄まされた視聴嗅覚が周囲の気流を読む。

 低木の茂る森の木立を縫って、半里を飛ぶような疾さで駆け抜ける。途中で前方から複雑に長短を繰り返す弱々しく掠れがちな指笛が響いて来た。交戦の終了と敵味方の被害を知らせるものであった。笛の音を聞いて一行の足はさらに疾くなった。

 やがて、敵が陣を敷いていたところから三町ほど離れた、防衛上の最外郭にさしかかった。周囲にも他の組が散っている。だが、遠方から様子を窺っているのみ。指示があるまでは持ち場を離れたりはしない。忍び同士の暗闘においては、姿を見せる事はそのまま死に繋がる。また、最初の戦いはもう終わった事を笛が告げていた。

「止まれ!」

 小声で、甲羽が一行を制した。そのまま身を伏せ、あたりの様子を探る。

 前方の暗い藪の中に人影がひとつ。その周囲には大量の血と五人の屍が転がっていた。遠目で三人は白面樹の下忍であり、他の二人は恐らく裏傀儡の下忍と判断した。左方の気配に伸介たちが振り向いた。十二三間先の木陰から、ここを見張っていた組頭が血染めの顔で危険を知らせる合図を送っている。四人は低い姿勢ですぐにその方向に移動した。

「どうした、忠次!」

 甲羽が抱き起こした。忠次という名の組頭は右胸を押さえて荒い息をついていた。眉間と肩口に浅い傷。掌下の胸には深い刺し傷があった。何かをしゃべろうとして開いた口から鮮血が飛んだ。甲羽が男に寄り添っている間、伸介たちは周囲の様子を窺っている。傷ついた者は仲間を誘き寄せる絶好の新しい餌になる。

「お、長…。奴は、枯れ葉の中に隠れて…。藪の中の、あれは囮だった…。二重の囮だった。あの二人も。先に片付けよう…として近づいたら…後ろから急に」

 それだけ話す間にも男は何度も激しく咳き込み、その度に血を吐いた。肺を貫かれている証しであった。

「もういい。解ったから、もう話すな」

 何が起きたかは聞くまでもなかった。伸介の読みが当たったのである。敵が森の奥に逃げた事も、忠次が発した先程の笛の音で理解している。

「二人は倒した…でも、三人目の若造が…恐ろしく手強くて…こ、この様…」

 忠次の指先が小刻みに震えている。失血によるものではない。毒だ、と甲羽は悟った。すぐに護衛の二人に忠次を後方に運ばせた。解毒薬は用意してある。

「間に合えばいいが。血と一緒に毒が流れでてりゃあ、助かるんだが」

 裏傀儡が剣に塗る毒の種類は解っている。そう強いものではない。鍔迫り合いなどの際、己の剣で我が身を傷つける事も稀ではないからだ。こうした場合の毒は、相手の戦闘継続を困難にする事を目的としていた。だが、手当てが遅れれば死に至ることもある。

「やはり、三人一組の暗殺陣だ。こっちは四人、奴等は二人減った」と、伸介。

「人数はまだこっちのほうが上だ」

 甲羽は指笛で非常呼集をかけた。それに答える指笛が左右後方の三方から三つ。それぞれに独特の響きがある。他の三組は無事であり、まだ交戦状態にはない事を示していた。森の西方に対する包囲陣にはまだ何の干渉はないようである。

 暫くして各組の下忍が到着した。すぐに互いの情報を交換する。死者を気遣う者などいない。忠次の組が壊滅した事は指笛の信号によって既に三組とも知っている。

 総合的に判断すると敵の数は十二人だった、と甲羽は結論づけた。二人減って、十人。死んだ裏傀儡の二人は陣にいた。薪を拾いに出たところを殺そうとして、忠次たちは藪の中に人影を見つけたのである。三人に仕掛けた時、本当の三人目が背後から襲撃をかけてきたらしい。二人の男と傀儡人形は囮だった。その三人目の男は彼らの監視網をくぐり抜けて森に潜んでいたことになる。忠次の言うその〃若造〃が、もっとも腕が立つと見ていいだろう。忠次が倒された時、敵陣に残っていた九人は三組に別れて散った。西で姿を見かけなかった以上、東に移動したものと見てよい。

「後ろに気をつけるように皆に伝えろ。忍び狩りの若造がいる」

 甲羽の指示を聞き終えると、下忍たちは姿を消した。以後、それぞれの組は独自の動きをする事になる。入れ替わるように、忠次を連れていった二人が戻って来た。彼らもまた三人でひとつの組となる。三組対四組。十対十六。

「あんたはどうする」と、険しい表情で甲羽が伸介に問う。

「ひとりで動く。〃若造〃とやらと同じ立場になってやる」

 伸介はにたりと笑った。昨夜の不吉な笑みは朝日のもとでも変化はなかった。甲羽が是非を口にするよりはやく、伸介は身を翻して前方の森に向かっていった。



top