秀綱陰の剣・第四章

著 : 中村 一朗

山賊


 夜半。甲州路・笹子峠の山中

 満天の星空のもと、椈林に囲まれた小さな空き地に焚火がひとつ。パチパチと火の粉を弾かせながら、肉の焼ける香ばしい匂いを辺りに漂わせている。その前に座る人影は、坊主頭の奇妙な老人であった。頭髪を剃ってはいるものの、やや長めの白髪の顰だけは残している。深夜の山中などでは見かけるはずのない、赤い生地に金糸の縫取がある派手やかな羽織姿であった。老人は炎の中で脂を滴らしている猪肉の塊をぼんやりと見ている。時折、枯れ枝で肉を突いては焼け具合を確かめ、炎の当たる位置を変えつつ。

 少し離れた木陰の闇からその様子を伺っている男たちの数は五人。皆がまだ若く、殺人に禁忌を持たぬ屈強な体格の大男たちであった。気づかれぬ程度の十分な距離を置いて老人を囲み、各々が周りを一巡りしていた。彼らをしても、奇妙な老人に近づくことは躊躇われた。山に住む者たちは、例え無法者ではあっても迷信深い。あまりにも不自然なその出立ちが、彼らに老人を不可思議な物の怪のように思わせていた。猪肉の塊についても、どこで手に入れたものなのか彼らには想像がつかない。老人がひとりで峠まで運んできたにしては多過ぎる量である。焚火に架けられている肉だけではなかった。もも肉を毟られた大猪の屍が老人の傍らに転がっている事は初めから知っていた。彼らには、どうしてもただの老人がこの山中に住む猪を獲ったとは思えなかったのである。

 そうした事情から、男たちが焚火の老人を見張り始めてから既に四半時近くが過ぎてしまった。何らかの罠である可能性をも案じている。が、周囲には人の気配はなかった。元々忍耐強くない彼らの猜疑心に由来する歯止めも、そろそろ限界に達しようとしていた。

 やがて痺れを切らせた頭目が、梟の擬声で仲間たちに合図を送る。それを受けて男たちは無言で抜刀し、暗がりから進み出た。常の事が始まると、呪縛にも似たその疑惑は消散した。寧ろ手早く老人を殺し、取り越し苦労であった証を得ようと考えた。身なりから伺える懐具合への期待も無論ある。さぞ、良い稼ぎになるであろうと皆が期待していた。

 彼らはゆっくりと近づいた。それに連れて、焚火の炎に照らし出される五人の大男が闇に浮かび上がる。退路を断つように背後に二人、焚火越しに前方に三人。

 老人が顔を上げた。眠たげに、焚火の肉から正面の頭目に視線を移す。目が合った。頭目が威嚇する。が、老人の大きな眼は節穴のごとく何の感情も表れてはいかった。

(惚けてやがる…)

 皆が抱いた印象である。それで、老人の奇行に納得した。

 彼らは改めて老人を観察した。年の頃は七十前後の旅人。立ち上がれば中肉中背と思われる。長く伸びた髯には不似合いな、遠目で見る以上に金のかかった身なりであった。衣類だけではなく、刀も高く売れそうな代物だった。さらに、懐には目も眩むような金子があるのだろう。それらを手にするためには、白髪首ひとつを地に転がすだけで良い。

 彼らの顔に、抑え切れずに下卑たニタニタ笑いが浮かぶ。小躍りしたい程の夢見心地の気分であった。これほど楽で実入りの良い獲物には最近ありついてはいなかった。この笹子峠に出没するようになってから二月ほど。本来は彼らの縄張りではない。この一帯を仕切る山賊〃血地蔵の左近〃の目を盗んで稼ぎに来ている都合上、街道から遠くはずれた処か、或いは左近の身内が見回りには来ない時刻を見計らって務めをしなければならなかった。結果、ろくな相手に当たらない。大抵が夜逃げをしてきた貧乏人どもか脛に傷を持つ同類であった。彼らを殺して得た金はたかが知れていた。もしかしたら今夜の稼ぎは今までの総額にも匹敵するのではないかと勝手な算盤をはじいている。

 老人の背後で、賊のひとりが剣を振り上げた。

「待て、銀次」

 頭目が笑う。

「爺いの服を脱がせてからだ。血で汚れると後が面倒だ」

 高く売るために羽織や袴に血をつけたくはなかったからという訳ではない。初めて見た時から頭目は老人の羽織が気に入った。もう自分の物と決めていた。

 銀次は剣を鞘に収めて老人に近づいた。服を脱がせる前に、絞め殺してしまうつもりでいた。怯えた獲物から剥ぎ取るよりも死体から脱がせる方が楽だと銀次は考えた。

 老人の後ろ襟を右手で掴み、力まかせに引きずりあげる。老人は素直に立った。左手が老人の首にかかる。と、ほぼ同時に銀次がガクリと膝を崩した。そのままくたくたと座り込み、上体を地面につっ伏した。目は見開いたまま。半開きの口から垂れた舌が枯れ葉と土を嘗める。賊たちは何が起きたのか理解できずに、茫然と寸刻を過ごした。

 老人が焚火の前に再び腰を下ろす。いつの間にか握っていた右手の小柄を懐紙で拭い、それを使って炎の中の猪肉を少し切り取った。腰の小袋から塩をふりかけて、口に運ぶ。さらに、もう一切れを切り取ろうとする頃に、やっと賊たちが我に返った。

 隣の男が銀次に駆け寄る。肩に手をかけて上体を起こした。

「死んでるぞ」

 すがるような目を頭目に向ける。視線は、次いでふた切れめの肉を口に運ぼうとしていた老人に移った。四人の注目する中で、老人は肉を幾度か噛み、飲み込んだ。

「てめえが殺ったのか」

 頭目の声が震えた。初めて獲物である老人に声をかけた事を意識しながら。

 三切れ目を切り取ろうとしていた老人の手が一度止まる。蚊虫を見る目で彼らを一瞥した。再び肉に小柄を刺し込んだ。老人の顔に変化が起きた。虚ろな表情が消え、何かを思案している様子に変わった。やがて三切れ目に塩をふり、口に入れる。

 突然、背後のもうひとりの男が剣を振り上げた。何かを叫びながら、右斜め上から袈裟に老人に斬りつけた。今度は頭目も止めようとはしない。

 その瞬間、老人の体が飄のように一転した。焚火越しに見ていた賊たちの目には、僅かに横に動いたようにしか捉える事はできなかった。そして肉を断つ鈍い音。一頻の動作を終えた老人の左手には、抜き身の剣が妖術のように出現していた。足下に残っているのは鞘のみ。その位置もほとんど変わってはいない。

 背後の賊が老人のいた位置に倒れ込んだ。そのまま顔を焚火の中に突っ込んでも、ぴくりとも応じなかった。次いで、首が体からごろりとはずれて焚火の外に転がる。首だけが炎の中から逃れ出てきたように。老人を斬ろうとした時の形相を残したまま。そして胴体側の首の切断面から吹き出す鮮血が炭に焼かれて猪肉のように香った。

 蒼白になった三人の賊たちの前に、頭上から刀が落ちてきた。グサリと地に突き刺さった刀の柄には、肘から先の両腕がしがみついている。それを見て、賊たちは焚火に頭を炙られている仲間の死体からその部分が消失していたことにやっと気づいた。

 老人が、焚火の向こう側でゆらりと立ち上がる。黒々した虚ろな大きな目が、ぎょろりと彼らを睨んだ。喰人鬼に生肝を掴まれたように賊たちの全身が凍りついた。

 それでも三者は三様に反応した。最も腕に覚えのあるひとりは、果敢にも老人に刃を向けた。剣を返して刃先を向け、一撃に全てを託して突進した。突くように見せながら、直前で体を低く沈めた。片腕だけで剣を持ち、地表すれすれで刃を大きく旋回させる。老人の脛から下を狙った奇襲であった。戦場で覚えた技である。この技を使って、男は今までにも多くの兵法者たちを殺してきている。そして此度も絶妙の拍子で技を仕掛ける事ができた。揺れる視界の隅で、片手斬りの刃が老人の足首を切断する光景を捉えようとした。だが、最後に男が目にした物は、首を失って枯れ葉の上に転がる見慣れた自身の体であった。斬り飛ばされた首が地に落ちる前に男は死んだ。

 三人目の首が足下に転がってくる僅か前に、頭目は逃げ出していた。仲間の事など胸中から完全に消失していた。魔物だ。とうとう笹子の魔物が現れた、と迷信的な恐怖に駆られて必死で走る。絶対に振り返りたくはなかった。振り返ればきっと、老人は恐ろしい魔物の姿に変じているに違いない。熊よりも強い、人を喰らう鬼だ。

(もし、そうなら)

 頭目は少しだけ仲間たちの事を考えた。彼らの死体のことを。魔物はきっと彼らを喰っているはずだ。やつらを喰っている内に逃げられるかも知れない。そう思った瞬間、胸を冷たい何かが貫いた。足が縺れて転ぶのと、それを見るのとは同時であった。自分の胸から生えている血みどろの刃。刀は焼けた火箸のように熱くなり、燃え上がる炎となってその傷口から全身にひろがってゆく。息が出来なかった。肺の空気を無理に吐き出そうとすると、ゴボッと湿った音を立てて大量の血が口と鼻から吹き出した。倒れているにもかかわらず、ぐるぐると目が回った。回転は更に早くなってゆく。遠くにある焚火の炎。揺らめく影。どうしてこんなことになったのか、自分でもわからなかった。

(喰われちまうよ…)

 頭目は最後にそう思った。死ぬ事よりもその事の方が気がかりだった。

 投げた刀が四人目の男の心臓を貫いた手ごたえを確認すると、老人は残りのひとりに目を向けた。男は地に両膝をついて座り、何かを呟きながら体を前後に揺すっていた。半開きの口の両端からは粘ついた涎が滴り続けている。そして、ケタケタと笑った。

 老人は暫くその男の有様を見ていたが、やがて四人目の男に投げた刀を取りに約五間ほど先の闇へと向かう。四人目と一人目の首をはねて戻った時も、五人目の男は同じ姿勢で同じ動作を繰り返していた。その目は、赤子のように無邪気でさえある。

 五人目の男をそのままに、老人は四つの生首を南瓜でも包むように大きな風呂敷にくるんだ。それを終えると、猪の屍から肉を切り取り、枝に刺して再び炙り始めた。前に焼いていた肉は、この騒ぎのために焼け過ぎてしまっていたのである。

 それから四半時近く。猪肉をたらふく胃に詰め込み終わった頃、別の集団が老人に近づいてきた。辺りの様子を伺いながら、ゆっくりと接近してくる。はじめに老人の前にやって来たのは、まだ若い山男だった。身を隠す素振りもなく、死体と狂人をきょときょとと見比べる。薄気味悪そうに老人を見つめ、首を傾げた。

「これ、じいさんがやったのか」

 かん高い声で男が聞いた。老人は炎を見たまま頷き、寂しげに微笑んだ。

 すげえ、と喉の奥で呟くと、男は山犬の声音で吠えた。背後の暗がりから数人の男たちが姿を現した。老人と対峙するかたちで、六人。さらに見えぬその後方にも三人。

 中央の大柄な男の目配せで、二人が死体の元に走って行く。暫くして戻ってきた。

「間違いねえ。泥虫の小源太たちだ」

 巌のような大男が頷く。年は三十代の半ば程。その肩に羽織っている熊の毛皮がよく似合った。いかつい顔に皺を寄せて、思案深げに老人に目をやった。一歩進み出て。

「御老体。挨拶が遅れた非礼はお許しくだされ。おれらは、この笹子峠を仕切る山賊でござる。今は〃血地蔵の左近〃と名乗っております。以前は拙者は尾形左近と名乗り、六年前までは、とある家中で足軽組頭をしておりました」

 老人は、ほう、と呟いて顔を上げた。大きな目が男に話の先を促した。

「〃血地蔵〃とは、血の通うた地蔵の意。決して非道な殺戮は好みませぬが、戦場で親を亡くした多くの子等の面倒も含め、身内の者たちも喰わして行かねばなりませぬ。才に乏しきこの身では、生きんがために賊業に落としており申す」

 血地蔵の一派については、街道の宿場町でも知られていた。同じ事を左近も口にした。貧しきものからは奪わず、無益な殺生はしない。が、富を持つ者たちからは通行料と称して金品を脅し取る。代わりに、交渉次第では峠の人足代わりをも勤めているという。

「こ奴等、泥虫どもは」と大男が死体を指しながら。

「畜生にも劣る外道でござる。この二月の間、山中で身包みを剥されて殺された者の数は十と九人。今宵は山賊の務めではなく、泥虫どもを捕えんがために派を率いて罷り越しました。御老体にお目にかかった理由はそうした事情に寄るものにござりました」

「なるほど…」

 老人が口を開いた。座ったまま、左近を見上げながら。

「実はな。わしは、〃血地蔵の左近〃一味に会いに来たのだ。今の今まで、こ奴等が血地蔵の左近だと思っておった。つまりな。わしは、お主を斬ったつもりでいた」

 男たちがざわめく。刀に手をかけるものもいた。

 左近は無言で目を伏せ、老人は淡々と後を続けた。

「四日前に、茶飯を振舞ってくれた田舎家の百姓夫婦に頼まれてな。最も、向こうはそんなつもりで言った訳ではなかったようだが。わしよりも年は下の爺いと婆あの二人暮らしでな。泣かれると、どうも弱い。ひと月ほど前に、ここで息子たち二人を殺されたのだそうだ。何でも親が病に倒れたと聞かされて、奉公先から大月にある家に戻ろうと夜半の山道を急いでおって、賊に襲われたらしいが。酷い有様であったらしい」

「そりゃあ、おれらじゃねえよ!」

 若い山男が叫んだ。何かを言い加えようとすることろを、左近が制した。

「御老体。それはこの者が申す通り、間違いなく泥虫どもの仕業にございます。ですが拙者も、今までに多くの者たちを手に掛けてきました。きっと、誰かの恨みを買ってもいる事でございましょう。もし僅かでもお疑いが残るようであれば、この首をお斬りなさいませ。手向かいはいたしません。御老体のような達人に斬られるならば本望でござる」

 山賊たちは耳を疑い、左近は老人の決断を仰いで目を閉じた。

 老人は暫く男を見つめ、やがて制するように手を上げた。

「そう拉致もないことを言うな。御主の贖罪の尻拭いを、今さらわしに押しつけられても困るぞ。まだ武家の潔さに未練があるでもなかろうに」

「いいえ。決してそのようなつもりで言ったのではありません」

「元から、血地蔵の性根を確かめてからどうするか決めるつもりだったのだ。とにかく、もう良いわ。終わった。ところで、血地蔵の左近。なぜ、わしの素姓を察した」

 山賊たちが不思議そうな顔を左近に向けた。左近が顔を上げる。遠い目で、老人の背後にある闇に過去の記憶を追っていた。ゆるりと微笑む。

「この屍の切り口。このように剣を振るえるお方は、かつての我が主を除けば天下でも一人しか居られぬ筈でございます。お年の頃も噂のとおり、かと」

「ほう。良ければその、かつての主の名を教えてはくれぬか」

 左近は少し躊躇った後に口を開いた。懐かしむように目を細めて。

「大胡は勢多の下柴砦が城主、上泉伊勢守秀綱さまでございます」

 老人は鼻を鳴らして頷いた。立ち上がり、首を包んだ風呂敷を手にした。狂人を立たせて包みを持たせる。元凶賊の最後のひとりは、童子の素直さで従った。

「後の始末は任せるが、よいな。猪はわしがここで捕えたものだ。おまえたちにやる。親を亡くした子ども等にでも喰わせてやってくれ。この首は貰っていくぞ」

「その男、どうなさるおつもりでございます」

 左近は狂気に取り憑かれている男を指差した。

「ここに残してゆく訳にはいかぬわな。御主ら、斬ってしまうだろうが」

「多くの者たちを殺した一味の者でございます。それに、ここで死んだ方がこの男のためにもなりましょう。この様になって生きていても…」

 老人は、涎を垂らして笑っている狂人の手を引いて歩き出した。その後ろ姿を左近たちが見送る。二人が見えなくなると、暗がりから弓手の三人も寄ってきていた。

「お頭。あのじいさん、何者だ」

 弓手のひとりが聞いた。他の者たちも耳をそばだてる。

「おれもお目にかかるのは初めてだ。齢七十近くにして武者修行の旅を続けているって言う噂は本当だったとはな。あの死体をこの目で見た今でも信じられねえよ」

 感慨深げに呟いた。左近は老人たちが消えた方向を静かに見つめている。



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