秀綱陰の剣・第十章

著 : 中村 一朗

月影


 奥州平泉の西。鋸引山の麓。山村の朝であった。

 庄屋の藤兵衛を訪ねて来た男は〃月影〃と名乗る旅の剣士だった。年は五十近く。藤兵衛よりも十程若い。痩せてはいても狼のようにしなやかな身ごなしである。腰に下げた大小の剣より、左手に持っている鉄の扇子が目を引いた。藤兵衛は丁度六か村の会合からの帰宅に鉢合わせ、門前でその男を迎えるかたちとなった。埃だらけの姿に窶れた印象を受けながらも、細い目の奥の清しさに好感を覚えた。藤衛兵は月影を奥の客間に通して遅い朝げの膳を運ばせた後、自ら茶を運んて挨拶した。月影はもてなしに丁重に礼を述べた。媚びず奢らぬその姿勢に藤兵衛は感動した。この御仁は只者ではない、と改めて思う。

「いえいえ、そのような。かえって恐縮致します」と藤兵衛は頭を掻いた。

「その物腰と折り目の正しさから察しますに、月影さまはさぞ身分のある御方と御見受け致しますが」

 藤兵衛は、人を見る目には自信がある。その感想を素直に口にした。

「一介の流浪人とお思い下さい。ただの月影でございます」

 剣士は月影が偽名であることを告げている。藤兵衛は穏やかに頷いた。

「判りました。私にとってあなた様は、ただの月影さまでございます」

「忝ない。これで幾らかは気が楽になりました」

「それよりも私は不思議でなりませぬ。お武家さまのようなお方が、供も連れずにお一人でこのような街道から遠く離れた山村に御出でになるとは」

「わたしが庄屋殿に伺ったのは、鋸引山に住む〃赤目殿〃とやらについてお尋ねしたかったからです。三日前に伸介と名乗る若者から庄屋の藤兵衛殿のことを聞きました」

「…伸介さんから。そうでしたか…」言葉に続いて、堅い表情が藤兵衛の顔に浮かんだ。それでも疑惑や不快感は微塵もない。

「半月ほど前、伸介さんには村人たちが命を助けられました。違う噂を流している者もおりますが、わたしはそうだったと信じています」

 藤兵衛は半月前に赤目討伐のために六人の村人と伸介が森に向かったことを語った。それに付随して、古くからある伝説と十年前に赤目が森に現れるようになったいきさつをつけ加えながら。更に、今も村が置かれている水不足の苦境についても。話しながら藤兵衛は月影の様子を窺い、〃赤目〃について某かの知識はあるらしいと直感した。あるいは自分たちの知らぬ何かを知っているのではないか、と勘ぐってみたりもした。

 月影は話が終わるまで静かに聴いていた。やがて頷くと。

「では、村は今も〃赤目殿〃の惨禍にあるのでございますね」

「はい。小雨程度に降りはしたものの、このまま日照りが続くようなら、この冬は酷い飢饉に見舞われます。〃赤目〃さえいなければ、森の糧で何とか出来ますものを…」

「わたしは〃赤目殿〃に会わねばなりません」

 藤兵衛は仰天した。ひと呼吸ほどの間を置いて。

「会ってどうなさるおつもりでございますか」

「話をつけなければなりません。出来れば穏やかに終わらせたいと思っています」

 月影は眉ひとつ動かさなかったが、藤兵衛には傍らの剣を月影が意識したようにように感じられた。赤目を斬るつもりでいる、と直感した。

「どういう事情かは存じませぬし、聞いたところでお答え頂けないでしょうからあえて窺いませぬが、〃赤目〃がどれ程危険かは今申し上げたとおりでございますよ。殺された者も一人や二人ではないのです。失礼ですが、いかにお強くてもお武家さま御一人では…」

「一人で行かねばならないのです。些か因縁がございまして」

「それでは、死にに行くようなものです。せめて、伸介さんを御同伴なさいませ」

「生憎、伸介殿とは連絡が取れませぬ。また取れたところで、伸介殿はわたしが一人で森に行くことを望むことでしょう。庄屋殿。御心配頂き、ありがとう」

 立ち上がろうとする月影を藤兵衛が慌てて引き止めた。月影がすぐにも山に向かおうとしていることに気づいたのだ。

「お待ち下され。せめて一日、当家に御逗留下され。旅の疲れを取り、それなりの準備をなさってからでも遅くはございません。それに、〃赤目〃に会った者たちの話などを聞いて行かれては如何でしょう。夕刻には野良仕事から戻る筈でございますから」

 月影は僅かに考え、再び座布団に腰を下ろして笑みを浮かべた。

「では一日だけ、御厚意に甘えます」

 藤兵衛が安堵のため息をついた。なぜ初対面のこの御仁を、旧知の友人たちのようにこれほど案じているのか不思議に思いながら。

「ここを御自宅と思って何なりと仰せつけ下さいませ。赤目のことは村の大事でもございますれば、是非出来る限りのことをさせて頂きたく存じます」

 月影が穏やかに頷き返すのを待って、藤兵衛は一礼すると客間を後にした。

 藤兵衛はすぐに奉公人たちを四方に走らせた。ある者には村一番の針子を呼びに行かせた。自分用の鹿毛羽織を月影のために繕い直させるためである。また、ある者たちには村の蔵から使えそうな武具を出しておくように命じた。弓や槍、刀をはじめ鎧兜までもが次々に裏庭へ運び込まれてきた。更に隣村に使いを出して、先の争いで比較的傷の浅かった与一と由助に仕事が終わってから庄屋宅まで来るように言付けた。月影と名乗る剣客が庄屋宅に現れ、赤目と戦おうとしていると言う噂は瞬く間に知れ渡った。

 それらのことは、一切月影には知らされぬままに運ばれた。月影の負担にならぬようにとの配慮が藤兵衛の胸中にはある。余計な気遣いをさせぬために、籐兵衛あらゆる気を回した。客間には火鉢の傍らに布団が敷かれ、寝具が添えられた。月影は礼を言ったが、床柱に背を預けたままで、横になろうとはしなかった。客間の外の縁側には小女がひとり。何か用事を言いつけられればすぐに応じることが出来るように控えている。もっとも、月影からは何一つ求められることはなかった。せいぜい厠のある場所を尋ねられた程度である。それでも一時ごとに、小女は茶を運んでは用はないかと窺いをたてた。その都度、月影は静かな笑みを浮かべて小さく首を横に振った。

「旦那、こんなにまでしてやっていいんですかい」

 藤兵衛のあまりの狂奔ぶりに、出入りの商人が懸念を口にした。鼠に似た顔のその商人の目からは、半月前の赤目退治の失敗を償うために藤兵衛が藁にも縋る思いで浪人に入れ込んでいるように見えるのである。あの騒動はまだ誰の記憶にも新しい。赤目への恐怖は皆が肌で感じている。実際十日ほど前には、山の獲物を食い尽くした赤目が村人を喰らいに降りてくる、などどいう子ども騙しの噂を一部の者が信じて恐慌に陥った。騒ぎはすぐに治まったが、治めたのは意外にも、まだろくに立つことも出来ぬ茂吉の一喝だった。赤目は絶対にそんなことはしねえよ!と茂吉が怒鳴ったのだ。

「心配かね」と、庭木を見ている藤兵衛が商人の問いに答えた。

「近ごろは喰いつめ浪人も多うございますぜ。赤目を退治してやると言って小銭をくすねようって属がいてもおかしくありませんからねえ。現に隣村ではやられてますから」

 藤兵衛も話に聞いて知っていた。赤目の討伐隊を出すひと月ほど前のことである。赤目を退治してやるといってきた浪人たちに三日三晩さんざん飲み食いされた挙げ句、山に入る振りをしてそのまま逃げられたという。まだ今ほどに水不足が深刻でなかったこともあって、話を聞いた時には藤兵衛は腹を抱えて笑った。烈火のごとき怒りに頬を赤く染める隣村の庄屋金右衛門の鬼瓦のような顔を思い浮かべて吹き出したのだ。

「なるほど。では、今度はわしの番かも知れんな」

 藤兵衛が微笑んだ。鼠顔の商人もつい連られて頬を歪めた。

「御冗談を。手前は本気で心配しておりますのに。そんなことになれば庄屋さまの評判にかかわります。それにもし本当に赤目を退治に行くなら、生きて帰るとは…」

「大丈夫。あの御方は、他の御人とは違うよ。伸介さんとも違うように思うのだ」

 そう断言しながらも、一抹の不安が影を落とす。疑っての事ではなかった。果たして月影さまは赤目に会いに行って、無事に戻って来ることが出来るのか、と。

 一日は瞬く間に過ぎていった。夕暮れに二人の百姓が隣村からやって来た。与一と由助である。彼らは縁側に座る月影の前で赤目と戦った一夜の出来事を語って聞かせた。最初は二人ともしどろもどろの口調だったが、月影が穏やかに頷く拍子に乗せられて勢いづいてしゃべり続けた。その時の恐怖を現にしつつも、どこか自慢気なところが藤兵衛には不快だった。茂吉を呼ぶべきだったと後悔したが、やはり呼んでも来ないだろうとすぐに思い直した。あれ以来、茂吉はなぜか赤目に対して奇妙な親近感を抱いているらしい。赤目を斬ろうとする者に協力する筈がないと考えた。その茂吉が突然庄屋宅にやって来た。藤兵衛は驚いただけだったが、調子に乗って話をまくしたてていた与一と由助は茂吉の険しい形相を認めると薄暗がりでもそれと判るほど蒼くなった。茂吉はまだ動かせない片足を引きずるようにやっと歩いている。じっと二人を睨む双眼が怒りに燃えていた。まるで手負いの熊のようだ、と藤兵衛は思った。久々に見る茂吉らしさであった。

「てめえら、いい加減なことばかり言いやがって」

 茂吉は庭の隅で彼らの話を聞いていたのだ。二人は藤兵衛の後ろに隠れるように身を引いた。下男の一人が進み出て、茂吉に肩を貸して縁側に座らせた。隣には月影がいる。

「二人ともご苦労だった」と、籐兵衛が与一たちに振り返る。

「これは少ないがほんの心づけだ。金右衛門さんに宜しくと伝えておくれ」

 藤兵衛から小銭の入った御捻りを受け取ると、二人はぺこぺこと皆に頭を下げながらそそくさと屋敷を後にした。その後ろ姿に茂吉が唾を吐き捨てる。

「茂吉や。まだ起きて歩くには早かろう。無理をすれば直る怪我も直らなくなるよ」

 藤兵衛の言葉に無言で頷きながらも、茂吉は月影に目を向けた。敵意とも憎悪とも区別のつかない視線をじっと据える。月影は静かに見つめ返した。

「あんたが、赤目を退治に来たって言うご浪人かい」

 月影は答えず、笑みを浮かべた。茂吉から視線を外して遠い山陰に向けた。茂吉はそれでも暫くその横顔を睨みつけていた。重苦しい気配に藤兵衛たちは取り繕う言葉も思いつかずに戸惑っている。が、やがて茂吉は大きな吐息を漏らして腰を上げた。

「せいぜい気をつけて行くんだな。赤目は強えぜ」

「ありがとう。そうしよう」

 茂吉は踵を返すと、屋敷から去っていった。昼のうちから噂になっていただけに茂吉が素直に引き下がったことで、月影と名乗る浪人への期待は急激に盛り上がった。もしかしたら、赤目を退治してくれるかも知れない、と多くの村人がいろいろなところに集って話し合った。一部の者たちは庄屋宅に押しかけて来たが、藤兵衛は門を閉ざして誰に中に入れなかった。それでも、明日になれば月影が鋸引山に向かうことだけは伝えた。深夜近くまで、村じゅうが祭りの前夜のように興奮の渦中にあったのである。

 やがて朝を迎え、藤兵衛は自ら朝げの膳を月影のもとに運んだ。月影は剣を手に、床柱に寄りかかっていた。障子を開けるとそれに応じてゆっくりと目を開く。浅い睡眠から瞬時に覚醒する兵法者の性に感心しながらも、使われた様子のない布団をチラッと見て、藤兵衛は僅かに眉を顰めかけた。が、すぐに笑みを浮かべる。

「夜具がお気に召しませんでございましたか」

「そういう訳ではござらぬ。ただ、暫くは山に体を馴染ませねばならぬので」

 月影の言葉に、藤兵衛は一瞬言葉を失った。赤目との事を前にした抑制の徹底ぶりに対してである。部屋の中は表のように寒い。見れば、火鉢の火も消えている。藤兵衛は、既に月影が山での戦いを始めている事に気づいた。

「なるほど。これはかえって失礼な事をいたしました」

「いや。御心遣いには深く感じ入っています」

 食後、藤兵衛はそろそろ出立すると言う月影を引き止めて中庭に案内した。そこには、昨日村中から集められた幾十もの武器や防具の類が並べられていた。

「もし宜しければ、どれでも御持ち下され。赤目の事は村の悩みでもございます。少しでも御手伝いできぬかと思案しまして。それと、これを」

 藤兵衛は小女が運んで来た鹿毛羽織を差し出しながら言った。月影は丁度良い大きさに仕上げられたそれを受け取ると袖に腕を通して庭に降りた。武器の間を縫うように歩きながら、十本の小柄と一間程の短槍二本を手にした。四半時後、月影は三日分の焼き米と塩を包ませるとそれを背負って山に向かった。その後ろ姿を藤兵衛たちが見送った。どの顔にも一様に不安がある。ただ月影だけが静やかな無表情のままであった。

 その日の昼過ぎ、村の女が蒼白の顔で庄屋宅に駆け込んで来た。女は薪を拾いに近くの森に行き、切り落とされた人の腕を見つけたという。しかもその腕は剣を握りしめていたらしい。驚いた藤兵衛は手の空いていたもの数人を引き連れて森に向かった。その腕が月影のものではないかと不安を抱きながら。果たして女の言うとおりであった。それは若い男の右腕であった。大刀を手にしたまま肘のあたりで切断されていた。周囲には、既に乾きかけている夥しい血の跡がある。切り落とされてからまだ半時と過ぎてはいないように思われた。きっと赤目の仕業だ、と誰かが怯えた声で呟いた。藤兵衛は若衆を手分けして周囲を探らせ、北東に一町ほど離れた藪の中に見知らぬ男の死体を見つけた。両足と肩に刺し傷がひとつずつ。そして致命傷は首にあった。首の半分を後ろから喉にかけて斬られたことによる失血死である。死顔には苦悶の表情が張りついていた。ただし、その屍には剣を固く握っている両腕があった。藤兵衛はすぐに皆を森の外に出して、当分は近づかぬように村中に伝えるように指示を出した。

 新しい不安が藤兵衛の脳裏に浮かんだ。この男たちを斬ったのは月影ではないか、と。月影の敵は赤目だけではないのかも知れない。鋸引山とその周辺を舞台に、藤兵衛の知らぬ何かが進行しているのだ。暮れゆく空を見上げて藤兵衛は月影の身を案じた。赤目など退治できなくとも、ただ生きて戻ってくれれば良いとだけ願った。



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