秀綱陰の剣・第三章

著 : 中村 一朗

印可状


 秀綱たちがお静に会う少し前頃。

 下柴砦の南庭では、三人が少年を囲んでいた。縁側から仁右衛門が庭に下りる。左右からは一尺程の匕首を抜いた大柄の男が近づき、適度の間合いで足を止めた。暴力に慣れた者が放つ無言の威嚇。血を求める暗い目が既に少年の死を見据えている。

「乱波でもガキを殺したくはねえ。素直に捕まれ」

 仁右衛門の乾いた声。少年は虚ろな目を仁右衛門に向けた。呆けたように首を傾げる。右手から手文箱がくるくると落ち、紐にぶら下げられて小さく揺れた。

「年をとると、鼻が悪くなるみたいだ。わからないんだから」

 少年の頬に笑みが浮かぶ。大柄の男たちの目の色が変わった。

「なめるんじゃねえ、小僧!」

 右の男の恫喝にも臆することなく、少年は懐から煙草入れを取り出した。

「ほら、これ。さっき、奥の部屋の布団の上に、この種火を置いて来たんだ」

 仁右衛門は眉一つ動かさない。が、それ以上に少年の滑らかな手首の動きが気になっていた。その下で大きく揺れ始めている樫木の箱。

 その時、屋敷の奥が騒がしくなった。押入れからの火の手に、誰かが気づいて叫んでいた。微かな焦げ臭さが辺りに漂い出す。仁右衛門は少年に顔を向けた。

「どうも、死ぬしかねえらしいな。小僧」

 小さく言い放つ仁右衛門の烏顔に皺が更に深く刻まれた。応じるように、少年の顎の筋がグッと引き締まる。左足が外側へ開き、素足の裏がゆっくりと地を嘗めた。

「嫌だ…」

 少年は素直な声で呟いた。囲む三人の男たちに表情の変化はない。

 一瞬の間。左右の男たちが足を踏み出そうと重心を片側に移した。と、同時に。

 ふいに少年の右手が大きく撓う。手から紐が離れ、木箱は大きな弧を描いて壁の遥か上を飛び越した。その反動を利用して、少年は後方へ跳んだ。宙で反転し、素手の仁右衛門に躍りかかった。いつの間にか、左右の掌にはクナイが握られている。

 少年は仁右衛門の頭上に右手の刃を振り下ろした。初手をかわされても、より深い間合いで旋回する左の刃が老人の首を切り裂く。そのつもりで踏み込んだ。

 鮮やかな奇襲となるはずであった。奪われた箱に一瞬でも注意が向けば、囲い側に隙ができる。少年は一番力の劣っていそうな仁右衛門を瞬時に刺殺して、火事を吹聴しながら屋敷の中を走り抜けるつもりだった。が、仁右衛門は箱に見向きもせず、少年の動きだけをじっと追っていた。その場で為すべき事は少年の捕縛ないしは殺害であり、木箱の奪還と火災の処理は家中の者が担う事と既に割り切っている。そしてまたそれ以上に、仁右衛門の戦闘技量を侮った少年の誤認が致命的であった。

 仁右衛門は頭上から襲ってくる刃を三寸で見切ると、逆に踏み込んで間合いを詰めた。第二撃の刃を持つ少年の左手首にある急所を左腕刀部で受けながら、同時に右肘で脇腹をえぐり上げた。肺の下の肋骨を二本へし折られて、少年が吹き飛ぶ。いや、自ら跳んだ。間合いを取るために本能的に地を一転して起き、身構える。脇腹の筋肉の小刻みな痙攣。続いて痛みは波紋のように内側から押し出されてきた。

 苦痛よりも驚愕に少年は顔色をなくしていた。庭の左右を塞ぐ男たちの位置に変化はない。少年が仁右衛門を急襲した時と同じ姿勢のままであった。彼らは仁右衛門の警護役ではなく、少年の退路を断つために配置されていたことを知った。

 仁右衛門が無表情に見下ろしている。重複して見えるもうひとつの顔。人の命を喰らう性を持って生まれた死神の形相に初めて気づいた。よく似た目を持つ者を一人だけ知っていた。それに思い当たった時、少年は大きな過ちに気づいた。

「殺れ」

 仁右衛門が吐き捨てた。二人の大男は野犬のように素早く反応した。

 右の男が匕首を腰溜にして少年の腹を狙って突進する。その男が突然転んだ。顔を苦痛に歪めて右足を押さえる。腿部の裏に半弓の矢が刺さっていた。城郭の上から人影が消えるところを目の隅でとらえる。同時に、倒れている男の上を越えて全力で走った。一瞬遅れて、仁右衛門ともう一人の男が追ってくる。意味のわからない罵声が若い方の男の口からはじけた。しかし彼らに背を向けている恐怖を無視して、少年は自らの脚力にすべてを賭けた。死に物狂いで右手の庭の植え込みを飛び越え、奥の木を猿の疾さで一気に登る。城郭の瓦を踏んで砦の外に跳んだ。崖状の地面までは四間近い高さがあった。少年はなだらかな斜面に落ち、着地の激しい衝撃を四肢で受け止めて一転する。

 目の眩むような脱出の解放感と狂喜の衝動。そして、それを遥かに上回る左脇腹の激痛が、まだ危機の渦中にある少年を現実に拘束していた。

「こっちだ!」

 叢から仲間の声。その方向に走りながら耳をそばだてる。屋敷の中からは火の手にうろたえている者たちの声が聞こえるだけで、少年を追撃する指示はまだ叫ばれていない。

 葦の群生の中で仲間と合流する。同じような体形の少年だった。背には、手文箱がしっかりと括りつけられている。二人は立ち止ることなく、川辺に隠してあった小舟に飛び乗った。対岸に着くと藪に走り込み、さらに十町以上逃げてようやく足をゆるめた。

「助かった、時雨」

 少年が言った。脇腹の痛みに頬を歪め、それがぎこちない笑みに変わる。

「嫌な予感がして覗いたんだ。桐生が手間取る相手がいるとは思わなかった」

「もう少しで殺されるところだった。天下は広いな。あんな爺いがいるなんて」

 時雨が不思議そうな顔をした。桐生の顔には今も怖じ気が残っている。

「あいつ、それほどの技を」

「いや。技じゃなく、あの目だ。まるで、お久さまのようだった」

「へえ…」

 寸刻前に感じた桐生の悪寒が時雨にも伝染した。修羅の意志が人を殺す。技はそのための手段に過ぎないことを二人は骨の髄までよく知っていた。

 桐生は懐から握り飯の包みを出して開いた。そのうちの二つは餅のように潰れていた。まだ形の残っているものから二つを時雨に差し出す。

「ほら、やるよ。このおかげで、骨二本ですんだんだ」

 二人は童子のように味噌を塗った握り飯を口いっぱいに頬張りながら、街道から遠くはずれた藪の中を歩いた。時雨が腰に吊っていた竹筒の水を飲んで、桐生に回す。その時になって、時雨は桐生が潰れた握り飯を食べていた事に気づいた。

「なんだ。そんな潰れた奴なんか、捨てちまえよ」

「だめ」

 言いながら、桐生は最後のかけらを口に放り込む。

「じゃあ、そっちのは」

 時雨が包みに残った二つを差す。桐生は竹の皮で包み直して懐に戻そうとしていた。

「お蝶にやる。土産だ」

 思い出して笑みを浮かべる桐生を見て、時雨はまた不思議そうな顔をした。

 藪を抜け、獣道を選んで山中へ。二人は甲府への帰路を急いだ。


 騒ぎがおさまってから四半時を少し過ぎた頃、文五郎と奥山が馬で戻った。

 駆け寄る家臣たちに、昨日の件は解決した事を伝える。彼らの顔に安堵の表情がひろがるのを待って、自分たちが屋敷を出た後の事態について訪ねようとした。

 そこに屋敷の中からふらりと現れた仁右衛門の姿に、文五郎は驚いた。

 結局、文五郎は仁右衛門から詳しい話を聞くことが出来た。

 小火は布団と押入れの襖の一部を焦がした程度で消し止められていた。仁右衛門の手配で、侵入者の手口と動線はすぐに突き止められた。あの少年が侵入者であった事を知ってお町は少なからぬ衝撃を受けたが、自分の振舞いが家に何の害も及ぼさなかった事はすぐに理解した。それでも尋問に対して

「悪い子には見えなかったものですから」と微笑んだ時には、さすがに仁右衛門も目くじらを立てたという。

 調べは迅速に進んだがその一方、屋敷内から紛失した古い小箱の中身については誰にも分からず、秀綱の帰りを待つしかなかった。納戸を調べた文五郎にも分からなかった。

「それにしても、いい拍子で屋敷に立ち寄ってくれたな」

 話を聞いて、文五郎が呆れた。仁右衛門は照れたように笑う。

「偶然て奴ですよ。先生か若旦那のどっちかは屋敷にいるんじゃねえかと思ってさ。堺に行く途中で別の用ができてね。そんで、引っ返して来たらこの有様だ。まさか、あっしがここで力仕事をする羽目になりやがるとはさ。お釈迦様でも何とか、ってとこだね」

 仁右衛門が二人を従えて屋敷に立ち寄った時、門番から昨日の騒動について聞いた。そして秀綱が単身箕輪に向かい、直後文五郎たちが秀綱を追っていった経緯までは、旗本たちに腹を立てながらも納得して聞いていた。ところが文五郎から伝言を託された少年の話になると、仁右衛門は二つの疑念を抱いた。ひとつには、文五郎は自ら意伯と名乗る事は決してないのに、初対面の少年が〃意伯さま〃と呼んだ事実。もうひとつは、不必要に内弟子たちを呼び寄せた文五郎らしからぬ振舞いに対してである。結果、屋敷内の警備が手薄になった、と仁右衛門は考えた。仁右衛門たちは若い衆を見舞った後に、屋敷の中を調べて歩いた。どの門番も少年が門を出たところを見かけてはいなかった。仁右衛門は少年がまだ屋敷内にとどまっているものと確信した。手を分けて探っているうちに、縁の下を移動する人の気配に気づいたという。

「あの乱波、盗人としちゃあ二流でしたぜ。あっしに気づかれるぐらいだからね。でも、ガキのくせに人殺しには慣れてやがるな。ま、ただの〃感〃ですがね」

 文五郎は仁右衛門の〃感〃を信じた。本来のものである潜入技術よりも殺人に長けているという乱波群。思いは必然的に七日前の暗殺未遂へと遡る。…裏傀儡。

 三日前、お静が遺体検分後の詳細な調べ書を送ってきた。それによると身体的特徴から四人の刺客が農民や武士ではない事が結論づけられていた。特に内蔵、筋骨及び腱についての特異性の言及には、文五郎のみならず秀綱も目を見張った。幼少の頃からの修養で造り上げられたと推定される理想的な戦闘用の体型。しかも、山野における長時間の白兵戦に耐えるための武士に必要とされる肉体では、決してないと指摘していた。

(だが、なぜだ)

 文五郎は自問した。裏傀儡の少年が不得手な潜入を今日の昼間に試みなければならなかった理由は、秀綱と文五郎が揃って屋敷を離れる千載一遇の好機に遭遇したからだ。つまり彼らは秀綱をずっと監視していた事になる。それならなぜ、今朝秀綱が単身で箕輪に赴いた際に襲撃しなかったのであろうか。答はひとつ。秀綱の暗殺が彼らの目的ではなくなったことを意味する。それとも秀綱暗殺の目的は、初めからあの小箱を手に入れるためのものであったのかも知れない。だが、そう考える事はどうも釈然としなかった。

 屋敷の喧騒はさらに増した。小火騒ぎを聞きつけた町場の弟子や出入りの職人たちまでもが、見舞いと称して次々にやって来た。旗本との騒動も落着しての安堵も手伝って、家中の者たちは快く彼らを迎え入れた。万一に備えていた炊き出しの飯がふるまわれ、商人が見舞い品にと送ってきた酒樽はその場で開けられた。

 昼に秀綱と内弟子たちが戻った頃には、屋敷の中はさながら祭りのような騒ぎになっていた。さすがに秀綱も、細い目を丸くした。

「すまねえ、先生。町の連中も昨日の騒ぎを知ってて、皆、心配していたらしくてね。先生が円く治めたって言って歩くよりは、この方が手間が省けると思ったんだけどよ…」

 門前で出迎えた苦り顔の仁右衛門に、秀綱は苦笑で答えた。

 秀綱たちにはお静も同行してきており、到着するとすぐに、さらにひとり増えた怪我人たちのいる部屋に向かった。お静を見て顔色を変えた怪我人も中にはいた。彼らは六日前の腑分けを手伝わされた荒くれ者たちだった。

 文五郎は不在だった。仁右衛門に後を託し、酒宴を嫌って寸刻前に屋敷を出ていた。今ごろはまだ竹林にいるという。秀綱は弟子たちを振り仰いだ。

「意拍らしいな。おまえたちも、あの肝の太さを見習ろうほうが良いぞ」

 内弟子たちは秀綱に一礼して散開した。

 仁右衛門と秀綱は玄関から屋敷の中へ。人の行き来は目につくが、それでも外の騒ぎに比べるとだいぶ落ち着いていた。仁右衛門は秀綱に納戸蔵の中を検めるように促した。秀綱は中に入り、仁右衛門は外で待った。暫くして出て来た秀綱の顔に変化はなかった。

「何か無くなっちゃあいませんでしたかい」

「ああ。無くなっていたよ」

 あっさりと秀綱が答える。とりあえずその場では、仁右衛門はそれ以上聞かなかった。

 二人は秀綱の自室に入った。いつの間にか、仁右衛門の右手には酒の入った大瓢箪がぶら下がっていた。さらに懐から小ぶりの椀を取り出す。

「器用だな。仁右衛門さんなら、いつでも盗人で飯が食えるね」

「昔から口入れ屋をしていたって訳じゃあねえんですよ。こう見えても、あっしは苦労人でね」

「知ってる。今日も、仁右衛門さんのその昔とった杵柄に世話をかけたようだ」

 仁右衛門は椀に酒をつぎ、秀綱に差し出した。

「ところで、何が無くなったんですかい」

「印可状だ。愛洲移香斎先生から頂いたものだった」

 秀綱は事もなげにさらりと言った。暫くの間、仁右衛門は口をきく猫を見る目で秀綱を見ていた。やがて固い表情で、ぶつぶつと何かを呟きながら椀の酒を喉に流し込む。

「先生。そりゃあ、まさか陰流の奥義書のことじゃねえんだろうね」

 咎めるような仁右衛門の声に、秀綱は居心地悪げに頷いた。



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