サブカルチャー考原セミナー

『どろろ』と“妖怪”

著 : 五十嵐 アキヒコ

b,古神道と“妖怪”の誕生


 曖昧に思える妖怪物も、背景は論理的で、『…鬼太郎』などはその考え方をしっかりと作中に反映させている。

 そんな妖怪の世界について、古神道を使って流れを見ていきたい。


 古神道は、仏教に影響を受ける以前の神道のことを指し、現在の神社神道の源流とも言うべきものだ。

 具体的にどのようなものだったのかはほとんどわかっていないので、現存する少ない資料から推測された、仏教伝来以前の日本独自の宗教と考えてもらえればいい。

 民間信仰が色濃く取り入れられているのも面白い点だ。様々な人の考えが信仰の中に入っていることで、独特の雰囲気を作り出している。


 妖怪を生み出した古神道の世界観には、現世(うつしよ)と常世(とこよ)の考え方がある。

 現世は我々が生きているこの世界。生命を持って有限の時間を生きている。

 常世は二つの様相を持つ神域の世界。常世と書いた場合は、昼のまま永久に変わらない理想郷を指す。

 例えば浦島太郎の原型とされている長歌が万葉集にあるが、この時浦島太郎が行ったのも常世にある海神の宮である。

 常夜と書いた場合は、夜のまま永久に変わらない、変化の無い世界のことを指す。妖怪達が住む世界はこちらの方だ。変化が無いので死という終わりが無い。妖怪達にとっては絶好の世界と言っていいだろう。

 古神道では常世(夜)は神域とされていて、そこに住むものたちは神と同義になる。

 神にも色々な種類があり、一般的に想像しやすいのは人格神と呼ばれ、尊(みこと)を指す。

 妖怪の根源になっているのは九十九神(つくもしん)で、依り代に宿り、和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)の二面性を持っている。

 慈しみを持ってそれに接すれば和ぎ、幸福をもたらしてくれる。粗末に扱えば荒ぶる神となり、人々に災いを与える。人の接し方で対応が変わる存在という点が面白い。

 九十九は長いという意味や、多種多様という意味を持っている。

 九十九神は、長年愛用され、大切に扱われた道具を依り代として宿ることから、付喪神と書かれることもある。

 古神道は縄文神道と呼ばれるように、縄文時代の頃からあったとされる。

 しかし、九十九神は、鎌倉時代あたりから原型が見られるようになる。

 鎌倉時代以前にも妖怪の表現や記述はあるが、道具や家畜などの依り代と九十九神から生まれた妖怪は見られない。

 鎌倉時代以前の妖怪は、古神道の自然崇拝そのままに龍や狐や蛇などが荒々しく表現されている。これは人々の生活において、何が畏敬の対象だったかを指していると考えられる。この頃は大自然そのものが人々の生活を脅かす代表格であり、それらを妖怪として畏怖の念を表現していたと予想できる。

 今でも認知されているような妖怪の成立は、室町時代になってからだ。

 この頃になると、妖怪の由来と設定が固まり、九十九神という名称も生まれた。付喪神記という書物には「器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すと云へり」という記述がある。

 長い時間を経た物に対して畏敬の念を抱くのは、日本独特の考え方と言えるだろう。

 この考え方は、当時の世相が反映されている。

 室町時代には軽工業も発達し、ある程度の消費社会が出来上がっていた。

 これにより、安易な消費に対する警鐘の意味もあったと考えることができる。

 実際、安易に消費されていたであろう生活用の道具が、妖怪として多数描かれているのが興味深い点だ。

 この時期の妖怪はある意味、物を大切にするという道徳教育の意味合いも含まれていたのではないだろうか。そういった道徳的観念や、民間信仰が色濃く反映されていればこそ、その時代に生まれた妖怪の由来から当時の人々の気持ちや、生活を考えることができるのも妖怪の楽しみ方の一つと言える。

 想像の入り込む余地が非常に大きい世界観だ。

 妖怪の世界観は、古神道の土壌に民間信仰だけでなく、社会に対する警鐘の意味も合わさり発展していったと考えられる。しかも、そこで生み出された妖怪は人々に信じられ、意識に多大な影響を与えていた。

 実際、依り代となった道具が荒ぶる神となったのを鎮めるために供養塔を作ったり、そうならないように塚や碑を立てたりしていることから、九十九神や依り代に対しての畏敬の念は、かなりのものだったのだろう。

 包丁塚などはその顕著な例といえる。

 お役ご免となった包丁を塚に納めることで、感謝の念を表し、包丁に入っている魂を祀る。包丁は元々刀を転用して使っていた。料理人が新しい包丁を使うときは金山神社(日本各地にあり、鉱山の神である金山彦神を祭神とする神社)へ参拝し、包丁に魂を入れなければならないとされていた。ただの物ではない扱いをしているのがよくわかる。

 時代が進み江戸時代になるとリサイクルが社会全般で非常に進み、物を無駄にしないということが一般化していた。

 古い鍋や釜など、底に穴が開いて使えなくなった時には鋳掛け屋。割れた茶碗などの陶磁器を直してくれる焼き接ぎ職人。紙屑買いという古紙回収業者に回収された紙は再生紙へ。今日では破れれば捨ててしまう傘も、傘の古骨買いによって再生し再販された。

 湯屋の木拾いは銭湯のこと。江戸時代の銭湯代金は150年以上も変わらず、湯屋の従業員は暇さえあれば燃料費節約のために燃やせる物を拾い集めていた。

 拾った物は風呂を暖めるために燃やされ、さらに出てきた灰すらも灰集めによって回収され、肥料として使われていた。

 このように徹底したリサイクルの上で消費が進んでいったので、消費に対する罪悪感が無くなっていったと考えられる。室町時代の物を大切にという道徳教育は必要なくなり、九十九神を使った妖怪は新たに生まれる必要が無くなっていった。

 道徳教育の意味合いは以前から伝わる妖怪が担い、代わって創作作家が次々と新しい妖怪を創り出していくことになる。

 しかし、そこで生み出された妖怪は、由来や設定が曖昧なものが多く、古神道や九十九神は基本的に踏襲されつつもエッセンス程度に使われている妖怪も少なくない。

 特に長い年月大切にされたという記述が極端に少なくなっているのが特徴だ。

 例として唐傘小僧についてふれてみたい。

 一見すると、大切に長年使った傘を依り代に、九十九神が宿った妖怪と考えられるが、これは江戸時代に創られた妖怪の一つだ。

 荒御魂と和御魂の二面性は持ち合わせておらず、悪行も善行もしない。

 暗くなると家の周りを飛び跳ね、人に出会うと舌を出して驚かせるだけだ。

 非常に有名な妖怪ではあるが、民間伝承の中に目撃談はまったくと言っていいほど残されておらず、それっぽくは感じられる妖怪ではあっても創作の域を出ない。

 唐傘小僧と似た行動をする妖怪として一つ目小僧についてもふれておきたい。

 こちらも非常に有名な妖怪で、出会った人を驚かせるだけの行動を取る。

 唐傘小僧と大きく違うのは、関東地方には旧暦2月8日と12月8日の事八日の夜に、箕借り婆(事八日に人家を訪れ、箕や人間の目を借りていってしまう妖怪)と一緒に山里から下りてくるという言い伝えがあり、目籠を軒先に掲げて追い払う行事をする。

 地方によっては一つ目を突き刺すために籠に柊を刺すという。

 関東地方の伝承では行動も違い、一つ目小僧は事八日に毎年帳面を持って家々を周り、その家の落ち度を調べ、疫病神へ報告して災難をもたらすという。

 唐傘小僧と行動は似ているが、民間伝承がしっかりとあり、目撃談もある点が大きく違うのはわかってもらえるだろう。一つ目小僧は九十九神を由来とする妖怪では無く、地方の風習や習わしを由来とする創作妖怪と言える。

 一つ目小僧の由来は、単眼症の子供とする説もある。

 単眼症は、母体のビタミンA欠損などにより引き起こされる病気で、大脳が左右に分離することができず、これに伴い眼球も一つとなる。これにより正常な生命活動ができず、胎内もしくは生まれてまもなく死亡してしまう。

 この子供の魂が一つ目小僧となっているので、子供の姿で現れるという。人を驚かせるだけの行動は、子供の魂から創られた妖怪ならではの無邪気さを表現していると思われる。

 同様に座敷童子も世相を強く反映した妖怪といえる。

 岩手県を中心とした東北地方に現れる妖怪で、目撃談も多く、現在でも岩手県で座敷童が出る有名な温泉旅館がある(2009年に全焼。再建中とのこと)。

 原敬や福田赳夫、松下幸之助、本田宗一郎など、この旅館に宿泊した客が、座敷童と出会ったことで幸福に恵まれた人生を歩んだ例が少なくない。

 由来は多々あるが、一説には間引きされた子供の魂とも言われ、一つ目小僧の由来の一つと共通するものがある。


 こうした風習や習わし、不幸な病気や生い立ちが反映された妖怪が江戸時代に創作され、口伝や行事に一つの説得力と創造性をもたらしたことは間違いない。


 さらに、印刷技術が発達したこともあり、さまざまな解釈があった妖怪の見た目が、日本全国で固定化されていくのもこの時期になる。

 河童はその代表で、江戸時代以前、河童は全国で呼び方や見た目は風土の特徴が入り多種多様な妖怪だった。しかし、現在すぐに思い浮かぶ河童のビジュアルは、江戸時代に創りあげられ全国で固定化されたものの名残と言える。

 これが大まかな妖怪の発展に対する流れとなっている。時代は変われど、根底には古神道の考え方と九十九神がある。


 では、そのベースになっている古神道について、妖怪の生態と一緒に考えてみたい。

 古神道の考え方として、現世と常夜は往来ができる。

 神域から人の世界に来たり、逆も可能と考えられている。

 夕方あたり、夜と昼の明確な区別がしにくい時間帯は逢魔時(おうまがとき)と言い、この時間帯を使って常夜の住人は現世にやってくる。

 そして、夜が白み始める時間を使って帰るという寸法だ。

 この曖昧な世界観も妖怪の魅力をさらに引き出してくれている。

 往来ができる二つの世界の関係。

 これが妖怪の表現に大切な要素だろう。

 では、常夜の住人である妖怪は、逢魔時を使ってどこにでも自由にやってくることができるのか。その答えには依り代と結界の考え方が大切になってくる。

 九十九神の部分で依り代には触れたが、依り代は長年愛用された道具だけに限らない。

 九十九は「長い年月を経て古くなったり、長く生きたもの」を指す言葉だ。

 大きな石や大木のように、長い年月そこにあり続けた物も依り代として使われる。

 妖怪達は、依り代を使わないと現世に来ることができない。どこでも簡単に出現できる訳ではないのも、古神道の面白い考え方だ。

 さらに、古木や巨石、深い森のように、がらっと雰囲気の変わる場所は、様相が変わると言われ、これも依り代となる。

 つまり、道具以外の依り代は、現世と常夜の境界を表し、それをつなぐ扉の役目を果たしている。

 この様相が変わるというのも人によって違う非常に曖昧な感情だ。

 それゆえ、地方によって様相の変わる場所はバラバラで、地域信仰も手伝い、依り代は色々なものが考えられた。

 曖昧さが妖怪物には大切という根拠の一つとして使えそうだ。



top