アニメ概論

著 : 五十嵐 アキヒコ

Vol.2 : 機動警察パトレイバー2 the Movie


「映画は一回観ただけでわかったつもりになる必要があるのか?」とは押井監督が映画に対して投げかけた疑問である。これに対する答えは100人全員が違う回答を持っていると思う。実際、映画に対するスタンスや楽しみ方は人それぞれな以上、絶対的な答えが存在しないことは言うまでもない。今回紹介したい機動警察パトレイバー 2 the Movie(以下P2)は、この監督の問いかけに対する問題文のような役割を持っている。P2は押井色が前面に出ているので、見た後の感想が、好きと嫌いではっきり分かれる感想を言う人が多い。ロボットアニメとしてのパトレイバーファンには、P2は戦闘シーンも少なく、野明や遊馬といった旧第二小隊の面々があまり活躍しないことから物足りなさを感じるだろう。押井監督のファンにとっては、監督の鋭い社会考察と丁寧な画作りから、十分な満足感を得ることができたと感じることができるはずだ。しかしここで分かれる好き嫌いは2回目を見た後ではどうだろうか。そんな2回目の視聴についてポイントを押さえてみたい。


 押井監督は大塚康生から「理屈が自転車に乗っているような人間」と評されるほどに、論理性の高い表現を行っているように受け取れる。しかし、P2もそうだし、前作の劇場版もそうだが、かなり観念的で情感溢れる描写こそ真骨頂という見方もできる。自分自身の中にある疑問を映像表現で仕上げているが、答えはまだ見出せず、その答えに近づくための論理をキャラクターに言わせているのではないか。その概念に近い自分の中にあるモヤモヤっとしたことを、脚本家の伊藤和典というフィルターを通すことで、論理性高くエンターテインメントな内容に仕上げることが出来ているのではないかと思う。


 P2では扱っているテーマで「都市論」「PKO問題」「メディアへの疑問」あたりは既に触れている人も数多い。実際、筆者自身もこれらのことがテーマとして入っていることには大賛成だが、先ほど言った「実は情感溢れる表現者押井監督」という定義で見ていきたい。


 シナリオとしてはPKO帰りの柘植行人が首謀者になって、東京を舞台にしたテロ行為が展開される。このテロによる社会不安の表現が、情感溢れる部分として見て取れる。テロはベイブリッジ爆破からスタートする。一般的な映画のシナリオとしては、この事件の中核に主人公が存在し、即座にテロ組織との戦いが描かれるというあたりが妥当な組み立てだと思う。しかしP2では、まず事件についての報道が行われることが来る。フィクションではあっても、現実をシミュレートするということでは、P2で行われている方がリアリティを強く感じることができのではないだろうか。テロを事件と置き換えると伝わりやすいと思うが、直接事件に巻き込まれていない人が、起こった事件と接する一番最初はニュース番組だろう。現実に起こったことでも、ニュースを通して接することで失われる現実感。虚構と現実の曖昧な境界線について考えさせられる流れだ。


 さらに、テロが起きた後に即座に現実に変化は始まらず、作中での時間は比較的ゆっくりと流れていく。ここでも興味を強く引くのは、少しずつ変化する日常。状況と言っても良い。テロが起こった時に撮影された映像解析から、自衛隊の機体が浮かび上がる。バッジシステムにハッキングが行われ、ありもしない首都爆撃が演出される。自衛隊への飛行禁止命令が出され、抗議に向かった基地指令が警察に身柄を拘束される。それを発端として自衛隊が実質的な籠城を開始。警察は自衛隊の基地を厳重に監視するような挑発的警備を行う。これらの状況の変化は、時間をおいて一つずつ起こっていく。事件をきっかけにそれぞれの組織で小さな動きが起こり、波紋が波紋を呼んでどんどん大きくなる。だが、その変化は時間をかけて小さく変化することばかりなので、実感として強く感じることは難しい。これは想像になってしまうが、これらの事柄も毎日ニュースで流れ、一般の人には現実ではあっても現実味の薄い感覚で伝わっている。そういうことを想像させてくれる。


 そうこうしていると、モニター越しに接していた現実が、ある日突然現れる。シナリオは自衛隊の治安出動へと展開していくことになる。街に停車している戦車。ショーウィンドウの前に立つ完全武装の自衛官。今までの日常が一気に壊れる瞬間だ。しかし、作中では満員電車はいつも通り動く。ネクタイを締めたサラリーマンが出勤を急ぐ。戦車に手を振る園児と答える自衛官。どこまでが日常で、どこまでが非日常なのかが全くわからない。


 しかし、これらは作中の中で起こっている現実として受け止めなければならない。一つのテロをきっかけに崩れたように見える日常。しかし、社会は動いて、サラリーマンはいつも通り働いている日常。光景の選び方が秀逸すぎて、一瞬この場面は何が言いたいのか迷ってしまう。しかし、その見ている側の迷いが情感の表現には大切なのではないだろうか。あえて答えを提示せず、見ている人がどう受け止めるかに任せてしまう画作り。ここの部分に理屈は存在しない。


 さらに押井監督が描くパトレイバーの背景全般についても、情感は非常に強く受け取れる。ここでは、情感というよりノスタルジーと言い換える方が良いかも知れない。「東京という街は変化が激しい」と押井監督自身は述べている。押井監督は東京都大田区出身で、パトレイバーの舞台になっている特車二課の所在地も大田区城南島の埋め立て地。1951年生まれの監督は、自分の成長と共に、埋め立てられていく東京湾の変化を見ていたことだろう。


 押井監督が言う変化の激しさとは、昨日あった建物が今日には壊されている。といったものではない。あそこの空き地に家が建ち。こっちの長屋がアパートに変わり。こんな所に新しい道ができた。そうした小さな変化が、ゆっくりとした時間の流れで蓄積されていくと、全然知らない町へと変貌を遂げる。そういったことを指しているように感じる。少しの間目をそらすと、変わってしまう現実。それは蜃気楼にも思え、自分が変わったと感じる感覚が実は幻で、もう一度目をそらして見ると元通りなのではないか。そういった感覚が伝わってくるような背景が多い。


 前作の劇場版でも背景美術のクオリティは非常に高かったが、P2はそれを凌駕する。そこで感じるのは、町並みの変化だ。前作の公開は3年前だったが、作中で出てきた東京は汚く、時間の流れが止まったような感覚を与えてくれるものが数多くあった。というより、公開された当時は見かけることのできる普通の光景と言っていい。公開された1989年は平成元年で、いわば昭和という時間がまだ十二分に残っていた時代と言える。P2が公開されたのは1993年で平成5年だ。平成も5年経てば、みんな慣れてくる。バブル経済は弾けた後だったが、まだまだ日本は元気で、新しい年号と共に世の中の変化が昭和から平成へと本格的に移り始めていた。そうした変化が作中の背景から感じることができる。


 そうした背景描写から感じる情感表現として、P2の中だけでその変化を強烈に教えてくれるのは、ラストで出てくる地下鉄銀座線新橋駅ではないだろうか。筆者も2回ほど見学したことがあるが、内部の構造は作中の描写とは全く違う。これは何を指しているかと考えると、駅そのものに意味は無いという答えが浮かんでくる。出したかったのは、タイル張りで書かれた新橋駅のプレートなのではないだろうか。今の駅の看板では見られない表示。写るのは数秒なのだが、特に昭和という時間の感覚を強烈に与えてくれる。それまで出ている舞台が地上で、今見ても違和感が無いことも手伝って、このプレート一つ。さらには、後藤の幻の新橋駅について説明を聞いて、郷愁感を感じる人も多いと思う。この部分にも理屈は無い。きっかけを映像や台詞が与えてくれるが、それをどう処理するかは観客の心に任せてしまう。咄嗟に理解できなくても、ストーリー進行上問題が無いのも特筆すべき点だ。伝えるべきことと、感じるべきこと。これらの計算がしっかりなされていればこその構成と言っていいだろう。


 120分を越える長い映画。この中で、考えるより自分の心で感じる部分を捜してみるのが、正しい2回目の楽しみ方なのかもしれない。



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