秀綱陰の剣・第七章

著 : 中村 一朗

討伐


「そろそろ行くぞ」

 茂吉が一同を促し、それを合図に皆が身を起こす。

 一行は森の奥に向かって出発した。歩き始めると、すぐに誰もが一様に額に汗を滲ませた。低木を掻き分けながら、緩やかな登りの斜面を進んで行く。全方位を警戒出来る六角陣形を維持するために歩速は遅い。一時でせいぜい一里。それでもその歩調で進めば、七ツ半には赤目の縄張りに入ることが出来る。そこが十年前に侍たちが殺された地点のひとつであった。村人たちが無残な四つの骸を葬りに赴いて以来、その地に人が近づくことはなかった。いずれの場合も必要ではあれ、誰も望まぬ道行きであった。

 やがて斜面が終わり、丈高い針葉樹林に出た。そこを抜けるとまた低木群に覆われた藪が現れた。落ち葉を踏みしめながら、一行はさらに森の奥へ。緊張を抱きながら黙々と足を運ぶ。いつの間にか風が止み、湿り気を帯びた大気が肌を包み始めるのが感じられる。日照り続きで久しく忘れていた豊潤な水の匂いがした。

 やや開けた平地に出ると、先頭の茂吉が足を止めた。七人はひとつの生き物のように同時に制止する。六人に振り返り、嘲るような笑みを浮かべて一同を見回しながら。

「ここだ。侍どもが四人、ぶっ殺されてたのはよ」

 森の奥を指で差した。その先十間ほどのところに、一抱えもありそうな黒い大岩がぽつんとひとつ。幼子が背を丸めて座っているようにも見える。赤目伝説で、赤目が投げたといわれるもののひとつであることは皆が知っていた。さらにその後方五間辺りから、群生する葦が囲む小さな沼がある。〃こけし沼〃と呼ばれていた。

「おめえ、確かそいつ等の屍を片付けにここに来たそうだな」

 と源太。茂吉は答えようとせず、葦の間から見える薄黒い水面をじっとみたまま。

 茂吉の目は現実と過去の光景を同時に見ていた。

 十年前、十五の時。村の大人たち十人に交じって、茂吉はここに来た。初めて戦場に出た年であった。一番の若年ではあったが、その経験を買われたのだ。そしてあの大岩の傍らで、初めて人の残骸を目にした。無残な死体を見たことはいくらでもある。夜盗に殺されて、燃え盛る家に残されて焼け焦げた両親の屍さえ。だが、そこに転がっているものは違った。周囲に散乱するばらばらの手足。枯れ葉や地面を黒く濡らす夥しい量の血。首のない胴体と、立ち上る生臭い内蔵の腐臭。その腹を裂かれてはみ出した腸には蟻や蠅がびっしりと集っていた。それでもそこまでは辛うじて耐えていた。が、節句人形のようにきちんと並べられた首と眼球を見た時、茂吉は堪え切れずに吐いた。胃の中のものが無くなっても、空嘔が止まらなかった。誰かがこの惨状を作り上げたのだと知って。しかもその誰かは、ある種の凶悪な歓喜を持ってそれをやってのけたのだと思い当たって。

 胃袋を絞り上げられながら、茂吉はそれが産みの苦しみを体験している事であることには気づかなかった。それをやった怪物の同類が、自分の中で生まれでようとしていたことに。羨望の疼きからは目を背けた。恐怖と嫌悪とを感じながらも、その悽惨な光景に魅了された事は自身でも知らなかったのである。やがてそいつが憎悪を食らって成長し自分の心の過半を占めるに至った今、茂吉はそのことをはっきりと悟った。戦場で初めて人を殺した時のことが脳裏に浮かんだ。ふたつの人肉を竹槍で引き潰した時の感触まで鮮明に蘇った。あの時の、今まで記憶から消えていた暴力による忘我の恍惚。破壊衝動に身を委ねる血みどろの酩酊。それを思い出させた茂吉の中の獣は、怪物赤目を殺したいと願っている。出来れば、その死肉を喰ってしまいたいとさえ。そうすることで、茂吉は赤目以上の存在になれる。伝説ではない、人の姿をした本当の怪物に。

「よし。ここに陣を張る」

 酔いから醒めたような目で茂吉が命じた。源太が頷いて皆に目くばせる。

 伸介が背負子を降ろし、荷を解いた。粟飯に塩と味噌。鍋と小刀。吹き矢とそれを放つための三尺ほどの細長い筒が五本。毒袋がひとつ。その下から、かさばる革袋の大荷物を二つ取り出した。最初の荷には、丈夫な糸に木を組み合わせて作った鳴子が入っていた。長さ五間のものが十組。それを陣の外郭にある木と木の間の低い位置にピンと糸を張って設置する。こっそり夜襲を掛けてきても知らずに触れれば、糸に吊られた鳴子が乾いた音を立てることになる。もうひとつの大きな袋にはそれよりも物騒なものが入っていた。伸介は地面に莚を敷き、その上に革袋の中の物を出した。ザッと乾いた音を立ててと転がり出たのは、何百もの竹細工だった。三寸程の鋭く尖った竹串四本をがっちりと組み合わせて作られた蒔菱である。〃毒虫〃と呼ばれ、どれもが墨で黒く染められている。踏み抜けば、容易に足の甲まで貫くことは確かめてある。彼らはそれを茂吉の指示に従って周囲の要所要所に等間隔で蒔いていった。その上から落ち葉をかけ、昼間でも簡単には見えないように細工した。自分たちの移動のために、〃こけし沼〃に対して左右横方向と後方に蒔菱のない三つの細い道を残しておいた。もっともその場所に目印はないので注意がいる。

 蒔き終ると、伸介は陣を囲むように鳴子を木々の間に結んだ。その間を通ってそれぞれが次の作業のために動き回っていた。清蔵、蓑作、由助と与一の四人は水汲みと薪拾いに出た。朝まで燃やし続けるための薪であるから、相当な量になる。伸介は残って陣を固めた。木と木の間に縄を張って莚を固定する。そうして七人が夜露を凌げるだけの屋根を造り、その中央に小さな竈を造った。火を焚くためのものではなく、外で熾した炭をそこに納めて暖とするためのものである。竈を掘り終った頃に四人が水と薪を確保して戻り、伸介に手を貸した。種火から藁に火をつけて大きくする。それを乾いた枯れ枝に移して、陣の傍らに焚き火を熾した。それが済むと、五人は互いを確認できる位置を取りながら、口にできる木の実や茸などを近くで集めた。その間も周囲への警戒は怠らない。

 茂吉と源太は、獲物を求めて赤目の縄張りである〃こけし沼〃の先に踏み込んでいた。適当な場所を選んでは、紐縄と網で罠を仕掛ける。小さい罠は兎や狸を狙ってのもので、大きな罠は猪や鹿用である。茂吉が仕掛けている時は源太が見張り、源太が仕掛ける時は茂吉が見張る。互いに嫌い合っているとは思えぬ巧みな連携であった。

 二人とも槍と刀、吹き矢も携えている。罠を多く仕掛けたのは無論当面の糧となる食肉を獲るためであるが、真の目的は赤目に自分たちが来ていることを知らせることにある。半時をかけて六つ七つの罠を仕掛け終ると、二人は声高に叫んで兎や狸を追いながら木々の枝を折り、草花を強く踏み躙って歩いた。そうして振舞いながらも、赤目の奇襲に備えている。とはいえ、赤目が近くに潜んでいる可能性は低かった。余程の幸か不幸でもない限り、いきなり赤目に遭遇することはまずない。鋸引山の森は広大である。赤目が彼らの侵入に気づくには一日二日の後になることも十分に考えられた。それゆえ、彼らは三日間をこの地で過ごすつもりでいた。実際、赤目の縄張りで被害に遭った百姓たちは十人に一人の割である。特にこの辺りには十年前の出来事から村人たちがずっと近づかなかったこともあって、赤目がすぐに見回りには来ないであろうことも十分に考えられた。それならそれで良いと彼らは思っている。もしこれからの三日間で何も起きなければ、次は彼らに十人を加えて十七人で出直すことも計画されている。赤目が気づかぬうちに大人数でやって来て採れるだけの山菜や木の実を、狩れるだけの動物を手に入れてしまうつもりだった。彼ら七人はそのための下見でもある。茂吉は気にいらなかったが、一部の村人たちからは楽観的な意見も出ていた。もしかしたら、赤目も十年前ほど恐ろしい存在ではなくなっているのではないか。怪物からただの乱暴者になり下がったのではないか、と。

 茂吉と源太は無事に森の奥で一時程を過ごした。その間に二羽の兎を捕らえて罠を仕掛け直し、日暮れ前に陣に戻った。筵の屋根から少し離れたところには、既に焚き火がこうこうと燃えていた。暗くなれば、遠くからでも目につく。茂吉は満足げにニタリとした。

 近づく二人の無事な姿に、四人が安堵の表情で焚き火の傍らから立ち上がった。伸介だけは腰を下ろしたまま二人にちらりと目をやっただけで、そのまま焚き火の炎に視線を戻した。茂吉がそれに気づいて、伸介の前で足を止めた。気づきながらも見ようともしない伸介の眼前に二羽の兎の屍を放り出す。伸介が顔を上げて茂吉をあおぎ見た。

「そいつの腸を抜け。てめえにも骨ぐらい、しゃぶらせてやる」

 伸介は素直に従い、茂吉は約束を守った。二羽のうちの一羽を茂吉と源太が喰い、もう一羽の肉を四人が分け合った。骨と腸は伸介のものである。伸介はすぐに喰える部分を焼いて口に入れ、骨と残りの内蔵を鍋で煮てダシを取った。それに粟と米を一緒に煮込んで仕上げに味噌を少し加えた。妙な味の粟粥になったが、今は村では喰えぬ馳走である。昼食を抜いて緊張の中を歩き続けていただけに、空腹と一時的な解放感から皆が旺盛な食欲を見せた。伸介の作った鍋の中身は瞬く間に空になった。

 やがて半月が空に現れ、その夜は静かに更けていった。蝮の毒を塗った吹き矢を持つふたりが見張りに立ち、一時ごとに交代する。茂吉の指示で、吹き矢は皆が十分な訓練を積んできていた。全員が暗闇でも五間先の鶏を仕留める程度の技量はある。それでも。

「気を抜くなよ。最初の矢が外れたら殺されると思え」

 最初の見張りに立つ清造と蓑作に茂吉が檄を飛ばした。ふたりは慌てて頷いたが、茂吉は見てはいなかった。決して脅かそうとして出た言葉ではなかった。むしろ茂吉が自分を戒めるように語ったつもりであることには、彼らも気づかなかった。陣を築いた安堵感に緊張がやや薄れた他の者たちとは裏腹に、茂吉の不安は逆に増幅していた。脳裏に浮上する何かの予兆。意識に広がって行く赤黒い闇が心中に疑惑を紡ぎ出す。

 自分の策が、本当に赤目に通用するであろうか、と。

 茂吉の策は単純である。赤目の襲撃を逆手に取り、蒔菱で足を奪う。更に毒矢を射掛けて、弱ったところでとどめを刺すつもりでいた。茂吉さえ、まともに赤目と戦う気はなかった。追われれば蒔菱を投げながら逃げ、赤目が逃げれば背に毒矢を放つ。一本でも矢が刺されば、走るほどに毒の回りは早くなる。この陣もそのために築かれた。鳴子の布設はただの囮である。夜間でも赤目なら鳴子を見つけるだろうと茂吉は踏んでいた。だがひとつの仕掛けを見つければ、二つ目は見逃しがちになるものだ。まして獣のような怪物である赤目が思慮深く行動するはずはない。が、夜を迎えてその確信が揺らいだ。理由もなく疑念が浮かぶ。果たして赤目は、本当に獣の知恵しか持たぬのであろうか。

 清造と蓑作は足に高下駄を結わいつけて配置についた。下駄で足の自由が多少奪われるが、代わりに蒔菱だらけの周辺を自在に歩き回れるようになる。茂吉も下駄を履いた。縛りつけなかったのは、赤目が蒔菱をものともせずに突入して来た場合に備えてのことである。ふたりが見張りについている間、茂吉も眠らずに焚き火にあたっていた。小さな音や気配にもすぐに身構える。槍を抱えたままうとうとしていても、風が枯れ葉をカサリと転がすだけで目を覚ました。見張りが由助と与一に代わっても、茂吉は同じ姿勢で焚き火の傍らに蹲っていた。月が雲に隠れ、微風が炎を揺らした。

 夜を満たす虫の声。梟の囁き。雲間からの月が森を青暗く包む。夜鳥たちの声は夜に溶けて妖しい光に変じ、木々の間に呼応していた。明滅する冷えゆく闇。星屑。黒い炎…

「おい」

 ふいに茂吉の肩に置かれた源太の手と、耳を刺す緊張した囁き。茂吉は微睡みから瞬時に覚醒した。不吉な予感の的中を悟りながら、槍を握り直して顔を上げる。下から見上げた源太の横顔からは能面のように表情が消えていた。それでも顎が小刻みに震えている。内心の震えはその見た目の様よりも更に大きいことが窺えた。月の位置から、自分が半時ほどまどろんでいたことに気づく。子の刻を過ぎる頃であった。

「どうした」と、茂吉。

 源太は瞬きもせずに前方を見ている。茂吉は意地悪く微笑みかけようとさえした。本当は何が起きたかは聞かなくてもわかっている。突然の事に動揺している源太の答など期待してはいなかった。茂吉は身を起こし、源太の見つめる辺りに目を向ける。

 森に注ぐ月光の中、約十間ほど先の闇に大きな黒い影が立っていた。顔や姿もわからぬ人の輪郭をした闇。そいつはじっと動かぬまま、彼らのいる方を見ている。槍を持つふたりを見ているのか焚き火を見ているのか区別がつかない。不思議と、恐怖どころかいかなる感情も働かなかった。代わりに、疼くような衝動が胸の内にある。失われていた記憶を取り戻したような懐かしさに似ていた。戦場で殺した者たちの顔。繰り返し屍に打ち下ろした竹槍の感触。死んだ兵の首を切り落とした鉈の柄にこびりついていた鮮血。あれは今も黒い滲みとなって残っていた。さらに、十年前にここに並べられていた首と眼球…。

「あれが、おまえたちの捜している赤目か」

 茂吉の横にいつの間にか来ていた伸介が呟いた。振り返った茂吉は伸介の顔に自分同様に何の感情も見てとれぬことが意外だった。それでいて、真剣な面持ちの奥には何らかの覚悟を忍ばせていることが窺い知れる。単なる興奮とは異なる何か。

「そうらしい」と茂吉は答える。

 雲が月を隠して、森は暗く沈んだ。目を凝らしても何も認めることは出来ない。やがて再び月の光が戻った時には、大きな影は消えていた。

「皆を起こすか」と源太が、緊張の冷めぬ声で茂吉に問う。

「ああ。初見参の挨拶は終わっちまったがよ」

 源太が伸介に顎をしゃくる。伸介は筵屋根の下で眠っている四人を起こしにいった。

「赤目の奴、突然出やがったんだ。あそこによ。それで、おめえをすぐに起こした」

 源太は赤目のいた辺りを指した。鳴子を仕掛けた最外郭である。

「野郎、やっぱ仕掛けに気づいたな。好都合だ」

 不敵にほくそ笑む茂吉の言う仕掛けとは、鳴子のことである。鹿用の罠に怒った赤目が焚き火の炎を見つけて近づいてきたのだ、と茂吉は睨んだ。そして、鳴子に気づいたのであろう。それで脅しをかけるために姿を見せた。こちらを混乱させて緊張を煽り、余計な疲労を背負わせるためである。恐らく赤目は、暗がりから今もこちらの様子を窺っているに違いない。赤目に知恵があれば、この集団の目的が山の獲物を狩ることと考えるはずである。しかしその獲物が、まさか自分であろうとは思うまい。

「今晩中に襲ってくると思うか」

「ああ」と茂吉は確信している。

「明け方までには、必ず来るさ」

 茂吉の言葉よりも、その乾いた声音に源太は不快な嫌悪を覚えた。

 伸介が四人を起こして戻ってきた。焚き火を囲んで茂吉を見る彼らの顔には不安と期待が見てとれる。その茂吉への依存心が、赤目への恐怖を相殺していた。

「い、いよいよだな、茂吉さん」と、清造が緊張に吃りながら。

「でも、あんたたち二人がいりゃあ、百人力だよ。なあ」

 と、蓑作が由助と与一に声をかけた。二人は蒼ざめた顔で、茂吉と源太を見ながら小さく頷く。四人とも餌を待つ馬が飼い主を見上げるような目だ、と茂吉はうんざりしながら思った。だが、伸介だけは違った。隙のない野犬の眼差しで遠方の闇を見ている。

「焚き火の火を小さくした方がいい」と伸介が言った。皆の視線が伸介に向いた。

「外からはこちら側が丸見えになるし、こちらからは遠くが見えづらくなる」

「てめえは生意気な口を叩くな!おれ等が決めることだ」

 伸介を睨み据えて源太が怒鳴った。同意を求めて茂吉を見る。が、茂吉はじっと伸介に視線を向けたままだった。やがて茂吉の口が開いた。

「火を落とせ。こいつの言うことも、もっともだ。だが、炭は消すな。体が冷えきっちまったら、いざって時に動きが鈍るからよ。皆、朝までこの周りにいるんだ」

 指示を受けた伸介が焚き火から大ぶりの枝を引きずり出して外に放った。遅れて由助と与一もそれに続いた。焚き火はたちまち小さくなっていった。蓑作は武器を並べていつでも使えるように準備した。茂吉、源太、清造の三人は森の奥に目をやっている。茂吉の顔には緊張が、清造の顔には恐怖が、そして源太の顔には不満がある。源太には、伸介に対する茂吉の態度の変わり様が気に入らなかった。先程茂吉が自分を無視して伸介の発言を認めたことで、自分が見下されたように感じられたからであった。加えて、赤目への恐怖がある。それにより増幅された苛立ちが周囲への警戒に対する集中を損なわせ、結果として枯れ葉の上に物が落ちる小さな音を幾度も聞き逃させた。



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