秀綱陰の剣・第九章

著 : 中村 一朗

翔鬼


 月山。古くから修験道の聖地として知られる霊峰のひとつ。湯殿山、羽黒山、月山の三つを総じて出羽三山と呼ばれている。崇峻天皇の第三皇子能除太子によって開山され、一旦衰退の後、修験道の開祖である役行者(小角)によって中興されたと言う。役行者は奈良時代最強の呪術師であり、鬼を使役して人心を惑わしたとして朝廷に嫌われて伊豆に流されたと伝えられる。呪術の真偽についてはともかく、時の権力に従わぬものの象徴として位置づけられてきた。力の外側に生きる者には崇拝の対象に相応しい。

 昼下がりの山中。道はなく、人里からは遠い。

 炭焼き小屋から出て来た男は翔鬼と名乗る長身痩躯の山伏であった。もうすぐ三十になる。冬になると全国を行却し春遅い五月には月山に戻ってくる。その頃にやっと遅い雪解けが始まるのだ。そして山頂へ向かう。毎日、次の冬が来るまで繰り返す。そんな生活の周期を八年続けていた。あとひと月で九年目に入る。

 翔鬼の手には、熱い草粥の入った大振りの椀がある。道のない落葉の斜面をゆっくりと登った。その先に小さな庵があった。山伏は無造作に引き戸を開けて中へ入る。

 六坪ほどの粗末な小屋の中央には囲炉裏がひとつあり、奥には藁と薪が積まれている。

 そこに壮年の武士がひとり。囲炉裏の前に石像の静けさで座っていた。翔鬼は無表情でその傍らに持っていた椀を置き、目礼して粥を進める。

「いつも忝ない」とその男、上泉秀綱が穏やかに言った。

「そうすぐ、客が来るらしい」

「わたしにかね」

 翔鬼が小さく頷く。恐らく、三人。どれもが山に馴れた者たちだった。野鼠ほどの気配しか匂わせていない。それでもやはり秀綱は、おもての藪に潜む者たちの存在をとうに承知しているであろうと翔鬼は思った。秀綱の問いは、自分とどちらを見張っていたのかを尋ねたものあった。椀を持って小屋を出る時に背筋に覚えた鋭い視線で、翔鬼は彼らが自分を探っているのではないと気づいた。また物影からの不快な注視ではあったが、殺意の類は感じられなかった。それで、『客』であろうと考えたのだ。

 翔鬼は囲炉裏を挟んで秀綱の反対側に腰を下ろした。

「昨夜、炭焼き小屋とここを見張っていた者たちがいた。今も近くにいる。一旦は引いたけど、またやって来た。あなたを知ってる者かもしれない」

 秀綱は椀を手に取って草粥に箸をつけた。翔鬼はその様をじっと見つめている。なぜこの男の世話をしているのか翔鬼は不思議でならない。厭世的な同門の山伏の中でも人嫌いで通っている自分が。しかも武士に対しては並々ならぬ憎しみを抱いているはずのに。

 秀綱がこの山中にやって来たのは十日前であった。初めて炭焼き小屋の前で会った時、翔鬼は肝をつぶした。旅姿の武士が、地中に巣くう蛇さえ感じ取る筈の自分に何の気配も掴ませずにいつの間にか真後ろに立っていたのだ。驚愕と怖じ気に圧された翔鬼に、武士は自らの名を上泉秀綱と告げて旧知の友のように語りかけてきた。暫く上の庵をお借りしても良いか。いつまでになるか判らぬが、誰かが自分を訪ねてくるまでだ、と。翔鬼の無言の承諾を秀綱は微笑で受け止めた。翔鬼には断る理由がなかった。寝起きしている小屋は四年前の初夏に自身で建てたものだが、上の庵は翔鬼がここに来るようになる以前から在った。柱や壁の木造りもかなり古い。小屋組の煤からも数十年もの歳月が窺えた。後にわかったことだが、秀綱は以前から庵のことを知っていたらしい。

 翔鬼はかつては月山の南側で修業に励んでいた。五年間を過ごした後、この北側に移ったのである。庵は、炭焼き小屋を築くまで利用していた。翔鬼は修業の合間に焼いた炭を近在の寺や村に卸している。山の菜と托鉢だけで暮らしを賄うつもりにはなれない。たとえ山伏で在っても俗世から超克することを良しとは思えなかった。むしろ、世の狭間に生きて行を修めることを求むべきと心得ている。それ故、生涯変わらず人嫌いであり続けなければならないと信じている。人の性根を理解するがゆえに嫌う事で世に接し、その怨念を身の内に蓄えて活力とすることで他人には真似の出来ぬ荒行に耐えるのだ。並の山伏が日に山道を十里走れば、翔鬼は二十里を走る。寒中に一時滝に打たれれば、翔鬼は二時滝に立つ。断食も不眠も耐寒の行もすべてその調子であった。そうして苦界を逞しく生き抜いて幾十年かの後に死を迎える瞬間、翔鬼はきっと笑うことが出来るだろうと思う。京の都の片隅でひっそりと暮らしていた頃の、妻と生まれたばかりの子を野武士に殺される以前のあの幸多い日々のように。そうして生き、老いてゆく事に不動の自信があった。

 ところが上泉秀綱の出現が翔鬼を戸惑わせている。亡父母に近い年齢に見える秀綱の体力が〃月山の人鬼〃と称される自分に勝るとも劣らないことに気づいた時から始まった。月山に着いたそのあくる日から秀綱は剣の修業を始めた。前夜に樫から削り出して造ったのであろう太い木刀を手に、山野を駆け巡っている。初めは変わり者の武者修行者であろうと高を括っていた。それが、木剣を手に小屋を出てきた時の秀綱の姿がなぜか目を引いた。斜面を下りる足取りが堂に入っているのだ。山伏の中にも高齢をものともしないで山野を走る行者がいる。翔鬼は興味を持って後をつけたが、とても追いきれる疾さではなかった。凍てつく大地や足場もない岩の上を裸足で走破するのだ。走る場所や刻限も時の長さも日毎に変わる。初日はすぐに見失ってしまったが、追い始めてから十日目の今日は何とか四半時近くは追うことが出来た。それでもまだ秀綱の脚力には遠く及ばない。秀綱は一時以上も駆け続けて庵に戻ってくる。そして小さな小窓しかないその中で、囲炉裏を前に座していつまでも抜き身の剣を構えている。白刃を前に瞑目するが、微かな殺気も滲ませない。代わりに清浄な光輝にさえ見えるような威厳がある。あるいは人を斬ったことがないのでは、とさえ翔鬼には思えた。似た姿をどこかで見たと思案してみて気づいた。人ではなく、京の古寺で見た仏像であった。あれは何という名の像であったか。仏や菩薩ではなかった。翔鬼はあえてその瞑想の最中に傍らに寄って語りかけてみたが、秀綱は意外な気さくさで答えを返した。気難しさは微塵もない。そういう態度で出られては、翔鬼は根掘り葉掘り問いかける訳にもいかなくなる。人嫌いで通っている世評の沽券にかかわるからである。そう思うと、いつのまにか自分が上泉秀綱という武士の影響を受けてしまっている事実を認めざるを得なかった。逆に、自分の方は秀綱に対しては如何なる影響も与えていないことも。翔鬼が側におらずとも秀綱は寸分変わらぬ日々を送っているであろう事も。何畝、秀綱は以前から庵の存在を知っていたのだから。

 それを認めて少し気が楽になったのは二日前であった。その夜から翔鬼は秀綱に自分と同じ膳を運ぶようになった。ただし、会話は殆ど交わさない。身の上についても問えば答えてくれると思ったが、翔鬼の方であえて避けた。

 上泉秀綱について、翔鬼は己の目で見ている姿以外のことは何も知らない。

「もう少し先になると思っていたが、早かったらしい」

 粥を食し終えた後に箸を置きながら秀綱が言った。目礼し、

「馳走になった。翔鬼殿には何かと世話になり申した」と続けて身支度を始めた。

 翔鬼は小さく顎を引いて礼を返しながら秀綱を観察した。表情は五日前にここに来た時のもののまま。雰囲気にも取り立てて変わった様子はない。ただ、精悍さが増している。

「もうお立ちになるのか」と、翔鬼。

「恐らく。外に待つ者たち次第ですが。翔鬼殿はいつまでここに」

 秀綱が来た日、丁度翔鬼は旅立ちの準備を始めていたところだった。半年をかけて焼いた炭の余剰もささやかな旅銀に換えてあった。いつも今ごろにはここを引き払う。

「上泉秀綱さまが来なければ、今日にでも出立するつもりだった。北へ向かうのだ。年明けには南に向かい、春にはまたここに戻ってくるつもりでいる」

「では、縁があれば西上州は上泉の下柴砦をお訪ねくだされ。ひと月ほど先になるやも知れぬが、戻っているつもりでござる。その時には旅の話などゆるりと」

 秀綱は剣の大小を腰に差した。西上州上泉。そこが秀綱の住む地であると聞いたのはこれが最初であった。翔鬼はゆっくり首を振った。

「いや、彼の地をわしが訪ね行くことはござるまい。これから何が秀綱さまをの身に起きるかは知らぬが、来年も再来年もここで春から冬の到来するまで御越しをお待ち申し上げている。時節柄の粥ぐらいしか御出しできぬであろうが」

 刹那の間を置いて、秀綱の笑みが口元に浮かんだ。

「そうか。では、来年また訪ね来る時を楽しみにしています」

 常には伏せがちの秀綱の細い目が翔鬼の瞳を真っ直ぐに見た。翔鬼もそれを瞳で受け止める。僅かに陰がある、と初めて思いながら。それが別れの挨拶であった。

 秀綱が先に庵を出、後に翔鬼が続いた。戸口に立った二人の前方十間先の藪中から三人の人影が現れた。夕刻過ぎであれば山賊に見間違うような大柄な男たちだった。緊張による険しい顔つきでゆっくりと近づいてきた。翔鬼は挑むような彼らの視線の中に秀綱への畏怖の念を感じ取った。秀綱たちの三間ほど先で立ち止まった。

「上泉秀綱殿とお見受けする」中央の男が濁声で言った。

「我らと御同道願いたい」

「無礼者!まずは、お手前等の名を名乗られよ」

 月山の人鬼が恫喝した。雷のような声音が森を震わせる。

「なに…」

 三人の顔が見る見る朱に染まる。右の男は腰の刀に手をかけた。翔鬼の怒気に一瞬でも怯んだ様を晒した屈辱感が彼らの緊張を歪んだものに変えた。

「お主等が剣を抜けば、わたしも抜かねばならぬ」

 秀綱の声はあくまで静かであった。そこからは如何なる感情も読み取れない。ただ事実を語っていることは誰の耳にも明らかである。三人が動揺した。

「我らは、秀綱殿も同道を望まれていると聞いていた。もとより争うつもりはない」

 男たちは平静を装って抜きかけた剣を鞘に納めた。

「名を告げよ、とわしは言ったのだぞ。お手前等の名だ」と、翔鬼は半歩踏み出す。

「山伏風情がまだ言うか」

 男のひとりが力のない言葉で返した。もう争うつもりはないらしい。しかし、翔鬼の癇気はまだ収まらなかった。また、秀綱の身を案じてもいた。

「名を言えぬのは、彼らが乱波だからだ。恐らく金で雇われただけであろう」

 秀綱が顔を向けても男たちは答えない。半眼を伏せたままであった。

「秀綱さまはこ奴等と行くつもりか」

「そのためにここに来ていた。それでは、翔鬼殿」

 翔鬼は小さく頭を下げた。目礼の秀綱は視線を逸らしたままだった。それでも不思議と不吉な予感は覚えなかった。ただ、忘れたはずの寂寥感が微かに翔鬼の胸を擽った。

 秀綱は翔鬼の傍らから三人の立つ方に下って行く。秀綱が近づくと三人は踵を返して西に向かって歩き出した。三人の背を見るようなかたちで秀綱が最後部を行く。四人の後ろ姿が森に消えた辺りを、翔鬼は崖の上からその後も暫くじっと見ていた。あの三人は上泉秀綱に背を向ける事で危害を加えるつもりはないとでも言うつもりなのか。また何をしてもかなわぬと知っていてあえて自分たちを人質にとらせたのか。あるいは別の罠が…。

 などと様々に邪推している己の滑稽さに気づいて、頬に浮かびそうになった苦笑を慌てて飲み込んだ。行者仲間たちにさえ疎んじられている〃人鬼〃らしくもない。

 その日の夕刻までかけて、翔鬼は旅仕度を整えた。日没を待って山を下りるつもりだった。麓の人里までは一里半。寒風の中を行くのは心地よい修業になる。ここに来るようになってから毎年こうしていた。しかし翔鬼は今宵の出立を躊躇した。理由は自分でも解らなかった。秀綱のことが気になっていることもあるが、それによるものではないと思う。

 しんしんと冷え始めた炭焼き小屋の中で、翔鬼は炭を熾し直して、もう一夜をここで過ごすことにした。塩粥を煮て食し、囲炉裏に護摩段を組んで印を結んだ。瞑目して文呪を唱えながら眼前の炎を思い浮かべる。そのまま、二時。火の消えた頃、翔鬼は夜の森に駆け出した。一時ほどして小屋に戻り、眠りに就いた。その夜、翔鬼は幾年ぶりかに夢を見た。夢の中で翔鬼は忘れていた遠い日の出来事を繰り返していた。戦で焼失してしまったはずの家の中では囲炉裏を囲んで妻がおり、子がいた。子は死んだ時よりもずっと大きかった。何を話しているのか自分でも判らない。それでも妻と子はたおやかに笑っていた。翔鬼がまだ人の名を持っていた頃のこと、愛する者たちがいた頃の、儚い記憶。

 明くる朝、いつも通り日の出前に翔鬼は目を覚ました。虚ろな夢の記憶を拭うように目尻から頬に残る塩の跡を払う。外は小雪がちらついていた。初雪である。

 うっすらと空が白み始める頃、翔鬼は小屋を出た。

 上泉秀綱の事はもう、翔鬼の念頭からは消えていた。



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