アニメ概論

著 : 五十嵐 アキヒコ

Vol.1 : 宝島


 少年が宝の地図を手に入れ、莫大な財宝を目指して謎解きと困難な冒険に旅立つ。これが100年以上前に書かれた「宝島」の簡単なストーリーだ。この小説を元に制作されたTVアニメーションが、1978年10月からスタートした。


 主人公は「ジム・ホーキンズ」。漫画でもゲームでも、読者や視聴者が自分を投影して入り込む人物が欠かせない。ジムはこの役割を果たす位置として登場する。設定上は13歳。大人と子供の中間地点だ。幼虫から成虫へと向かう、サナギという非常に中途半端な状態といえる。作中でも、彼は自分を一人前の大人として認めさせるべく、大声でそれを何度も言うのだが、口先だけでは周囲の大人は簡単に認めてくれない。特に序盤のエピソードで、海賊フリントの財宝の地図を、ビリー・ボーンズからジムは譲り受ける。その宝の地図を、父親の幼なじみであるトレローニとリブシーの二人に見せる。海賊フリントの財宝に歓喜したトレローニは、自身の財力を使って船を出し、宝探しに行こうとするが、同行を求めるジムに対して、危険だからという理由で最初は断わってしまう。明らかに子供扱いをされている証拠だ。母親の了承を得て、同行の許可を貰うあたり、一人前と自負していても、周囲はそれを認めていないことがわかる。


 そんな中、最初からジムを一人前扱いする男が現れる。このアニメーションにおいて、影の主人公と言われる「ジョン・シルバー」、通称“一本足”。宝の地図をジムに渡したビリー・ボーンズは言っていた。「一本足に気をつけろ」と。出航に向けて、シルバーを迎えに行くように言われたジムは、シルバーが片足を失っていることを教えられる。子供らしいわかりやすい警戒感をむき出しに、ジムはシルバーと対峙する。しかし、その場で荒くれ者にからまれたジムは、体を張ってジムを守るシルバーの行動に感動し、また、自分を一人前の男として扱ってくれることも手伝って、あっさりと警戒感を解く。サナギという中途半端な存在の身には、自分を一人前に扱ってくれる大人の存在は、正に甘美。ジムもこの香気に誘われてしまうのだ。


 宝島に向けて出航した後のシルバーがする行動も実に見事だ。船の中で続くエピソードも、海の男として尊敬してやまない、今は亡き自分の父親にオーバーラップする。ジムの目には、匂うような男っぷりを見せるシルバーが尊敬と敬愛の対象に変化する。そんな中、シルバーがやはり注意すべき一本足だったことが判明する。


 作中でジムは、海賊を忌み嫌うべき存在として認識している。正直な海の男であった父親と正反対の位置に属するからだ。原作では、この部分をシルバーに不道徳な行動を繰り返し行わせることによって、読者に海賊はよくない存在という認識を与えている。しかし、アニメーションのシルバーは誰しも感じる一本気の男として提示されている。シルバーを自分の目標として尊敬させつつ、その正体が自分の一番嫌いな卑怯者の海賊だった。このとき、ジムは子供らしい反発を見せる。自分が裏切られた。裏切ったシルバーは嫌いだ。この矛盾した激情が、ジムを動かしていくのだ。


 しかし、子供を子供のままで描き続けないことに宝島のシナリオが非常にストロングなものであることを印象づける。シルバーが裏切り、ジムと敵対してからのエピソードの積み重ねが、キャラクターを掘り下げ、人物としての心の中を見せてくれる。背を向けて歩み去っていていくシルバーを撃つことが出来ず、泣き崩れるジム。海賊は憎い、嫌い。自分を裏切ったシルバーも嫌い。しかし、体を張って自分を守ってくれたシルバー。一人前の男として扱ってくれたシルバー。色々なことを知っているシルバー。この好きと嫌いが同居した瞬間から、ジムは大人の仲間入りをすることになる。泣き崩れるジムと「俺のジョン・シルバー」という台詞は一体化して、この後、ジムが成長する栄養となる。


 その後はシルバーの敵対者として、知恵を絞り、踏ん張っていくジムが描かれる。ジムは誰の意見に流されることも無く、必要と思えば自分の危険を顧みずに危地に赴く。この行動の積み重ねが、ジムが属する陣営の大人達全体を変えていく。がむしゃらな若い力を行動によって見せてくるジムに対して、彼を大人と認めることになる。しかし、この段階では、ジムはシルバーに対する反発心を原動力に動いている。ジムの心の中の葛藤に決着をつけるのは後半になってからだ。地図の謎を解き、宝の掘り出しに向かい始めたときにシルバーの真意を知ることになる。


 シルバーはジムを裏切り、海賊の正体を見せ、彼の仲間も殺した。優しそうにみえたが、それは本当のシルバーでは無かった。シルバーは最初からフリントの宝を狙っていて、たまたま地図を手に入れたジムを利用して、目的達成への方向を修正しただけなのだ。最初から目的は一つ。その目的達成のために、障害を取り除いていたという事実をじっくりと教えてくれる。宝を掘りに移動しているとき、海賊の仲間が崖から落ちても振り返らない。熱病にやられた仲間が出ても掘り続ける。これは全て目的達成の為の犠牲であり、目的を達成するためならば自分の命すらも捨てる覚悟を見せられる。シルバーが熱病にかかり自分も死ぬとわかった時、延命の可能性ではなく、残された命で宝を掘り出すために単独で行動しようとした部分が強い説得力を生む。この事実をもって、ジムは裏切られた訳では無いことを理解することになる。自分があって他人がある。自分を中心に据えて周りを判断するのは、広い視野が持てない子供の視点だ。ジムが裏切りと感じたのは、まさにこの視点があるからだった。ここまで積み重ねたエピソードが最終話で見せる「俺のジョン・シルバーはまだ生きている」に昇華することになる。シルバーという鏡を通し、自身の経験から学び得た大人。というより「男」を宝としてジムは生きていく。


 ここで気になるのは、大人の視聴者の存在だ。子供と一緒に見る両親、もしくはアニメファンとして見ている人。これらの視聴者は誰に自分を重ねるのであろうか。答えはグレーになる。シルバーが裏切りジム達と敵対行動に出たときに、シルバーが連れてきた仲間にも関わらず、公然とシルバーと敵対しジムの陣営に味方した男だ。「弱い方に味方してしまう損な性分」と言って仲間になるが、この言葉がグレーというキャラクターを表現している。この部分に注目すると、要するにグレーはひねくれ者の大人と言える。素直な感情や考え方で行動できる子供のジムと違い、大人になると、しがらみや余分な考え方が邪魔をして、素直な自分を出すことが難しくなってくる。この行動の切り口を変えることで、素直になれない大人という表現をしている。


 エピソードを積み重ねることによってグレーの人物像は掘り下がっていくが、注意すべき点はナイフの名手としての戦闘力ではなく、シルバーとの言葉のやりとりだ。グレーは明らかにシルバーを自分より上の人物として目標に設定しているのがわかる。何度か行われるシルバーとの一騎打ちは、ひねくれ者の大人が、目上の人間に対しての反抗という形を表現している。行われる一騎打ちは常に決着が付かず、中途半端で終わっているのも、白黒ハッキリつけない大人の世界だ。むしろ、シルバーならば決着をつけることが出来ると思わせるのに、それをしないあたりが、シルバーの魅力をより引き立たせている感すらある。そのグレーが出す反抗の行動、全てをシルバーは受け止めていればこそ、最終話のグレーの台詞が生きてくる。独立戦争に身を投じ、死の淵においてシルバーに問いかけるグレーの姿が、現実世界の大人と重なる部分だ。理想を知りつつ、自問自答を繰り返しながら答えは見つからずに死んでいく。現実世界では成功という実現しにくいものを追いつつ、貧乏くじを引きながら生きていく。この泥臭さがグレーというキャラクターを掘り下げ、大人の視聴者が自分を投影する鏡となっている。


 これらのキャラクター全てを磨き上げる重要な存在が、やはりシルバーだ。男の中の男。昨今よく用いられる、「漢」と書いて「おとこ」と読ませるような薄っぺらさではない。作中で積み重ねられた行動の数々によって表現される言葉が、男の中の男と言わざるおえない。強固な意志と全てをねじ伏せる腕力。凄まじい行動力を持ち、どんな困難もはね除けて行く姿。それが強く印象に残るが、嬉しいのはその弱さを見せてくれる最終話だ。老衰して飛べないでいるオウム、フリントにかける言葉が素晴らしい。フリントに呼びかけつつ、あの台詞は自分自身に投げかけているものだということがよくわかる。強固な意志は、自然と湧き出てくるものではなく、挫けそうになる自分を奮い立たせ、また前を向いて進まなければならない。つまらない障害は己の意志で打ち砕く。そうやって歩みは遅くとも進み続けることが、ジョン・シルバーである証明だと言わんばかりのやりとりだ。シルバーは悪では無い。己の目標に向かって突き進むとき、ある側面から見れば悪に見えるだけなのだ。目標に向かって諦めずに突き進む「自分」を持つことの大変さ、そしてその魅力的な側面を、これでもかとばかりに見せつけてくれる。さらに注目したいのは、シルバーはジムやグレーにとって手の届かない神の存在では無いということ。シルバーは、二人のほんの少し先を行っているだけの存在として描かれている。であればこそ、ジムもグレーも見ている視聴者もシルバーを魅力的に感じる。この人間くささの表現は、出崎監督の洞察力によって表現されている。生まれた瞬間からスーパーマンの能力を与えられている有象無象のRPGゲームに登場する主人公が、なぜ薄っぺらに感じるかがわかるだろう。キャラクターとは人の表現に他ならないことを、宝島という教科書は教えてくれる。登場人物それぞれが個として背景を持ちつつ、それらが絡み合うとどのような反応を返してくれるのか。空想上のキャラクターの枠を超え、人物として血肉があるのを実感できる。


 周囲の大人についても触れておきたい。トレローニは、凡庸な人として描かれている。つまりその辺にいる普通の人という表現だ。リブシーは医師であり治安判事という、社会的なステータスを持った存在だ。階級社会が色濃く残るヨーロッパにおいては、子供が目指して欲しい大人の例と言えるだろう。スモレットは、堅物な人物として描かれている。規律に厳しく、自分にも厳しい。目先の損得に囚われず、与えられた使命をコツコツとこなす姿は、不器用な大人を見せてくれる。ジムが決められた時間をオーバーして買い出しから戻ってきたときの時計のエピソードは、単純明快な堅物ではない奥のある人物像を見せてくれるのも押さえておきたいポイントだ。


 この三人は、強烈なキャラクターが存在する作中において、目立つ存在では無い。しかし、そういう大人はつまらないという形でバッサリと切り捨てないのが非常に嬉しい。ジムを暖かく見守りつつ、共に歩んでいく姿は、実在する父親を思わせる。優しく暖かい父親がトレローニ。知的で頼りがいのある父親がリブシー。厳しく接するが、時折優しさを持って包んでくれる父親がスモレット。シルバーのように苛烈な印象は与えないが、自分を取り巻く大人達の炭火のような暖かさをジムに与えている。最終話で航海を終えたジムが、トレローニとリブシーに報告に行っているあたりから、ジムはシルバーとは違った意味で、これらの大人を敬愛しているのがうかがえる。こういう大人が周囲にいればこそ、最後にジムはシルバーの背中を追って海賊になるのではなく、海の男として一等航海士になったのではないかと思わせてくれる。


 海洋冒険として描かれている宝島。そんなおとぎ話は今の世の中には存在せず、ありえないものとして受け取る人が多いだろう。しかし、このアニメーションはそんな単純な枠を超えている。人が求める宝とは何か。財宝のように、誰が見ても必ず同じ価値を持つ物ではなく、真の意味で人それぞれの人生こそが宝であると言っているように強く感じる。人と触れることで自分の経験や考え方が広がり、さらに深まっていく。宝探しは、そのエッセンスの一つに過ぎないことを言っているのではないだろうか。それそのものを目的とするのではなく、その状況において人は何を経験できるか。そこで受けた刺激を、どれだけ長く持続していけるか。そういう人として大切な本質を感じさせてくれるからこそ、このアニメーションが長く高い評価を受けている一つの要因として考えられる。このアニメーションを見た後で、自分の宝とは何だろうという答えのない問いかけをしてみると、厳しく冷たい現実だけではなく、未来という暖かい光を感じることができる。



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