サブカルチャー考原セミナー

『どろろ』と“妖怪”

著 : 五十嵐 アキヒコ

a,手塚作品の中の『どろろ』の意味


 手塚治虫の弱点は何だろうか。

 そんな疑問が浮かんだことがある人も中にはいると思う。

 そして、何も浮かばずに故人の偉大さを再確認することになる。

 しかし、筆者は少なくとも、妖怪物は苦手だったのではないだろうかと感じる。

 1967年、時は妖怪大ブームの真っ最中。そんな中、ついに巨匠が妖怪漫画を世に送り出す。それが週刊少年サンデーで連載された『どろろ』だ。

 室町時代を舞台にした時代劇で妖怪物。手塚治虫のエンターテイナーとしての力が発露した挑戦的な設定だったが、残念ながら読者には受け入れられなかった。

 当時の漫画は勧善懲悪が主流で、妖怪ブームの発端となった『ゲゲゲの鬼太郎』ですら、連載初期には苦しんだ経緯がある。

『墓場鬼太郎』の頃は怪奇物語だったが人気は得られず、正義の鬼太郎が悪い妖怪を退治するという路線変更をすることで、徐々に人気が盛り上がっていった。近年でこそ『墓場鬼太郎』は評価されているが、連載当時は暗いイメージが強い漫画は読者が付かない状況だった。『どろろ』も、『墓場鬼太郎』と同じ悩みを持つことになる。

『どろろ』は、“百鬼丸”と“どろろ”の二人が主人公だが、この設定からとにかく重い。

 連載当時は漫画の勃興期であり、挑戦的な漫画が数多く存在したが、ここまでシビアな設定を主人公に与えた漫画はちょっと浮かばない。展開される話も暗い内容が多く、読者の人気は得られず翌68年には連載が打ち切られてしまう。

 1969年にはアニメ化もされ、掲載誌を冒険王に変えて連載再開となるが、暗い展開は変わらずに連載は短期で再度終了。

 とうとう完結に至るまで、物語の細部は描かれなかった。

 こうして、手塚治虫が妖怪漫画を書こうと思い立ったきっかけになっている水木しげると同じ運命を辿って“鬼太郎”は残り、“どろろ”は終わってしまった。

 しかし、この『どろろ』には、手塚治虫のエンターテイナーとしての核が多く含まれている。『どろろ』は妖怪漫画として読者の支持を得られなかったが、ヒューマンドラマとしては一級品の完成度を持っていると言いたい。作品全般に流れる社会風刺、戦争への憤り、差別問題など、鋭い視点で考えるきっかけを大いに与えてくれている。

 そんな『どろろ』について考えてみたい。


『どろろ』の特徴は、百鬼丸をどのように捉えるかで印象はかなり変わってくると思う。

 肉体の48の器官を妖怪に奪われて生まれた百鬼丸の存在がドラマチックな要素として、『どろろ』の面白さを創り出しているのも興味深いポイントだ。

 村人の前で村に災いを振りまく妖怪を倒し、自分の足を取り戻したときの村人の反応は、人間の差別的な部分を鋭くえぐる表現がされている。大喜びする“百鬼丸”に、祝福を送る“どろろ”。しかし、周囲の村人は冷ややかな目でそれを見た後「村を出て行ってくれ」の一言で追い出しにかかる。

 妖怪を倒してくれた恩人に対して、何という冷淡な対応だろうか。

 手塚治虫の人間観察眼が鋭く光り、人の自分勝手で排他的な社会を風刺している内容だ。

 これとは逆に、人間の優しさ、暖かさも表現している。

 特に印象的なのが、“どろろ”の母親「お自夜」の存在だろう。

 父親が死に、母子二人で旅を続けているときに炊き出しに会う。空腹の“どろろ”のために、熱く煮えたぎったお粥を手で受けるシーンは、母親の愛情を表現するには衝撃的すぎる。焼けただれた両手に入れられたお粥を喜んで食べる“どろろ”。子供の“どろろ”にはご飯が食べられたという気持ちしか無い。しかし、それを優しく見守る表情が、見る者の心をえぐるような内容になっている。

 母親が持つ子供への深い愛情を感じずにはいられない。


 それでは“百鬼丸”を、人と妖怪の中間という扱いで考えてみたい。

 作中での扱いは、村人たちの反応などを見る限り妖怪として表現している。厳密には差別的な視点で人外という扱いを、妖怪と言い換えていることになってしまうが。

 人間と捉えると妖怪退治の要素が印象に出てくるが、“百鬼丸”は会話も腹話術とテレパシーを使うあたり、超能力者としてのイメージが先行してしまう。

 そうすると、この物語は妖怪が人間になる話という解釈が生まれてくる。

 比較対象として“鬼太郎”を使ってみよう。

 “鬼太郎”は勧善懲悪の内容に変わる前、『墓場鬼太郎』の“鬼太郎”だ。“鬼太郎”は人間になりたいとは考えていない。人間の愚かしさを笑いながら、時にいたずらをしたり、時に皮肉めいた傍観者として人間との接点を作っている。

 ここの部分が妖怪物に大切な部分かもしれない。

 そう、妖怪は人と密接な関係になってしまうと妖怪物の部分が薄れてしまうことになりかねない。妖怪というのは伝承の中で生まれ、民間信仰の中で育ってきている。ある妖怪は神の如き力を持ち、またある妖怪は長年使われた道具に宿って、粗末に扱う人には災いを。大切に扱う人には幸を与えてくれる。

 いそうでいない。いなそうでいる。

 時に怖く、時にありがたい。

 このあやふやさが大切なことといっていいだろう。

 何か科学で説明できないことが起こったときに、「あれは妖怪の仕業かもね」、と。

 こう言える内容が、八百万の神と九十九神のいる、古神道信仰独特の感性となって妖怪を表現していくのではないだろうか。

 一方の“百鬼丸”は人間に憧れ、人間になろうとしている。

 敵の妖怪との接点は密接で、人間を食い物にする妖怪と、それを打倒しようとしようとする人間の図式が成立してしまう。ここにシビアな設定が加わり、質の高い物が生まれている。しかし、この明確な役割分担が、あやふやに接しなければいけない妖怪物の看板を塗り替えてしまっている。手塚治虫の旺盛なサービス精神と発想力が裏目に出てしまったのかもしれない。


 では、ホラーとして考えてみたらどうだろう。

 比較対象は、1968年にスタートしている『妖怪人間ベム』を使ってみよう。

 “ベム”は科学者の実験によって生まれた生物で、OPの「早く人間になりたい!」の言葉が表現するように、悪の妖怪を退治して善行を積めば人間になれると信じて戦っている。

 善と悪の区別がしっかり付いている内容で、妖怪人間という名前を冠しているが、ベム達自身も出てくる敵も、妖怪というよりはモンスターと解釈する方が受け入れやすい。

 “百鬼丸”との共通点は、明確に人間を目指している点。人間の側に立ち、人間に災いを与える敵を倒すことで、その目標に一歩一歩近づく部分も非常に似ている。

 では、『どろろ』はホラーかと問われると、どうしても答えに詰まってしまう。

 ここで断言できないあたりが、『どろろ』は妖怪物としての資質をちゃんと持っていると言えないだろうか。

 妖怪物と言い切れず、ホラーとも言い難い。

 この切り口の多さが、『どろろ』の魅力だろう。

 接する人によって姿を変える鏡のようだ。

 まるで、『どろろ』の存在そのものが曖昧な妖怪のように・・・。



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