秀綱陰の剣・第九章

著 : 中村 一朗

最後の猿飛


 翔鬼と別れた直後、上泉秀綱たち四人は西に向かってけもの道を進んでいった。小走りとはいえ尋常な疾さではない。野を駆ける獣の足取りである。そのまま一時。夕暮れが近づく。先導する三人の無表情な裏側に焦りが現れ始めていた。盗み見る秀綱の顔つきに疲労の色はない。彼らの後ろを同じ調子で黙々と走っている。秀綱が苦痛を訴えれば足を緩めるつもりでいたが、このままでは彼らの方が尽きてしまう。鬼神の技を持つ剣客であるとは聞いていたが、まさか山伏のような脚力を持っているとは思いもよらなかった。

(まるで役行者だ)と、先頭を行く男は驚愕した。

 彼らの年齢は皆二十代後半。秀綱の読み通り雇われ乱波だったが、各国境の山々を走り抜ける〃疾繋ぎ〃が職能であった。おおよそは奥州を根城としている。こと足使いに関しては他の如何なる忍びにも勝ると自負していたし、常にそれを証してきた。ところが、やがて初老期にかかろうとするこの剣客はその彼らと互角以上に走っている。山岳に生きるものの多くは山の神秘性に魅せられているだけに迷信深い。ましてこの月山は修験道の聖地である。秀綱を人外の化生と捉えるのも無理からぬことだった。

 やがて森を抜けて斜面を上へ。その先の空き地から煙が灰色の空に立ちのぼっている。そこに辿り着くとようやく一行は足を止めた。空き地の中央に焚き火。その前に男がひとり、倒木に腰を掛けている。秀綱を認めると立ち上がった。上背がある。

「遠路ご苦労でございました、上泉秀綱さま。手前、名を伸介と申します」

 秀綱は無言で頷いた。伸介の合図で三人は坂を下っていった。畏敬の目で、一度づつ秀綱の方をちらりと返り見る。やがて彼らは森に消えた。

「健脚とは言え、所詮は並の乱波に過ぎません。猿飛の荒業を修めた訳ではござらぬ。まして猿飛を滅する力をお持ちの上泉秀綱さまとでは…」

 遠ざかる彼らの気配が消える様を待って伸介が呟いた。

 初めて会う秀綱に対して、伸介は不思議な程平静な目で観察することが出来た。予想に反して、印象が薄い。一見、どこにでも居る初老期の武士である。剣聖という噂から伸介が瞼に描いていた容姿は、仏道を歩む高僧の凛々しさと比類なき金剛力を身の内に秘めた豪傑であった。だが、実際に会ってみればまるで違う。街道を行けば一介の旅人として映り、縁台に座って茶をすすれば商人にも映るだろう。鍬を持てば百姓にも見えるかも知れないと思い、顔の裏で笑みを浮かべた。聞いていなければ、戦場で無敵の技をふるう鬼神のような剣客とはとても想像がつかない。同時に、それ故に陰流の極みを証しているとも認められた。その陰流継者である上泉秀綱が、今目の前に居る。陰流は伸介にとり、かつては激しい憎悪と憧憬を抱いた対象であった。猿飛を滅ぼす魔人として。

「お主が最後の猿飛か」

 秀綱が問う。静かな声。佇む姿には何の気負いもない。野に立つ石像のようだと感じいりながらも、伸介は捻くれた性根で秀綱が激昂して剣を抜く様を見てみたいと思う。

「いえ、もうひとり。塚原卜伝さまに斬られながらも命は取り止めた者がおります。秀綱さまのお命を狙った鬼界峰琉元。もとの名を、作助と申しまして」

「その者もここで暮らしておったのだな。愛洲一族の〃小猿〃としてか」

 小猿は猿飛の修業を積む子等を指す言葉である。それを知るものは一族だけであった。

「はい。六人の生き残りの一人です。もっとも、未だその時の傷が癒えませぬ。もう二度と以前のように剣を持つ事も出来ぬようで。これも自身の因業と、妙に悟ったようなことを申しております。そう考えれば、やはり手前が最後の猿飛かも知れませぬな」

「お主たちの苦悩が判ると言えば、礼節に欠けよう。多くの小猿が命を落としたのであろうな。わたしが知るだけでも十人を下らない。墓は確か、その木立の外れであったな」

 以前はそこに幾つかの石を積んだだけの墓標が十八ほど並んでいた。彼らがここを離れる時、墓標は自分たちの手で片づけた。骨は今もそこに、記憶と共にある。

「よく御存知で」

 伸介は意外さを率直に顔に出した。小猿という言葉については当然にしても、既にうち捨てられた墓の位置を特定出来るとは思いもよらなかったのだ。かつて愛洲の隠し集落が築かれていたこの場所には、小七郎を筆頭に一族と猿飛たちによって常に厳重な警戒が為されていた。秀綱が足を踏み入れたはずはないのだが。

「実は、修業中に幾度かここを訪れた事がある。ある時木陰から覗いておって、弔っていた者がいたので墓と知った。手を合わせていたのは、お主かも知れぬ」

「…」

「移香斉先生に命じられた。猿飛に気づかれずに隠れ里に出入り出来るようでなければ、陰流を極める事など程遠いと、よく言われた。懐かしいなどとと言えば、不遜だが」

「生者がどう思おうと、死んだ者には聞こえませぬ。命を落とした仲間たちをそのように気遣って頂ければ、少なくとも手前は嬉しく思います」

 伸介にしては珍しく嫉妬にも似た細やかな自己嫌悪を味わっていた。秀綱は笊を抜ける流水の自在さでこの忍び里に出入りしていたらしい。陰流継者とは言え一介の剣士の侵入を幾度も許していたと知らされる事は乱波にとり屈辱以外のなにものでもない。同時にどれほど嫌って突き放そうとも、猿飛の性は伸介の骨髄まで染みついていることを知らされた。それでも秀綱への悪意には至らない。率直にその技と天才を認めた。

「わたしがここに来るものと、どうして伸介殿はそう思えたのかな」

 言いながら秀綱は滑るような足取りで伸介に近づいた。焚き火を挟んで対座する。

「それを申し上げる前に、これまでのいきさつを語らねばなりませぬ。琉元が偶然にも秀綱さまを見つけた事から、此度のことが始まったそうにござる」

 伸介は琉元に聞いたこの出来事の顛末を秀綱に語った。特に草薙と裏傀儡の暗闘については出来る限り克明に語った。話の一部については当事者の秀綱も知っていたが、多くは初めて聞く話だった。秀綱は問いも発せず興味深げに耳を傾けた。

 話の区切りがつく頃には、日はとっぷりと暮れていた。

「では、その裏傀儡は草薙を制して今も飛龍六道を狙っているのだな」と秀綱。

「恐らく。武田の軍師山本勘助がどこまで関わっているかは判りませぬが」

「伸介殿は、裏傀儡の元締が飛龍六道の何たるかに気づいていると思うか」

「判りませぬ。正直、気づいているとは思えませぬ。したが、紅蜘蛛のお久は無類の強かな切れ者の元締と作助が評しておりました。いずれ知るものと考えた方がよろしいかと」

 伸介は秀綱の出方を窺った。秀綱は手元の枯れ枝を火の中に放り込んだ。

 そのまま暫く二人とも沈黙を続ける。焚火越しに秀綱を見ながら、伸介は妙な感慨にとらわれていた。暗殺剣猿飛陰流を小七郎惟修が確立した背景には、父の技を受け継いだ陰流継者への恐怖があった。対象が明確であれば、恐怖を闘志に変えてゆくことが出来たかも知れない。だが名も知らぬ無敵の幻影に怯える惟修は、そのために歪んだ精神の膿を伸介等〃小猿〃に吐きつけた。移香斉の死後、過酷な修業により流された彼らの夥しい血だけが惟修の精神を慰めた。そして血眼になって、伝説として語られるに過ぎなかった飛龍六道を隠密裏に捜し出そうとしたのである。そのために長く住み慣れた月山の隠れ里を引き払いさえした。幻影の追撃から逃れるために仲間たちの墓を壊させてまで。彼らは万物を憎悪した。それでも惟修への憎悪とはならなかった。凶暴で圧倒的な目前の力に逆らうだけの胆力はまだ当時の伸介たちにはなかった。代わりに彼らは陰流継者の幻影を憎んだものである。そうすることで精神の均衡を保ったのだ。憎悪は恐怖の代償であった。その対象が二十年の時を越えてこうしてここにいる。今にしてみれば理不尽な憎悪であったことは了知している。それでも過去の記憶は拭えない。陰流継者が仲間の死に責任を負うべきと信じていた。憎しみこそないが、なぜか今も。

「陰流の修行を終えて移香斉先生から印可状を頂いた時、わたしは先生から遺言を託された」秀綱は目を細め、変わらぬ穏やかな口調で淡々と語った。

「自分の死後、もし愛洲一族が天下の覇権を求めて飛龍六道の密書を手に入れたなら、そしてその密書から龍を降臨させる技を見つけ出したなら、龍を降ろす前に一族の血脈を密書と共に葬れと」

「存じております。移香斉さま自身の口から聞きました」

 病床にあった移香斉が、死の間際に一同の前で語った事であった。

「わたしにそれほどの力があるかどうかは知らぬ。先生は出来ると仰せられた。そう約束した以上、望まずとも再びこの月山に赴かねばならなかった」

「十年前の日向での事は御存知で在らせられましたか」

 炎を見たまま秀綱は頷いた。口調は変わらぬ穏やかさであった。

「羽黒山に居た時、色々と世話を焼いてくれた者が今も名を変えて屋敷の近くにいる。口入れ屋稼業のためか何かと耳聡い。はやり病を隠れ簑にしていたようだが。…〃龍〃を降ろしたのであろう。そのために、毒気で森が枯れたと聞いた」

「然様で。放浪の末に日向に至るまでも、あの出来事の後も、陰流の幻から逃げおおせるためにそれなりの辛苦を嘗めましてございます。一族の方々の屍をそのままに打ち捨てて置かねばならぬほどでした」

 軽い言葉とは裏腹に、十年前の地獄絵図が伸介の脳裏に蘇る。累々と重なる一族や下忍たちの屍を目にしたのは毒気の消えた一日後の事であった。事故であったのだ。あの時はまだ小七郎惟修には毒の〃龍〃を呼ぶつもりなどなかった。秘薬を調合しているうちに手違いが生じたらしい。辛うじてまだ息のあった者から聞いた事である。

「日向の隠れ里で生き残った者の数は」

「御二人。御二人とも毒に冒され、そのうちのお一人は間もなく息を引き取りました。愛洲小七郎惟修さまでございました。後の事を手前どもに託されて。紀州に向かう船中で亡くなりました。御遺体はそのまま海に送りましてございます。もうお一人は…名を語る事は出来ませぬ。仮に〃赤目さま〃と、お呼びくださりませ」

「お主たちは。少なくとも二人は助かったのであろう」

「我ら猿飛の六人と数人の下忍は麓に散っておりました。今でも悔やまれてござる」

「その〃御二人〃は一族の長者だったのだな。なぜ、長にあたる者だけが残った」

 秀綱の言葉の中に非難の念を感じたのは錯覚であったのかも知れない。本来であれば、一族の長が身を挺してでも手下のために命を捨てる。一般の戦国武将たちとは異なり、移香斉はそれを愛洲の誉れと彼らに教えた。恐らく秀綱も移香斉からそうあるべきと聞いている筈である。それが、なぜ長である彼らだけが助かったのか、と問う理由である。

 しかし、この悲劇には事情があった。

「試しに調合してみたばかりの解毒の秘薬を身近に置いていたのは〃赤目さま〃だけでした。惟修さまはすかさずそれを〃赤目さま〃に飲ませたのでございます。更に惟修さまは〃赤目さま〃を庇って井戸の中に逃れたのでござる。上に残った者たちは井戸に蓋をかけて自らの体で目張りとしたようで。一日の後、我らが隠れ里に戻った時には五人の屍を取りのけて蓋を開けましてござる。それで、御二人だけがその場の難を逃れました」

 伸介は一旦言葉を切った。再び不快な記憶の回想。秀綱はじっと炎を見つめる。

「その日のうちに日向から舟で南紀の田辺に向かいました。仲間の猿飛のひとりに陸を馬で走らせて、以前から息をかけておいた乱波群を待たせておきました。山道から山道を抜けてこの月山に着いたのが十日後でございます。正直に申せば、田辺では船頭を、月山の麓では雇い乱波たちを斬りました。口封じのためでございました」

 おれは斬らなかった、止めようと思ったと言い添えようとしてやめた。結局仲間の仕業を黙認した以上、同罪であることに変わりはない。またあの時は、それが必要であると信じていた。仲間がやると言い出さなかったら、自分が手を下さねばならなかった。帝の血と愛洲の名を惜しむためには、全てを隠さなければならない。全てを隠し、全てを消し去ること。特に飛龍六道の全てを。それが愛洲小七郎惟修の遺言であった。

「身内の口を封じねばならなかったほどの理由は」と秀綱。

「〃赤目さま〃の御乱心を包み隠すためでございます。井戸から助けあげた時には〃赤目さま〃は気を失っておいででした。初めはただ眠り続けておられるだけと皆は思っておりましたが、龍の毒のためか解毒の秘薬によるものであったのかは定かではありませぬ。あれから〃赤目さま〃は、目覚めておられる間も日に日に正気でおられることが短くなってゆきましてござる。この月山に着いた時には、もう…人の心根は失われておられた」

 伸介たちが〃赤目〃の身に起きた異変に気づいたのは日向の山中から海辺に辿り着いた頃であった。ようやく開いた瞼の裏にあった虚無の光。ひと目見て、伸介の背筋が凍りついた。かつての〃赤目〃の人格とともに愛洲の夢が終えたことを悟って。

「毒は海路から山路を揺られてここに着く間に〃赤目さま〃の身の隅々にまで回っいたのでござりましょう。この月山でまる十日、高い熱に魘され、喉を掻き毟ってのたうち回る苦しみようでござった。常人であれば、三日と耐えられる筈のない生き地獄を。そして、〃赤目さま〃は死の淵より還られました。しかしその代償に、人ではなくなっておられまして。代わりに、獣の性を…その御身に纏うて…」

 伸介の頬に歪んだ笑みが浮かぶ。苦い記憶に抗するためである。

「あの時も、我らは陰流継者の幻影に怯えておりました。それ故、辛うじて御身を起こせるようになった〃赤目さま〃をお連れして北に向かいましてござる。恐れ多くも、輿とは名ばかりものに御身を縛るようにいたしまして。隠し山道を抜けて、平泉の地に…。移香斉さまが望まれたような安住を求めてのことでござった。…ところが」

 その昔黄金文化とまで言われる栄耀栄華を誇った奥州の都、平泉。かつて源義経一行が奥州藤原一族を頼ろうと鎌倉の追撃を逃れて越えた険しい山岳路がある。山伏たちが知る秘路だった。春なお雪深く、獣すら通れぬその道を伸介たちは敢えて選んだ。日向から壇ノ浦を抜けて月山から平泉へ。義経の悲劇を辿るような皮肉な道行きであった。

 しばらく、伸介は薄笑みのまま沈黙した。再び滲んだ古傷の血がとまるまでの間。

「…あの地について間もなく、〃赤目さま〃は化獣となり申した。僅かな隙を見て刀を手に取ると、山中に姿を消してしまわれたのでございます。すぐに追撃に出た下忍が二人、斬り殺されました。その後ふた月に及んだ必死の捜索の果てに、四人の猿飛が命を落としました。残ったのは手前と作助だけでござる」

 あの時。ふた月の追跡の後に仲間たちが〃赤目〃を追い込んだ時、遅れて着いた伸介と作助は猿飛の四人が一瞬のうちに斬り倒されたところを目撃した。下忍ではない一騎当千の猿飛が、ひと太刀の反撃も出来ぬ閃光の疾さで。二人が愕然としているうちに、赤目は森の奥に姿をくらましてしまった。取り残された二人は仲間の屍を切り刻むことにした。新しい恐怖伝説を造ることによって里の者を森から遠ざけるために。

「〃赤目さま〃は猿飛陰流を極めておいででしたが、あれ程の技ではござらなんだ。今の我らでは遠く及びませぬ。もし互角に渡り合えるお方がいるとすれば、貴方様を置いて他にございませぬ。『滅びの道。一族の秘事を知るすべてのものに死を』…惟修さまの最後の言葉でござる」

「それが、わたしをここで待っていた理由か」

 伸介が頷いた。憎悪とも懇願とも取れる複雑な光が双眼に宿っている。

「なぜ、そっとしておいてやれぬ。獣と化したのであれば、〃赤目さま〃とやらはもう人里には戻らぬだろう。死したと同じではないのか」

「〃赤目さま〃の懐中には飛龍の毒の製法を記した密書がござる。それ即ち、飛龍六道。命ある限り、〃赤目さま〃は決して手放しませぬ。もし〃赤目さま〃の身にご不幸が起これば、密書は野晒しとなりましょう。万一、密書を狙う者の手に落ちれば、この大和の国が毒に覆い尽くされることも夢物語ではございませぬ。現に、秀綱さまを狙った裏傀儡の元締は既にその正体に気づいた気配がござる。彼らだけではありますまい。このまま捨て置けば数年あるいは数十年の後に何者かが飛龍六道を手に入れることとなりましょう」

 炎を見つめて秀綱は考え込むように沈黙している。やがて、後。

「もしわたしが〃赤目さま〃を倒す事が出来たら、その場で飛龍六道は焼き捨てる。それで異存はあるまいな」

 やはり疑っていた、と伸介は思った。自分たちが飛龍六道を手に入れるために秀綱を利用しようとしていると勘ぐるのは当然の帰結である。疑惑を投げられた事に不快な念は感じなかった。寧ろ盲目的にこちらの言葉を信じるよりも余程頼りになる。

「無論の事。ひと事申し上げておきますが、手前と作助は毒の製法を知っております」

「では、わたしはお主等も斬らねばならないのか」

 秀綱が焚火から顔を上げた。目が合った。慈悲の光の裏側に静かに揺れる阿修羅神の陰に気づき、伸介の頬から血の気が失せる。その言葉が本気であることを確信した。

「仕方ありませぬ。もし、上泉秀綱さまがそうお考えになるなら。それでも手前は命が惜しゅうござる。かなわぬまでもお手向かいいたしますが」

「その覚悟ならばよい。どうするにせよ、〃赤目殿〃との事が終わってからだな」

「初めに問われた事にまだお答えしておりませなんだ。秀綱さまがここに来ると察した訳についてでござる。お腰のもの、叢雲剣でございましょう」

 秀綱は無表情に脇差しを鞘ごと抜いてみせた。

「移香斉先生から印可状とともにお預かりした。鞘と柄の作りは変えてある。かつてはそう呼ばれていたらしい。強い鋼で出来ており、並み外れてよく切れる」

 伸介は頷いた。飛龍六道を作り上げた異国の技がこの剣にも生かされていると聞いていた。それを更に、この国の名工たちが鍛え上げた業物であったという。

 また伸介は知らなかったが、琉元の手下たちを斬殺した剣でもあった。

「秀綱さまが我等の身上を御存知なければ我等が今もその刀を求めていると、そうお考えになるものと思いまして。さすれば、我等を誘き寄せる地としてはこの月山を置いて他に在りません。上泉の地を離れておられると知り、すぐにここに参りました」

 愛洲一族の旗揚には天叢雲剣の威光が不可欠である。南朝の正当な血筋の証しと猿飛の力並びに飛龍六道の恐怖をもってこそ野心に燃える有力大名たちを従えることが出来る。この三つが一体になって、天下の覇権を掌中にする筈であった。だが、愛洲一族が消滅した今となってはその夢も終えた。夢の残滓となった赤目の存在は戦国の均衡を崩すだけの存在に成り下がってしまった。

「では、もうこの刀はお主等にとって無用となったのだな」

「はい。かつては叢雲剣であったと言ったところで、もはや誰も信じますまい。移香斉さまの形見として末永くお手元に置かれればよろしいかと」

 秀綱は脇差しを腰におさめた。身を起こしながら。

「では、これより平泉に参る。〃赤目殿〃と会うつもりだ」

「鋸引山の麓に在る村で〃赤目さま〃について御尋ね下さいませ。つい先日も被害を受けた者がおります。ですが、御気をつけを。太刀筋の疾さは尋常なものではございませぬ」

「心得た。ここでわたしを待っていた理由は、山伝いに行けということか」

 伸介が秀綱を待っていた地点は山伏たちしか知らぬ山岳路の起点であった。うまく道を選べば二日で平泉に辿り着ける。四百年前には源義経の逃避行に用いられたものとされ、修業のために走破するものも少なくない。十里ごとに丈夫な小屋さえ用意されている。

「はい。手前はここでしばらく待ち、遅れて秀綱さまを追う所存。後をつける者がおれば斬ります。裏傀儡ごときにこの山岳の路を歩ませる訳には参りませぬ」

 秀綱は小さく頷くと踵を返して闇に染まる深山に踏み込んでいった。

 それから一時程過ぎた頃、焚火の薪が尽きた。それを待って何かを呟くと、伸介は身を起こした。手元の最後の小枝を残り火の中に放り込み、森の奥に姿を消した。



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