短編集

著 : 東 智五郎

母の水


 冬の朝は澄み渡り…。

 昨夜気を張りながらも飲み下したアルコールはやはり翌日に残らず、貫太郎はいつもどおりの朝を迎えた。いつものチャンネルをつけ、いつもどおりに準備を進める。

 そんな最中、ようやくリクライニングチェアから起きだしてきた美佐子は、玄関に座って靴ベラを手にしていた貫太郎に手袋を投げつけた。


「なっなに、どうしたの?」

「ずるいと思わないの?」


 彼女の唇からこぼれた声は、かすかに震えて揺れていた。

 質問を質問で返す言葉遊びは貫太郎たちのコミュニケーションの一環だったが、このときばかりは違うようだった。


「なにが?」

「食べた飽きた料理より新しくて流行のおいしいもの食べて、貫ちゃんだけずるい。ずるいよ。私、副流煙を吸うのも赤ちゃんに悪いかもしれないから、お酒も飲めないし、日程が近いから、準備も、こんなお腹だから友達ともあまり会えないのに。ねえ?」


 なんで連絡すらしてくれなかったの?と。

 顔を真っ赤にした美佐子が眉間をぐっと寄せて、貫太郎に支離滅裂な言葉をぶつけた。声は泣いている子供のようだったが、不満を述べていくにつれだんだんとうつむいていく。前髪で隠されたところから涙が流れてこないのは美佐子らしいが、かつての彼女らしさはそこにはない。

 常に気丈に振舞い、鋭い洞察力と微笑みの牽制で数々の修羅場をくぐり抜けたキャリアウーマン時代の面影はすっかり身を潜めてしまっている。

 彼女は、こんなにはかないものだったか?

 貫太郎は狼狽した。

 胸の中が、嘘みたいにざわついて、愕然とした。

 それほどの衝撃だった。


「連絡し忘れてごめん。上司からの誘いで断れなかったんだよ。気づいた時にはいつもお前が寝ている時間だったから言えなくって、あれだけど、グレープフルーツ買ってきたんだ。帰ってきたら一緒に食べような。あ、ごめん。時間やばいしね。ごめんね。行ってきます」

「貫ちゃんのばか!」


 そのとき貫太郎はしまったという表情をして、早口で逃げの口上をまくし立てた。

 最後の罵倒を皮切りに癇癪を起こした彼女から放り投げられる貫太郎の荷物をキャッチし、自宅から逃げるかのように仕事の現場へ急いだ。


* * *


 数時間前の出来事は貫太郎の足取りを重くさせた。

 とてもとても、とてつもなく気まずい。

 ぶちまけられた不満を美佐子は昼の間にうまい具合に消化できただろうか。

 厳しい寒さの中、くたびれた手袋と薄いマフラーを首に巻いて、暗くなった帰路を鉛がついたかような重い足取りで、背を丸めてゆるりゆるりと歩く。

 ポケットの中に押し込んだ右手は、手袋の厚みで膨れ上がっていた。

 左手に紙袋がなければ、左手ももう少し寒さをしのげただろう。

 生地の薄いマフラーの隙間から忍びこむ風で背筋まで凍りつきそうだ。

 せめて軽いカシミヤの暖かなマフラーが欲しいところだが、貯蓄せねばならないこの時期に無駄使いをすれば美佐子にこってりと叱られてしまう。

 約束したじゃない!と。今朝のように。

 腹の底に溜まった息を吐き出し、口の端を曲げる。

 呼吸はただ白く濁り日本の2月の寒さは記録を更新している。

 雪が降らないこの横浜の片隅では、今にもみぞれが降りそうだった。

 そんな身も凍えるような寒波の中、コートももらえず家から追い出された貫太郎はもう一度深い息をついた。


 怒ってないといいなあ。


 木造アパートの階段を上る。

 カンカンカン。

 靴の底と薄い金属音を叩きつける音が鳴り響いて夜の闇に吸い込まれていく。

 息を詰めて足を忍ばせる。

 それでも安アパートの靴音は住民全てに筒抜けてしまいそうだ。

 ここのセキュリティーは貫太郎にとって“安心”の“あ”の字もないが、背に腹は代えられなかった。ポケットから鈴とお守りのキーホルダーがついた鍵を取り出し、鍵穴にそっと差し込み、左に回した。


――ガチャリ。


「あら、おかえり?今日はずいぶん早いのね」


 勢いよくアパートの2階の鍵を開けると、目の前に美佐子が頬を引きつらせて仁王立ちしていた。


「帰ってきたらだめだった?」


 貫太郎は無意識に後ずさり、なんとか声を返す。

 さり気なく左手の紙袋を背後に隠して、生唾を飲む。

 不機嫌だろうと覚悟していても、完全に自分に非があるから反論もできないこの状況はやはり恐ろしい。

 貫太郎には見えた。朝より幾分か小さくなった美佐子の角が。


「なんで?ここはあなたと私の部屋でしょう?」

「だってそう言っているように聞こえる」

「そう?」

「そうだよ」

「私がもし帰ってくるなって言ったら帰ってこないつもりだったの?」

「帰ってくるなって言うつもりだったの?」

「別にそんなことないけど」

「どっちなんだよ」


 罪状・無連絡罪。嫌味の計に処す。

 これは結構疲れた体にはこたえて、貫太郎は思わずむっつりと唇をヘの字に曲げた。

 朝とは大違いで、いつも通りの鬼モードの美佐子。

 今朝垣間見た彼女は、突けば壊れる砂の城のようなはかなさがあったのに。

 どこで気持ちを切り替えたのだろう。

 いつもよりかなりしつこいし、面倒くさい。


「はあ。だからさぁ、昨日飲みに行ったのは上司が」

「しぃー。貫ちゃん、声もう少し小さくね。だいたい報告くらいメールでできるでしょって」


 今朝と同じこと言わせないでよね、と。

 声を落とせと言って反論を封じ込めて、自分は言いたいことだけ言う。

 美佐子のこんなところが貫太郎は少し、いや、ちょっと、いや、喧嘩が起きるたびに不満に感じていた。

 ここ最近の美佐子は、貫太郎の一挙一動に明確な理由がなければ不安がる。

 いくら夫婦になったとしても、そうすぐにすべてをさらけ出せるわけもなく、貫太郎の中では不満の渦がぐるぐるともやのなかで存在を主張しているのだ。

 飲み会は誰と行くのか聞き出すまでしつこく食い下がり、コンビニにいくにも何時に帰ってくるか明確にしなければならない。

 無意識の不安を口にした結果だったのかもしれないが、まるで物語の蛇のように不満を根に持ち、そのとぐろのように負の感情を見せ付ける。


「小さくしてるって」

「…そーお?」


 美佐子は眉尻を下げ仕方がなさそうに息を吐いて、パタパタと水色のスリッパを鳴らし部屋に引き返す。

 美佐子が

「ご飯は?」と投げかけたのを片足立ちで靴を脱ぎながら

「いるよ」と返してラグを踏む。そうしたら美佐子は

「今日は食べるの?ふうん。」とまた当て付けがましく呟いて鍋に火をつけた。

 あれから半日以上経過しているのだし、もうそろそろ水に流したっていいだろう。

 ねちねちとしつこいなあ。

 溜まるフラストレーションを吐き出せないのは、実行すると夕飯に“3分間の神秘の魔法”がかかるからだ。嫁の尻に敷かれた男の悲しいところである。

 貫太郎は部屋に入ってダイニングテーブルの陰に荷物を降ろし、美佐子がつけっぱなしにしていたテレビを見つつ、作業着のボタンを外して胸元を緩めた。

 一気に気が抜ける。

 画面では緊迫した雰囲気の男女が言い争いをしていた。涙を流した女が優勢で、男はその涙にたじたじで押されっぱなしだった。

 ちらりとテレビから視線を外す。

 美佐子は鍋をかき回しながら肩を少し怒らせていた。

 喧嘩をしても痛みで蹲っても美佐子は泣かず、眉間に皺を寄せてむっつりするのが常。

 貫太郎は、緑色のリクライニングチェアの上に置いてあったリモコンを手に取りチャンネルをクイズ番組に切り替える。

 はあ。

 このクイズ番組のように、俺らにも仲直りの正解があればいいのに。


「すぐできるから座ってね」

「うん」


 部屋にはグツグツと煮込まれたシチューの匂いが漂う。

 ある程度ラフになった貫太郎は美佐子の横に並び、冷蔵庫を覗いた。


「ビールどこだっけ」

「あら、飲むの?」

「飲んだらだめだった?」

「なんで?あなたが買ってきたものでしょう?」

「だから、そう言う風に聞こえるんだけど」

「そう?」

「そうだよ」

「私がもし飲むなって言ったら飲まないの?」

「え、俺に飲むなって言うの?」

「言いたいけどね」

「別にそんなことないって言ってくれよ!飲むけど!」

「へー。勝手にすればー?」


 むかつく。

 これは暴言になるから言わないが。

 口は禍の元だ。美佐子はどうでもいいことの断定を避けて、ストレスを吐き出しつつ、このやりとりを楽しんでいるのだ。

 彼女の嫌味は悪趣味な愛情表現だと思わなければやっていられない。

 溜まりに溜まるストレスを開放するべく、貫太郎は、カシュッ、とその場でプルタブを勢いよく倒して仕事終わりの一杯をかっ食らう。

 水面から弾ける麦の気泡が貫太郎をふにゃふにゃにする。

 ぷはーっ。うまい。でも、むかつく。

 ビールの旨さが美佐子の嫌味のおかげで薄れた気がする。

 貫太郎はむっつりしたまま、昨夜コンビニでご機嫌とりも兼ねて買っておいたものにさり気無く目を配らせて愕然とした。


 …ない。


「昨日俺が買ってきたグレープフルーツどうしたの?」

「え?ないよ」

「……えっ。半分こしようって言ったじゃん」

「お昼にどうしても食べたくって食べちゃった」


 振り返りもせずフライパンを返す美佐子から無情な答えが返ってくる。

 その余裕が気に食わなかった。

 覚えていたのに食ったのか?

 貫太郎は思わず言葉を詰まらせた。

 理不尽だ。ビールの後のグレープフルーツの為に汗水垂らして働いてきたのに、すべて食われてしまうなんて!

 グレープフルーツをひとり占めしておきながら嫌味を言われていたのか、俺。

 ふつふつ溜まったものを、音に乗せないように重く重く吐き出した。

 だけれども仕方がない、なぜなら俺が弱者だからだ。

 家族になるということ、すなわち男は女の支配下に置かれる。出逢った頃の彼女は大和撫子のようだったのに、現実というものは得てしてそう言うものらしい。


「おっさんは疲れました」

「お疲れさまです。はい、ご飯」


 俺は椅子を引いて、暖めなおされたシチューとオムライスを自分のほうへ引き寄せた。目の前から突き刺さる視線は今更だ。


「いただきまーす」

「どうぞ召し上がれ」

「グレープフルーツ全部食ったのにまだ怒ってる?ごめんな」

「嫌味?別にもう怒ってないわよ」

「そうか?」

「そうよ」

「次グレープフルーツを買ってきたら一人で全部食べない?」

「怒るの?貫ちゃんが」


 やっと彼女の声色に陽が差し込んだ。

 無表情を装いながらも、瞳が笑っている美佐子にようやく少しだけ言い返す。


「俺だって怒るよ。次はね。次こそはね」


 今朝探りあててしまった傷の、遠まわしの仲直りはこれで成立したのかもしれない。

 怒っていないと言うのに不機嫌に見えるのは、今更あっけらかんと普段どおりに接する気恥ずかしさが5割。もう怒っているわけではないけれども、しっかりじっとり根に持ってはいるのが4割。グレープフルーツの罪悪感1割。

 間違いない。

 マタニティ向けのリクライニングチェアに腰掛けた美佐子を横目に、貫太郎は目の前のオムライスをもくもくと口に運んだ。

 うまい。

 機嫌を損ねなくてよかった。

 3分魔法のカップヌードルにならなくてよかった、うまい。


「“俺のお嫁さんになってよ”」


 ガツン、

 スプーンが大きなジャガイモを割り損ねて陶器の底にぶつかった。

 皿からバッと目線をやるも、リクライニングチェアに座った女は無表情でクイズ番組からドラマにチャンネルを切り替えた。

 目ぐらい合わせろよ。


「そう言ってくれたのにね?」

「よく覚えているね?」

「忘れるわけないじゃない。しかしまあ、僅か5ヶ月にして魚に餌をやらないとは」

「………すいませんでした」

「ふふ。気が済んだし、もう怒ってないわ」

「俺のグレープフルーツ食べたしね」

「そうね。美味しかったわ」


 そこで初めて美佐子が目を合わせて笑った。

 渡すなら、今。

 ふと脳裏に、貫太郎を寒空の下散々苦しめられたそれ―――忘れかけていた紙袋がよぎり、机の下から取り出してスプーンを持ったまま反対の左手で美佐子に突き出した。


「貫ちゃん、これどうしたの?」

「もらいもの。あっても困らないだろ?」


 目をぱちくりと瞬かせた彼女が中身を覗き込んで、ぬいぐるみを取り出す。


「同僚の人?」

「うん、そう」

「ほんと?」

「なんでうそをつかなきゃいけないの?」

「いえ…、うん。ありがとうね貫ちゃん」


 長いまつげを見せ付けるように目を伏せた。

 座り込んだコブがひとつのラクダのぬいぐるみを、美佐子はお気に召したようだった。

 彼女はぬいぐるみを掲げてあらゆる角度から覗き込み、歯切れのよくない言葉で感謝をして、機嫌が良さそうに鼻を鳴らした。


「ふふ、かわいい!」


 本当は違った。

 それは、重い足をふらふら引きずっての帰宅中に覗いたゲーセンにあったクレーンゲームの景品だ。

 貫太郎の拳ほどの大きさのふわふわな素材でできた、足を折りたたんで座り込むラクダ。


「今日の体調はどうなの?」

「良好よ。ただ、肩から重いものを吊り下げたような感じはする」

「そりゃあ…」


 腹に別の命を宿している重みは大量のエネルギーを消費するみたいだから、どこかに負担はくるだろう。

 美佐子の中にある、脈打つ無限の未来。

 美佐子はお腹をさする。どうも妊婦さんになると血行が悪くなるらしく、貫太郎は美佐子の後ろに立って肩をさする。

 ドラマとかで良く耳にするマリッジブルーは前日辺りに来るらしいけど、これはマタニティブルー言ったところなのか。

 それともベイビーブルー?

 他に妥当な言葉があるのだろうか。

 そもそもこの不安になってしまっている彼女に当てはまる専門用語はあるのだろうか。

 貫太郎にはよくわからなかった。仕事が捗った翌日などにたまに有給を取って付き添った定期検診では旦那様のゴキョウリョクが必要なのだ、とか。

 誰よりも一生懸命働いて沢山稼いできて、これからの家族を少しでも楽にさせてあげることくらいしかできない。どうなってもその痛みも重さもわかってやれないし、いたわってやるにも3回くらいしか病院に付き添っていないから妊婦の扱い方がわからない。


「あ、蹴った。今日は機嫌がいいのかも」

「ねえ、触っていい?」

「いいよ」


 ここにいる、羊水の中ですくすくと育つ子供は俺と彼女どっちに似ているのだろう。


「出産日そろそろだね。」

「…うん」

「やっぱり産むのは怖い?」

「当たり前でしょう。怖いに決まってるよ」


 そう言って彼女はリクライニングチェアの背を倒し横になった。

 それから短く、俺にとってはとても長く思えるような重い間を置いて、ぽつりぽつりと不安を露呈させた。


「お医者さんが言うにはね、小さく産んで、大きく育てたほうが良いんだって…」


 美佐子が身篭る以前の彼女は、貫太郎より頭が良く、たくさん稼ぎのあるジェンダーフリーをしっかりモノにしたバリバリのキャリアウーマンだった。

 貫太郎は酔いが回った頭で、ぽっこり膨れたお腹の彼女を見て、変わったなあと再認識した。

 今の彼女はふにゃふにゃだ。

 新しい命に向き合うことが、苦しいのは何故なんだろう。

 貫太郎には父親というものがどういうことをすればいいのかよくわからない。


「ねえ。何で将来性もなにもない俺と一緒にいるの?」


 なんとなく思い当たったことを声に出してしまってから、これから父親になる男が嫁にこんなことを聞いていいものかと悩んだ。

 逆だ。悩んでから、言葉を口に出さなければいけないのに。

 まるで、迷子のようだ。どこまでもだだっ広く果てのない宇宙のような砂漠を、ラクダのように歩くこともできず、さりとて留まることもできない、ちっぽけな言葉の迷子。

 彼女の不安を取り払って上げられることってなんだろう。

 適当なことを言ったら、また嫌味を言われる気がする。

 貫太郎の思考は段々と別の方向へ逃避を始めていた。

 吹き飛ばされ、埋まり、掻き混ぜられ、また別の場所へ運ばれていく思考の迷路に、情けなさすら感じていた。


「若いお母さんっていいじゃない」

「美佐子はそこまで若くな……痛い!」

「そうね、賞味期限が近いからかもね。もうすぐ枯れちゃうかもね」


 容赦なく顔面に飛んできたラクダの鼻と貫太郎の鼻が、見事にクリーンヒットして星が回る。

 二人の年齢差は4つあり、それを常に気にしている美佐子をからかうのが好きなのだ。

 歳の話が美佐子にとってタブーだと知っていても、つい口から滑り落ちてしまうのだから仕方がない。はぐらかすことと水に流すことは貫太郎の得意分野だったし、それを知りつつも大抵は目を瞑ってくれるのが美佐子だった。

 美佐子の腕の中に納まるラクダをひと撫ぜして、ここを見て、と貫太郎はそのコブを指差す。


「ラクダが水無しで生きられるのって何でだと思う?」

「背中に水が入っているから?」

「ハズレ。昨日の飲み会で、うんちく好きな人がいてね。居酒屋のメニュー表に少し顔をのぞかせただけのラクダについて延々と語られてさ」

「で、そこで蓄えたうんちくを今度は私に教えてくれるの?」


 横になった美佐子の目がいぶかしむように細められて、真上の貫太郎を見やる。

 その会合で実りがあったとでもいいたいの?とでも言いたげで。

 貫太郎はまるで冤罪の罪に問われた痴漢者が法廷に立たされて無罪を主張している気分になった。

 またか。


「…コブに水を溜めているからじゃないの?」


 貫太郎はさすっていた美佐子の肩まわりから手を離し、そのまま伸ばした指先でラクダのコブを撫ぜる。もこもことした安物っぽいありふれたさわり心地だ。


「ラクダは体内で水を作り出すことができるんだって。コブにあるのはそのエネルギーで、食べた分だけそこに閉じ込めることができるのは本当だけど、それは水じゃないんだ」

「ふぅん。子供を産むときはどうなの?」

「……ラクダは、10分間に100リットル以上吸水できるんだって」

「そうなんだ。すごいね。で、子供を産むときはどうなの?」

「俺が言いたいのはそこじゃなくて」


 貫太郎は時計を見やり子供の上に置かれたぬいぐるみをテーブルに立てて、ソファーの上に置きっぱなしにしてある薄い灰色の毛布を美佐子にかけた。


「俺らの体の70%は水だって言うじゃん、赤ちゃんは80%が水なんだって。人もラクダみたいにいろんな、たとえば食べたものをずっと蓄えておけるとか、そんな機能があればいいけどそこまで進化してないでしょ」

「そうね、食べた後1週間くらいずっと寝転がっていられればいいのに」

「適度な運動はしなくていいの?」

「洗濯物とかしてるから大丈夫。日常が適度な運動よ」



 そうなのだろうか?

 仕事を辞めてから美佐子はすっかり保守的になってしまっている。

 出かけて転ぶのが怖いから同窓会の葉書が来ても家から出ないし、煙は体に悪いからと焼き魚すらフライパンで焼く始末。

 俺の不甲斐なさが美佐子の自己防衛本能を常に作動させてしまっているのだろうか。

 俺が原因なのだろうか。

 貫太郎はすこしだけ思いつめて頭を過振りふった。

 それを知るのは美佐子だけだし、美佐子が何も言わないなら貫太郎からわざわざ口火を切る必要もない、のかもしれない。


「出産日、もうそろそろなの」

「うん。不安にさせてごめん」


 それに、もしかしたら美佐子すら知らないのかもしれない。

 彼女が自分自身のことを知らないから、貫太郎のことを知りたくなるのかもしれない。

 そうして不安を埋めているのかもしれない。

 夫婦になっても所詮は他人、血の繋がりがあっても心まで繋がるものではない。

 それらは強要してはいけないのだと自己完結して、もぞもぞと寝る体制を変えた彼女の毛布をそっと掛けなおした。

 気付くもので、築くもの…。


「早くなるか、遅くなるか、わからないし」


 美佐子の声が徐々にまどろみ出す。

 手にするだろう尊さは、どれくらい大きな荷物なんだろう。

 抱えるのが面倒くさそうでもあるし、少しだけ楽しみでもある。



「うん」

「だから、なるべくでいいから、飲みに行かないでなんて言わないから、助けてほしいときに助けに来てほしいだけなの」


 暗い水の中でたゆたう子供の夜明けは何色なのだろう。

 誰しも生きているうちに人生のルーツを振り返る。

 宿題で問われ、自分や周囲の結婚で思い馳せ、同窓会で肴にする。

 無知が許され無垢のまま通り過ぎた赤子のころ。

 それは、思い出よりも想像と言った方が的確であろう。

 背に蓄えた脂肪だけで砂漠の果てまで歩むラクダの気持ちなど知ったことではないが、それだけたくましくなって欲しい。


 それだけだ。



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