浮遊大陸の一つが大きく揺れた。
マップのみが完成し、実装がされていないもので、二番目に大きなものである。
イザヴェル中心部の山脈上に位置し、真下からは雲に被われて見ることができない。
その規模は、東京都二十三区の半分ほどである。複雑に作られたマップの総面積は、全階層を合わせると、浮遊大陸の表面積の三倍ほどだ。
大迷宮と迷路のような地形、その先にある神殿を含めた一つのコンテンツとして作られ、二つ先のアップデート時に更新されるものだった。
クローズドなテストが実施されている最中で、その揺れはテスターに大きな驚きを与えた。
巨大な森林や遺跡、地下迷宮とハイレベルなモンスターの群れが目を覚まし、中心部で何かが胎動する。
浮遊大陸から、無数の影が飛び立った。
それは、無数の羽虫が群れをなして飛散する様子にも見える。
関連のあるオブジェクトにも信号が伝わり、震動のような波長が発信され、一つずつスイッチが入っていった。全世界の関係オブジェクトで、開始の鐘の音が響く。
その音は、セシリー達の、まだ名前もない白い船のブリッジでも拾われた。
誰も居ない、無人のブリッジで虚しく鳴り響く始まりの警鐘は、誰にも聞き取られることなく止んだ。
「おい、女」
バサラがアシュリーの額をつついた。
突然蝋人形にでもなったような固まり方だ。瞬き一つせず、呼吸すら止まっているようである。ネットワークが起因して発生するフリーズ(フリーズの場合は、不自然な眼球の動きなどがある)とは違い、完全なストップ状態になっていた。
その目は遠く、イザヴェルが存在する大陸の中心部を見ている。
「バサラさん。裾捲らないでください」
しゃがんで裾を捲って顎をいじるバサラに、ヨハンが半笑いでたしなめた。
捲る本人は尻をつついて、弾力などを確認していた。
聞いた話ではあったが、稀にオブジェクトの時間が止まることがある。その場合は、凹んだら凹みっぱなしになるものらしい。
アシュリーの尻は、通常通りだ。
「そういやさ、コイツの素性を確認するのに、白虎のフレに連絡取ったんだけどよ。アシュリーってのは今は居ないらしいな。事故か何かでエラい怪我して昏睡状態らしいんだわ。しかも、能力を持たない一般のプレイヤーらしい」
更に、バサラの聞いた話では、今現在生きているかすら怪しい。
「それじゃ、コイツはなにもんだ?」
ヨハンを一瞥して、また視線を戻す。
「ジンの部下が泣いて喜びそうな"アレ"ですかね?」
ゾクリとするようだ。
死角に変なのが立っているのを想像したり、現実世界の自身を何かが覗き込んでいたり、そんなことを考えて、ヨハンは身震いする。
アシュリーは、四神ギルドの能力だとしても"少し過剰"な能力を使った。剣技、動きについても異常性を感じさせ、普通のプレイヤーではないことは明白だ。
システムのバグが産み出した存在。バサラの頭の中でまとまったのは、それだけだった。
プロジェクトに深く携わっているわけでもなければ、特に知識があるわけでもない。証拠や確証があるわけではない。
昔から働く勘が、これはおかしいと判断した。
「動き始めた」
遠くを見たままだったが、アシュリーの動きが戻った。
指先がピクリと動き、握られる。
「お、喋った」
「一番過激なのが動き始めた。荒れるよ、この世界」
大陸中央方面は美しい夜空が見えている。荒れ模様など全く感じられない。
その方向に一隻の船が浮かび、船体を町の明かりを浴びているのが見えた。
横から見ると、片刃の剣のように見えなくもない。そして神々しく、力強い。
「へぇ、楽しくなりそうじゃねーか」
そう言うバサラの手は、裾を捲ったままである。
次のタイミングで拳が降り下ろされた。
大陸中央部に最も近いとされる町、"レッドベル"は城塞都市であり、魔族の拠点に最も近い。非常に堅牢で、プレイヤー以外にもNPCの自警団を抱えた前線の壁と言える場所だ。
内部は賑やかに発展しており、近くで取れる特殊素材などの売買で潤っていた。
NPCも常に活動し続けており、不夜城となる珍しい場所でもある。現在の時刻は、イザヴェルの時間で深夜二時頃であろうか。一つの巨大な城のような町が、夜の中央地方に浮かび上がっている。
町の中心には巨大な建物が建っており、町全体が赤系の素材が多く使われている。中心の建物を遠くから見ると、赤い鐘の形をしているのが由来だろうか。
レッドベルの町の外には、各四神ギルドの拠点がある。
東西南北に配置され、堅い城塞の外側に二重の壁として町を包んでいた。
この世界の、プレイヤー側ではないモノの最大の敵勢力が間近であること。それに対する防御策の一環として建てられたのが、一番の理由だろう。
なお、レッドベルの四神ギルド同士には協定があり、この地域だけは抗争は起きない。ギルド同士のいがみ合いもなく、絵に描いた平和な町である。
山脈に囲まれているため、交通は空から船で入るか、山脈地下の洞窟を数時間かけて通ることになる。
人の手が入ったもので、道をそれなければ片道二時間ほどだろうか。
本拠地のある町からならば定期船が出ていたが、地方の町に居たので陸路を選んだ。
大ギルドなので、本来ならば持ち船を使うことも可能ではあるが・・・
「何で船を使わなかったんすか?ジンさん」
町を目前にして、ヴァンサンがジンに問いかける。その言葉は疑問を投げる感じではなく、嫌味が含まれたものだ。
「うるせぇ、ヨシツネが貸さなかったんだよ。軍の殆どを使って朱雀に圧力かけるんだと」
「なんすかそれ、どうせ出来レースになるんじゃないんですか?船使った戦いじゃ話にならないですって。朱雀って普段から船中心でしょ」
「俺もそう思うわ。ま、小型じゃ山脈越えるのは厳しいだろうから、どっちにしてもこうなってたさ」
「ジン殿は、辺境方面軍司令なのに、大きいのは借りられないのでありますか」
「初陣で敗走するカスだからな」
下唇を突き出しながら、ジンは、青竜拠点の門を開く。重く、ギリギリと鳴った。他の拠点とは違い、外壁が厚く、門も完全な金属製である。
「ヨシツネはともかく、取り巻きの頭が悪い気がするな」
地下ルートでレッドベルに入ったジン達は、ぶつくさ言いながら奥に向かった。
内装ばかりが豪華で人が居ない、閑散としたところだ。
通常は、僅かなメンバーが休息に使用しているのみで、普段はこんなものなのだろう。
「ラザール、風邪治らねぇのか」
「ログインした方が楽でしょうにね。律儀に医者に言われた通りに寝てますよ。呼びつけましょうか?」
「いや、ここまで一人で来るの、大変だろ。良いよ。とりあえず、用事済ませようぜ」
ジンがレッドベルに来たのは、幾つかの理由がある。
まず第一に、辺境方面軍のレッドベル駐留部隊のリーダーへの顔合わせ、そして、ストーンブレッド攻略中に連れていた三人目の部下の回収である。
途中から姿を見せなくなったのは、バサラからの強引な命令があったからだ。
辺境方面軍レッドベル駐留部隊から、半分を引き連れて戻る予定があったのだが、向かう途中で戦いが終わってしまったのである。
戻るのが面倒になって、レッドベルで楽しんでいるらしい。いつ連絡しても不在のメッセージが流れるようになり、この付近のリーダーに挨拶がてら、回収することになった。
奥の会議室に入ったが、先方はまだ来ていない。時間は十五分前。
特に仰々しいものでもないので、町中の風景でも眺めることにした。
外周の壁よりも、拠点の方が背が高い。
青竜側から町の半分が見える。
四本の、中心への大通りが四方に延びており、雑貨屋が賑わいを見せている。プレイヤーだけでなくNPCも声を発しているので、繁華街らしさが巧く表現されていた。
「ここも、今や三大都市に並ぶな」
「昔来たときも賑わってるようには見えましたよね。ただ、人の動きが少なかったような気がすると言うか、張り子でしたね」
人口は変わらないだろう。
NPCが減り、プレイヤーが増えたのだ。
この町は、人口の規模に併せて拡大するタイプのものではなく、最初からこの形を維持している。城壁に囲まれているため、拡張すると不自然になるのだ。
大都市にするため、実装当時からNPCが大量投入されていたのである。
「人口のプレイヤー化が進むと共に、敵の攻撃は激化してるんだ。俺からすりゃあ、良い話ではないんだがな」
会議室の入り口に、筋骨粒々とした男が立っていた。小脇に女を抱え、歯を見せて笑っている。
悪意とは縁のなさそうな雰囲気がある。
女が顔を上げて苦笑いした。
「ジンさん、チィーッス」
「何?捕まったの?だっせぇ!」
抱えれてバタバタしていた姿を見て、ヴァンサンが堪えきれずに爆笑する。それを聞いて、女は不機嫌そうに顔を背けた。
「何よ!この人、ジンさんより強いんだから」
男の名前は"シュラ"。青竜内でも有名な格闘家である。格闘家は、現実世界での格闘家である。
赤髪を立てて、袖を引きちぎった青竜の軍服を着ており、身長が異常に高い。ハンマーのような拳と、鉄骨のような太い脚が、全身凶器を思わせる。彫りの深い顔で、いつも歯を見せて笑っているタイプだ。
「俺を目の前にして、よく平気でそういう事を言えるな」
ジンは無表情だが怒りはなく、諦めや呆れに近い感じがある。
「だってジンさん、これくらいじゃ怒らないし、優しいから~」
と、言い終わる前に、ヴァンサンの平手打ちが音を立てる。
「痛い!」
「痛いように叩いたんだから、そりゃ痛いだろうさ」
立て続けに数回叩く。
それを尻目に、ジンは話を始めた。
「まずは宜しくな。こんな俺だが、一応、辺境方面の責任者だ。それと、マスターから調査を依頼されている。モンスターの活動が活発化してるらしいという件だ。原因を探れと言われたんだが、まぁ、判らんよな。何か知ってたら教えくれ、ってなレベルだ」
「確かに。人口の増加とは違う何かで激しくなってる部分がある。一週間前からだと思うが、タイミングの話で言えば、ストーンブレッド攻略失敗とほぼ同時だ」
ジンがムスっとする。
「あ、申し訳ない。他意はないんだが」
「分かってるよ。何て言うんだろうな。あそこを攻めさせた理由もよく分からんし、今回のここの話もそうだ。ヨシツネは何かを知っていて、それを隠しながら青竜を使って掘ってやがる。それがよ、不愉快じゃねーか?」
「戦いだけがイザヴェルの人生だからな。気にはしてない」
シュラは、歯を見せてカッと笑ってみせた。
爆発音が聞こえた。
まるで、その笑顔が爆発を引き起こしたようだった。
嫌な予感が、一週間前の感覚が、ジンの全身に、まるでイバラのように巻き付いていく。
恐る恐る見た窓の外には、先週ストーンブレッドを襲った巨竜が映っていた。
「ジンさん!アイツだぁ!」
ヴァンサンの叫び声と共に、巨竜がもう数匹。レッドベルに舞い降りた。
ミシェルとタクヤは、ログイン状態を隠して遠出していた。
今二人が居るのは、ベル地方の南東に位置する、落ち着いた雰囲気の田舎都市、"ブロンズベル"である。
人口は少なく、本来は小さな町だが、別荘的なハウジングが町を囲むように建ち並んでいて、結果的に面積が広い。
山あいの盆地で、緑に囲まれている。
クロワッサンに似ているが、町並みはもっと観光地のように栄えていた。
少し北に行くとレッドベルがあるのだが、山脈に阻まれていて見ることはできない。
一時間に一回、定期船が飛ぶのを見るが、大都市間のみに着陸するので、この町には降りることがない。
ごく稀に降りてくることはあるのだが、余程の事件がなければ着陸することはないのだ。
そんな田舎町だ。
二人はのんびりと付近を散策し、他愛もない話をしては笑った。
モンスターの少ない平穏な場所で、たまにはゆっくりしたい。というのが、この町を選んだ理由だった。 これは、タクヤの意見である。
「何か、ストーンブレッドの方、凄く賑やかになってる」
こっそり接続して会話を聞いていたタクヤが、聞き耳を立てていた。
ミシェルが、そのタクヤの手に握られたフォンストーンを取り上げると、手に持ったソフトクリームと取り替える。
「タクヤさん。戻りたかったら戻っても良いよ。私満足したし」
タクヤのフォンストーンでストーンブレッドの様子を伺いながら、空を仰ぐ。
そのまま固まった。
「・・・どうしたの?」
「天秤と合併して、副長にヒデさんと、シビラさんって知らない人が立った」
タクヤの方を見ると、
「一度戻ろう!?」
目を輝かせる。
この辺りに来て三日目。夜になるたびにログインして、二人は距離を近付けてきた。
何もない田舎町である。普段から走り回るミシェルにしてみれば、もうお腹いっぱいになっている頃だろう。
「良いよ。戻ろうか?」
テレポート用の魔石を取り出そうと、鞄の中を漁るタクヤの視界の端に、それは飛び込んだ。
一筋の煙が、長い尾を引いて近付いてくる。
「ミシェル、船が・・・」
町の中央の広場に不時着するのだろうか。
気嚢が中身を失い、くしゃりと歪んでいる。
そこには朱雀の紋章が描かれていた。
後方に向けて一斉射撃しながら、高度を落としている。
船体部分から煙を吹きながら、町の中心部に吸い込まれていく。
二人はそれを黙って見ていた。
ゴゥンと空気が震動し、本来傷が付かない町に火の手が上がる。
そこに、一匹の巨竜が舞い降りた。
舞い降りると言うよりも、鷹が獲物を捕らえる瞬間に近いかもしれない。
「ちょ・・・、何あの大きさ」
その姿を初めて見るタクヤには、最大級のワイバーンの更に数倍はある怪物に、目の錯覚であることを信じようとした。
船は、巨竜に向けて砲撃を続けている。
大型の船が、対比で小さく見える。
『みんな、逃げて!』
船のスピーカーは、ボリュームを目一杯に上げられ、大音声を発している。
船の中から、人が飛び出してきているのが見えた。
「避難、手伝わないと!」
走り始めたミシェルを追い、タクヤも地を蹴る。
「さすがにアレはマズイよ!巻き込まれるだけだって!」
既に、耳に入らない。
ほぼ全力疾走するミシェルに、ぼんやりと明かりが灯っているように見える。
オーラのように、体表から噴き出す熱が可視化されたもの。表現としてはそれが正しいが、危うさも感じる。
巨竜の攻撃範囲内に入ると、それは一層激しくなった。その後、ミシェルの周りに剣が浮かび上がる。
タクヤはそれが何であるか瞬時に直感した。
山頂でワイバーンを沈めた能力だ。
剣が、巨竜に向けて放たれた。
「オンラインビジョンで放送してる?」
『そうそう。そうなんです。いえ、本当ですよ?とりあえず見てください。それと私、この目で本物を見ているので間違いありません』
カヤは情報屋の連絡で、画面に魔力を通した。
放送局はいくつかあるが、基本的にグダグタなものばかりである。
たまに、申請を出して個人が放送するものがある。リアルタイムのものはそちらの方が攻めの姿勢で、見る分には面白い。
「どこのチャンネル?」
『ええとですね、ベル地方が良いかな。1624を見てください』
数字を入力すると、巨大な画面が開く。
視界が炎で埋まっていた。
と、ブツッと切れる。
『死んだようですね・・・、すぐ他のを探します』
数分間を置いて、
『8848です』
カヤは、再度数字を入力する。
今度は遠くからのものだ。
レッドベルのシンボルになっている中央の巨大な建物が半壊している。
町中から煙や火の手が昇り、悲鳴やら怒号やらが聞こえていた。
撮影者は常に巨大な竜を追い掛けており、たまに襲い掛かる小物を軽く薙ぎ倒している。
画面にチラッとハゲ頭が映り、少し先週のことを思い出した。
「アツさん、これはベル地方だけ?」
『それはですね・・・』
また暫く間を置き、
『大陸中央に隣接する全ての地方の、大きな都市のほぼ全てです。片付いたら、きっとその内ここにも来ますよ。大分近いですもん』
「有り難う。また何かあったら連絡して」
『はぁ~い』
話が終わった頃には、ヒデマサが天秤出身のメンバーを集めて、薬品の精製をするように指示を出していた。
先刻移し終えたアトリエは、既に賑わいを見せている。
「カヤさん、一回降下するよ」
と言ったシビラは、やんわりと物資調達組を募集し、数人を連れてブリッジに向かう。
既に副長としての風格がある。
セシリーからは、「お試しで」と展開されたが、きっとこのまま板に付くだろう。
当のセシリーは、「ショッピングに行く!」と言い、宙に浮いた船から軽く飛び降りて出掛けてしまっている。
呼び戻そうかと悩んでいると、足音が聞こえた。いつの間にログインしたのか、サラハが隣に立っている。欠伸混じりで挨拶をすると、鼻をすすった。
「おはよー」
以前の瞬間移動的な現れ方ではなく、音を立てて歩いてきたことにホッとする。
「あなたの言う通りになったね」
その言葉を聞いたサラハは、笑顔で首を傾げている。
「何の話?」
「既に始まってるんでしょ?自分で言ったんじゃない」
「いや、本気でわかんない」
最初はとぼけているだけかと思われたが、真剣な面持ちに重たい圧迫感を見た。
珍しい怒りと、「やられた」の一言が、喧騒を遠巻きにした室内にポツリと残り、沈黙のトリガーとなる。
カヤに色々話をした人物がサラハ自身ではないと気付いたのは、沈黙の後、少ししてからであった。